時流れ、天使の願いが叶う時 3
桜並木はその年も入学式を待ち切れないようだった。木々が春爛漫のいろどりを舞い散らせる三月下旬。
その日、芳音は穂高が手配したレンタカーの助手席に望を乗せて成田空港へ走っていた。守谷家の祝いごとを寿ごうと、遠路はるばる訪ねてくれた客人を迎えるためだ。
就職二年目を目前にして、新年度から後輩の指導を任されることになったと張り切っていた望に有給を取らせるのは気の引ける話だったが、上司や先輩が快く休暇の許可をくれたらしい。
『優先順位を考えれば当然でしょう。もしダメ出しされたら身内の誰かが死んだことにするわ』
と芳音の謝罪を足蹴にしたときの望の嬉しそうな顔を見て、限界寸前まで煮え立った衝動を抑えるのに苦心した。それが三ヶ月ほど前という急な話。門限の厳しい望と過ごす時間を大幅に減らされたクリスマスだったので、日付まではっきりと覚えている。
『芳音。ボク、お嫁に行ってもいいかな』
わざわざ北木と一緒に上京までして来た克美のそれに、ノーと答えるはずがなかった。
望とふたりで過ごす予定だったクリスマスは、昼がそんな形で終わった。克美が芳音に飛び切りのプレゼントを置いて行ってくれた。
『ボクでさえ踏ん切りをつけたんだ。負けず嫌いな穂高のことだから、これを見ればきっと張り合うつもりで認めてくれるよ』
克美がそう言って芳音の手に握らせたのは、茶色のインクで印刷された書類だった。保証人欄には克美の署名が記入済みになっていた。
克美たちを送ったあと、ようやく望とコンタクトを取った。クリスマスにかこつけた逢瀬の時間は、急きょ穂高の誕生祝いに取って代わった。
『うそ……』
克美からの知らせを伝えると、望はしばらく言葉を失くした。
『今日はホタが帰って来るから夕方までって言ってたじゃん? 俺、今からそっち行っても平気?』
『パパにもサインしてもらう、ということ?』
少し沈んだトーンで問われたそれには、少し残念に思いながらも「ノー」を返した。
『のんに預けておく。まだ、ホタたちの方が解決してないから。母さんのことは、ホタにも長い時間心配を掛けていたから、電話で知らせるのは手間を省いたみたいで、アレかな、と思って』
望にそう答えると、彼女は「古い考え方の人でごめんなさい」と苦笑した。
穂高が帰って来ると、克美たちの朗報を彼に知らせ、改めて礼の頭を下げた。
『あのヤロ……マジか。東京まで来たのにツラも出さんと帰ったなんて、信じられへんし』
と言いつつも、穂高は笑っていた。彼はちゃんと、克美の宝物を解ってくれているのだと芳音は考えた。
『ほんなら、いよいよ『Canon』も、カウントダウンか』
(ほらな)
少し寂しげにそう呟いた穂高に
『俺が帰るまではね。今のうちに、少しでもたくさんのお客との時間を持ちたいんだろうと思う』
と返したら、穂高は苦笑いを浮かべて「あいつらしいな」とだけ言った。
諸手を上げて喜べなかったのは、そこに泰江がいなかったからだ。
『あー、なんだっけか。レイキ? セラピーの新しいジャンルだかなんだかの宿泊講習とか言うてたな』
泰江の不在理由をそう告げる穂高の表情からは、内心を読み取れなかった。
『でも、また改めてお祝いしましょう。貴美子さんも今日は連絡不可能な日だし。ね?』
場の雰囲気を保とうと無駄に明るく振舞う望のそれは、日ごろの気疲れを垣間見るようで胸が痛んだ。
それでも日々は着実に過ぎてゆき、芳音もこの三月初旬に辻本調理師専門学校を無事卒業した。
だが哀しいかな、現在は半無職の状態にある。
本当は卒業式を済ませたら荷物だけでも先に送り、守谷家の一大イベントが済んだらすぐにでも勤務先の厨房に入りたかったのだ。なのに、雇用主のケチな相棒が迎え入れてくれなかった。
『えー、どうせ俺もそっちに行くじゃん。荷物もそのときでいいっしょ。家具や家電みたいな大物は、うちの空いてるヤツを使えばいいんだし。経費節減、合理性重視、効率最優先、これ経営者の基本だよ?』
もう、わけのわからない理由である。
「くっそ、GINと顔を合わせたら、まずは絶対文句を言ってやるッ」
頭ではGINのそれがフェイクだと解っているくせに、荷物くらいすぐに預かってくれてもいいじゃないか、という不満がそのまま言葉に出た。
「芳音ったら、この間からずっとそればっかり。随分GINさんと砕けたやり取りが出来るようになったのね」
そう言って苦笑する望の表情はどこか重い。無理をして笑っている理由はひとつしかない。
「のん、俺がGINに頼んだこと、やっぱりまだ心配?」
頼んだこととは、泰江の思念をどうにかして捉え、彼女が何をしようとしているのかを調べること。望から相談をされて引き受けてみたものの、自力ではどうにもならず“奥の手”を使った。
芳音からGINに説明したところ、最初は渋い顔をされた。
『一度しか面識がないけれど、あの人は多分、鬼門だな』
GINに言わせれば、日本帝都ホテルで初めて泰江と会ったとき、ほんのわずかな言葉だけしか交わしていないのに、彼女からはあからさまな警戒心が見て取れたと言う。
『多分、安西さんが事情を話してあったんだろうな。心理学や精神医療の知識がある人から見ると、俺みたいなのは詐欺師そのものだから』
そしてそういった類の人は、自分の思惑を隠すのが巧いそうだ。それはもちろん、本人の意図していない無意識の所作らしいが。
『何か、泰江さんが触れたことのあるもの、特に思い入れのあるものとか、そういうアイテムを送ってもらえたら、残留思念を読めるとは思うけど』
そこでGINに送り届けたのが、翠の遺したノートパソコンだ。日記のデータが詰まったそれは、翠の形見として望が保管していた。そこには翠の泰江に対する思いもたくさん綴られており、泰江に知ってもらうべきだろうと考えた望が彼女に預けていた時期もある。
『うん、それで充分。翠さんと泰江さんの繋がりは知らないわけじゃないから、彼女が何も感じずに読めるとは思わないし。両方の思念が残ってる可能性は、多分それが一番高い』
そんな経緯で翠のノートパソコンを送ったのだが、その後の報告はまだ受け取っていない。ただ彼は、今回のイベントにこじつけて、泰江と接触する機会を作ると言っていた。
『何するつもり?』
『なーいしょ。あとで全部種明かしするよ』
どこか楽しげにさえ聞こえる物言いで、GINは勝算を仄めかした。
芳音の「心配?」と言う問いに頷く望の不安は解る。GINから打診された瞬間は、芳音も同じ不安に襲われた。大丈夫、と自分に言い聞かせられる根拠は、GINの余裕と、彼には『神童』の一角で占いまがいのことをして多くの人と触れる日常にあるが、体調不良になった客はひとりもいない、という統計的な根拠、このふたつだけだ。
「大丈夫だよ。俺の場合がちょっと特異過ぎただけみたいだから」
「でも」
「あっちでは占いってことにして、手相を見る振りしていろんな人に触れてるけど、誰も体調を悪くしたりなんかしてないって。だから、泰江ママも大丈夫だよ」
半分はやはり自分へも言い聞かせる気持ちで、望に口先だけの太鼓判を押した。
「ほら、そんな顔すんなって。ホタたちと合流するまでに戻さないと、勘繰られるぞ」
そう励ます芳音にも、望のことなど言えないくらいに曇る表情が宿っていた。
空港に到着し、到着ロビーでGINを待つこと三十分。
「うーっす、芳音、ご苦労さーん。望ちゃん、ご無沙汰」
と現れたGINの小さな変化に、いい意味で驚いた。
「GIN、杖は?」
「あー、もう要らなくなった」
元々動かせないのではなく、痛むので右足に重心がいくのを避けるための杖だったらしい。リハビリと零の助力で、ゆっくりながらも介助ゼロの方へ向かっているとのことだった。
「でなきゃあちこち歩き回れないしな。零にいつまでも抱っこにおんぶじゃ情けないし」
と苦笑いを浮かべたときだけ、いつもふざけたことしか言わないGINが神妙な顔つきになった。
「だから零さんの介助がなくても動きやすいよう、信州までの足を車にして欲しい、って父に頼んだんですね」
夫婦仲がいいんですね、と零す望の声と表情にわずかな影が宿る。それを受けたGINの
「君のご両親だって、本当は仲良し夫婦だよ。ちょっと行き違いがあるだけで」
という返しで、芳音はようやく胸を撫で下ろした。
GINはちゃんと解っていた。望の不安も、落ち込んでいる理由も、会った瞬間から解っていて笑顔を絶やさないでいる。下調べでいい手応えが得られたのだろう。
「ま、芳音なら察するだろうと思ったけど、安西さんたちと分かれてくれたのはいい塩梅だったな。移動中に諸々の報告をするよ。通話だとチビっこがやかましくてまともに話せなかったから」
「って、報告がなかったのって、それだけの理由?」
「うん。だってアンジーに気が行っちゃって、芳音が後回しになる確率千パーセントだもん」
爺バカ過ぎる、と芳音は呆れ返ったくらいだったのだが。
「お孫さんは女の子だそうですね。アンジーちゃんって言うんですか?」
「うん。アンジェリカ。アメリカ人同士の子なんだ。めっちゃくちゃ可愛いんだな、コレが。写メ見る?」
「見たい! です!」
と望が笑顔を見せたので、GINに食って掛かるのは我慢した。そのくらい、おおごとではない状況ということだ。
芳音はGINの手荷物を受け取り、談笑するふたりを促して駐車場へ戻る道を指し示した。
「ネックは、泰江さんの罪悪感」
と、GINはまず結論を述べてから、芳音や望が知らない親たちの過去を掻い摘んで説明した。
「泰江さんは思春期のときに、お母さんを自殺で亡くしているみたいだ。気丈に振舞っていたお母さんの本心を見過ごしてしまったことが彼女のトラウマになっているっぽい」
それをきっかけに心理学を学び始め、そしてどこでボタンを掛け違えたのか、言葉の裏を読むことと相手の本音を見抜くこととを取り違えることがある。
「って、これは俺の私見だけどね。特に、自分にとって思い入れの強い相手が言った言葉や行動については、裏の裏まで自分で補完してしまう、というか。つまり、自分のフィルターを通して見ちゃう人」
「でもお母さんは、セラピストでもあるし、カウンセラーでもある人よ。そんな主観の強い人にそういう職業って出来ないはずではないんですか?」
「心理学者や精神科医の中には、“自分がどこか病んでいるんじゃないか”という疑問から勉強していって、気づいたらその専門職に就いていた、なんてパターンもあるらしいよ。もちろん、泰江さんがそうとは限らないけれど、翠さんが亡くなったあとも意欲的に勉強をしている、その原動力は何かな、と考えると、可能性として考慮に入れる必要もあるのかな、と」
それは、一理あるかも知れない。と言える雰囲気ではないので、芳音は耳だけを望とGINの会話に傾け、あとは運転に集中させるよう意識して努めた。
「で、翠さんの残した思念や日記の内容とはかけ離れた泰江さんの思念が残ってた。彼女たちはお互いに、友人を裏切って安西さんを横取りした、っていう思い込みでバッドスパイラルを作っていたっていうね」
泰江は当人同士が気づいてもいなかった翠と穂高の気持ちにいち早く気づいていたらしい。
一方の翠は、自分の抑え切れない本心を自覚して以来、泰江から穂高を奪ったという罪悪感に長い時間縛られていたという。
「まあ、男の視点から言わせてもらえば、モノじゃねえよ、っつう話なんですが」
と苦笑を零すGINは、それらを視た瞬間、居た堪れない心境になったに違いない。
「それで、どうするつもりなの?」
望に代わって芳音が尋ねると、少しだけ迷ったように目を泳がせながらも、
「久我さんに協力願った。安西夫妻には、翠さんが療養していたという別荘へ案内してもらおうと思う」
という答えを返して来た。
「ご両親にはバレたくないって言っていたから、久我さんに君たちからの依頼内容を伝えさせてもらったよ。彼女も望ちゃんと似たような心配をしていたようだったし、今夜泊まる予定にしていたホテルは、彼女の都合ということにして克美さんにキャンセルを頼んでくれたらしいから。君らも今夜は別荘に」
――翠さんと会わせてあげる。
「……え……」
望のそれと芳音のそれが、重なった。すっかりおぼろげになってしまった記憶の引き出しから、それでも甘く鼻先をくすぐる薔薇の香りを思い出す。霞掛かった淡い微笑が、きゅっとした胸の締めつけを感じさせた。
『芳音、のんちゃん。ほら、こっちへ座って。絵本を読んであげる』
お見舞いに行けば必ずそう言ってベッドの両脇をぽんぽんと叩き、満面の笑みで歓迎してくれた翠を、もう一度見ることが出来るという。
「翠ママがあの別荘に思念を残していってくれてる、ってこと?」
泰江を罪悪感から救う思念だけでなく、望や自分にも何か残してくれているのかも、という淡い期待の混じった問いが、芳音の口から飛び出した。
「その可能性があるから確認したいってこと。むしろ翠さんは、これまでもずっと安西さんの傍にいたよ」
そう言ったGINに初めて教えられたこと。
藤澤会事件のあとに翠と交わした“辰巳からのメッセージを克美に届ける”約束を果たす前にあたる十数年前、GINが関わった事件で初めて穂高と会ったことは聞いていた。その橋渡しをしたのが、穂高の傍らでずっと彼を見守り続けていた翠だったという。
「すげえ執念、とか思ったんだけどね。でも、彼女が俺の気を感じてくれたから、安西さんがあんな早朝に散歩なんてことを思いついたんだ、きっと」
二年前に芳音や克美を訪ねてその約束を果たしたあと、GINは穂高の傍らを見て内心訝ったそうだ。約束を果たしたにも関わらず、翠が翠としてそこにいる。ひどくぼやけて、今にも大気に溶けてしまいそうなほど還りたがっている魂なのに、必死でそれを堪える表情を浮かべ、縋る瞳をGINに向けていたと言う。
「その理由が解らなかったんだ。一見安西さん夫妻は円満に見えていたし、俺も触れない限りは対象者の思念がはっきりと視えるわけではないからね。魂のありようはその魂によってさまざまで、翠さんの場合は言葉という概念がすっぽりと抜けていたから、彼女の伝えたがっていることが俺には読み取れなかった。で、今回やっと突破口が開けた、ってところかな」
助けを求める人に、魂の救済を。自分たち能力者の存在を認めてくれる人がそう願ったから。
「これが俺の、今の本業。俺が翠さんを自然へ還すために好き好んでやってることなんだ。だから君たちは余計な貸し借りを考えなくていいよ」
GINは笑ってそう言った。
高速に乗って、そのまま直接信州へ向かい、泰江や貴美子が乗り合わせている穂高の車には、談合坂のサービスエリアでようやく追いついた。大人たちの面倒な社交辞令に少々つき合ってから、あとは松本を目指してひた走る。その道中で、GINと乗る車を入れ替わった貴美子からも少しばかり情報を仕入れた。
「アタシのマンションって若いころに買ったでしょう。身寄りがない状態で誰を保証人にしたのか、って泰江に聞かれたことがあってね。ちょっとそれが気になって」
その気掛かりが、貴美子にGINへの情報提供をさせたらしい。
「なんだかんだ言っても、アタシは結局、穂高が可愛いんでしょうね、きっと」
貴美子は照れくさそうにそう言って笑った。
望にとって、親よりも貴美子の方が気の休まる存在なのかも知れない。しばらくは雑談に興じていたが、ほどなく貴美子の肩を借りて小さな寝息を立て始めた。
「寝顔はホンっトに昔のまんま、変わらないわね」
後部座席でそう言って笑う貴美子をバックミラー越しに見ると、望をそっと横たわらせて、膝枕をしてあげていた。
「のんが聞いたら“子ども扱いするな”ってまた怒られるよ、きっと」
「アタシから見れば、いくつになっても子どもよ」
「どういう意味だよ」
上目線という意味だと思い、少しばかり声が尖った芳音のその問い掛けに対し、
「頼もしく感じようが、いいおじさん・おばさんになろうが、幼いころから見守って来た方にしてみれば、いつまでたっても大切な宝物、っていうことよ」
そんな答えを真摯な顔で返されたら、それ以上何も言えない。
「親から逃げて、ずっと独りでやって来たの。アタシね、辰巳が克美や翠をアタシに預けてくれたこと、感謝してるのよ」
家族を得ることが出来た。不意に自分の過去を告げた貴美子に、どんな答えを返せばいいのだろう。
芳音のそんな戸惑いをよそに、貴美子は前を走る穂高の車を見つめて呟いた。
「だから、もうこれ以上家族が欠けるのはゴメンだわ」
芳音は小さめのボリュームで流していた音楽を、少しだけ大きめにした。上っ面な慰めやいたわりの言葉など、貴美子は欲しくないだろう。
流していた音楽は、バロック音楽のオムニバス。『Canon』でいつも流しているジャンルの落ち着いたBGMだ。
「パッヘルベルのカノンね。管弦楽器よりもオルガンで奏でるこれが一番好きだわ」
子守唄のように優しく流れるメロディは、貴美子を柔らかく笑わせた。それに釣られて芳音も笑う。
「癒し系でしょ、カノンって」
「どっちのことを言ってるのかしら?」
「さあ?」
笑い声の混じる雑談が望の目覚めを誘った。それから信州へ到着するまでの間は、和やかな空気に包まれた。
明日は北木と克美の、ちょっと風変わりな結婚式。そして芳音の送別会や、ほかいろんな祝いごとを寿ぎに、みんなが『Canon』に集まってくれる。
それまでに、皆が心からの笑みを浮かべられる気持ちになってくれていたら。それが芳音の少し勝手で欲張りな願いだった。