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新しい約束

 肩が寒さを訴え、ぶるりと一度だけ大きく身を震わせた。望はぼんやりとしたまどろみから、少しずつ目覚めさせられた。心地よいぬくもりがなくなった気がする。ゆっくりと瞼を開けてみれば、隣に眠っていたはずの芳音がいない。

「芳音?」

 寝坊したのかと思い、慌てて身を起こそうとベッドに肘を立てたところでまたベッドへ逆戻りしてしまった。

「……芳音、ムチャし過ぎ」

 そんな望の愚痴めいた独り言は、枕に頭を乗せたぽすんという音に掻き消された。

 全身に走る鈍い痛みよりも、羞恥のむず痒さの方が耐えがたい。昨日こっそりと愛華や綾華にもらったアドバイスの半分はハズレだった。

『はぁ? 自分が汚いから芳音となんの進展もない、って? バカね。望ってば、何時代に生まれたのよ』

『今どきの男なんて、あんたほどそんなことを気にしてないわよ。そりゃ処女崇拝は健在だけど、ファンタジーに近いって認識よ』

『大体、芳音がこっちで何でも屋をしてたの知ってるでしょ? その手のもつれで別れさせ屋を何回してると思ってるのよ』

 その辺りについては、あの姉妹の見解は正しかったようだ。しかし。

『芳音はただのヘタレだから』

『そうそう、絵に描いたような草食男子よね。圭吾がせめて素人童貞に格上げしてやるって花街へ連れて行ったことがあるけど、逃げ帰って来たことがあるわよ』

 という綾華の寛大さに度肝を抜いたあまり、主題を軽んじて聞き流していた。

(草食とか、うそ。絶対、うそ)

 思い出したら、また全身が妙に火照り出す。枕に顔をうずめてがっつりとそれを抱えても、腹の奥底からこみ上げて来るむずむずとした感覚が治まらない。

 芳音があんなに意地悪な人だなんて知らなかった。ああいうとき、あんな表情をする人だと初めて知った。彼に、あんなに愛されているとは思わなかった。こんなに……セックスが気持ちのよいものだと感じたのも、初めてだった。

 布団の中に枕を引き込んで、力いっぱい抱きしめる。胎児のように背を丸め、愛しげに自分ごと抱く。首筋に、背中に、脇腹に。体のあちこちから、愛された感触が蘇る。汗やほかの何かでべたついてはいるけれど、自分の体がようやく清められた気がした。芳音がすべて上書きしてくれたからか、ぞんざいに扱って来た自分の体を初めて大切にしようと思った。

「……すき」

 芳音が。自分が。自分を取り巻く、世界にあるものすべてが。ただ時が過ぎるのを待つばかりの、退屈で憂鬱な気持ちを持て余していた四年前の自分が、今は別人のように見える。なんてもったいない時間の過ごし方をして来たのだろう。

「だいすき。みんな、すき」

 背を向けて来たこれまでの分を補うように繰り返した。生まれ変わったような新しい気持ちを、いつまでも反すうしていたかった。

「みんななの?」

 ごく至近距離から不意に合いの手が入り、思わず小さな悲鳴とともにもっと身体を縮こまらせた。

「おはよう」

 と頭からすっぽりとかぶった布団の向こうで、しれっと挨拶をされても、返事が出来ない。

(ど、どんな顔したらいいんだろう)

 多分、絶対に、今の自分は相当変な顔をしている。断言出来るだけの自信がある。

(って、そんな自信要らないんだけど、でも)

 仄かに香るシトラスの匂い。清涼感のあるトニックシャンプーの香りは、彼が身づくろいを終えているサインだと思われる。ずるい、と心の中で文句を垂れる。起こしてくれればいいのに、自分ばかりすっかり整えてしまっていて、女として恥ずかしい。そんな文句も口には出せず、ただ頑なに布団の中で丸くなることしか出来なかった。

「って、あれ? のん? 何怒ってんの?」

 そんなところは昨日までと変わりない。

「きゃあ! ちょ、やめてッ」

 けれど、容赦なく布団をめくってしまう辺り、やっぱり意地悪なのが彼の本質なのだと思い知らされる。

「すげ……顔、真っ赤」

 慌てて布団を取り返すも、遅かった。てっきり着替えてしまったとばかり思っていた芳音は、腰にタオルを巻いているだけで。洗いざらしの髪からは、まだ雫が滴り落ちていた。彼は手にしていたペットボトルに口をつけ、何事もなかったかのようにコクコクと飲み下した。布団から目だけを覗かせ、窓から射し込む朝陽に映える彼の喉につい見惚れる。上下する隆起は、男の人の描くライン。ただそれだけのことにさえ、妙に意識してしまう。黙っていれば絵になる顔立ちだとは自他共に認める風貌ではあるけれど、自分と似た芳音の容姿に、ここまで異性として意識を向けたことはなかったかも知れない。

 横顔が少しずつこちらに傾いたかと思うと、見ていることは知っていましたと言わんばかりに圧し掛かられた。

「な、や」

 また布団を剥がそうと意地悪な素振りを見せるので、抗おうと布団の端を思い切り掴んだら、まともに顔が出てしまい、嫌でも視線が合ってしまった。その隙を突くかのように口付けられる。

「ん……」

 少しだけあたたまった水が口移しで施され、望の渇いた喉を適度に潤した。

「喉、痛くない?」

 少しはにかんだ表情で尋ねる彼に、小さくこくりと頷いた。

「おはよ。言ってみ?」

「お、おはよう」

「あ、よかった。声涸れてたのが戻った。風邪引かせたかと思ってビビッた」

 そう言ってこともなげに隣へ滑り込んで来る芳音に唖然とする。望は慌てて更に壁際へと身を引き、必死の思いで制する言葉を投げた。

「お、起きるんじゃなかったの」

「湯冷めしたー。あっためて」

 返す言葉は幼いが、目が全然少年のそれじゃない。

「さ、さっさと着替えないからでしょ」

「のんのせいじゃん」

「どうして私の」

「着替える前に起きちゃった望が悪い」

 そう言って微笑む彼の意地悪な瞳と自分への呼び名が、スイッチの入ってしまったことを知らせていた。




 朝一番で役所へ向かうはずだったのに。結局ふたりが『Canon』を出たのは昼を回ってからだった。

「もう、だから起きなきゃって言ったのに。お昼休みにかぶっちゃったじゃないの」

 呼ばれるまでの時間を役所の待合ホールで無駄に過ごしながら、望は恨み言を芳音に愚痴零した。

「のんが悪いんだ」

「またそれを言う」

 そう言ってじとりと横目で芳音を睨めば、だらしない格好でソファに身を崩して座ったままで。だが、しゅんとうな垂れた頭がわずかに上がり、目だけが批難がましく望を見上げていた。

「だって本当のことだもん」

 拗ねてそっぽを向くのは、子どものころとまるで同じだ。つい笑ってしまいそうになるのを堪えて、わざとらしいくらいのしかめっ面をしてやった。

「子どもっぽい言い方をしても、赦しません。私はいい加減に起きようって言ったもの。あとの時間が押しちゃうのは、全部芳音のせいなんだからね」

「だって、女の子って、あんなやらかいもんだと思わなかったし」

 ぼそりと呟かれた言葉にぎょっとする。

「あんなに気持ちい」

「解った! もう愚痴らないからお願い、黙って!」

 と言うが早いか、望の手が芳音の口許に伸びた。

「勝った」

 伸ばした手はあっさり芳音に取られ、また意地悪な笑みを浮かべられてしまう。腹立たしいことこの上ない。

「のん、今、リングのついたネックレス、してる?」

 不意に意地悪な笑みが消え、芳音が少しだけ困ったような表情でそう尋ねて来た。

「ええ。どうして?」

「ちょっと、出して」

 芳音は望の問いには答えず、自分もネックレスをTシャツの襟から引っ張り出してリングだけを取り外した。

「これ、のんが持ってて。のんのリングは俺が持って行きたい」

 贈ったことを忘れないように。三年後に、今度は互いの左薬指に嵌めてあげるのが、次の約束。

「ホントはちゃんと、プラチナのペアリングを贈るつもりでいたんだけどな。高校ンときの何でも屋で貯めてた貯金を切り崩して生活してたから、微妙に足りなくなっちゃった。ごめん」

 望のチェーンからリングを外し、自分のそれを通しながら小さな声で謝られた。そんな情けない声で謝罪するようなことじゃないのに。どう答えれば、その真意がちゃんと伝わってくれるのだろう。

「言ったでしょ。甲斐性のある学生の方が気持ち悪い、って」

 芳音は昨夜を境に素の自分を見せてくれる人に変わったのに、自分は相変わらず可愛げのないままだ。望はそんな自分に軽く落ち込んだ。

「へへ。さんきゅー」

 望のリングを自分のチェーンにとおし、芳音はそう言って顔を上げた。そこにはもう明るい笑顔が戻っている。言外の声をちゃんと聞いてくれるこの人が、もうすぐ夫になる。そう思うと、やっと望にも芳音と同じ笑みが宿ってくれた。

 芳音の受け取った整理番号が呼ばれ、ふたり一緒に窓口へ進む。

「お待たせしました」

 という声に促され、芳音がすべての項目を埋めた婚姻届を提出する。同時に守谷姓でパスポートを申請するのに必要な望の書類も発行してもらった。

「芳音くん、望さん、おめでとう」

 そう言ってにこりと微笑まれた。それを受けた芳音が、

「あざーす。また店を再開したら坂田さんにも連絡入れますね」

 と礼を述べた。

「楽しみに待ってるわ。私が定年する前に再開してちょうだいね。でないと再開祝いもしてあげられなくなっちゃうかも知れないから」

 そう言って笑った彼女は、昨日先約があって『Canon』最後の日に来れなかったらしい。そんなふたりのやり取りから、初めて彼女もまた『Canon』のお客なのだと知った。

「改めて思ったけれど、『Canon』ってすごいお店だったのね」

「すごい? って?」

 役所を出て法務局へ『Canon』の移管申請へ向かう道すがら、望は実感したことをそのまま芳音に伝えた。

「これまでまるで実感がなかったけれど、芳音ってこの近辺では顔が知れ渡っているっていうか。すれ違う人みんながお客さまなのかしら、って思わされることがすごく多かった」

 それを超えようなんてよく言ったものだと自分で思う。そして、この現状を認識した上でそれを目指す芳音は、自分以上の覚悟を持っていたのだと今ごろになって痛感する。

「やれるのかしらね、私たち」

「やるんだよ。父さんと母さんは、マナママの親父さんから引き継いであそこまで浸透させていったんだし。引き継げるものを引き継いで、その上で新しいものを取り入れて俺ららしい『Canon』にすればいいだけじゃん」

 だけじゃん、と軽くいなしてしまうのか。

(私って、随分と芳音を見くびっていたのね)

 妙な競争心が望の胸をチクリと刺す。負けていられない、とポジティブな闘志が湧く。

「なに?」

 突然黙り込んだ望を怪訝に思ったのか、芳音が不安げな声で尋ねて来た。

「ううん。ちょっとね。“マスター”や“ママ”が辰巳さんや克美ママの代名詞じゃなくなるよう、早く帰って来たいな、って思ったら時間がもったいなく感じただけ」

 心の中の砂時計がサラサラと時を刻んで落ちていく寂しさを、そんな言葉でごまかした。それに気づいたのかどうかわからないが、芳音は少しだけ寂しげな顔で笑みを返してくれた。


 諸々の手続きを済ませて『Canon』に戻り、戸締りをして入口のシャッターを下ろす。

「あ」

 芳音が小さな声を上げ、半分まで下ろしたシャッターの動きが止まった。

「これ……お客のみなさんが?」

 望も芳音の脇に立ち、シャッターの表面に張られた大きな模造紙を覗き込んで驚いた。


“祝!! 守谷親子の再出発!!”

“再始動、待ってるぞ!”

“辰巳マスターの『Canon』にありがとう&お疲れサマでした。芳音マスター、待ってるわよ”

“新装開店『Canon』のメニューにオムライスは絶対な!”


 読み上げればきりがないほどの、たくさんの寿ぎや声援の文字や絵が綴られていた。

「やべ……」

 芳音がぼそりと零し、袖で目頭を拭う。入れ替わり立ち代わりで次々と顔ぶれが変わる客と接する中で、昨日の彼はそんな感慨に浸る暇もなかったのだろう。望は黙って一歩前に進み、シャッターの残り半分をそっと最後まで引き下ろした。


“かのんお兄ちゃんへ。キャロットゼリーがおいしかったです。かえってきたら、お子さまランチを作ってください”

“ドリップして作ったコーヒーゼリーが一番のお気に入りだったわよ。レストランもいいけど、今までのメニューも温存で再開をよろしく!”

“モニター係ならいつでも引き受けるからな。これからも新メニュー考えて俺の腹を満たしてくれ(笑)”


 ――芳音&望ちゃん、ふたりの『Canon』が開かれる日を、楽しみに待ってます――。


 羨ましいくらいの、あたたかな言葉たち。その中に、「さようなら」はひとつも混じっていなかった。これは辰巳や克美の築き上げた功績ではない。芳音自身が店を手伝う中で育んで来た信頼だ。

「芳音」

 しゃがみこんで膝を抱える芳音の背中に、そっと手を添えた。

「私たち、きっと辰巳さんたちの作った『Canon』を超えられるわね。だって、芳音の築いて来たモノが、もうこんなにあるんだもの」

 早く修行を終えて、自分も早くマネジメントを習得して。

「早くここへ帰って来ましょうね」

 何度も首を縦に振って頷く芳音を、包むようにそっと抱きしめた。


 階段の常夜灯がオートで点灯するほどの時間が過ぎたころ。ようやくふたりは立ち上がり、シャッターの前に張られたメッセージを剥がした。それを宝物のように大事に丸め、芳音はそれを望に預けた。

「次に俺らがここにオープンのプレートを飾れるのは」

「早くて三年後ね」

「ここの鍵も、のんに渡しておくな。ときどき会いに来てやって」

 店の留守を守るドアベルに。仄かにオレンジ色で辺りをともす、このランプに。そして、きっとどこかで見守ってくれている辰巳や翠に。克美に美味しい紅茶を淹れてやって欲しい。愛美や愛華、綾華や圭吾、友人たちを招いて、ときおり店にぬくもりを戻してやって欲しい。完全に冷めてしまわないように。

「ええ。もちろん」

 体力には自信があるから、と力こぶを作る仕草でおどけて見せると、芳音がようやく笑ってくれた。


 狭い階段を下りて表通りに出ると、どちらからともなく立ちどまり、振り返る。見上げれば、外からは一見いつもと変わらない二階の窓が、向かいのビルが放つネオンの光を受けてまたたいている。

「行って来ます」

 さようならではなく、行って、また来る。ふたりは『Canon』の窓にそう約束し、ようやく背を向けた。




 駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、季節がいくつ巡っても綺麗な窓を保っている不思議な喫茶店の跡地がある。かつてはビルの正面に、フラクトゥーアの白文字で『Canon』と書かれた看板があった。その店について、また新しい噂が持ち上がっている。

 開店の札が出ることはないのだが、週末や大型連休の時期が来ると、芳しいコーヒーの香りが漂うらしい。狭い階段を上ってみると、ときおりグレーのシャッターが上げられている。そっと中を覗いてみれば、芳音とよく似た女性が、やはり芳音やその女性とよく似た面差しの子どもたちを連れて、元常連客たちと談笑している姿を見ることが出来るという。

 壁には色褪せて黄ばんだ大きな模造紙が張られ、そこにはびっしりと書き詰め込まれた手書きの文字が所狭しと連ねられている。芳音とよく似た女性はそれを眺め、

「あと○日でこの声に応えられるわ」

 と得意げに話すのが口癖らしい、と口伝えに噂は広まっていった。

 次第に彼女はお客予備軍から“のんちゃん”の愛称で知られるようになってゆく。

 気づけばまだリニューアルオープンもしていないのに、彼女が『Canon』の顔となっていた。

 新しいママ、“のんちゃん”は、才色兼備でデザートの腕は都会のパティシエ顔負けの美味さ、だが哀しいくらいに口調がきつい。それが唯一の難点だともっぱらの噂。

 ごく稀に見ることの出来る芳音との夫婦漫才は、都市伝説に近い噂話になっている。

「もうすぐレストランとしてリニューアルオープンするらしいよ」

 そんな噂は、静かに、そしてまことしやかに、数年の歳月を掛けて松本近辺に浸透していった。


 誰もがふと立ち寄りたくなる場所。一度入ったらなかなか腰を上げられないほど温かい場所。

 スピード社会の中にぽっかり浮かぶ、レトロでアンティークな、“現代の楽園(エデン)”が、再びドアベルを鳴らす日まであともう少し。

 その期待を胸に窓を見上げて立ち止まる人々を、今日も『Canon』の窓はあたたかく見下ろしていた。

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