全ての人に…… 2
“そんなに今の自分に自信がないのなら、だからこそ自分と向き合いなさいよ。でないと泰江まで失くすことになるわよ”
貴美子にそう言われるまでは、自覚さえしていなかった。
“アンタがあの別荘を避けるのは、昔の自分に――くぅしか見えていなかった自分に戻ってしまうのが怖いからでしょう。でもそれは、泰江を泣かせたくないから怖いのよ”
――そうか、俺は過去の自分に戻ることを恐れているから、あの場所に行けないのか――。
克美たちの祝宴のスタイルは、客の皆が愛してくれたこの店から送り出してもらう、という形。これまでの愛顧に感謝をこめて、新婚旅行の出発時間ギリギリまで来客をもてなすらしい。
克美曰く
「この年で今更ウィエディングドレスもないだろ? うちは飽くまでもお客が主役だから、この形がいいんだ」
とのこと。穂高は克美のお人好しぶりに少々呆れたものの、白無垢だけとは言え、二月に執り行われたごく内輪だけの結婚式で花嫁姿を北木の目に収めることが出来たので、まあよしとしておいた。
(兄心、妹知らず、っちゅうか。辰巳は客に大盤振る舞いさすために遺していったんと違うやろうに)
その感想は、姪の華や藍の地味婚のときに感じた残念さとよく似ていた。
明日に備えての仕込みが忙しそうな克美に夕飯準備の手間ぐらい省かせてやろうと思い、下のレストランで夕飯でもと誘ったところで、タイミングよく北木がやって来た。皆で夕食を摂る中、芳音が自分も今夜はこちらと行動をともにすると言い出した。
「って、お前、親子であの部屋で過ごせる最後の夜やで?」
「だって冷蔵庫が俺の寝場所を取っちゃったんだからしょうがないじゃん」
リビングがあるだろうが、とも思ったが、どうせ冷蔵庫は都合よく使えるこじつけの理由だろうと察しがついたので、
「ほんなら野宿でもしときぃさ」
と冷たくあしらった。それだけでなく、人一倍寂しがりやの克美を考慮した、皮肉をこめた苦言でもある。恐らく望といたいのであろうが、今夜くらいは自制しろ、という意味で言ったのだが。
「ひでぇ。ホタまで俺をハブる気?」
芳音はそう言って笑い、さらりと穂高の苦言を躱わしてしまった。ムキになっていたころの可愛い似非息子は、こちらが拍子抜けするほどの余裕を持つ一人前になってしまったようだ。
「せやけどまだ仕込みが全部終わってもおらんのやろう? 克美と北木さんだけで手が足りてるんか?」
と、克美に加勢を促すも、
「お前の言いたいことは解るよ。ありがたいとは思うけど、でもな、穂高。よく考えてみろ? 娘が嫁に行くのとは違うんだぞ? 息子に“お世話になりました”とかいうあのクソ恥ずかしい台詞をボクに言えってか?」
と得意の三倍返しの毒舌が返って来る始末だった。
「そもそもさー、そんな改まったことなんかしたら、もう会えないみたいでイヤじゃん」
だからいつもどおりに過ごしたい。異口同音にそう主張する守谷親子に対し、克美を挟んで芳音の反対側に座る北木の表情は複雑そうだ。
「安西社長、お気遣いいただいて恐縮です。すみません。これまでがそうだったので心配だとは思いますけど、今夜は僕が泊まる予定にしていたので、克美ちゃんの方は大丈夫です」
(あ、なるほど。そういうことなわけ)
どこか無理やり言わされているような気がしないでもないが、では誰が北木に言わせているのか、と言えば。
(芳音がませたことを考えたか、克美の口振りだとコイツが望や芳音の肩を持って、っていう可能性もあるわな)
だが、策士の候補は推測出来たものの、それを北木に言わせる理由が皆目解らない。それならそれでそんな回りくどいことをせずとも、自分たちで意向を伝えればいいだけの話ではないか。
(……どうでもええわ、もう。勝手によろしくやってろ)
時々羨ましくも思える克美の柔軟さに舌を巻く。当てられた腹いせに心の中でそんな毒を吐きながらも、
「ほんなら芳音はこちらで預かります」
と北木だけに柔和な笑みを向けて引き下がった。
「なんでいつまでもガキ扱いなんだろ、俺」
「芳音くん、そういう意味じゃないよ。安西さん、よろしくお世話になります。ありがとうございます」
「ぃよろしくゥッ! 未来のお義父さん!」
「気持ち悪いからお前が言いなや」
望お勧めの和風バーグ定食で腹が一杯だったわけだが、何かがさらに無理やり詰め込まれたような胸やけに襲われた。
穂高は克美や北木と別れて駐車場へ戻ったとき、初めてとんでもないことを打ち明けられた。
「ホテルをキャンセルしたあと、温泉宿の予約を忘れた、だと……?」
普段日本にいられないGINに日本の趣を味わえるよう温泉でも、と思った配慮はいい。だが肝心の予約を失念していたのでは、本末転倒も甚だしい。そんなケアレスミスをしたのが芳音であれば、正論という名の武器で完膚なきまでに叩き潰してやるところだったが。
「今日明日ガッツリ休む段取りを組むのに精一杯で忘れちゃってたのよ。そんなに怒らなくてもいいでしょ」
と開き直って穂高を見上げて来たのは貴美子だ。元上司、そして今では仕事に於けるパートナーでもあり、おまけに姑という肩書きまで持って優位に立つ彼女が相手では、こちらが抑えざるを得ない。
「別荘があるじゃない。どっちにしても芳音があぶれちゃってる状況なんだし。あんたのことだからまとめて手許に置いておきたいクチでしょ。行きましょ」
「いや、ちょっと待ち。探すさかいに」
穂高はホテルの空きを探すという弁解で貴美子の案に抗った。
仕事でさえなければ、本当なら藪診療所ですら行きたくはない場所だ。しかも今は、春。翠が逝った、あの季節――。
「穂高」
「!?」
不意に首が苦しくなり、半ば無理やり屈まされる。かつて翠が愛用していたフレグランスとよく似た甘い匂いが穂高の鼻を強く突いた。
(何ビビってんのよ。そんなに今の自分に自信がないのなら、だからこそ自分と向き合いなさい。でないと泰江まで失くすことになるわよ)
耳許で囁かれた貴美子のそれが、日本語であることしかわからなかった。
(は?)
つい釣られて小声になる。泰江の視線を気にしてしまうものの、貴美子の髪が穂高の視界を遮っていて泰江がどんな表情を浮かべているのかわからない。
(アンタがあの別荘を避けるのは、昔の自分に――くぅしか見えていなかった自分に戻ってしまうのが怖いからでしょう。でもそれは、泰江を泣かせたくないから怖いのよ)
ヒントはここまで、そう言った貴美子がようやくネクタイから手を離してくれた。
(まるで俺が悪いみたいやないかい)
穂高は自分に原因があると言いたげな貴美子の弁に納得がいかなかった。
泰江が孤立するのを懸念して、誰にも言えないでいる現状を振り返る。
どこでボタンを掛け違えたのか、穂高にはわからない。
二月にあった克美と北木の結婚式のとき、克美が穂高と泰江だけを控え室に呼び、
『あとは穂高だけだぞ。意地を張るのも大概にしといてやれよ』
と勝ち誇った笑みを浮かべ、芳音に保証人欄に記入済みの婚姻届を渡してあるから、と打ち明けられた。
『克美さん、ありがとう。これで翠ちゃんとの約束が全部果たせるね、私たち』
泰江が穂高の反駁を阻止するかのように、克美の言葉を受け取った。口角だけを少し上げた、形ばかりの笑み。彼女の垂れた目尻からは、今にも涙が零れ落ちそうになっていた。
『望の母親が口をそろえてそう言うんやったら、反対したところで俺が孤立するだけやないかい』
そのときの穂高は、先手をついて来た守谷親子に対する妙な口惜しさが先に立ち、泰江の表情を自分と似た感傷だろうと軽く受け留めていた。望が二十一の若さで嫁ぐとは思ってもいなかった穂高は、泰江が自分と同じように寂しさと安堵の入り混じった女親のかたどる表情だと勘違いした。
あとになって自分の勘違いにようやく気づかされた。
まだ泰江が出産可能な年齢だったときに、何度も望に兄弟をと言っては拒まれて来た。頑ななまでにサロンと居室を一にする拘りが解せなかった。彼女は知り合って間もないころの翠が乗り移ったかのように、穂高の扶養になることを拒み自立に拘った。
“これで翠ちゃんとの約束が全部果たせるね、私たち”
ひと月ほど前に聞いたそれは、望に関する泰江と克美の“母親業の終了予告”ではなく、彼女と自分に翠が託した“望が独立することから来る保護者としての終了予告”だったとしたら。彼女が始めから、期間限定の家族でいるつもりだったとしたら――。
貴美子のにおわせた言葉が、穂高に寒気を感じさせた。ここひと月ほど脳裏を過ぎっては無理やり消して来たそれが、確信に変わってゆく。
若いころに、散々振り回して泰江の人生を狂わせた。その罪悪感が彼女の意向をすべて穂高に飲ませて来たようなものだ。穂高なりの償いと誠意と、そして何より、自分の出来る精一杯の愛情表現のつもりでいた。
これは泰江から自分への報復なのだろうか。彼女の人生を代償にしたのは、間違いなく自分なのだから。
ならば彼女のしようとしていることのすべてを甘んじて受け容れるべきなのだろうか――本当に?
(……わからん。何が泰江にそうさせるのかが、俺にはわからん)
ごちたところで何も変わりはしないのに。誰に答えを求めるでもなく脳裏によぎったそれを、強く頭を振って無理やり追い出した。今更どうにも出来やしない。娘たちの結婚はもう認めてしまったし、今更それを覆す気も毛頭ない。
「赤木に鍵を開けておくよう連絡する」
貴美子に伝えたその声は、妙に疲れを帯びた低い声になった。
夜の帳が下りた松本市街を走らせると、翠の危篤という知らせを受けて真夜中に車を走らせた記憶が蘇る。間に合えと。その願いを叶えてくれるなら、神でも仏でも悪魔でも構わない。そう祈りながら我武者羅に温泉街へと向かわせた焦燥感を思い出す。
芳音と望は藪のところへ顔を出してから別荘に行くと言うので、貴美子とGINがこちらの車に乗り合わせた。後部座席で談笑を交わす女性陣の声をBGMに、穂高は無言を貫いていた。居心地の悪い思いをしているであろうGINに悪いと思いつつ、雑談に興じる余裕を失くしていた。
別荘について、赤木とその妻、香澄に突然世話を掛けたことについて詫びの言葉を入れる。
「いえいえ。普段から運動代わりにと思ってお掃除をこまめにしていたから、特にこれといって準備に慌てることもありませんでしたから」
香澄が快くそう言って笑い、四人を客間に案内した。
「お風呂は沸かしてありますから。温泉に浸かってゆっくり旅の疲れをほぐしてくださいね」
赤木は往診で不在だというので、香澄へ彼への礼を言付けた。貴美子が泰江とともに軽く荷を解き、明日の服などを鴨居に吊り下げると出て行こうとした。
「貴美子さん?」
「ちょっと公園に行って来るわ。きっと桜が満開だろうから、くぅと話して来る」
それに返す言葉が見つからない。穂高と同じように、荷物の前で膝を折ったまま貴美子を見上げる泰江も、戸惑いの混じった表情で「いってらっしゃい」としか言えないでいた。
「安西さん」
貴美子の背中を見送る穂高の視線が、GINの呼び掛けで我に返って傾いた。
「あ?」
「ちょっと調べたいことがあるんです。翠さんの使っていた部屋に案内してもらえますか」
そう尋ねて来たときだけは、十数年ぶりに再会してからは別人のように変わったと思わせたGINのふざけた表情が消えた。
「別に、構へんけど。泰江」
穂高は自分よりもここでのことを知っている泰江に案内を促した。
「調べたいことって何」
「辰巳の一件があったでしょ。翠さんはちゃんと還れているのかな、って」
お節介な、と笑う気にはなれなかった。
GINの言葉で、泰江がそっと顔をしかめた。亡くなった家族の霊が見えるとすれば、それは家族を失くしたストレスから脳が混乱を来たして幻覚や幻聴を誘発させられる、というのが心理学的見地だ。泰江には、その見解を根拠にGINの発言が世迷いごとにしか聞こえないだろう。もしくは、何かを目的とした詐欺師だ。
「風間さん、案内します」
泰江が荷物の前から立ち、客間の襖を開けてGINを促すと、GINは穂高にも同行を促した。
「いや、俺は」
「らしくないっすね。バカバカしい理由で部屋を見たいなんて言ったから、何かいるんじゃないかとでも思ってます?」
挑発とも受け取れるGINの言葉にカチンと来た。こちらが座っているので仕方のないことではあるが、見下ろして薄笑いを浮かべる彼のそれが、ふと辰巳のそれを連想させる。
「えらい言われようやな。運転に疲れただけや。勘違いされたままになるのは適わんさかい、つき合うたるわ」
吐き捨てるようにそう言うと、穂高も渋々と立ち上がった。
翠はずっと、穂高たちが彼女の最期を看取った和室を使っていたらしい。ほんの少しの消毒液の臭いと、甘く鼻先をくすぐる薔薇の匂い。翠が出会ったころからずっとつけていたフレグランス、“沙棗”の香りがまだ残っていた。
「この部屋だと、翠ちゃんの好きな桜が窓からいつでも見られるんです」
泰江がGINにそう説明しながら窓を開けた。十九年前と同じように風が吹き、そして空には煌々とまん丸に満ちた黄金の月が眼下の公園で咲き誇る桜を照らしていた。
「久我さんが言ってた公園って、あれですか?」
GINがそう尋ねながら、窓辺から外を見下ろす泰江の方へと歩いていった。穂高はそれに合わせて足を踏み出すことが出来なかった。あのころのままの家具、仄かに漂う翠を思い出させる香り、それらが自分を十九年前に閉じ込めてしまいそうで――怖かった。
「はい。まだ翠ちゃんが動けるころは、のんちゃんたちとよく散歩に行ってました。とても桜が好きだったんです」
ひと月にも満たない短い花の季節を精一杯に咲き誇り、人を魅了する花、桜。
「未練なんかない、って勢いで、潔いくらいに散るから。可憐な印象を抱かせる花なのに、本当はものすごく強くて凛とした、貴美子さんみたいな花だ、って、よく言っていました。大和心の象徴だ、とも言っていた、かな」
翠ちゃんは強くなりたい、というのが口癖だったから。そう語る泰江に穏やかな笑みが宿る。そんな笑顔を見たのは久しぶりのような気がする。そして彼女を今笑わせたのは、翠との思い出。つらつらと流れていった思いつくままのそれを意識した瞬間、つきりと穂高の胸に痛みが走った。
「ああ、解る気がしますね。彼女と初めて会ったとき、こっちは一応警察手帳も見せたのに、少しも怯むことなくまっすぐに目を合わせて来ました。こっちの方がその勢いに怯んじゃったくらいで」
ゆるい口調で当時を語るGINは、笑いながら窓辺に身をもたれさせた。泰江の隣を確保して、彼はとても心地よさそうに大きく息を吸い込み、そして吐いた。
「療養には最適の場所っすね、ここ。大気が濃い。山を背負って、植物にとっては毒素の含まれる源泉がある温泉街なのに、あちこちにある田畑はちゃんと使われている。ちゃんと育つってことですよね。何より温泉っていう大地の恵みが、この辺りの気を濃くしてくれている」
(――!)
GINの意図がようやく判った。穂高の心臓がドクンと大きく脈打ち、あれだけためらっていた足が勝手に彼らの方に向かっていた。
「風間、よせ」
「泰江さん、貴女のやっていることは、翠さんが悔やんで来た道と同じだとは思いませんか」
まだ、覚悟が出来ていない。まだ自分に、そんな自信はない。
「翠さんに会わせてあげる、と言ったら笑いますか」
彼の右手からグローブが外され、何を言っているのか解らないと言いたげに小首を傾げる泰江の額に翳された。
「風間!」
「安西さん、翠さんは、ずっとあなたの傍にいたんですよ。気づかなかったでしょう」
泰江がよりどころに変わっていたから。そう言って悟ったような微笑を零すGINの左手が、彼の右手を掴んで阻止しようとした穂高の右手首を素手で掴んだ。
――彼女はずっと、泣いている。だから自然の大気へ還ることが出来ない。
「三人を《送》でコネクトします。暴れないでくださいね」
GINのその言葉が次第にぼやけ、水の中で聞くような感覚に遠のいていった。