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【外伝】幸(さち)、舞い来たる 2

 望の住まいへ向かうタクシーの中で、芳音がかなり衝動的に飛び出して来たと窺える予定を知らされた。

「今夜? んー、考えてない。あとで佐藤に電話して泊まらせてもらおっかな」

「佐藤くんって確か実家を出て地方の老舗料亭に就職したんじゃなかったかしら?」

「あ……そうだった。どうしよう」

 どうしようじゃないわよ、という苦言はこの際省いた。

「うちに泊まればいいじゃない」

「いッ!? だってホタが」

「あれからパパは二階が本宅になったの。上は名義を私に替えてくれたそうよ。芳音に飽きたらいつでも帰って来れるようにくれてやる、ですって」

「くれてやるって、飽きたらとか……相変わらずヤなおっさんモード全開だな」

 実は芳音には内緒にしておくようにと穂高から念を押されていたことではあった。

『アイツはすぐネガティブに受け取って拗ねるさかい、当分は黙っときや』

 その忠告どおり、芳音はひどく不快な表情を浮かべた。確かに言わない方がいい一面もあるとは思ったが、隠し事なんて自分が嫌いだし、何より穂高の本心は望自身が解っている。

「芳音が頼りないっていう意味とは違うのよ。きっと、半分は結婚祝いのつもりだと思うの。その代わり、松本に住むようになってもときどきは帰って来い、みたいなこと、パパはそのまま言える人じゃないでしょう?」

 そう伝えると、芳音は少しだけ表情をゆるめ「もう半分は?」と尋ねて来た。

「もう半分は、お母さんと一緒に暮らす大義名分が欲しかったんじゃないかしら」

 二十年以上も別居生活をしているのに、今更一緒に暮らそうとはなかなか言えないだろう。益してや両親はあの性格である。正しく親を分析した結果を述べると、芳音は腹を抱えて笑いながら納得の声を上げた。それを見た望は、忠告の理由がもうひとつ思い浮かんだ。父が芳音には内緒にしておけと言ったのは、父こそが拗ねることになりそうな芳音のリアクションを予測した上で、前もって予防線を張った可能性が高い。

(似た者同士っていうか)

 男の人は、どうしてこうも自分の沽券や上下にこだわるのだろう、と少しだけ不思議に思った。


 マンションに到着したその足で、二階にある泰江たちの部屋へ赴いた。タクシーの中で打ち合わせたとおり、芳音の方から泰江に望の懐妊を報告した。

「え?! うわあ……何はともあれ、まずはおめでとう、だね」

 驚きの声を上げたあと、泰江はそれでも最初に寿ぎの言葉をくれた。そして「すみません」から始まった芳音に対し、「謝ったら赤ちゃんまで申し訳ないと思っちゃうよ」と優しく叱ってくれた。

「新婚気分も満喫出来ないのに、とかね、大変な時期にふたりで一緒に育てられないのに、とかね。親が娘を不憫に感じて思うところは、確かに色々たくさんあるよ。でも、少なくても私は、それで頭ごなしに君たちを責める気にはなれない」

 翠がどれだけ赤ちゃんを欲しがったか。穂高と翠が、どれだけの思いをこめて“望”と名づけたのか。

「どんなに望んでも授かれないご夫婦って、たくさんいるんだよ。それで心が弱ってしまうほど苦しくなって、助けて欲しくて私を訪ねていらっしゃるお客さまもいるくらい」

 泰江からのその言葉は、とても重かった。ふたりは姿勢を正して真摯に彼女の忠告を受け留めた。

 芳音は望やお腹の子に気を取られて本題をおろそかにしないこと。一日も早く学ぶべきことを修了して来ること。三年あると思わずに、三年をどれだけ短縮して修了するかを考えること。

 望は独りでどうにかしようと思わないこと。その意地が却って職場や家族に迷惑を掛ける可能性を考慮し、何よりもお腹の子が望のメンタルと連動していることを肝に銘じて心の余裕を持って過ごすこと。

「パパさん、今日は会議のあとに親睦会があるって言っていたから帰りが遅くなると思うの。芳音くんの旅疲れもあるだろうし、今夜はゆっくりおやすみなさい」

 泰江の方からあらかじめ穂高の耳に入れておく、というフォローの言葉をもらい、ふたりは深々と頭を下げた。

「のんにばかり負担を掛けるような事態を招いてしまって、本当にすみませんでした」

 芳音が絞り出すように小さな声で告げたそれを聞いて、胸が苦しくなった。全部芳音ひとりに押しつけているような罪悪感。

「心配掛けてばかりでごめんなさい」

 笑って許してくれた泰江に対し、抵抗なく謝罪の言葉を口にする自分がいた。


 上階に戻ってから、芳音にはコーヒーを、自分にはロイヤル・ミルクティーを用意する傍らで、芳音に今後の予定を掻い摘んで説明した。

「うそー。俺、エコー写真とか、動いてるのとか見たい。出産にも立ち会いたい。一番に抱っこもしたい」

「ダメ。どうせこういうとき、男の人って役に立たないんだから。そんな暇とお金があるなら『Canon』のリニュに時間とお金を使ってちょうだい」

「正論過ぎて突破口が見つからない」

「見つけなくていいの。そこに使う頭を新しいレシピの考案に使うこと」

 耳の痛い話だったのか、芳音は上の空にしか聞こえない生返事をするだけだった。カウンターの向こう側でスツールに腰掛ける芳音をちらりと窺えば、望が買って来た育児書やハウツー本に見入っている。

「何か興味を引くものがあったの?」

 淹れたコーヒーを育児雑誌の隣へことりと置くついでに、芳音の開いているページを覗いて見た。開かれていたのは、『プレママのお悩みQ&A』の見出しが大きく書かれたページだった。イラストを交えた解りやすい形で、妊娠中の段階ごとに分けられた悩みとその答えが、このあと数ページにわたって掲載されている。望も芳音から連絡が来るまでの間、読みふけっていたページだ。

「んー、興味っていうか、感動? つわりだとか重たいだとか、小耳に挟む程度しか知らないじゃん? 人ひとり腹ン中で育てるって、こうやって生の声みたいなのを聞くと、ホント、女の人ってすげえなあ、っていうか」

 それから少しずつ尋ねられたのは、お腹の赤ちゃんのことだけでなく、望自身や芳音が今思っていること。望も芳音の隣に腰を落ち着け、一緒にページを繰りながら、

「のんは、つわりとか平気?」

「今のところは全然大丈夫」

「そか。んじゃ、今のうちに、気持ち悪いときとかに口当たりのいいご飯モノを考えておこうかな」

 といった近況報告に近い話をしているうちに、少しずつ実感が湧いて来た。

「ホントに絶対ムリしちゃダメだからな。約束な」

 そう言った芳音の大きな手で雑誌を見ていた望の視界が遮られ、少しだけ強引に隣へ顔を向かされた。

「病気じゃないとしても、だるいことに変わりはないんだから。仕事も出来るだけ定時で上がるんだよ?」

 心配そうに覗き込む瞳にドキリとし、つい顎に掛けられた手から逃げてしまった。

「平気よ。異動して今はデスクワークメインだもの。お母さんも芳音も心配が過ぎるわ。私、そんなに弱くない」

 拗ねた振りで気恥ずかしさを必死でごまかす。まともに読めもしない速さで今見ていたのとは別の雑誌をパラパラとめくり出す自分は、我ながらかなりの挙動不審だとは思う。けれど、手が勝手に動いてとまらない。

「って、なんでそこで怒るんだよ。それ読んでないじゃん。こっち見てちゃんと話聞けって」

 芳音が懇願の混じった声で望を批判しながら、ページをめくる望の手をとめようと手を伸ばした。咄嗟にその手を払いのけると、雑誌がばさりと音を立てて床に落ちた。

「あ」

「あ」

 ふたり同時に“こおり鬼”の鬼に触れられたように固まった。落ちた雑誌の開いてしまったページに書かれている内容が、ふたりをそこへ釘付けにさせる。さっさと拾って閉じてしまえばいいだけのことなのに。望の理性が賑やかにそう叫んでいるが、余計なお世話と言いたいくらいに丁寧な解説図つきのそれに対する好奇心が理性を凌駕して動けない。

「……妊娠中でも、していいんだ」

 先に“こおり”の解けた芳音が、怖いくらいの淡々とした声で呟き、スツールから立ち上がって床に落ちた雑誌を拾った。そのままページをパラパラとめくる音が望の鼓膜を揺らす。まだ“こおり”の解けない望は、芳音の方を見ることが出来なかった。

 睨むように見つめていたカウンターに、落とした雑誌の表紙が横から滑り込んで来る。

「ちゃんと衛生に気をつけてればいいんだって」

 だからなんだと心の中でありったけの抵抗をしてみたものの。

「ムチャなことしなければいいんだって」

 そう言ってくるりとスツールごと身体を彼の方へ向けられてしまえば。

「五ヶ月って、長いよ? 俺、のんじゃないとダメみたいだし。それってすげえ頑張ってるじゃん、俺、って、思うんだ」

 と無理やり視線を合わせられ、唇を重ねられてしまったら。

「ご褒美は?」

 甘えた声が耳許でそうねだる。囁かれた吐息が望の耳をくすぐり、ひくりと肩を揺らさせた。

「のーぞーみ」

「……お風呂、沸かして来る」

 簡単に理性を陥落させてしまった己の(さが)が哀しかった。




 望はもちろん、芳音も、穂高が大正・昭和の臭いすら漂って来そうなほど古式ゆかしい価値観・倫理観の持ち主であることを肌身で感じて育っている。そんな彼がこれまでずっと、彼なりに時代に沿おうとかなりの譲歩をしてくれている。その温情も理屈だけでなく解っている。

 それだけに、来たる翌朝が心のどこかでふたりに緊張を強いていた。望がそれを自覚したのは、まどろみしか味わえないまま目覚めた瞬間だった。

「おはよ」

 先に起きていたらしい芳音から、唇ではなく額に挨拶のキスをされた。それを物足りなく思う自分がいない。彼の腕に包まれているのに、先走った初夜の翌朝に感じたような衝動も湧いて来ない。彼が額にキスした理由は、自分と同じ心境に陥っているからだと感じられた。

 望のそんな推測を肯定するかのように、芳音はそっと腕枕をしていた腕を抜いてだるそうに身を起こした。

「のんに甘えて逃げたって、逃げ切れるもんじゃないよな」

 くすりと零す自嘲と少し丸めた背中が、彼の自己嫌悪を表していた。

「ごめんな」

 振り返った彼に小さく首を横に振り、望も重い身体をゆっくりと起こした。

「私、今日は遅番だから、パパがいる午前中のうちに行きましょうか」

 それの意味するところは、きっと芳音にも解っている。

「だな。さっさと殴られて、さっさと仕事に戻る」

 少しでも早く帰って来るために、一秒を惜しんで前へ進む。“自分だけの自分”でなくなったのは望だけではない、と彼も思い至ったのだろう。

「俺、ちゃんと修行に専念するから」

 まるで自分自身へ言い聞かせるように彼は宣言した。

「見送られるのって苦手だからさ。のんはそのまま仕事に行って」

 芳音はそう言い終えると、先にベッドを抜け出してバスルームへ向かった。望は無言でそれを見送ってから、ゆっくりと立ち上がった。

「……まぶし……」

 カーテンを開ければ、まだ六時を回ったばかりだというのに朝の陽射しが容赦なく照りつける。

「もっと、しっかりしなきゃ。ママになるって決めたんだもの」

 どんなに苦しいときでも笑顔を忘れなかった翠のように。

 夫としての穂高を信じ切れない孤独の中にいたにも関わらず、実の子同然に愛情を注いでくれた泰江のように。

「私も、この子に尊敬されるお母さんでありたい」

 そっと腹に手を添え、待ち遠しい新たな家族に誓いを立てる。

「頑張るからね。キミも一緒に頑張ろうね」

 宿った命と朝陽に向かい、小さな声で、しかしはっきりと自分の胸に刻む思いで宣誓した。

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