約束の日 3
――夢かうつつかわからない、まどろみに近い曖昧な感覚の中、時だけが優しく過ぎてゆく――。
ふたりして床に座りこんだまま、失くした二十年を取り戻すかのように互いの存在を確かめ合った。
懐かしいバリトンの声が、簡単過ぎるほどの短い言葉で、この二十年を克美に語る。
《厄介な場所で足止めを食らっちゃって、帰って来るのが遅くなっちゃった》
ほっとさせる腕の中で自嘲する辰巳の声を聞き、釣られて小さな笑い声を漏らす。
《それだけ? 簡単過ぎだよ》
克美はそう言いつつも、尋ねようとは思わなかった。傷だらけの彼を見れば、どんな二十年だったのかは判らなくても、楽な暮らしではなかったことくらい簡単に想像がつく。自分のことにはまるで頓着しない辰巳のことだ。ろくな生活ではなかっただろう。聞くのはつらいし、辰巳も思い返すのはつらいだろう。
《いっぱい、いっぱい話したいことがあるんだ。辰巳じゃないとダメなこと、いっぱい、あるんだ》
幼いころ駄々をこねたように、甘えた声で辰巳に話を聞いてとねだる。
《克美との時間をゆっくり取りたかったから、先に芳音と会って来たんだ。大変だったね、この二十年》
そんな辰巳の促す声が、克美に溢れんばかりの二十年を語らせた。芳音を身ごもったのをきっかけに、たくさんのママ友達が出来たこと。愛美との交流の再開や翠のその後。辰巳が知らないであろう、穂高の後妻になった翠の友人、泰江のことや、そして望や芳音のことと、北木のこと――。
《――だから、翠の一番願っていたことでもあるし、のんは身内びいきを抜いても根はいい子のまんまだし。何より芳音とのんたちの気持ちが一番大事だと思うし。でも、穂高は、これ以上ボクに関わるのはゴメンだと思ってるだろうな、って思ったら、ボクの答えは間違ってたのかな、とか》
本当は、自分の考えが間違っているとは思っていない。ただ、誰を中心に置くかによって、自信が揺らいでしまうのだ。藪に「独りで育てると決めたからには、父親の役も担え」と仄めかされたこともある。自分なりに芳音の立場で熟慮したつもりではいるけれど。
《辰巳だったら、どうする?》
彼の懐でもがいて首をもたげ、縋るように彼を見上げてみれば。
(あれ……?)
《うん。俺が克美の立場だったとしても、やっぱり応援しちゃうと思う。もし穂高クンに不服があるなら納得の行くまで話し合う、かな》
と答える辰巳は、二十年前に別れたときと同じ姿で克美を見下ろしていた。同じ年ごろのままで、あのころと同じように肩の少し下辺りまで伸ばした黄金の髪をして、辰巳の姿のままで見つめていた。
(あ、れ……? えっと、確か)
確か、どうだったのだろう。妙に胸の辺りでざわつく違和感の理由が、今ひとつはっきりとしない。
《ちゃんと穂高クンと話をした?》
辰巳の問い掛けが、克美の中で引っ掛かった何かを掻き消した。
《う……うん、まだ》
《大丈夫。穂高クンが、口の悪い割には人のいいお節介なヤツだってこと、昔から知ってるだろう?》
《う……ん》
と、答える言葉がくぐもってしまう。ごまかすように辰巳の胸に顔をうずめて表情を隠す。
《……克美のことなんて、全部お見通しだから。ちょっとした間違いは見逃しておやり。穂高クンに対しても、克美自身に対しても》
《え》
思わずまた見上げてしまう。辰巳は少しだけ困ったような笑みを浮かべ、「俺が言っても説得力がないか」とおどけて小さく肩をすくめた。
《芳音の中では、もう決めたことだから。芳音のためとかそういうんじゃなくてね。克美自身のために、ちゃんと仲直りしなさいね。向こうは自分が俺と似ている自覚があるから克美に気を遣っているだけだよ》
どうして判ると尋ねてみれば、「そりゃ同性だし」「芳音からちょっとだけ話を聞いたし」のふたつで終わらされた。
《芳音のヤツ、男のお喋りは嫌われる、って散々教えて来たはずなのに!》
《まあまあ。それに、望ちゃんも知ってたみたいだよ。壁に耳あり障子に目あり。昔、教えたでしょう》
辰巳はそう言って、なんでもないことのようにくつくつと笑った。
《ふたりはそれももう乗り越えたよ。克美はふたりのお母さんなんだろう?》
がんばれ、お母さん、と言われるとくすぐったい。もしもずっと一緒に暮らしていたら、普通の家庭と同じように辰巳が隣にいたら、やっぱり「父さん」「母さん」とお互いを呼び合っていたのだろうか。
(……想像、つかないや……)
妙な居心地悪さがまとわりつき、克美はようやく少しだけ辰巳と距離を取った。
《克美》
――ありがとう。
《……え?》
ずっと伝えたかった、そして辰巳から欲しかった“いつつの音”は、それじゃない。欲しかったモノを与えてくれそうな微笑なのに、紡がれた言葉は違う言葉だった。
《もう、充分》
大切なモノが出来た。誰かのために生きることの幸せを味わえた。
人を信じる術を知った。人と繋がることのあたたかさや優しさに触れることが出来た。任侠の肩書きを捨てて、“海藤辰巳”個人として生きることの出来た十七年だった。
やっと家族を手に入れることが出来た。愛されることを知った。愛し方を教えられた。愛を与えられて生きられたら、ちゃんと社会に溶け込んで平和な中で生きていけるのだと芳音の存在が教えてくれた。
帰りたい場所に帰って来れた。帰りたい場所が、こんな勝手な自分を今でも受け容れてくれる。だから――。
《もう、充分、願いは叶えられた》
そう言って微笑む辰巳の表情は、まるで加乃――克美の姉が晩年によく見せたような儚い微笑だった。
《な、に、言ってるの?》
呟く声がやけにかすれる。浅い息で苦しくなる。克美は袖で思い切り目をこすった。
(なんで……?)
辰巳の姿がかすんでゆく。店の風景は鮮明なのに。どこか、何かが、おかしい。
《行って“来る”なんて、縛るつもりじゃなかったんだ。だけど結果的に俺は、最後の最後でまた嘘をついた。その上克美から泣く自由まで取り上げてた。克美を過去に縛りつけたまんまにしてて、ごめんね》
辰巳がゆっくりと立ち上がる。克美はただ呆然とそれを見上げた。
《本当は、すごく帰りたかったんだ。ここを出てから“あの日”まで、ずっと》
克美の笑った顔が見たかった。どんなに憂鬱な状況でも、オレンジの弾けるようなそれを見れば、いつでも心が明るく照らされて前を向いていけるから。
それはまるで「もう二度と見ることが出来ない」と言っているような、克美を責めるようでもあり、辰巳自身を責めるようでもある、完全な過去形で語られた。
《帰って来たじゃんか。辰巳が帰って来たなら、ボク》
慌てて克美も立ち上がり、辰巳の腕を取ろうと手を伸ばした。
《俺が帰って来たのは、帰りたかったのは、『Canon』じゃなくて、ココ》
そう言って辰巳が指差したのは、克美の胸――心の中。
《俺は克美が赦してくれるなら、いつでもそこにいる。だから克美、もう過去を見るのはおよし。ちゃんと今の自分と向き合いな》
克美が彼の腕を掴むより早く、彼の両手が克美の頬を挟むように上げられた。
(……どう、して)
ぬくもりを感じない。間近にある彼の唇からは、吐息さえ漏れては来なかった。
《この恋にエンドマークをつけてあげる》
そう語る辰巳のグリーンアイズが、哀しげにゆらめいた。
《先に、逝く。克美、今の恋を大事におし》
額に宿る唇が、質感のないまま語り継ぐ。
《揺さぶられるようなものだけが恋じゃないよ。穏やかで居心地のいい静かな想いも、恋なんだよ。克美は俺にそのどちらもくれたけれど、俺はお前さんに片方しかあげられなかった。北木クンから、恋や愛をたくさんもらって、そして克美も彼にあげなさいね》
それは、兄としての辰巳がよく口にした、諭すような話し方。恋人としてのそれではない。
《たつ》
《さようなら》
いつつの音が紡がれる。克美の欲しかった音ではなく、永遠の別れを意味するいつつの音。途端、視界が海になってゆく。彼の気配さえもが薄れていく。
《辰巳!》
克美は叫ぶと同時に目頭を拭った。辰巳を繋ぎとめるために。
《ボクはそんな言葉が欲しかったんじゃない! あの夜、そんなことを伝えたかったわけじゃない!》
拭った視界の先には、あり得ない光景があった。成すべきことをやり遂げたといわんばかりの穏やかな微笑が、うまく見えない。辰巳の向こう側の景色が、透けて見える。
《ボクは加乃姉さんの代わりだったの? ボクが泣いたから芳音をくれたの? 辰巳は》
《愛してる……愛してたよ。加乃の妹だからじゃなくて、克美自身を》
淡い輪郭だけになった彼がそっと近づき、克美を抱いた。耳元で囁かれたそれは、確かに彼の声だった。
《見返りなんか期待してなかった。ただ……克美が幸せな顔をして笑って過ごしていてさえくれればよかっただけなんだ》
だから作り笑いなんかやめて、心から笑って過ごして欲しい。
《芳音を産む道を選んでくれて、ありがとう。うちの若紫は若紫のままお嫁に出してあげる、って言ったくせに、嘘をついたくせに、俺ってば全然それを後悔なんかしてないんだ。最期まで勝手でごめんね》
悪戯っ子のように笑いながらそう告げる、彼の声だけが優しく響く。
《ボクも、後悔なんかしてない》
彼が望むならば、飛び切りの笑顔を。心からの笑みを。
克美は拭い切れない涙で頬を濡らしたまま、それでも確かにくれた彼の想いを噛み締めながら、心からの笑みをかたどった。
――辰巳、ありがとう。ボクも、愛してた。ちゃんとそう伝えたかったんだ、ずっと……。
克美はようやく伝えたかった“いつつの音”を口にした。かすかな気配だけの形で『Canon』のどこかにいる辰巳へ、“過去形”で伝えた。このときの克美は、まだそこまでの自覚はしていなかった。
自分を呼ぶ声がする。
「克美ちゃん! 克美ちゃん、しっかり。克美ちゃん!!」
聞き慣れた声のはずなのに、そんな風に泣きそうな早口で続けざまに呼ばれるのは初めてだ。
「ん……?」
落としたはずの照明が随分と明るく感じられる。克美はまばゆさで顔をしかめ、それから何度か目をしばたたかせた。
「北木さん……あれ?」
つい今しがたまで、額がとてもあたたかだった気がする。なのに、北木の両手は克美を抱きかかえてふさがっていた。そして、膝をついて克美を支えている北木の後ろに人影がみっつ。
「赤木さん……と、え? あれ? この人たちは」
というよりも、初見のふたりの人物のうち、男性の方に見覚えがある。ボロボロのコートとその内側にまとうセンスのよい服装のギャップに、つい先ほどコッソリと驚いたばかりのはずだ。インパクトの強い頬の傷が、垂らした髪からわずかに覗いている。ただ、同じように傷だらけなはずの右手にはグローブが嵌められていた。
「初めまして。突然お伺いして申し訳ありません」
と、その男の隣に佇んでいた女性が最初に口を開いた。
「元警視庁捜査一課、土方零と申します。今は刑事を辞めて創作料理店を経営しています」
「警視、庁、捜査一課……」
克美の全身が、そのキーワードで一気に強張った。
「克美ちゃん、大丈夫。今は刑事じゃないし、事件自体も解決済みで処理されているから。君を任意同行するってことじゃあないんだよ」
北木はなだめるように一気にまくし立てるとともに、彼らしくないほどの強い力で克美を抱き包んだ。
「う、ん……大丈夫。北木さん、ボク、大丈夫」
それは虚勢ではない。ふかふかに干した布団でくるまれたような心地よさが、上がった心拍を落ち着かせた。小刻みに震える彼の肩が、克美に気丈さを取り戻させた。
「えっと、大丈夫、ですか」
とふたりの背後からおずおずと掛けられた声は、やはり意識を失う前に聞いた、辰巳であって辰巳ではない、あの声にそっくりだ。
「大丈夫、です。えっと、あの、ボク、ひょっとして、あなたが入って来たときにぶっ倒れた?」
そっと北木から身を離し、振り返って尋ねてみれば、彼はばつの悪そうな顔をして「はい」とだけ小さく答えた。
「あ、申し遅れました。土方零の元同僚で風間神祐です。今は一応臨床心理士をやってます。ふたりともあの事件で刑事の仕事がヤんなっちゃって」
風間と名乗った彼は、随分と人懐こい砕けた口調で克美に子どものような笑顔を見せた。こちらの警戒心を解こうと無理をしているのがよく解る。
「北木さんに無理を言わせたのは、僕と安西さんなんだ。ごめんなさい、克美さん」
赤木がそう言って、こちらが恐縮するくらい深々と頭を下げた。見れば医療鞄を携えて来ている。それは間違いなく自分に万が一の状態があった場合に備えてのことだろう。言い換えてみれば、そういった可能性を孕む用件で風間と土方が赴いたということだ。
「立ち話もなんだから、カウンターのほうへ、どうぞ」
まだ北木の袖をきつく握りしめてしまう自分だけれど。そんな口惜しさも押し殺し、克美は突然の客人を改めて店の特等席へと迎え入れた。
「……うそ……」
長きにわたる赤木からの説明で、初めて彼が辰巳と親睦があったという事実を知った。
「本当です。親父が辰兄の付き人だったんで、五歳のときから親父が海藤組長にはめられるまでは、家族ぐるみでお世話になってました。隠すつもりではなかったんですけど、久我さんに藪先生のところを潜伏先にと助けてもらってここへ逃げて来て、克美さんの既往歴などを藪先生から聞いたら、なかなか切り出せなくて」
そう言って頭を下げる赤木の目的は、芳音にあったらしい。
「辰兄が東京に戻って来てからの三ヶ月は、ボクが付き人をしてました。そのとき、息子がいるはずだ、って。僕は親父が急にいなくなってしまったので、親父が自分にどう生きて欲しかったのか、っていうことにすごくこだわっていました。だから、言ったんです。代わりに自分が伝えて来てやる、って。返事を持ち帰るって解れば、辰兄が自棄に走らないかな、と思って」
「そんなに……荒れてたの?」
「ですね。すごく、悔やんでました」
若いころに血で手を穢し過ぎた自分を。中途半端な形でしか愛情を注げなかった自分を。
「……芳音には、伝えたの?」
「はい。安西さんから連絡を受けた今朝、芳音くんが一緒だったので」
「そか。辰巳は芳音にも、ちゃんと遺していってくれたんだね。芳音は、なんて?」
――親父を超えろ。親父は黒いから、息子は白く生きていけ。
「そう伝えたら、“俺が願うまでもなくそう生きて来た、ってのがよく判った”って言われた、と笑って言いました」
「え……言われた、って……」
当然湧いた克美の疑問に、それまで傍観者に徹していた風間がその答えを引き継いだ。
「俺が仲介しました。安西さんと芳音くんは信じてくれたけど、克美さんはどうだろう?」
彼はそう言って長い前髪を掻き上げた。
「……それ……」
あらわになった彼の瞳が、深緑を帯びていく。カラーコンタクトなら、たとえ光の加減で濃淡の変化が出るとしても、ここまで虹彩の持つ地の色を消せるはずがない。それほどの深いグリーンの虹彩が、克美をまっすぐ見つめていた。
「特異体質みたいなもんです。触れた相手に人の思念を送ることが出来ます。零と俺が刑事を辞めたのは、少なからず藤澤会事件が影響しています。辰巳と高木さんの翳した正義が、本当に正義なのか。初めて正義の概念に疑問を感じたんです。彼らの義侠心を間違っているとは思いませんが、そこに例えば貴女という犠牲があってよかったのか、とか」
悪はとにかく潰せばいい。そのためであれば、何を犠牲に払っても構わない。そんな固定概念を覆し、生き方を変えさせてくれた辰巳に少しでも報いたい。それが風間と土方の関わる理由だった。
「届けることが出来てよかった、というのは俺の自己満足ですが、貴女は彼のラストメッセージを受け取ったこと、後悔してますか」
風間の発したその問いが、克美にすべてを把握させた。知らず頬が熱くなる。初見の彼に自分の内側をすべて覗かれていたと解ったら、理屈はどうであれ羞恥が先に立つ。
「別に、悔やんじゃいないさ。ただひとつだけ文句があるとすれば、あなたがデバガメしてた、ってことくらいだ」
半分本気で半分ジョークの憎まれ口が口を突く。風間とて好き好んで視えてしまうわけではないだろう。冗談のオブラートに包んで羞恥心をやり過ごし、そのあと続けざまに彼の厚意に対する素直な感謝を言の葉にのせた。
「体が不自由なんだね。なのにここまでしてくれて、本当にありがとう」
改めて、思う。まるで関係のない人にここまでさせてしまうほど、辰巳の想いは強かったのだ。疑う必要などないほどに。
「克美さん、少しだけ、手を貸してもらえませんか」
風間がそう言いながらグローブを手から外した。
「彼が最期に思い描いていた思念です」
そう言って差し出された手に触れるのを、克美はかなりためらった。
「克美ちゃん」
ためらう理由となっている人が、隣からそっと促す。おずおずと北木を見上げれば、相変わらずの穏やかな微笑が、克美のわがままを許していた。
半信半疑で風間の手に自分の手をそっと乗せる。く、と強く握られたかと思うと、目の前に懐かしい光景が走馬灯のように駆け巡った。
克美がたくさん彼の掌に綴った指文字の、くすぐったい感触が克美自身に返って来る。
幾度となく繰り返した「だいすき」と囁いた克美の声を、彼の心が軋む想いで受け取っていたのを初めて知った。
何度も交わした、小鳥が啄ばむような、優しく淡い“家族”の証。彼が自分と同じ想いでそれを交わしていたのだと想うと胸が痛くなった。
ふたりを常に包んだコーヒーの芳香を、懐かしげに思い出している彼はきっと、本当にここへ帰って来たかったのだろう。
最期に彼の思い描いたすべてが、『Canon』と克美で満ちていた。最後の最期、その命尽きる瞬間まで、彼は――。
――克美、愛してる。見返りなんて要らない、ただ、笑っていてくれればいい。俺のことを待たずに、生きている人たちと、笑って、生きて。
「……ッ」
もう風間の手を握ってはいられなかった。もう、充分だ。姉の意向を汲んで無理をしたのではない。自分よりも義侠を優先したというわけでもない。自分を、愛してくれていたのだ。だから、消えたのだ。そしてそれを悔やんでくれた。自分と同じように、ともに在りたいと思ってくれていた。自分にとって初めての恋は、充分過ぎるほど叶っていたのだ。だからもう……卒業だ。辰巳は、もういない。
顔を隠そうと俯いた克美の頭を、北木がそっと優しく撫でる。辰巳を思う気持ちも丸ごと受け容れて、それも込みでともに在りたいと思ってくれる北木に、初めて応えたい、と思った自分はわがままだろうか。
「それから、克美さんにこちらをお届けしたくて参りました」
土方がそう言って、カウンターに小さな白い包みを置いた。
「当時貴女にお届けするつもりで、風間が上司の本間とともにこちらを訪ねたのですが、貴女に彼の死を知らせていないとのことで、安西翠さんとお話した上で彼女にお預けしていたものです」
彼女がそう言って白い包みを解いた。
「克美さんの容態を見て、安西さんから渡すようにと翠さんが遺言されていたそうです。少しでも早く返してやりたいから、取り急ぎ安西さんの檀家寺に返してもらってからここへ来よう、っていう俺の考えと、克美さんの状況が解らないうちは、ってことで反対した赤木さんとでちょっと揉めましてね。ここを訪ねるのがこんな時間になっちまいました」
風間がそう言って決まりの悪そうな苦笑を浮かべると、赤木も恐縮したようにぺこりと小さく頭を下げた。
そんな言葉を交わしながら、関係者の皆に見守られる中で姿を現したのは、絹で包まれた小さな小さな、六角形の小箱。
「これ……」
「辰巳の小仏です。鑑識後は無縁仏として荼毘に付されてしまうんです。彼は表向き市川雄三でしたから。貴女のところへ帰りたがっていたのに、それではあまりにも忍びなくて。骨壷を失敬するのは難しかったので、これしか届けられなくてすみません」
さりげなく説明されたそれが越権行為だと、言われなくても察しがついた。辰巳の思念を直接受けた風間だからこそここまで尽力してくれたのだと思うと、彼の諸々を信じることが出来た。
小箱に伸ばす手が震える。目の前が見えなくなってゆく。
「……風間さん……あり、がと……」
やっと、帰って来た。姉を亡くして以降に初めて出来た、自分の家族が。
「辰巳……」
彼を抱くように、両の手でそっとそれを包む。それを懐に収めると、心なしかそれの触れるあたりがあたたまってゆく気がした。
「……おかえり……おかえりなさい、辰巳……」
彼は、帰って来た。約束を果たしてくれた。ひとりぼっちにしないでくれた。行って、帰って来てくれた。
「では、確かにお返ししました。私どもはこれで失礼します」
土方のそう述べる声が向かいから聞こえ、席を立つ気配がする。
「信じてくれてありがとうございました」
という風間の声に、答える余裕がなかった。
「心配なさそうなので、僕も一旦引き上げます。北木さん、何かあればいつでも連絡をください」
赤木のその声を最後に、ドアベルが小さく鳴った。
「克美ちゃん、もう大丈夫だよ」
どれだけ大きな声で泣いても。そう囁く北木の声も震えていた。
「辰巳さん、おかえりなさい。お疲れさま、でした」
北木がそう言って、克美ごと彼を抱きしめる。克美はそれに身を委ね、堪り兼ねて嗚咽を漏らした。
「きたき、さ……辰巳……辰巳、が」
「うん。やっと、帰って来てくれたね。帰りたかった場所へ」
「ボク、で……よかった、の、かな」
「そうだよ。僕はほかのいろんなことに自信はないけれど、辰巳さんが唯一胸のうちを話してくれる存在だった、ってことに誇りを持っているんだ。だから、それについてだけは、自信を持って言える」
途切れ途切れに、でも確かな声音でそう言う彼は、辰巳がただひとり、克美を預けられると信用した人だ。
「僕はいくらでも待てるから。だから今は一緒に辰巳さんを悼んでいこう。僕は自分がそうしたくてこうしているんだから、無理しなくていいんだよ」
彼が自負していいのは、辰巳の本音に関してだけじゃなくてもいいと思った。
「え……っ、……ひぃっく……」
嗚咽が子どもの漏らすような、引き攣れた声になる。
「え……っ、……おか……ひぃっく……」
北木の胸元が、克美の涙で湿ってゆく。克美を包むように抱いた北木の嗚咽が克美の鼓膜を揺らす。やがて克美の髪を通って皮膚にも彼の涙が染み渡り、互いに声を上げて大切な人の死を悼んだ。
ふたりの間に挟まれた辰巳の欠片だけが、安心し切ったかのようにいつまでもあたたかかった。