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約束の日 2

 信州・松本市。駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、今日も『Canon』は克美の切り盛りで営まれていた。

(く……ッ、しまった、学生が春休みに入ったのか。忙しいじゃないかオイ)

 と心の中で零したのは午後の三時を回るころ。今日は週末なので、愛美のヘルプはない。芳音が東京へ進学してから、克美の中のルールとして“週末は独りで頑張る。愛美に甘えないこと”と打ち立てて実行しているからだ。

 愛華も綾華も独立し、ふたりきりの家族になったのだから、愛美には旧友以上に夫を大事にして欲しい。芳音が上京して独りきりの暮らしが始まって間もないころに、初めてそこへ気が回った。

(せっかく傍にいるんだからさ。大事に出来るダンナが横にいるんだもん)

 今日も愛美に伝えた言葉を、心の中で繰り返す。自分から切り出したそれを覆さないために。甘えてばかりの自分から卒業するために。貴美子のような強い女性になりたい、ここ数年にわたって克美が強く思うことだった。

(けど、そう簡単には身につかないもんだよな。でも、今までみんなに甘え過ぎたツケだ、しょうがない)

 最も自分を甘やかした存在が、こんなとき恋しくなってしまう。

『過去も、しがらみも、全部捨てて。普通の、平和で平凡な……加乃がお前に一番残したかった暮らしを、ふたりで一緒に過ごしていこう』

 思い返せば不在の方が多くなっていたはずなのに、思い出すのはいつも十代後半から二十歳に掛けての数年間と、最後の最後に願いの叶った、甘ったるい一ヶ月。

『これが最後の仕事だから。きっとひとりには、しないから……信じて。克美』

(……うそつき。辰巳のばーか)

 シンクのボウルに溜めた水が波紋を描き出し、克美ははたと気がついて慌てて目頭を袖で拭った。

「克美ちゃーん、本日のコーヒー、なんだったっけ?」

 克美のそんな感傷は、客からの声で一瞬にして吹き飛ばされた。

「コロンビアだよ。田上さんの好きな苦味系。味見してみる?」

「うんうん。あ、おかわりで追加って形でもOK?」

「いいよー。毎度っ」

「あ、ママ、こっちも。手が空いてからでいいから、アップルパイをふたつ追加オーダーよろしくー」

「らじゃっす!」

 克美は相変わらずの砕けた口調で返事をすると、今日も気持ちの伴わない作り笑顔を振り撒いた。

「てぃーっす、ママ。八人なんだけど、中央テーブル占拠してもヘーキ?」

 からんとドアベルが鳴ると同時に、最近足繁く通ってくれるようになったA高校の男子生徒が、珍しく私服姿で顔を覗かせた。

「先輩たちのサプライズ壮行会の打ち合せをしたいんだけど、ガッコだと先輩たちってばまだ来やがるし。ママのフォローがあると助かるなー、と思って」

「山下くん、いらっしゃい。そっか、アイツら後輩をゲロさせるのに容赦ないもんな」

 今年卒業した面子を思い出し、ついあけすけな私見を口にして笑う。

「八人、か。相席でもいい?」

 克美が彼に問うと、すでに中央テーブルに座っていた女性客のふたり連れが

「あ。キミたち、こっちへどうぞ。克美ちゃん、カウンターに移動してもいいかしら」

 と自分たちでグラスとカップを手にして立ち上がった。

「ありがと。ごめんね。山下くんたち、どうぞ、入って」

「さんきゅっ! お姉さんたち、ありがとうございます」

「あら。お姉さんですって」

「もういい年なんだけどねー」

 今日もお客に助けられて、『Canon』は営まれている。昔に比べて殺伐とした世間だが、ここだけはそんな世知辛い雰囲気からかけ離れた平穏を保っている。でも。

「なんか、学生時代の癖ね。なんとなく用もないのにカウンター席に座るのは悪い気がしちゃって」

 移動してくれた女性客のひとりが、苦笑を浮かべてそう言った。

「そうなのよね。昔はカウンター席って特等席で、勉強する子しか座れない場所だったものね」

「そうそう。マスターも予約制だったしね」

 もうひとりの女性客も、古くからの常連客だ。女子高校生だった当時のふたりは、辰巳に受験勉強対策をアドバイスしてもらっていた。

 克美はそんな彼女たちに、今日も曖昧な笑みを浮かべる。

「もうお節介な家庭教師ボランティアはいないんだから、自由に座ってよ。たまにはボクの話し相手もしてやって」

 もう『Canon』に辰巳目当てで日参する女子高生や女子大生は、いない。もう克美を妬んで意地悪をする女性客も現れない。今店を訪ねてくれる若いお客たちは、辰巳という存在そのものさえ、知らない。

 そんな克美の胸のうちをよそに、古参のお客たちは友人のように克美を問い詰め続けた。

「とか言っちゃってー。今じゃここのカウンター席は北木さん優先座席じゃないのよ」

「ホント、ホント。ねね、で、結局どうするの?」

「どう、って」

「いい加減観念したら、って話。芳音くんだって今年で成人でしょう? それに去年の夏休みのとき、バイトに来ていた女の子。なんか芳音くんといい雰囲気だったわよね」

「そうよ。ゆくゆくは芳音くんにお店を任せるつもりなんでしょ? 今のうちに自分の居場所を確保しておかないと、居心地悪いことになるわよう」

 悪気なくそんな下世話な話をする彼女たちの中で、きっともう辰巳は“過去の人”なのだろう。

「ここは、辰巳とボクの居場所だから」

 やっと出せた言葉は、巧く気丈を装えなかった。

「はぁ~」

「克美ちゃん。マスターが転職したのも、海外出張先でテロ事件に巻き込まれた、ってのも、当時から私たちだって聞いてるわ。遺体確認も出来なかったみたいだけど、帰って来る可能性はゼロよ? 待たれてもマスターが浮かばれないわよ。ちゃんと自分の次の幸せを掴まないと。ね?」

 彼女たちが言う“辰巳は芳音を身ごもったのを機に、企業へ転職して海外へ出張している間にテロ事件に巻き込まれて死んだ”というのは、北木と克美が考えてわざと流した嘘の情報だ。

「う……ん。でもボク、今でも充分、幸せだと思ってるんだけど」

 皆に嘘をついているうしろめたさと、辰巳の話題であることの苦しさが、克美の滑舌を悪くさせた。

「今はそれでいいかも知れないけれど、もっと先のことも考えなくちゃ。姑なんてね、息子夫婦からは邪魔にされてしまうものよ。芳音くんが自分の家庭を持ってからあとの生活で独りなんて、寂しいなんてもんじゃないわよ」

 そう言った彼女の方は、確か夫の母親と同居だと聞いている。連れのお客によく「ふたりきりになれる時間がない」とぼやいているのを、若いころに何度も愚痴零していた。

「そっか。そうだよね。嫌な姑にはなりたくないなあ」

「でしょ。だから――」

 その後、永遠かと思わせるほど、主婦なお客ふたりからの親切なお説教が続いた。

 作り笑顔の向こうで、克美は思う。苦笑いを浮かべてしまう、こんなことはたくさんあるけれど。

(でも、東京にいたころの毎日に比べたら、すごく、幸せ)

 平和で、あたたかくて、なんの心配も警戒も必要のない安全な暮らし。辰巳と克美が憧れていた、平凡で静かな、そして穏やかな毎日を過ごせているはずなのに。


 ――今度こそ、約束する。もう嘘なんかつかないから。今度こそ、ずっと傍にいるから。


 一度失くした声を取り戻した十一歳の冬の日、そう約束してくれた辰巳が、今はもうどこにもいない。時の流れとともに、誰の心からも彼の姿が消えていく。

(あんなに家族を欲しがってた人なのに。誰よりも人との繋がりを大切に思っていた人なのに)

 自分を守るために、彼が自ら繋がりを絶ってしまった。もう自分の記憶の中にしか、辰巳がいない。自分にしてくれた彼の気持ちや行為に対し、報われるだけの何かが、何もない。何年もの歳月が過ぎても、それが堪らなく悲しかった。


 カウンター席のお客らの並べるお説教を聞く傍らで、オーダーされた品を次々とさばいていく。そんな中、店の電話が着信メロディを轟かせた。

「あ、ごめんね」

 克美はカウンター席のふたりに軽く詫びを告げると、渡りに船とばかりに電話を取った。

「はーい、喫茶『Canon』でっす」

『克美ちゃん? 北木です。忙しい時間帯にごめんね』

 相手が噂の対象のひとりだったことで、一瞬言葉につかえ息を呑んだ。

『あ、今まずかったかな。ちょっと急ぎだったから電話しちゃったけど、すぐ用件は済むから』

 彼にしては珍しく、自分の都合を押して来た。

『今夜、君に話したいことがあるから、夜は店じまいにして欲しいんだ。ちょっと時間がないのでごり押しをしてしまうけど、あとでいくらでもお詫びするから。ごめんね。よろしく』

「って、え、ちょ、北木さ」

 克美が詳しい事情を聞く前に、北木は逃げるように電話を切ってしまった。

「何、噂の北木さん?」

 冷やかすようにカウンター席のお客がにやりと笑ってこちらに視線を投げて来る。

「うん」

「何なに? 興味あるわー」

「なんか一方的に伝えられてすぐ切っちゃったから、よくわかんないや」

「あら、ジェントルマン・北木にしては珍しいわね。いよいよかしら?」

「なんだよ、いよいよって」

「またしらばっくれて」

「ママー。コロンビア、まだー?」

「あ、やべ。はーい、ごめんね!」

 どう話を逸らそうかと克美が悩む間もなく、客席の方からお呼びが掛かって巧く逃げることが出来た。

(なんだろ。夜は店を閉めて欲しいって。話って……?)

 ふとよぎったのは、五回目のプロポーズ。芳音は今年で二十歳になる。それに、去年の夏、芳音が望を伴って帰省したあとで、彼らの交際を知らせもした。その後、何かとそれに関する相談も北木にはして来ている。例えば「本当はちょっとだけ寂しい」とか。例えば「ボクはまた独りぼっちになっちゃうのかな」という弱音とか。

(泣き言を言わなければよかったな)

 がんばろうとしているのに、北木の柔和な顔を見ると、どうしても緊張の糸が切れてしまう。十四の年からずっと見守ってくれている兄貴分のような存在は、ときおりそんな形で克美を困らせる。

(ボクが勝手に困ってるだけなんだけど)

 北木といると、気が休まる。同時にひどい自己嫌悪に襲われる。彼の気持ちを知っていて甘える、それは彼の好意を利用している、克美にとって“女の(さが)”の嫌いな部分。そんな風に感じてしまい、いつも「次に会うときこそは対等でいよう」と自分に誓うのに。

 唯一、辰巳の話を口にすることが出来る相手。ただひとり、それを克美に赦してくれる人。

 多分それは、恋とは違う。だから彼の申し出には応えることが出来なかった。そもそも北木の両親が反対するに決まっているし。

「あちッ」

 バカなことを考えていたせいで、ケトルから噴き出した湯が手の甲に降り注ぎ、軽い火傷をしてしまった。

「ちょっと、大丈夫?」

「あ。うん。ヘーキ。オーダーの順番を考えててぼぉっとしてた」

「もう、あぶなっかしいわね、克美ちゃんは相変わらず」

 そんなお小言には苦笑いを返してごまかした。

「そう言えば今日は週末なのに電話が来たってことは、北木さんったら今日は来ないってことかしら」

 克美はカウンター席で交わされたその会話を、お客同士の会話だと自分に言い聞かせた。

「ちょっとアップルパイを取って来るね」

 そんな断りをわざわざ入れて、奥の居室へ逃げ込んだ。




 北木に頼まれたとはいえ、さすがにバータイムの始まる六時に店を閉めるのはおお客に申し訳なく思い、喫茶のまま七時までは看板を出していた。土曜日なのでわざわざ飲みに出て来るお客は少なく、思っていたほどたくさんのお客に残念な顔をさせることのないまま閉店時間を迎えることが出来た。お客が今の克美にとって数少ない生き甲斐のよすがなだけに、それがささやかな救いだった。

 ビルの前まで足を運び、共有掲示板に飾られた『Canon』のプレートを裏返す。

『誠に勝手ながら、臨時休業致します。明日は通常営業です。またのご来店をお待ちしています』

 という張り紙をペタリと張って立て看板のライトだけを消す。

「遅いな、北木さん」

 夜に来ると言えばバータイムが始まる時間前には顔を見せる北木が、七時を回った今になっても姿を見せる気配がない。

 あれから色々と予測をしてみたら、最初に思い浮かんだ予想を覆すほどたくさんのネガティブな発想ばかりが浮かんでは消えた。それも、本題からどんどん外れていった妄想に近い想像ばかり。

 北木からの電話は外出先からのようだった。ひょっとしたら芳音に何か悪いことがあったのかも知れない。芳音は自分のことを頼りない母親だとしか思っていないから、困ったときほど何も言わない。愛美や泰江が相手だと自分に筒抜けだと察して北木に相談の電話をしたのではないか、とか。

 北木の話し方が、どこかうろたえている様子だった気もする。始めに思った予想は、かなり自分に都合のいいものだった気がした。実は正反対の報告をしに来るのではないか、とか。

「そっちの可能性のが高いよな。北木さん、もう五十二だし。初婚にこだわらなければ、いい相手も見つかるだろうし」

 北木は松本に隣接している町、波田の一角を所有する地主の跡取り息子でもある。代々続いている上に田舎なので、跡継ぎ問題に関してはうるさい家系だろう。それであれば「まだ跡継ぎを生める若い配偶者を」と親族に詰め寄られている日々だということも想像にたやすい。

「って、何考えてんだ、ボク……あだっ」

 考え事をしながら階段を昇っていたので、躓いて弁慶の泣きどころを強く打ちつけた。

「くぉ……ぉッ!」

 階段に尻をついて膝を抱えながら悶えてみるが、苦笑して慰める人などどこにもいない。

『バカだね、お前さんは』

 そう言って湿布を貼ってくれる人はいない。「バカって言うな!」と憎まれ口を叩く相手が、いない。

「……ッ」

 痛む足を折り曲げ、膝を抱えてうずくまる。

「ヘンなの……」

 今日に限って、いつも以上に辰巳との思い出ばかりが浮かんでは消えていく。

 逢いたい。声が聞きたい。伝え損ねたいつつの音を、彼に伝えたい。

「ちゃんと、伝えればよかった」

 きっと解っているはずだなんて自分をごまかさずに。

 終われない恋を抱え続けるには、年を取り過ぎた。見た目ばかり取り繕っても、間違いなく自分はもう四十五歳の“おばさん”なのだ。何を待っているのかも解らずに、何かを待つ生活に疲れていた。


 今日の帳簿もつけ終えて手持ち無沙汰になった克美は、久しぶりに自分のためのコーヒーを淹れた。

 淹れるのは、ホンジュラス。克美のお気に入りの逸品。克美がこの豆を好きになったのは、辰巳の一番好きな品種だったからだ。

 香りが高くて苦味が強く、それでいてあとに残らない喉越しで。

『加乃みたい』

 いつだったか、まだ克美が辰巳だけに、姉の加乃がつけた「克也」という名で自分を呼ばせていたころに言っていた。今ならその意味が解る気がする。

「辰巳は、どうやって加乃姉さんとのことをあとに残さずに、次の恋と向き合えたの?」

 コーヒーをすすり、ぽつりと零す。ウェイトレス専門だったころの指定席、カウンター席の真ん中に腰掛けて、無人のキッチンを見つめる。

 辰巳から、すべてを学び、教わった。言葉、計算、一般教養、歴史に倫理。法律や極真空手、喧嘩の仕方は長いこと男だと自負していた克美の方から願い出て教えてもらった。ハッキング、バイクや車の運転方法、公文書の偽造や拳銃の使い方などは、万が一のとき、克美が辰巳とはぐれる事態になっても自力で逃げられるようにと、その手段として教えられた。

 教えられたのは、知識や技術だけでなく。

 男として生きていたころの初恋、翠に対する失恋からの立ち直り方も、やんわりと教えられた。裏稼業のアシスタントを通じて、家族の形もいろいろあるのだと実体験から教えてくれた。性質(たち)の悪い依頼人から襲われて、ネガティブな意味で自分が女であることを痛感させられたとき、そのネガな自覚を別の意味に塗り替えてくれたのも、辰巳だ。自分が女であることを受け容れられたのも、辰巳のお陰だ。だけど、あとひとつだけ足りない。

「実った恋がむしり取られたとき、人はどうやって傷を癒して次へいくんだろう」

 姉と死別した辰巳に、それは聞けなかった。聞くものではないし、聞いてはいけないことだと思っていた。

「どうやったら、笑って加乃姉さんのことを話す辰巳みたいに、ボクも笑って話せるようになるのかな」

 忘れたくはない、大切な人だから。なかったことにはしたくない。

「でも……ちょっと、ツライ……」

 克美は誰も答えてくれない独り言の羅列に耐えかねて、ついにはカウンターへ突っ伏した。


 いつの間にかうとうとしていたらしい。そんな自覚が湧いたのは、ドアベルが涼やかな音色を奏でて来客を告げたからだ。

「北木さん、遅……あ」

 てっきり北木だと思って振り返れば、初めて目にする見知らぬ男性客だった。

「こんばんは」

 閉店の看板を出しているにも関わらず、その男は店の中へ足を踏み入れた。ぐるりと店内を一望すると、照度を落としているにも関わらず、まばゆげに目を細める。

「ここは二十年前と何も変わらないな」

 独り言のように呟いた男を、克美は一度も見たことがない。無造作に束ねられた長い髪は、毛先に強い癖が入って糸のように絡まっている。わざとサイドの髪を束ねずに垂らしているのは、派手な傷のある顔の右半分を隠すためだと一目で判った。元々はよい品だったのであろうボロボロのコートの裾から覗く右手にも、いく筋もの切傷痕が浮き出ていた。店内を見回していた彼の瞳が、克美の方へと向けられた。

「!」

 仄暗いオレンジの光の中で、翡翠のようにまたたく深緑の瞳。だが克美を絶句させたのは、日本人にしか見えない彼の瞳があり得ない色に輝いていたからではなく、その瞳から放たれる既視感からだ。

 見守るようでいて、どこか苦しげで、そのくせほかの誰を見るときよりも強い視線。上目線とも思えるそんな意味合いをこめるくせに、まるで反対の、縋るような色合いまで混じった、そんな瞳で自分を見てくれるのは、世界中でたったひとりしかいなかった。

「……た」

 理性がそんなはずはないと訴えるのに、心が屁理屈を並べ立てる。

 時効まで雲隠れするために見た目を極限まで変えるのも辞さないつもりで、今の姿があるのかも知れない。そんな徹底振りが、彼らしいと言えば彼らしい。二十年も音沙汰がなかったのは、この二十年の間に法律が変わって時効が二十五年に延びたからかも知れない。店内の薄暗さがグリーンアイズを強調させているだけで、相変わらずカラーコンタクトを仕込んでいるだけだからだ、きっと。

 苦笑する彼がカウンター席へ近づいて来る。その姿が次第にぼやけていった。

「すげ。克美にも判ったんだ」

 声色は違うのに、彼と同じ響きで名前を呼ぶ。

「お前さんは相変わらずだね。芳音にも逢って来たよ。お前さんによく似た、綺麗な子に育ってた」

 くしゃりと前髪をすくい上げ、そのままかき混ぜるように頭を撫でる。子どもをあやすようなそんなやり方で、余計に自分を泣かせる人は、世界中で、一人しか、いない。

「ありがとう。やっと克美の、本当の家族になれた」


 ――ただいま。約束を果たしに来た。


「――辰巳!」

 恋焦がれた人の名前しか口にすることが出来なかった。恨みつらみも相談したかったあれやこれやも、全部木っ端微塵に吹き飛ばされた。子どものように飛び上がって抱き縋る。当たり前のように受けとめてくれる腕がある。

「辰巳……辰巳、辰巳……ッ」

 二十年分の想いが堰を切って溢れ返った。頬に触れたぬくもりが、彼の帰還を嘘ではないと伝えてくれる。唇に優しくともった“ただいまの挨拶”は、あっという間に長く深い恋慕の口付けへと変わっていった。

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