最後の夜 1
翌朝はまず藪診療所に足を運び、送迎は自分がするから、と芳音の方から『Canon』への来店を誘ってみた。人ごみが嫌いな藪はかなり長い時間渋っていたが。
「藪センセ。実はね」
と貴美子が昨晩のことを全部暴露し、穂高には『宿が見つかったから帰らない』とだけ記したメール一通を送ったきり、わざと全員の携帯電話を指定番号拒否していたと伝えたら、渋々ながらも了承した。もちろん、
「てめえら、ジジイを盾にするたぁいい度胸じゃねえか」
という憎まれ口は忘れない。即答で拒否しなかったのは、彼も克美の門出を祝いたかったからだろう。その証拠に、診察室の処置用ベッドには自分で包んだらしきリボンの掛かったプレゼントが置かれていた。聞けば、克美が十歳から十一歳までの一年間、ここで暮らしている間に撮っていた写真らしい。
「み、見たい……ッ」
と声を上げたのは望だ。考えてみたら、芳音も克美の子ども時代の写真を見たことがない。藪と貴美子が「海藤組から逃げて潜伏していたから、辰巳が殊更に警戒して痕跡になるものを残さなかった」と教えてくれた。藪のそれは、辰巳の目を盗んで撮ったものらしい。藪は「あとで好きなだけ克美から見せてもらえ」と笑い、その後神妙な面持ちで言葉を続けた。
「てめえだけのためじゃねえんだよ、こういうもんはな」
見守って来た周囲の人が、温かな気持ちで振り返れるように。当時はつらかったあの日々を懐かしく振り返れる今の自分に至れた自身を褒めて受け容れてやるために。そう変われた己の強さに自信を持つために。そして。
「自分の時間の中を通り過ぎていった人たちを、時々は思い出してやるために、だ」
藪は目を細めて、皆には見えない遠いどこかを見つめながらそう言った。この面子で藪の過去を知る人は、多分、いない。
「二度と来ねえんだからな。おめえらもいっぱい写真は撮っとけ」
藪はそれだけ言うと、芳音の返事も待たずに腰を上げた。そして四人にくるりと背を向けたかと思うと
「ちったぁまともなもんに着替えて来らあ」
と、逃げるように診察室を出て行った。
別荘に戻ると、案の定説教のために待ち構えていたと察せられる勢いで穂高が出迎えた。だが彼は藪の姿を見た途端、青ざめた顔をして黙り込んだ。
「先生……」
「なんだてめえ、その厄介モンが来たってような顔はよ」
「いや、先日お願いしたときには断られてしまったので、ちょっとビックリしまして。もちろん、いい意味でですが」
「デカいのがこんだけ大勢で押し掛けて来て、半ば脅しみたいな形で居座られりゃ行かねえわけにいかねえだろうが」
「うちの連中、先生のお世話になっとったんですか……えらい申し訳ありませんでした」
(ナイスだ、藪じい!)
心の中でガッツポーズを決める。藪はそれのみならず、“昨夜”という単語から逃げたがる穂高を弄るように再々その言葉を繰り返した。
「みなさ~ん、朝ごはん出来ましたー」
泰江からのそれは、穂高の耳にはさぞ神の声に聞こえただろう。
(ホタ、顔が引き攣ってる)
(中と外のギャップがここまで激しい人、初めて見た)
GINとふたりで穂高の死角になるよう顔を隠し、とまらない笑いを噛み殺す。
「何笑ってるの?」
「いっ、や、別に」
「安西さんって、あの先生が弱点だったんだな。いいこと聞いた、って話をしてただけ」
泰江や貴美子と朝食の準備をしていた望にそう声を掛けられ、ふたりでそんな言い訳をした。
開店予定の三十分前に『Canon』に入ったが、すでにお客が何人か訪れている状態だった。
「おおおおおお! 社長来た! マジ来た!」
と騒いでいるのは圭吾だけで、あとの数人は遠目に穂高を見ては顔を寄せ合ってひそひそと話している。
「誰だっけ?」
「ひでえ。望とも遊んでやったのに。圭吾だよ」
「ああ……芳音にちょっかい出してたクソガキ」
「あのさ、NATURE’S UNIONのケイで上書きしといてくれる? サンパギータの公開オーディションの一次選考で落っことしてくれたオッサンよ」
「いたっけ?」
そんな漫才なやり取りにくすりと笑いながら、キッチンでコーヒー豆を挽いている愛華と綾華に挨拶がてら声を掛ける。
「おはよ。ありがと。仕事休ませてごめんな」
「おはよ。別に芳音のためじゃないし、お礼やお詫びなんて要らないわ」
と愛華が相変わらずな毒を吐いて笑えば、綾華の方は
「却ってこっちの方が克美ママをおもちゃにして悪いっていうか……ね、お姉ちゃん」
と苦笑する。なんでも愛美が「いつもどおり? 克美ちゃんの花嫁姿を私に見せないなんて、私のときの披露宴の食費を返しなさい!」とすごい剣幕で克美に食って掛かったらしい。それも、ついさっき。
「さすが、恋愛マスター」
「もうそろそろ髪のセットも終わっているころだから、見に行ってみたら?」
「今手伝いに来ている人たちはみんな常連さんだから、こっちは気にしなくていいわよ」
その言葉に甘えさせてもらい、芳音を始めとした遠征組と藪が奥の居室へ行かせてもらった。
「あ。GIN、一緒にどう?」
誰も知る人のいない中、彼だけをひとりポツンとさせておくのは忍びなくてそう誘ってみたが。
「ああ、俺はパス。この店を見納めしておきたい」
彼はカウンター席に腰を下ろして頬杖をつくと、壁やそこに飾られた版画などに遠い目を向けたままそう言った。
(……あれ?)
ふと一瞬だけGINの瞳が緑色にまたたいたように見えた。今、彼の瞳はほかの人には視えない何かを視ているのだろうか。彼の手はグローブをつけておらず、素手でカウンターテーブルにぺたりと掌をつけている。触れたものからも残留思念が読めると言っていた。きっと杉の一枚板で出来たこのテーブルは、この店にある調度品の中で一番たくさん人の思念を蓄えているだろう。
ひとりでも多くの求める人に魂の救済を、とも言っていた。不思議な力に過信するのではなく、人の心に自分から積極的に触れ、その経験や感情を自分の知識として蓄えて別の誰かへ受け渡す、そういうことなのだろうか。
(ヘンな人)
芳音の脳裏によぎったそれには、少しだけ負け惜しみが混じっていた。
「んじゃ、すぐ戻るから、ゆっくりしてて。愛華、GINにコナのブラックをよろしくっす」
GINへの答えはそれだけにとどめ、芳音も居室へ続く通路へ踵を返した。
居室の扉を開ければ、すぐに広がるのは広めのリビングダイニング。昨日まではいつもと変わらない洋間だったはずなのだが。
「……」
目にした光景に、言葉を失った。昨日と少し違うレイアウトは、ソファが部屋の隅に据え換えられていたことと、大きな姿見の存在。そして何よりも芳音を絶句させたのは、椅子に腰掛けている女性。それが自分の母親だと認識するのに数秒掛かるほど、妙齢の女性のように初々しい花嫁姿ではにかんだ笑みを浮かべて皆と談笑していた。真っ白なウェディングドレスは肩の出るデザインなのに上品で、これまで芳音が漠然としたイメージで抱いていた、フリルまみれの無駄に飾ったようなものではない。克美のラインを充分に活かしたタイトなロングドレスは、シルクの輝きだけでほどよい豪華さを醸し出し、主役本人以上に目立つけばけばしさのない慎ましやかなデザインだった。ショートボブを巧く束ねてウィッグとの違和感を感じさせないシニョンに仕上げた、そのセンスは愛美だろう。濡れ羽色の黒髪に飾られたティアラが、嬉しそうにキラリと一度だけまたたいた。
その隣に立つ北木は、少しきつそうなタキシードをまとっていた。急きょレンタルで借りたのだろう。何しろ北木は身につけるものすべてがオーダーメイドでないとダメな体格だ。
だが、とてもお似合いのふたりだと思った。ひと月前の北木の親族を交えた式のときよりも、北木と克美の視線を合わせる数が格段に多い。柔らかな互いの笑みが、幸せを物語っている。
「あ、芳音。どう? 私の結婚式のときのドレスが着れそうだったから、無理やり着させたの。ステキでしょう?」
愛美が相変わらずの強引さで、芳音に持論の同意を求めた。
「うん……馬子にも衣装」
冗談を口にするのに少しだけ妙な間が空いてしまった。
「ひっでー。でも、ありがと。芳音がそう言ってくれるなら、着た甲斐があったなー」
そう言って大口を開けて笑えば、いつもと変わらない克美だ。その屈託の無い笑みと、芳音の隣へ自然に立ってくれた望のお陰で、息子として伝えるべき言葉を自然な口調で紡ぐことができた。
「おめでと、母さん。北木さん、改めて、母をよろしくお願いします」
厳かな面持ちでそう言いたい心境になった。深々と下げた頭をなかなか上げられなくて、どうしようかとひどく困った。
辰巳に、見せてやりたかった。あんなにも克美の笑顔を見たがっていた人に、今の克美を見て欲しかった。――もうどこにもいないけれど。
(いや、違うか)
いつか、巡り巡って還って来るのだ。言い換えれば、今はこの世界に住んでいる限り、いつでも心の中で会えると言っていた。世界を取り巻く大気を通して繋がっている――魂が。
心の中でGINの持論を反すうする。く、と奥歯を噛みしめて、なんとか溢れそうなものを堪えようと足掻く。だがそれがなかなか巧くいかず、鼻をすすってしまった。すると、不意に横から桜模様のハンカチが芳音の目の前に差し出された。
(はい)
望がたったふたつの音で、芳音の今思うすべてを理解していると伝えて来る。それがただただ嬉しくて、そっとハンカチを受け取った。
その後店から愛華と綾華も居室に訪れ、圭吾が家族写真を撮ってくれた。
「すっげえ大所帯だな。もうちょっと遅かったら、俺も仲間入り出来たのにな」
そう零す圭吾は綾華と愛美からグーを頭にぐりぐりとねじ込まれていた。
「なら早くデビューしろ」
「いつまでも綾華に甘えてるんじゃないわよ。とっとと上京して本気でやりなさい」
そんな親子漫才に笑わされた。そのお陰で、芳音のゆるみ掛けた涙腺も望以外に気づかれないまま、ちゃんとまた閉まってくれた。
店に入れば常連客の皆が、口々に寿ぎの言葉をくれた。カウンター席でキッチンを背景に、克美と北木を中心として記念撮影をする。克美と北木の手には、藪から贈られたフォトアルバムに収められた一枚が掲げられていた。それは幼いころの克美と、まだ二十歳そこそこだったころの辰巳が、温泉街の公園で木登りをして遊んでいる写真。
「ボクに声が戻った年の写真だ。この辰巳がいいな」
克美がそう言って選んだ辰巳は、桜の枝に腰掛け、小さな克美を膝に乗せて語り掛ける写真。その写真の中の辰巳は、とても幸せそうな笑みを浮かべていた。
「ほれ」
そう言って居室のパソコンで人数分の写真をプリントアウトして来てくれたのは穂高だ。
「うわー、社長から直々にとか! 裏にサインください!」
「なんで。俺は芸能人と違うぞ」
「うちの母親が『薬のウソホント?』のころからファンなんっす! お願いしま」
「いやじゃ」
(営業時代のイメージ、がた崩れ……)
望と一緒にがっくりと肩を落として溜息をついた。
「でも、よかったわね。家族写真とお客の皆さんとの繋がりを納めることも出来たし」
望がアップルパイを用意しながら、目を細めてホールの皆を見つめてそう言った。
「芳音も私も、これ以上のお店を目指してるのよね。ハードルは高いけれど、頑張れそうな気がする」
そう思わせてくれるくらい、ここのお客は温かい。個人経営のレストランに就職して、実際に現場を体感している望からの感想は、『Canon』の経営を手伝って来た者として、何よりも誇らしくて嬉しい言葉だった。
「うん。三年後には、俺ららしい店にしなくちゃ、だな」
「シェフに期待してるわ。頑張って」
「らじゃ。トータル・コーディネートはそっちに頑張ってもらうっす」
「ふふ、任せなさい」
そんなやり取りが交わされる中、克美が早々にドレスを脱いで、いつものスタイルでキッチンに立つ。
「よーし! 今日で完全に長期休業に入るから、在庫のワインもウィスキーも出しちゃう! 欲しい人、挙手ー!」
「朝から宴会にしてんじゃないっつの、バ克美」
「バカっつった!? 今お前、親に向かってバカっつっただろ!」
そんな賑やかでハイテンションな、笑いの途切れることのない時間はあっという間に過ぎていった。