全ての人に…… 3
三年ぶりに会った藪は、相変わらずなところは相変わらずで。だが芳音が就職先の報告をした途端、少しだけ涙ぐんだ。
「香港……えれえ遠くへ行っちまうもんだな」
「って言っても三年だよ。意地でも三年以内に必要なこと全部勉強し切って来てやる」
でないと『Canon』を再開出来ないから、とおどけて見せたが、藪の寂寥感を減らすことは出来なかった。
「三年、なあ。おめえらの三年は短えだろうが、老いぼれにとってのソイツは、お前よりもお迎えが先に来るんじゃねえかって気が気じゃねえ長さだな」
そう言って太い筆のような眉尻を更に下げられてしまうと、少しつらい。
「やあね、そんな弱気なおじいさんみたいなのは藪じいらしくないわよ。藪じいには曾孫を見てもらわなくちゃ、と思ってるんだから。はい、そういうことで、まずは健康を考えて、これもそろそろ没収よ」
望はからかう口調でそう笑い、藪の手から酒の入ったグラスを取り上げた。
「おめえ、相変わらず……って、あ? 曾孫?」
藪の酔った頭に、一度素通りした望の言葉が返って来たようだ。彼は筆眉の下から大きく見開いた目を覗かせた。それを見たら、つい噴き出してしまった。
「藪じいは私たちのおじいちゃん代わりでしょ」
と念を押す望がうっすらと頬を染める。基本的にデレることの出来ない性分のなのにそこまで口にした彼女は、内心でかなりの羞恥を覚えているだろう。芳音は望の誘い水に感謝しつつ、もうひとつの報告も自分の方から伝えた。
「まだ親と貴美子さんにしか知らせてないんだけど、俺たち、明後日役所に行って籍を入れてきます」
きっと藪は自分以上に自分のことを知っていた。いつからそう感じるようになったのかと言えば、四年前の夏休み、芳音に望を託してくれたころだ。ちゃかしたりからかったりする中で、観察の視線を感じていた。見透かすような静かな視線は泰江とよく似た種類のものだった。だから何もかもお見通しだと思った。それがあの夏、何度衝動に駆られようとも、最終的には自制がちゃんと機能してくれた。藪のお陰で穂高に顔向け出来ない自分にならずに今日まで来れたと思う。
「藪じい、ずっと見守っててくれてありがとう。お陰でやっと子どものころからの願いが叶います」
たくさんの感謝と、心からの喜びと、そして多くを語らずとも解ってくれるという信頼が、芳音にその言葉だけで報告を締めくくらせた。
「そうか……そうか……」
そう言って薄汚れた白衣の袖で目許を拭う。そんな藪を初めて見た。彼は決して大柄な人ではないが、芳音の目にはいつもどこか大きな人に見えていた。なのに今は、彼が自分と同じ普通の人に見えた。いつも愚痴を聞いてもらったり、逃げ場にしていたり。
(藪じいに頼って甘えてばっかだな)
情けない思いで頭を掻く。本当は穂高と泰江のことを話してしまいたかった。望や自分の「自分たちだけ幸せになっていいのだろうか」という迷いから抜け出せるよう、藪に背中を押して欲しかったけれど。
「母さんのことも北木さんに任せられるようになったしさ。藪じい、これでいつでも隠居出来るね。ボケるなよ」
芳音は藪から目許を隠す格好になっていた手を外すと、意地悪な笑みを浮かべて藪をからかった。
「なんだと、てめえ。人がちょっとしおらしくしてやりゃあ、いい気になりやがって」
泣きながら笑う藪を見たら、芳音も釣られてまた笑った。笑う藪を見て、改めて思う。片方の口の端だけを上げる皮肉な笑い方は、隠しようのない心配の混じる無理やりな笑みだったのだ。大口を上げて、まなじりを湿らせる藪を見て、心配の種を撒き散らさなくてよかった、と思った。望も同じことを思ったのか、藪診療所を出るまでその件を口にはしなかった。
別荘は藪診療所から目と鼻の先なので、そのまま駐車させてもらった。遠回しな「明日も顔を出す」アピールだ。そうしたくなるくらい、藪は素直に寂しさを口にする老人になっていた。
診療所の裏口から別荘へと続く未舗装の私道を、望と並んでゆっくり歩く。
「藪じいを泣かせちゃったわね」
そう言ってくすりと笑う望の睫も、まだ少し湿っていた。
「釣られ泣きー」
「いいじゃない。嬉し泣きなんだから」
拗ねた物言いで言うけれど、恋人繋ぎの互いの手は言葉と裏腹に、もっと強く握りしめられた。
「芳音」
不意に望から柔らかな微笑が消えて、芳音からそれを隠すかのように俯いた。
「GINさん、巧くお母さんの気持ちを引き出してくれているかしら」
「多分。もしそれが難しかったとしても、俺らとは比べ物にならないくらいいろんな人と関わって来た人だから。何かしらの手立ては考えてくれるよ、きっと」
実際のところなど解らない。GINにでもならない限り、彼の使う非科学的なソレがどういうものなのかを理解することなど不可能に近い。それでも、たとえうわべだけの慰めでも、そう言うくらいのことしか出来ない芳音だった。
繋いだ手を、きゅ、と強く握り返す。
「だーいじょーぶッ。泰江ママがホタに愛想を尽かしてるんだとしたら、もっと早いうちからいなくなっていたはずだよ」
ちょっとした行き違い、多分、きっと。半分は自分へ言い聞かせるような気持ちで繰り返す。芳音は、明日みんなが心からの笑顔で『Canon』に集えることを切に願った。
月明かりの照らす広めのあぜ道のような私道が、簡易な石畳の路面に変わる。動くものを感知してともる室外灯が常夜灯タイプのそれに切り替わり、それもふたりに別荘の敷地内に入ったことを知らせていた。なんとなく正面入口の方を見ると、門の前にしゃがみ込んでいる人影が目についた。
「GIN?」
(あれ? そっちにも道があったのか)
こちらに気づいたGINが、なぜか小声でそう声を掛けて来た。
(もしかして、俺らの帰りを待ってたんですか)
釣られて芳音まで小声で答えてしまう。
(ま、そんなとこ)
そう言いながら地面で煙草を捻り消すGINを不審に思う。
(部屋で待てる雰囲気ではない、ということですか?)
望が芳音と同じ不穏な予感をGINに尋ねた。その声はわずかに震えていた。それを知ってしまえば身勝手な憤りが泰江にまで向かう。
(もっと母親としての自負心を持っている人だと思っていたんだけどな)
なさぬ仲とは言え、本当の母娘のように仲のよいふたりだった。せめて望にだけでも考えていることを打ち明けてくれたら、こんなに彼女が動揺しなくても済んだのに。
(いい意味でね)
そう言ってGINが苦笑いを浮かべた。そしてそっと手招きをする。示す方角は、公園の見える部屋の窓。翠の部屋だった和室がある方角だ。
GINは人差し指を唇に当て、そっと窓の下に身を屈めた。
(ま、こういうことみたいだよ)
と窓を指差されたので、ふたり一緒に部屋の中をそっと覗き込む。
「――せやから、俺はお前みたいに難しく考えられるほど賢くないって。何回も言わすな、阿呆」
穂高が泰江の頭をそっと支えて額をこつりとくっつける。わずかに覗く横顔は、本当に困り果てた末の笑みを浮かべていた。
「……だって……穂高さん……いつも私には、思ってること……気を遣ってばかりで……だから、疲れさせてるくらいなら、って、だから」
子どものように泣きじゃくる泰江を初めて見た。にわかに心臓が騒がしくなる。自分たちの目がないところだと、このふたりはいつもこんな表情を浮かべるのだろうか。
(……かゆ……ッ)
見ている方が恥ずかしくなり、芳音は壁に背をつけて尻をついた。望はまだ覗き込んでいる。芳音が呆れてそっと溜息をつくと、反対隣でやはり完全に腰を落としていたGINに肩を小突かれた。
(泰江さんにも翠さんがちゃんと視えたみたいだよ。彼女の真意が泰江さんに伝わった。だからもう大丈夫)
そう言って笑みを絶やさないGINに釣られて芳音も苦笑する。
「だからッ、責任感だの義務感だのやない、言うてるやろうが。お前こそ、翠がこっちへ来るなってリアクションせえへんかったら、俺を見捨てる気満々やったやろ。思い切り俺の手、振り払ったよな!」
「それは……だって、翠ちゃんは、私を邪魔にしないでくれるもの。穂高さんにとって私は、気を遣う、気疲れさせちゃう……邪魔をしてしまう、存在でしか、いられない、から」
そのあとは、嗚咽になってしまって言葉にならない。つまり泰江が具体的な行動をどうしようとしていたのかはさておき、原因は穂高の過剰な(と芳音は思わないが)気遣いが泰江の不安を蓄積させて今日に至った、ということらしい。
「気を遣うって……それは、つまり、だな。若い時分は、ほら、まあなんていうか、だから、一応、だな……何かと強引だったという自覚があるわけで、だな、つまり」
穂高のうろたえる声に思わず噴き出しそうになる。芳音は唇を噛んで必死に耐えた。
「あー……、もう勘弁してくれ……」
不意に会話が途切れ、そして望が勢いよく座り込んだ。
(どしたの?)
小声で彼女の耳許に囁いて尋ねると、予想以上の大きさで彼女の肩がびくりと上がった。落ちた髪を除けて望の顔を覗き込んでみれば、両手で口を押さえて顔を真っ赤にしている。
(?)
何も教えてくれそうにないので、芳音はもう一度部屋の中を覗いてみた。
(……強行旅程だったのに元気だなオイ……)
などと茶化した言葉を思い浮かべる。そうでもしないと、心臓が過剰労働で破裂しそうだった。ただ確かなのは、もう自分たちの心配が解消されたのだ、ということ。抗うことなく穂高からの口付けを受け容れる泰江の両腕は、縋るように穂高の背をきつく握りしめていた。今度こそ二度と離さないと言わんばかりに爪を立てる様は、少しだけ穂高が羨ましいかも、とも思った。
(考えてみりゃ、そりゃそうか)
穂高の持つ顔が、社会的立場の顔と父親の顔だけ、などというはずがない。そんな当たり前のことに思い至らなかったのは、自分たちが彼らの親としての面しか見ようとしていなかったからだ、きっと。
(しっかしなぁ、なんていうか……なんだかな)
ものすごく、見てはいけないものまで見てしまったような罪悪感と、そして本当に申し訳ないと思いつつも親の生々しい一面に気持ち悪さを感じてしまった。
「まったく。勝手に思い込まんと、ちゃんと言いさ。なんで俺が翠を相手にお前巡って妬かなアカンねん。おかしいやろう、それ」
――笑って思い出してねって、ずっと翠も言うてたやろう。泰江もそろそろ思い出の中にしまってやり。
穂高は泰江“も”と言った。そんな柔らかくて穏やかな声で翠と呼ぶのも初めて聞いた。それらは穂高がちゃんと、“今”を生きているのだと芳音たちに教えていた。もう自分たちが幼いころに見た“真夏の夜の悪夢”を見ることは永遠にない――。
「あんな、俺も一応お前とおんなじ時間年を食ってるわけですよ。昔よりも、ちっとくらいは支える側にも回れていると思うててんけど、そこンとこどないですのん、奥さん」
ふざけた口調の中に穂高の必死さが見え隠れする。聞き耳を立てている芳音としては、飽和状態まで砂糖を混ぜに混ぜたコーヒーを一気飲みさせられている心境に近い。そろそろこの状況に限界を感じた。
(まさか泰江ママの方が引きずっているとは思わなかったね)
まだ固まっている望にそっと耳打ちすると、彼女も小さく頷いた。
ひと安心したところで、初めて当座の身の置きどころに悩む。GINが外で自分たちを待っていた理由は把握出来たし、理解どころか同情すら覚える居心地の悪さがあるわけで。
(んじゃ、取り敢えずこの場を離れようか。別にデバガメが目的じゃないしね)
突如湧いた芳音の悩みを見透かしたように、GINが笑ってふたりを敷地外への脱出に誘った。
貴美子と合流しようとGINに持ち掛けられたので、三人は公園で時間を潰すことにした。
公園は目に見えて近い場所にあるものの、曲がりくねったゆるい勾配の上り坂になっているせいで、GINから説明を聞ける程度の時間が掛かる位置にある。
「翠ママの思念をふたりへ同時に送った、のか。GIN、頭痛の副作用があるんだったっけ。大丈夫?」
芳音にはやはり勝手が解らなくて、説明されても今ひとつピンと来ない。ただ確実に理解の出来るそれが心配ではあった。
「お? 珍しく芳音が優しい」
とちゃかすくらいだから大丈夫なのだろう。芳音はほっとしながらも、いちいちふざけたリアクションで答えるGINの面倒くささに軽い苛立ちを覚え、批難に満ちた目を細めた。
「心配して損した」
「あははー、さんきゅう。ここはキレイな空気とあったかい気持ちで満ちているから、それに助けられたよ」
目を合わせないまま笑う口許は、本当に平気な風を見せているが。
(見えてんのかな。いくら月が明るいとは言っても夜なのに)
サングラスをしたままになっているGINの瞳には、まだグリーンが宿っているのだろうか。芳音が横から盗み見ても、フレームの太いデザイングラスが邪魔をする。彼の瞳はどこを見ているのだろう。月を仰ぐように見上げながら歩くGINの横顔は、決して瞳を見せてはくれなかった。
公園に着くと、貴美子がひとりで、すっかり成木になった桜の木の下で夜桜を見上げていた。手には缶ビールと、反対の手には煙草を携えて。
「あら、来たの。守備はどう?」
と若干呂律の回らない口調で尋ねて来た。
「上々っすよ。聞きます?」
GINが貴美子から差し出された缶ビールを手に取りながら、笑って彼女を見下ろした。
「要らない。穂高は基本肉食だから、誤解さえ解ければ引いていた分反動が大きいでしょうし。年寄りには目と耳の毒。つき合ってらんないわ」
そう言った貴美子の隣に置かれた缶ビール入りのビニール袋には、近所の温泉宿の名が入っていた。
「まさか貴美子さん」
「宿キープ、当然でしょ。穂高と風間刑事にはスッピンのアタシなんて見られたくないもの」
GINの部屋も確保してあるという。芳音と望は身体を真半分に折って、便乗させてと懇願した。
夜空と夜桜に、乾杯。
皆が幸せでありますように。
皆が笑って過ごせますように。
これからも、命尽きるまで、それぞれが、永遠に――。
四人でビールを嗜みながら、風に乗った桜の花びらの舞いに酔いしれる。
「風間神祐、一発芸をするであります!」
GINが突然そう言い放ち、フェイクなのか本当に酔っ払っているのかわからない足取りでベンチから立ち上がった。
「芳音と望ちゃんに、俺からのささやかな結婚祝い」
そう言って小さな公園の中央に佇むGINにふらつく様子はない。やはりフェイクだったと解ったのはいいが、別のことが解らない。
「なんでソレ知って」
「それから久我さんへ、ワンチャンス。彼女、もうすぐ消えるから」
「!」
そよ風が急に強い風に変わる。桜の枝がしなり、犬笛が吠える。
「最後に伝えたいことを思い浮かべて。彼女を――見送ってあげてください」
そう告げるGINの声が、彼の立つ場所から、でも次の瞬間には別の場所から、ブツ切れになって芳音の耳に届く。
つむじ風のような空気の流れを芳音の後ろ髪が描いた。小さく細いその束が風に煽られ、簡単に括っただけのヘアゴムが宙に飛んで消えた。GINの前髪も空に向かってはためき、彼のつけていたサングラスがつむじ風に吹き飛ばされた。
芳音が彼の深緑の瞳を見止めたのは、ほんの一瞬だけだった。
「……」
声にならない音が漏れる。望が芳音のシャツの袖を握った。はっと我に返って彼女を見下ろせば、大きく目を見開いて芳音の見ていた一点を見つめ、それが寸分もそこから動かない。
「ママ……?」
狂ったように踊る桜の花びらたち。まるで桜の精を隠すように舞い狂うその向こうで満面の笑みを浮かべて佇んでいたのは。
「くぅ……時間が掛かって悪かったわね。もう大丈夫よ。ありがとう」
貴美子の言葉に弾かれて、望が桜のカーテンの向こうへ駈け出した。桜のカーテンが望を迎え入れるように開いてゆく。その向こうにある天使の姿が、おぼろげだった芳音の遠い記憶を鮮明にさせた。
(あ……)
克美とよく似た勝気な気性を髣髴とさせる大きな吊り目。なのに目尻がほんの少しだけ下向きになり、そして星のように瞬く潤んだ両の瞳。
望よりも少しだけ強い毛先の癖が、栗色の長い髪を焦げ色をつけた綿菓子に見せる。
甘い匂いは、何度も嗅いだ心地よい匂い。翠がいつも身に着けていた、そして今では望が着けている“棗双”という名のパヒュームの匂い。
翠は笑っていた。蘇った芳音の記憶にあるような儚げな笑みではなく、心から嬉しそうな、はじける笑顔で望を見つめていた。
「ママッ!」
抱きつこうと伸ばした望の両腕は空を切り、まるで自分を抱きしめるような格好のままバランスを崩した。
「おっと」
そんな望をGINが左腕一本で軽く支えて転倒を防ぐ。
「ど……して……?」
望は震える声で呟いた。その声が金縛りにあったかと思うほど動けなかった身体を解かす。芳音が慌てて望に近づくと、GINが彼女を芳音に預けた。そして子どもをなだめるように望の頭を何度か撫でた。
「キミの思いはちゃんと届いているよ。だから、引きとめちゃダメ。彼女はまたいつか新しい命としてここへ戻って来るために、還るべき場所へ還るんだから」
どこへと問えば、さも当たり前のように「自然の大気の中へ」と答えられた。
桜の花びらたちが、寿ぎの舞を舞う。天高く上る花びらに混じり、至福の微笑が薄れてゆく。
――のんちゃん、芳音、幸せでよかった。アタシも幸せだったの。それをあなたたちも子どもたちに受け継いでいってね。
きっと言葉に置き換えるなら、そんな願いのような温かな何か。
「うん……ママ、私を生んでくれて、ありがとう。必ず伝えていくわね」
望はようやく泣きやむと、まるで翠へ“見てくれ”と言わんばかりの笑みを浮かべ、芳音の腕の中から翠にはっきりとそう告げた。
懐かしい笑みが消えてゆく。望とまったく同じ色と癖を持った栗色の髪が、薄紅に溶けてゆく。
“幸せで、よかった”
翠からの、最大級の贈り物。彼女が命懸けで産んだ宝物が自分とともに歩む人生を「幸せ」と表現してくれた。それも、自分と同じように、と。思い出の中の翠はいつも寂しげな笑みを浮かべていたが、逝く間際のときだけは、とても幸せそうな笑顔だった。幼い芳音の目には、病気の重さや死の重さを認識出来ないほど、葬儀のときに見た棺の中の翠は、明るくて満ち足りた笑みを湛えたままの寝顔だった。
やがて桜の舞い踊る宴は静かに終わり、満ち満ちた黄金の月だけが小さく芽吹いた桜の若葉と翠の魂を送った四人を照らしていた。