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【外伝】幸(さち)、舞い来たる 1

 芳音が香港へ発ってからの四ヶ月と半分、望は孤軍奮闘で闘っていた。何と闘っていたのかと言えば、やんわりとだが長い時間続いている体調不良と、その原因になった“とあること”に関する諸々と。

 望のふたつ名は、“痩せの大食い”だけではない。それと並ぶほど皆に呆れられるのは、“見た目を裏切る健康体”だ。怪我で病院の世話になることはあっても、風邪と予防接種を除けば病気で受診した記憶がほとんどない。

 ゆえに、病院の門戸を叩くのにかなりの勇気が要る。製薬会社の社長令嬢とは思えない不慣れが、より病院を遠のかせた。代わって望が思いついたのは、ドラッグストアで“それ”を手に入れること。自分の異変に気づいたとき、何はさておき立ち寄って、顔を伏せながらやっとの思いでそれを購入した。

 買ったはいいが、使うことにまた度胸がいる。

(もし陽性だったら、どうする?)

(確かめるだけじゃない、何ビクビクしてるのよ)

(そもそも、たった一晩のことで、それはないでしょう)

 悩んでいるうちにひと月が経ち、そして来るべきものが立て続けに二度も来なかったことで、益々その可能性が現実味を帯びて来た。

 ようやく買っておいた市販の検査薬を使って、陽性の反応を見てからまた悩んだ。

(仕事はどうする?)

(今の芳音に知らせてもいいのかしら)

(どう考えてもパパに猛反対される状況よね、これって)

 籍はもう入れているが、芳音はまだ修行中の身である。自分もまだ働き始めて間もない立場の上に、ままごとのような結婚生活で既婚の実感がない。そんなぬるい自分たちを見ている穂高の落雷規模を考えると、空恐ろしくて芳音にさえ伝えることが出来ないでいた。

(んん……でも、もしかしたら、想像妊娠って可能性もある、わよね?)

 自分や芳音の一番願うことが体調の変化をもたらしたのかも知れない。まるで考慮していなかったその可能性を、今から考えておけと何かが教えてくれているのかも。そんな風に考えた望は散々悩んだ挙句、本来家族へ一番に知らせるべきその事項を、職場の女性上司へ真っ先に告げた。もちろん、相談という意味で。

「かも知れない、って、望ちゃん、まさかあなた診てもらってもいないの?」

 まずはそれを叱られ、そのあとで望の状態から察するにほぼ確定だからと「おめでとう」の言葉を添えて笑ってくれた。

「まずは受診して、それから役所へ行って母子手帳をもらって来ること。産休育休は当然の権利なんだから、勤務年数なんて気にする必要ないわよ」

 二児の母でもあり、まだ小さな二人目の子を託児所やベビーシッターに預けて時間の遣り繰りをしながら勤め続けている彼女は、望の欲しい情報を惜しみなく提供してくれた。そして最後にはやっぱり

「一番に報告する相手が違うでしょ。ちゃんとご主人に伝えなくちゃダメよ」

 と念を押されてしまった。

 少し肌寒い空気を互いの体温でぬくめ合ったあの日から五ヶ月弱、季節はひとつ巡ってさらにもうひとつの季節の扉を叩こうとしている九月になっていた。


 その夜。いつものようにオンライン回線でビデオ通話を繋いだ。モニタの中の芳音は、零とGINの孫と称している小さな女の子を抱いてカメラの前に座っていた。

『のん、聞いて聞いて。アンジーが俺の名前、覚えてくれた!』

 アンジーと呼ばれた女の子といい勝負になるんじゃないかと思う笑顔。少年時代を思い出させる芳音を見て、望は変わらない彼に半分ほっとし、もう半分は頼りないと思わせる不安を抱きつつ苦笑いを浮かべた。

『ほら、アンジー。お兄ちゃんの名前、なーんだ?』

『か、のんッ』

『はーい、よく出来ましたー。な、な、可愛いよなー。早く俺らもこんな女の子が欲しいよなー』

 そう言ってアンジーを抱きしめる。すっかり馴染んだようで、アンジーも片言の英語と日本語で芳音に「好き」の単語を繰り返し、しっかと抱き返している。確かまだ二歳にもならないと言っていた。そんな小さな女の子に嫉妬してしまう自分の狭量さが切ない。

「こっちは女の子かどうかまではまだ解らないんだけど」

 と告げる声が、無意識に尖った。

『へ?』

 アンジーを抱きしめる芳音の手がゆるみ、ヘッドホンに手を添え耳を傾ける仕草を見せた。

「だから、性別が判るのは七ヶ月以降なんですって」

『ごめ、今、なんか聞き違えた気がする』

 せっかく勇気を振り絞って告げたのに、そのリアクションはあまりにも残念過ぎた。望は大袈裟なほど肩を落としてこれ見よがしに溜息をついた。

「明日、病院で検査してもらうわ。だから本当のところは、まだいるのかどうかも解らないんだけど」

 望はそう言って、腹に右手をそっと押し当てた。

『……え……』

 芳音の小さな呟きに、アンジーが小首を傾げて膝の上から芳音を見上げた。

『か、のん?』

『えええええええええええ!?』

 芳音の絶叫に驚いて、アンジーが漫画のように飛び上がって芳音の膝から落ちた。

『ふぇ……』

「ああ、ほら。アンジーちゃんが泣いちゃったじゃない。子守で忙しいところを呼び出してゴメンナサイね。じゃ、そういうことで。パパには私が対応しておくから仕事に専念してね。おやすみなさい」

 と通話を切ろうとすると、絶叫の第二波がやって来た。

『待てえええええ! 切るなあああああ!』

 ハウリングで耳が痛い。モニタの向こうでは、「グラ、ンマー」と泣き叫んで逃げていくアンジーがメインとなって映っている。遠めのアングルで芳音が再び映り、アンジーを抱いてなだめすかしながら、また姿が見えなくなった。

「いいわよね、楽しそうで」

 なんだかバカバカしくなって、望は回線を切った。一応上司からの忠告どおり報告はしたのだ。だからもういいだろう。

 これで少しは修行のあとの帰国を楽しみに、もっと日々を頑張れるだろうか。

「それとも、変なプレッシャーになっちゃったかしら」

 ふとよぎった悪い想像は、首を振って無理やりふるい落とすことにした。




 翌日は予定通り会社を休み、上司が紹介してくれた病院を訪ねた。総合病院の産婦人科なので受診しやすい。信頼出来る先生だからという太鼓判も望を先へと進ませる原動力になった。

「胎児の大きさから、十五週目くらいと思われます。つわりなどの自覚症状がないようなので、今回はお薬を出しませんが、何かあればいつでも受診してくださいね。それと定期健診を忘れずに」

 そんな診断結果と今後の予定を伝えられ、嬉しいやらスケジュールの調整で困惑するやら、せめてお腹が目立たない間だけでも親には内緒でと思っていたのに、という戸惑いなどから、露骨に困惑の表情を晒してしまった。

「どうかしました?」

 と不審の表情を浮かべた担当の女医に、

「あ、いえ。父にどう報告しようかな、と。まだ二十一、なんて子ども扱いをする過保護な親ですから」

 と、触り程度に吐き出すと、彼女はなんでもないことのように笑った。

「あら、それはご主人の役目でしょう。それこそ、ちゃんとご主人から伝えていただく方が、お父さまも安心して守谷さんやご主人を“一人前になったな”って、認識を改めてくださるわよ、きっと」

 そう諭す女医の声には、声援の混じるあたたかさがこめられていた。

「そう、ですか。大丈夫かしら」

「きっと大丈夫ですよ。ちゃんと認めてくださっているから、ご結婚も許されたのでしょう?」

 そうですね、と返す言葉は、少しだけ元気よく返すことが出来たと思う。


 ふわふわとして実感の湧かない中、役所へ赴いて母子手帳を発行してもらった。その足で大型書店に入り、出産育児関係の本を探した。買った本は、名づけ事典にプレママ用の育児雑誌数種、出産に向けての準備や心構えなどがまとめられたハウツー本など。

「芳音に扶養されてなくてよかった。出産費用って申請すればそこそこ返って来るものなのね」

 親の顔を立てる理由から、芳音が帰国したらこじんまりとながらも式を挙げるつもりで貯金をしていた。それを下ろせば、どうにか自分ひとりでも出産出来る。芳音には夢に専念してもらえそうだと思うと、ようやく望に笑みを浮かべるだけの余裕が生まれた。

 望に諦めるという選択肢はなかった。同時に、子どもを理由に芳音が修行を断念して帰国してしまうことが怖かった。彼ならその道を選びかねない。誰がどう自分を説得しようと、頑として跳ね返すだけの知識と覚悟、そして何よりも納得してもらえるだけの安心要素が必要だ。

 芳音の子に、芳音と同じ思いをさせたくない。自分が生まれて来てよかったのか、自分のままでいいのか、なんて。誰からも寿いでもらえる中で産声を上げて欲しかった。

「ママだってひとりで産んだのよ。ママより強い私なんだもの。きっと、大丈夫」

 言葉にしてみたら、少しだけ気持ちが楽になった。


 今日仕事を休んでいることは職場に頼んで両親には知られないようにと根回しをしてあった。定時まで家に帰れない分、喫茶店で買って来た本を片っ端から読んで時間を有効利用した。

 何軒か喫茶店のはしごを繰り返し、店内が仕事帰りのサラリーマンで混んで来たころ、マナーモードにしていた携帯がバッグの中で小さく震えた。

(お母さんにお店を休んだことがばれた?)

 ぎくりとしておずおずと携帯電話を取り出してみれば、そこにはあり得ない人からの着信を告げる文字が点滅していた。

“芳音”

(どうして? 携帯で海外まで通話が出来る契約プランにしていたかしら)

 そこでオンライン通話が携帯電話を使っても可能だったことを思い出し、また、昨夜のビデオ通話で中途半端に回線を切った後ろめたさも手伝って応答した。

「もしもし? 芳音」

 先手必勝、まずはこちらから彼を諭し、あとで繋ぐからとでも言っておいて、夜までに芳音を納得させる戦法を考えればいい。そう思って彼には仕事の話を振ってみた。

「昨夜は忙しい時間にごめんなさい。でも今はお店に入っている時間のはずよね。これから忙しくなる時間帯だから、話は」

『のん! 今どこ!』

 作戦はあっけないほど失敗に終わった。明らかに芳音の声が怒っている。そして息が上がっていることから察するに、仕事をサボって電話をくれたと思われる。

「吉祥寺の駅前にある喫茶店。今日は長い時間携帯の電源を切っていたから、ひょっとして何度か電話をくれたのかしら」

 望の答えを受けて、次に彼の怒鳴った言葉が望を絶句させた。

『バカ! 大事な時期なのに何ほっつき歩いてんだよ! 家にもいないし電話は繋がらないし、職場に電話したら休みだって言うし! そこでじっとしとけ! すぐ迎えに行く』

 迎えって、香港から? 私は何時間ここに居座り続けなくちゃいけないの? ――なんてバカなことはあり得ないわけで。

「芳音?! あなたまさか」

 と望が我に返って再び電話を耳に当てたときには、もう通話が切れていた。


 本に集中することが出来そうになかったので、望は喫茶店から出て改札口で芳音を待った。晩夏の夜の蒸し暑さは、東京だと尋常ではない。

(こんなことなら喫茶店を出なければよかった)

 じっとりと汗ばむ自分の肘関節の内側をそっと鼻先に寄せる。

(汗臭い、かな。自分だと解らないから、困る)

 汗でメイクが崩れてはいないか、ちゃんと制汗スプレーは効いているのだろうか、人ごみのせいでアップした髪は崩れていないかしら。そんなことばかりが気に掛かる。

 五ヶ月ぶりに、芳音と会う。ただそれだけのことなのに、心臓がことこととせわしなく動き、心地よい痛みがもっと望をドキドキさせる。

 電車が到着し、ほどなく改札口の向こうから人がまばらに降りて来た。次第に人の数が増え、流れ落ちる滝のように改札の向こう側が人でいっぱいになった。その中でひときわ目立つ長身が、はた迷惑なくらい人を掻き分けてひとりだけ違う速度で改札口へ迫り来る。トレードマークのバックパックを片方の肩だけで背負い、キャップのつばを後ろ側にかぶっているので、顔もはっきりと見えた。ソフトデニムのシャツの中は赤い地の色に金色の鳳凰がプリントされたTシャツ。そこが少しだけ前よりも好みが変わった部分。

「のん!」

 彼が望に気づいた途端、そう叫んだ。周囲の人々が一斉に彼の方を振り返る。確か前にもこんなことがあったような気がした。

(ああ、そうか。四年前の、夏休み)

 渋谷の駅で待ち合わせたときも、こんな蒸し暑くて大気の濃い日だった。人ごみを掻き分けて走って来た彼は、汗だくになりながら名を呼んだ。

 焦れた思いをあからさまにして切符を押し込む姿が、望の胸をきゅんと締めつけた。改札をやっと通り抜け、彼がバックパックを背負い直す。乱暴な動きのせいで襟元から飛び出した望のリングが、辺りの照明が放つ光を受けて彼の胸元できらめいた。

「かの」

「なんで外でなんか待ってんだよ。倒れたらどうすんだよ。もうのんひとりの体じゃないんだぞ」

 名を呼ぶことさえ許されずに、力いっぱい抱きしめられる。今にも泣きそうな震える声に、四年前と同じ彼の匂い。それらが望の涙腺をゆるませた。また彼に余計な心配させてしまった。

「五分も経ってないわ。今は無理しちゃダメって先生が。ちゃんと考えてるから、大丈夫よ」

 以前は芳音の不安を理解してやれなくて、恥ずかしさが先に立ったあまり皮肉で彼を跳ね除けた。今はそんなことなどどうでもいい。ただ彼を安心させたくて。されるがままに懐に収まり、彼の震えが治まるのをおとなしく待った。

「よかった……勝手に独りでなんでも決めちゃうから……ダメにしちゃうつもりなのかと思った」

 と、芳音が思い掛けないことを口にした。

「まさか。どうしてそんなこと思いつくの?」

 つい詰問のように声が尖ってしまった。彼がそれを望んでいないと解っているにも関わらず。まるで自分がわがままな子どものままだと受け取られている気がして、不満と批判が声色に出た。

「だって、のんってば仕事頑張れしか言わないし。そりゃ早く修行を終えて帰って来る方がいいに決まってるけど、そのためにのんがほかの全部を我慢するとか、独りで頑張るとか、諦めちゃうとか……そういうのがヤだけど、のんは独りで決めちゃいそうだから、釘刺しておかないとって……だから、零に事情を話して帰って来ちゃった」

 子ども扱いされているのではなく、こちらの思考パターンを先読みされていただけらしい。そうと解った途端、これまでの反動が一気に押し寄せた。

「無理させて、ごめんなさい。でも……会いたかったから、嬉しい」

 素直な言葉が舌にのる。されるがままにだらりと落としていた腕が、芳音の背に回って縋りつく。

「おかえりなさい」

 蒸し暑さも自分の汗の臭いを気にしていたことも周囲の目も、全部どうでもよくなった。理性や思考すべてをかなぐり捨てて、望は自分の望むがまま、芳音に思い切りしがみついた。

「ただいま」

 ようやく震えがとまり望の頭に口付ける彼の唇が、その音と形を肌に伝えた。そのぬくもりだけが、優しく望の中へ染み渡っていった。

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