約束の日 1
――ちょっと東京に行って“来る”。
克美にそんな嘘をついて『Canon』から姿を消した、あの日から二十年――。
穂高に頼んで貴美子の住むマンションへ案内してもらってから、かれこれ一時間が経とうとしていた。
メイクがほとんど落ちてしまうほど頬を濡らした貴美子は、泣き疲れたことも手伝って、あっさりと眠りに堕ちてくれた。
(確か、還暦だったよな)
そうは見えない若さを保っているものの、最期に会ったときに比べて細くなった髪質が、確かな歳月を感じさせる。隠しようのないほうれい線は、以前ならすぐに消えていたものだ。
寝かせたベッドで寝息を立て始めた彼女の額に当てていた素手をそっと離す。
「ごめんね。ありがとう」
心からの謝辞が聞く人のいない部屋に零れ落ちた。呟いたGINの瞳は、限りなく黒に近いグリーンに鈍く光っている。それが水面に映った月のようにゆらめいたかと思うと、透き通った筋となって溢れたモノが頬を伝い落ちていった。
赴いた当初の計画では、昔話を話の取り掛かりにして零の創作料理店をネタに商談を持ち掛ける形で貴美子と接触するはずだった。どうせ貴美子は、こんなオカルトな現象を信じるわけがない。彼女に隙が出来る瞬間を狙ってGINの《送》を借りて伝えるつもりでいた。
『こんにちは。初めまして』
そう言って手を差し出した。誰もが普通に交わす、ありきたりの挨拶をしたつもりで。そのときGINの姿を借りた自分が、どんな表情をしているのかなど深くは考えていなかった。だが、貴美子は、どこをどう見ても風間神祐でしかない自分の外見を見て、呻くように呟いた。
『……まさか……そんな、バカバカしい……あり得ない』
無礼な切り出しにも関わらず、彼女はいきなり瞳を涙でいっぱいにした。
『風間刑事はそんな笑い方をするヤツじゃなかったわ』
そう言われてGINの記憶を急いでソートした。藤澤会事件のあと、幇助の被疑者としてGINが貴美子を訪ねていたことを初めて認識した。
『アタシにそんな笑い方をするヤツなんか、独りしか、知らない』
貴美子の顔がくしゃりとゆがんだかと思うと、彼女らしくもないか細い声で、自分の本当の名を呼んだ。
――辰巳、なの?
『……BINGO』
零や穂高が練った案や彼らの心遣いは、その瞬間すべて水の泡となった。気づけば勝手に口が動いていた。ほかの誰よりも貴美子を自分の踏み台のように利用して来た。それなのに変わらない彼女の気持ちに触れ、理性のたがが外れた。少しでも正直な言葉を返すことで、彼女に購いたかった。
手始めに、握り拳で思い切り横っ面を殴られた。彼女の右薬指を飾る大きなアメジストがGINの――辰巳の左頬に掻き傷を作った。
『毎回毎回、急に呼びつけたかと思えば、こっちの予想もしない形で現れてばっかりで……、人をなんだと思ってるのよ!』
貴美子の口から溢れ出した言葉は、罵詈雑言の嵐だった。辰巳と反目する海藤周一郎の陰謀にはめられたからとはいえ、二十代という一番若い盛りを軟禁状態で過ごさせられたこと。辰巳の愛人という肩書きを余儀なく背負わされ、監視の続いたストレスな毎日。貴美子と同じような形で辰巳が保護した克美やその姉を本当の意味で守り切れなかった辰巳に対し、延々となじる言葉を吐き連ねた。
『人に背中を見せることが嫌いなくせに、自分には背中を向けて逃げてばっかりで! あんた自分を何様だと思ってんのよ! なんでアタシがあんたの尻拭いばかりしなきゃなんなかったの!』
弁解を一切口にせず、ただひたすらに受けとめる。当時は自分のことばかりで、彼女がそんな本音をぶつけることさえ出来ないほどに余裕のなさを晒していた。一度もまともに彼女と向き合うことをしなかった。
『……ごめん』
顔を見ることすら出来ずに、俯いたままだった。その視界に、彼女の姿が割り込んで来る。ぺたりと床に座り込んですすり泣く声を初めて聞いた。
『アタシは、あんたの、なんだったのよ……』
顔を覆ってうずくまる彼女の前にひざまずいた。震える肩を抱き寄せ、そっと懐へ彼女を収める。言葉とは裏腹な彼女の想いが身のうちに溢れ返った。
《今更そんなことが言いたいんじゃないのに。克美にまで、アタシみたいな想いをさせたくない。それが一番コイツに言いたいことなのに……どう伝えていいのか、わからない……》
同時に辰巳の中にある思いも貴美子へと送られてゆく。彼女が腕の中で小さく身じろぎした。
《全部貴美子から言わせてばかりでごめん。俺が貴美子に応えられなかったのに、甘えたまんま曖昧にしてて、本当に、ごめんね》
彼女が何度かしゃくりあげ、そして弱々しい力で遠慮がちに背中を抱き返して来た。
『ケリをつけに来たのね』
『……うん。これから克美ともケリをつけて来る』
『ホント、目的のためなら手段を選ばないのがあんたらしいわね。バカ』
背で握られた彼女の拳が、コツリと優しく背を叩く。その手がゆっくりと開かれて、励ますようにそっと背を撫でた。
『しょうがないから、赦してあげる。今度こそ、逃げたら承知しないからね。覚えておきなさいよ』
よく知る張りのある強気な声が、相変わらず辰巳の背中を押した。彼女はそっと辰巳を押し戻すと、溢れ始めてから一向にとまる気配を見せないモノを無理やり掌で拭い、穏やかな笑みを浮かべて言った。
『アタシに家族を遺してくれて、ありがとう。なんだかんだ言っても、あんたと会えてアタシ、よかったわ』
相変わらずの勝気な強い瞳をまっすぐに向けてはっきりと告げられた。
『あんたもいい姉貴分を取ッ掴まえて、なんだかんだあったけど、結局はお得な人生だったでしょ?』
貴美子からそんな微笑を見たのは、長いつき合いの中で初めてだった。ありのままに思うところを言葉にする彼女を見るのも、初めてのことだった。
『うん、って言ったら怒られるかな』
『あんただけそう思ってるままならね。でも、克美に伝えるつもりなんでしょう?』
行って、帰っては来ないこと――。
『ん……。ちゃんとエンドマークをつけて来る』
『あんたはいつも気づくのが遅いのよ。ホント、自分のことにはとことん鈍いんだから』
そう言って優しく頬を撫でる。穏やかで慈しみに満ちているからこそのその笑みなのだと今になって気がついた。それは、自分には彼女に決して与えることの出来なかったもの。
『貴美子、今、幸せ?』
『ええ、もちろんよ。妹が出来て、それもふたりも。出来のいい孫も赤ん坊のころから育っていくのを見ることが出来て、最良のパートナー兼娘婿ドノまでオマケについて来たわ。今じゃあんたとは正反対の、アタシを最優先にしてくれる若い恋人までいるんだから。これまでの人生の中で今が絶頂期ね』
過去の残像はさっさと消えなさい。彼女のその言葉を合図に、辰巳は彼女の額に掌を押し当てた。
最後の思念を貴美子に送る。辰巳がこの部屋に訪れてから一時間弱の出来事を、彼女の夢だと信じさせるシナリオがGINの《送》を借りて送られた。からからに干からびた古い恋を、自分とのやり取りではなく、夢を介して自らの意思で切り捨てることが出来たと思わせる。彼女自身が言ったように、過去の残像はさっさと然るべき場所へ還るべきだから。
「辰巳……さよなら」
笑みを湛えて眠る彼女は、満足げにそんな寝言を呟いた。
「さよなら。幸せにな」
辰巳は万感の想いをこめ、貴美子の額に最期のキスをした。
辰巳は貴美子の部屋をあとにすると、ビジターズパーキングに停めた車中で待つ穂高の許へ向かう前に、一度だけ呼吸を整えた。
(あんま時間がないな)
別の器に無理やり自分をねじ込んだようなものだ。自我を自分自身で押さえつけているGINへの負担がかなり大きい。この状態が長引くと、GINの人格が崩壊するのは目に見えていた。やってみないとわからなかったこととは言え、自分が何かをしようと動くと、どうしようもないくらい他者を巻き込んでしまう。
穂高は随分と目敏くなった。そういった些細な変化も見落とさないような人物に成長を遂げていた。彼のそんな変化は、否応なしに生者と死者との違いを辰巳に見せつける。
GINとより深い繋がりのある零まで騙し果せるとは思えないが。
(……GINちゃんの振りをしとこ)
穂高が自分を苦手としているのは端から判っている。貴美子とともに自分の遺したすべてを引き継いでくれている彼まで巻き込みたくはなかった。
「お待たせ。任務その一、終了したっす」
運転席の窓をノックし、GINの口調を模して声を掛ければ、下りてゆくウィンドウから覗く訝しげな仏頂面が辰巳をめねつけた。
「……どっちや?」
「用件が済んだらバトンタッチだってさ。あ、そんで、久我女史には夢オチってことにしておいたから。インターホンを鳴らしても出なかったんで改めて出直すって言ってたとかなんとか、テキトーに言い繕っておいてくれると助かるっす」
「マジか! また俺が頭ひねらなアカンのか!」
そう言って腹立たしげに見上げて来る穂高の目に、疑いの色はない。
「んじゃ、頼みます! 零、行くぞ」
心の中でほっと胸を撫で下ろしながら、助手席で沈黙を保つ零に声を掛けた。彼女は黙って車を降り、辰巳の隣へ近づいた。
「では安西さん、明日改めてご報告の電話をさせていただきます。久我さんへのフォローをよろしくお願いします」
零が重ねて穂高にそう告げ、駄目押しのように笑みを浮かべる。相変わらず色めいた意味とは別の意味で女性のごり押しに弱い穂高は、渋々といった顔で「了解」とだけ答え、彼もまた車から降りた。
「今から電車で、って、間に合うんか」
「最終まであと一時間ありますから」
「さよか。ほんなら、気をつけて」
「ご協力ありがとうございました」
ありきたりな挨拶を交わし、それぞれの向かう方へと踵を返す。
「風間」
不意に穂高から呼び止められ、思わず彼の方を振り返ってしまった。
「はい?」
「もしこれが辰巳に届いていないなら、伝えておいて欲しい」
――あんたの欠片は、あんたの帰りたかった場所へ必ず返してやるから、もう少しだけ待っておけ。
「かけら?」
「あんたらから翠が預かった辰巳の遺骨や。辰巳に“あんた次第やから巧くやれ”と伝えとけ」
ぶっきらぼうなそんな言葉とともに、哀れむような苦笑いを投げられた。
「……伝えておきます」
GINから得る情報は膨大過ぎて、精査している余裕などない。そんな過去があったなど、伝えられるまで知らなかった。自分という存在がなくなれば、すべてが消え、なかったことになる存在だとばかり思っていた。嘘で塗り固められた自分の生など、消えてしまえば何も残らない霞のような存在だとばかり思っていたのに。
「なぜ風間の振りをしたのですか」
逃げるように駅へ向かって足早に歩き出した辰巳に零が問う。
「安西さんはあなたへの劣等感をモチベーションにして生きて来た人のようです。きっと彼もあなたと話したいことがあったでしょうに」
やはりGINの懐のうちに入る存在は騙せなかったらしい。
「悔しいから」
「悔しい?」
「だってさ、青臭いイノシシくんだったのに、すっかりいいおじさんになっちゃっててさ。見下ろされるのは嫌いなんだよね。だから、穂高クンへのささやかな嫌がらせ」
辰巳のそんな戯言に、零は「嘘つきですね」と言って苦笑した。
車窓の外に流れる風景を瞬きもせず目に焼きつける。二十年前の記憶が蘇り、次第に高くなる峰々を逆再生させてゆく景色が帰郷を実感させた。
(行って、来る、か)
自分で言葉を教えておきながら、その言葉にこめられている意味を深く考えたこともなかった。克美と出会ってからの十七年、繰り返された挨拶の言葉。
『行って来る』
『行ってらっしゃい』
行って、帰って来るという意味を初めて意識した瞬間、書き残したことを深く悔やんだ。
(克美は解ってくれるかな)
行ってらっしゃい――行って、またいらっしゃい、という言葉を聞かないまま出て行った自分のことを、彼女は今どんな風に受けとめているのだろうか。犯した過ちの大きさを知った今、不安ばかりが膨れ上がる。
不意に肩へ重みが宿った。そちらへ視線を向ければ、零が辰巳の肩に頭を預けて小さな寝息を立てていた。
(ああ、そっか。休憩なしで動き続けてるんだよな、この子たち)
借り物の体では、その辺りの感覚がすべて曖昧に感じられる。恐らくGINと分割しているのだろう。彼らに意識が傾くと、それまで考えていた自分の中にひどく身勝手なエゴが混じっていることに気がついた。
すべきことは決まっている。シナリオは出来ている。今の克美が自分をどう受けとめていようと、関係ないはずだ。なのに気にしてしまうのは、みっともない未練が未だに燻っているせいだ。
(零ちゃんが一緒で、よかった)
心からそう思う。彼女がいなければ、克美次第で我欲の命ずるままにGINを潰していたかも知れない。
(もう逢えないはずだったのに、逢えるんだから)
「それで充分じゃん」
自分自身へ言い含めるように、小さな声で呟いた。
「帰れるんだ。それで……充分じゃん」
流れる景色が否応なく鼓動を逸らせる。皆が口々に伝えて来た、「克美が泣けなくなった」「作り笑いしか出来なくなった」という嘆きを反すうする。
あとひとつだけ、遣り残したこと。それさえ済めば、今のこのどうしようもない未練もいつかきっと浄化されるだろう。
帰る場所、そして帰りたい場所は、ただひとつ――『Canon』だけだった。