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最後の夜 2

 皆で北木と克美を送り出して店の片づけも済ませ、そこで芳音はふと思った。

(今夜で最後、なんだよな)

 望といられる最後の夜。明日は役所関係を忙しく駆け回り、その足で東京へ戻ったらアパートの引き払い手続きだ。香港でも必要になる荷物は空輸便で送り終えており、零に受け取ってもらうよう頼んである。残りの処分を業者に頼んで、それからあとは日本にいるGINの“仲間”が住んでいるマンションに数泊。そうしたら、もう空の上。

 慌しく過ごして来たので、それまで意識していなかったことが急に胸を締めつけた。

「芳音」

 店の明かりを落としていたところで、居室から出て来たGINに声を掛けられた。

「はい?」

「倉庫に案内してくれるか?」

 そう言われてぎくりとした。自分の顔から血の気の引いていくのが判る。

「どうして?」

「ヤバいもん隠し持ってるだろ。それ、俺の仲間に処分してもらうから」

 GINはそう言って右手でピストルをかたどった。

「どうしてそう思うんだ?」

 いくらGINが悪い人ではないと解っていても、モノがモノだ。それだけに克美とふたり、誰にも知られないよう苦心して来たことなのに。

「藤澤会事件当時、零が海藤組関連を調べていたんだ。辰巳はいつも同じ拳銃しか使わなかった。トカレフとコルト・ウッズマン、その二挺だ。でも藤澤会事件当時に現場で押収されたその二挺は、これまで辰巳が使っていたものと型番が違っていた。そんなものが流通したら警察としては堪ったもんじゃないからね。当時徹底的に調べたけれど、とうとう見つからなかった」

 ということは、と、そこでGINの語りはとまった。咎めることのない微笑は、どこか芳音に願うような色合いを漂わせていた。

「自分でもどう処分したらいいか困っていたんだろう? 大丈夫。その仲間ってのは、分子レベルまで物を分解させる能力の持ち主なんだ。誰にも迷惑は掛からないし、跡形も残らない」

 信じろと訴える瞳に気圧され、無言ながらもつい首を縦に振ってしまった。実際にずっと悩んでいたことなのだ。明日から克美が帰るまでは、愛美にここの管理を任せる手はずになっている。その間にもし見つけられたら、彼女まで巻き込んでしまう。その問題を解決出来ていなかった。

「すみません。お願い、します」

 まだまだ自分だけでもどうにも解決出来ないことがたくさんあり過ぎる。そんな自分に対する歯がゆさが、卑屈なほど深く頭を下げさせた。芳音が改まってそう言うと、GINは

「芳音が謝ることじゃないだろ。出来るヤツが出来ることをすればいいだけの話。頭上げな」

 と低くなった芳音の頭をくしゃりとしながら言った。おずおずと頭を上げてみれば、そこにはGINのほっとした笑みがあった。

「なあ、芳音。俺はこうやって信じてくれる人が増えていってくれることで助けられてる。零からはお前が知っているとおりだし、例えば安西さんだって、お前や望ちゃんや彼に関わるいろんな人の助けで今の暮らしを続けていられるんだ。自分ひとりですべて何もかもをやり果せる人間なんて、いやしない。自分で実感がなくても、いつの間にか相互扶助の関係が成り立ってるもんなんだから、そう簡単に謝るな。謝るくらいなら、“ありがとう”って言葉に置き換えな」

 そう言ってカウンター席に腰掛けるGINの言っていることは解るけれど、気持ちが今ひとつついていかない。しなる竹のように、のらりくらりと態度を変えるGINの本質がどこにあるのか、未だに解らないときがある。どうしても超えられない経験値の差が、そんな風に自分を悔しがらせている気がした。

「いちお、ありがとうって、言っとく」

 いびつな笑みを零して可愛げのない形ばかりの礼を述べる。悔しい哉、GINの言葉は確かに気持ちを軽くしてくれた。

「おー、素直、素直」

 そしてそんな態度の芳音を赦してくれる。GINはいつの間にか、零とは別の意味で芳音の新しい師匠になっていた。


 藪を診療所へ送るつもりだったが、往診を終えて駆けつけた赤木がそのまま一緒に連れ帰ってくれると言う。穂高はGINに呼び出されて三階の倉庫で目にしたものを見て「フザけんな! こんなもんいつまでも持ち歩けるか!」と一喝したかと思うと、泰江や貴美子に荷造りを促し、GINを連行して早々に東京へ帰ってしまった。愛美は夫の帰る時間だからと言ってすでに帰っていた。愛華と綾華は意地悪な笑みを浮かべながら「じゃ、頑張れ」という謎のひと言を望に残して帰っていった。圭吾は当然彼女たちの足だ。引きずられるように出て行った。

「なに、このハブられ感」

 あれよあれよという間に閑散としてゆく店内で、芳音は呆然としてひとりごちた。

「明日は月曜日だし、みんなはしゃぎ過ぎて疲れたってのもあるんじゃないかしら」

 望は通路を挟んでキッチンの横にある納戸で、ビルの表から運び入れた看板を弄びながら淡々とした声を返して来た。

「これがここにあるってのが、やっぱり寂しいわね」

 物憂げに笑う横顔が、遅れてやって来た寂寥感を滲ませる。

「だな。俺たち、これがビルの前にあるとこしか見たことないもんな」

 ライトが消されて地味に主張する『喫茶 Canon』の文字は、芳音のいるキッチンからはほとんど地の白に溶けて見えなかった。

「パパがね、レストランの雰囲気にリフォームするなら設計してくれる、って言ってたの。でも、このままの内装で再開したいわね」

 かつてはマスターだった辰巳や、手伝いに来てくれた翠が立っていたキッチンをそのままに。彼らの愛した空間を保ったままで。

「今みたいに、お客さま同士がおしゃべりしやすい雰囲気のままで、新しい『Canon』を作りたいわ」

 コーディネートとマネジメントは任せて、と笑う。だから早く帰って来てね、と涙ぐまれたら。

「……当分ここには来れないし……こっちに泊まってく?」

 別荘まで送るつもりで握ったキーをポケットから取り出せなかったのは、決して自分がそうしたかったからというわけではない。芳音はわざわざ自分にそんな言い訳をした。


 残った食材や備品などは、愛美が追々片づけるから使えるものは使っておいてと言っていた。克美は旅行から帰ってしばらくの間は、北木の親族の機嫌伺いのため会計事務所に入るらしい。

「結婚って、恋愛の延長じゃなくて社会契約なんだな、って、つくづく思い知らされたっつうか」

 最後のコーヒーを淹れながら、望に苦笑交じりでそう愚痴を零した。

「そうね。うちの方も、大阪のおばあちゃまが披露宴をしないなんて、って、カンカンだったわ。パパが私をマスコミの晒し者にする気はない、ってフォローしてくれたお陰でどうにかなったけど」

「やべ。俺、大阪に全然行ってないじゃん」

「いいわよ。だってパパが行ってないのに芳音が行ったら、今度はパパがまた長いお説教につき合わされることになっちゃう」

「のんのとこって、ホント、おばあさんとホタが対立してるよな」

「対立っていうか、おばあちゃまが昭和過ぎるのよ。パパは苦笑いしてやり過ごしてるって感じ」

 女の感情論にはすこぶる弱いところが穂高の昔から変わらないところだ、という見解が一致したところで、ふたりは思わず噴き出した。

「はい、これがうちで仕入れてるホンジュラス」

 淹れ立てのコーヒーをことりとカウンターへ置いて滑らせる。

「普通よりももっと深く煎ってるから、深みのある味だよ。そのくせあっさりしてるから、紅茶党ののんでもイケると思う」

 そして隣に置いたのは、レアチーズケーキ。ずっと芳音が苦手としていた、唯一のスイーツだ。

「こっちのレアチーズも、スイスから直で入れてたやつ。基本的には辰巳のレシピどおりにしたんだけど」

 何が辰巳のそれに及ばないか解った気がする。久しぶりにレシピを見て気がついたのだ。

「あいつ、母さんの好みを考えながら食材のメーカーや分量とか考えてたんだな、きっと」

 模写ばかりで心のこもってないものでは、いくら技術だけ磨いてもあと一歩のところでオリジナルのそれには敵わない。

「まずはのんが試食してみてよ」

「私でいいの?」

「のんだから、頼んでるっつうの。OKだったら母さんにいつか味見してもらってみる。それまではお客に出せないからな」

 言っている意味を解ってくれるだろうか。伝えたいことがちゃんと伝わってくれるだろうか。そんな思いで心拍を加速させていく芳音の内心を知ってか知らずか、望は「いただきます」といつもどおりの挨拶だけをして、チーズケーキをひと口頬張った。

「……」

「ど、どう? スイーツの女王のお口に合いますか?」

 と、芳音が緊張を隠しておどけた台詞で尋ねてみるも、望からの返事がない。

「どうしよう……」

「へ?」

 やっと口を開いた望の言葉が、あまりにも意図を掴みかねるひと言だったので、間抜けな合いの手しか出せなかった。

「美味しいって、ありきたりな言葉しか、浮かばない……違うのよ、ありきたりな味って意味じゃなくて、ああ、もうどうしよう……なんて言っていいのか解らないッ」

 望は一気にまくし立てたかと思うと、親の仇のようにふた口目を頬張った。

「悔しい。スイーツだけは芳音に負けたくなかったのに、悔しい!」

「そっちか」

 悔しいと言いながら、また次を口へ運ぶ。そんな望がどうしようもなく愛おしい。幼いときと変わらない笑みを零す様を見ると、どうしても手に入れてしまいたい衝動が湧く。

「芳音?」

 伸ばした手が望の頬に触れると、途端に望の笑顔が訝る表情に変わった。

「落ち着いて食えよ。ついてる」

 彼女の目が怯えた色に変わるのを見たくなくて目を閉じる。自分の口周りを気にして上がった彼女の手を、もう一方の手で掴まえた。本当はケーキなんてついていない。彼女がそれに気づかないのをよいことに、芳音は唇の横に舌を這わせた。

「かの……ん……?」

 ついばむだけでは済まなくなり、望の顎に手を掛ける。ふたりを阻むカウンターが邪魔で仕方がない。

 奥底で、また疼く。わずかに強張らせる望の上がった肩が、そうさせる。まだ、望の中にアイツらがいる。未だに消えない傷をつけるほどの強烈な印象でヤツらがのさばっている。だから自分は、未だに彼女を手に入れることが出来ない。望のトラウマになることだけは避けたかった。彼女の中で自分が恐怖の対象になることこそが、芳音にとって最大の恐怖だった。

「……どうしたの?」

 潤んだ瞳でそう尋ねる彼女に、

「あんま可愛かったから、なんか、したくなった」

 と笑ってごまかす自分が醜い、と思った。




 望が風呂を使っている間にふたり分の寝床を用意する。

(昔はどうしてたんだっけ)

 一番ひっくり返っている自室に溜息をつきながら、ふと思った。

 別荘では翠を挟み、三人で川の字に布団を並べていた。結局両脇から翠の布団へ潜り込み、翠を取り合うようにして眠っていた。

 ここでは翠が克美と入れ替わるような格好になり、一番広いリビングダイニングへ客布団を並べて寝ていた気がする。

 東京では子ども部屋があったので、望のベッドで一緒に眠った。

 今は、どうすればいいのだろう。

 姉弟でも幼馴染でもなくなって、でも望に警戒心を持たれたくもなくて、だけどいつもと違うようなことをしたら、逆に意識していると思われて折角の時間をぎこちなくさせるに違いない。そんなのも、イヤだ。

「取り敢えず、俺の部屋はパス」

 あまりにも疲れ過ぎて、ベッドを元の位置に戻す気にもなれなかった。


 克美のベッドから布団を除けて客布団と取り替えた。克美のそれをそのまま芳音の部屋に放り込む。机に封鎖されてしまった押入れから、どうにか自分の布団を引っ張り出した。それをリビングダイニングに持ち込んで、リビングエリアにあったロウテーブルをソファにべったりとくっつける。これでなんとか自分の寝場所も確保することが出来た。

 風呂上りの渇いた喉を潤せるよう、ふたり分のアイスレモネードを作る。出来上がったそれをグラスに注いだところで望がリビングに顔を出した。

「お風呂、洗っておいたわよ」

「お、さんきゅー」

「あ、レモネード。お肌にいいのよね。嬉しい」

 そう言ってキッチンに立つ芳音の横に並ぶ望から、甘いソープの香りが立ち込めた。

「あ……と、藪じいがくれた母さんのアルバム、見たいって言ってたよな。持って来る」

 そう言って押し付けるようにレモネードを手渡した。

「芳音?」

 と呼ぶ声を無視して克美の部屋へ逃げ込んだ。

(どうしよ……普通に出来ない)

 多分、今の態度は、きっと望を傷つけた。芳音が強引に持たせたレモネードに驚いた瞳があっという間に翳りを帯びて、伏目がちになったのを見てしまった。

 藪からもらったアルバムを本棚から取り出し、それを思い切り抱きしめる。そのまま二、三度深呼吸。アルバムをパラパラとめくり、目に焼きつけたのは、辰巳の顔。小さな克美を傷つけまいと、終始笑顔を絶やさない。声の出ない克美に焦れることなく、好きなだけ掌に文字を書かせている。そんな数々の写真から感じ取るのは、エゴよりも克美を傷つけないことに重きを置いた、視点を克美にしてしまえる愛情と優しさ。

「……うし、大丈夫だ、俺」

 プレストな速さだった心拍数が、少しだけ落ち着きを取り戻した。


 布団の上に座って、ソファを背もたれにする。ひざ掛けのように掛け布団を載せてふたりで並ぶ。子どものころと同じように、アルバムを見ながら尽きない話に興じれば、芳音の思っていた以上に自然な会話が出来るようになっていた。

「あの公園の桜って、前はこんなに大きな樹だったのね」

「らしいよ。愛華がさ、中学卒業のときにこっぴどく振られたのがこの桜の樹の下だったんだって。で、振られた腹いせに思いっ切り樹の幹にカッターを突き立てたらしい」

「こわ」

「で、それからすぐにこの樹が枯れちゃって、自分が枯らしたんだ、って思って、すごく反省したらしい」

「愛華姉ちゃんらしい」

 そう言ってくつくつと笑う望に、翳りや憂う様子は見受けられない。だが、傷つけてなくてよかった、と思えたのは、ふたりの会話が続いている間だけだった。

 部屋の時計が小さくカチリと鳴り、ふたり同時にその音にびくりと小さく肩をすくめた。

「うわ、もうこんな時間か」

「日付が変わっちゃったわね」

 その先の言葉を、お互い口にすることが出来ない。芳音は昔と同じように「じゃあ寝よっか」と望を抱きしめるだけでは済まないし、望は――望は、どうなのだろう?

「……芳音」

 俯いたままの望が、小さな声で芳音を呼んだ。

「ごめんなさい。ずっと言えなくて」

 思いも寄らない謝罪の言葉が、焦りと戸惑いから芳音の舌をほぐす。

「ごめんって、なに」

「もし芳音がそう思うなら、私があとはどうにかするから」

 そう告げる声が益々小さくなってゆく。

「そう思うって、だから、なに」

「私……私のしたことは、やっぱり、赦せない、わよね」

 ――だから、ケイちゃんと綾華姉ちゃんみたいな、普通の恋人同士でいられなかったのよね。

 すっと血の気の引いていく感覚が芳音を襲った。今、望は「いられなかった」と過去形で言わなかったか?

「私、お母さんの気持ちがちょっとだけ解る気がするの。お母さんのそれは誤解だったけれど、優しくされ過ぎると、それは愛情なんかじゃなくて、もっと別のモノなのかな、と疑っちゃうの」

 例えば責任感だとか、周りや自分のかもし出してしまう雰囲気だとか。

「綾華姉ちゃんは考え過ぎって笑ってくれたけれど。でも芳音って、場の雰囲気を読んじゃって流されやすいから」

 そう言って寂しげに笑う口許しか見えないことに苛立った。

「まだ間に合うから、だから」

「何言ってんの?」

 腹立たしくて、望の手からアルバムを奪い取ってソファに投げる。

「まだ信用してないの? 責任って、なんか俺、責任取らなくちゃいけないような悪いことをのんにしてたってこと? 違うだろ? なんでそういう発想になっちゃうんだよ。アイツらが」

 と言い掛けたところで、はっと我に返って口を噤んだ。

「やっぱり、気にするわよね。ごめんなさい」

 苛々する。黒いものが温かかった今日にメスを刺し、次第に黒のシェアを広げていく。

「気にするに決まってるじゃん。アイツらのせいで……のんが俺のことまで怖がるようになっちゃったんだから」

 口にしたら負けだと思って、今まで独り言ですら音にしなかったのに。悔しさで、唇に血が滲む。

「ごめん、のん。もうその話は終わりにさせて。多分、限界だから」

 上書きしてしまいたくなる。そんな苦い記憶を忘れてしまえるほど、自分のことしか思い出せない望にしてしまいたい。だからこそ逆に、もうその話は勘弁して欲しい。

「のんにだけは、怖がられたくなかったのに……ずっと俺だけが、のんの泣ける場所だったのに」

 なのに望は芳音が不意に触れると身を固くする。これ以上望の中にある自分の立ち位置を失くしたくないから、もうその話はやめて、と言った。情けないくらいの低姿勢で、乞うようにうな垂れていた。

「私が、芳音を? そんな風に、思ってたの?」

 そんな呟きが、少しだけ近くなったところから聞こえる。濡れた頬を細い指が撫でた。

「私てっきり、いろんな人の手垢にまみれた私なんて、そういう目では見れない、って、そういうことかと思ってた」

 だからその話は、もうやめて欲しいと言っているのに。

 固く瞼を閉じたまま、触れた指ごと望の手を掴んで引く。簡単に懐に収まる彼女を逃がしたくなくてきつく抱きしめる。

「怖がらないでよ。固くなんかならないでよ。昔はそんなんじゃなかっただろ。俺、いくらでも待つから、だから」

「芳音、女の子って、芳音が思っているほど弱くなんかないのよ」

 その言葉に驚いて、つい腕の力をゆるめてしまう。その隙を突くかのように、細い腕が芳音の首に絡みついた。

「それに、待っていたのは私の方よ。そのたんびに、ドキドキして……固くなっちゃうのは、仕方がないじゃない……なのに芳音ったら」

 口ごもる望をそっと引き剥がし、俯く顔を覗き込めば、恥じらいで頬を紅に染め、唇を噛んでいた。

 女の子の気持ちなんて解らない。理解出来るほどつき合ったこともなければ、つき合いたいと思える女の子もいなかった。

 お互いの勘違いに気づいた途端、心臓が暴れ出す。

「のん」

 やっと絞り出した声はかすれ、喉がからからに渇いていた。レモネードで喉を潤したはずなのに。

「芳音、今夜が一緒にいられる最後の夜なのよ? 私、形ばかりの奥さんのまま三年も待つしかないのかな」

「……ッ」

 答える言葉など口にする余裕がなかった。ふたりの間に横たわるこれからの三年は、自分たちで決めたこと。欲張り過ぎたらバチが当たると言い聞かせて来た。勘違いだなんて思いもせずに。その反動が一気にふたりを突き動かし、もうひとつの夢に対しても、大きな一歩を進ませた。

 もうひとつの夢――本当の家族になること。

「のん……望」

 初めて、そう呼んだ。何度もその名を呼びながら、残されたときを惜しむように、彼女を悩ましげな声で何度も啼かせた。幼いころからそう呼んで来たこれまでの自分から卒業したかったのか、初めて見る表情に煽られた欲が呼び捨てにさせたのか、芳音自身にも解らなかった。呼ぶたびに、甘く疼く。色を帯びた瞳がもっと呼んでとねだるたびに、確かな自信が湧いて来る。

 ふたりで過ごす最後の夜。ふたりの心のように丸く満ちた黄金の月は、短くも長い、そして濃密なひとときを過ごすふたりに、窓の向こうの夜空からいつまでも仄明るい柔らかな光を注ぎ続けていた。

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