絆 1
芳音と望がそんな時間を過ごしていたころ、穂高は零とともにラウンジでGINの戻りを待っていた。
芳音の方がひと段落ついたときに、三人で支配人室を訪れたのだが、あいにく別件の急なアポイントが入ったらしい。仕事が最優先、という辺りが阿南の人柄を表している。三人は副支配人にラウンジで待つと伝え、途中まで話をしていたのだが、呼び出しが掛かったので、GINがひとりで支配人室に向かった。
『ちょっと、“アイツ”がプライベートな伝言も彼女にあるみたいだから』
というGINの言い方で、穂高は辰巳と阿南の関係も大体の想像がついた。
零から芳音が倒れたと連絡を受けて以降の数時間は、あまりの目まぐるしさに徹夜仕事後の疲弊した身体だけでなく、メンタルにもかなりの疲労を感じさせた。
そんな客観視が出来るのも、ひと段落を感じられるようになったからだろう。騒動のあとに望が目覚めてくれたときが、疲労のピークに達したと思う。芳音が目覚めるまでに望が動揺を隠せる程度には落ち着きを取り戻したので、芳音は彼女に預けても大丈夫だと踏んだ。
「痛……」
零が紅茶を口にした途端、眉をひそめて小さく呻いた。
「痛むのか」
彼女の小さな声と唇にあてがう指先を見て、心苦しさと罪悪感からつい余計な突っ込みを入れてしまった。
「大した傷ではありませんから、大丈夫です。ホットを頼むなんて、うっかりしていました」
零はそう言って、さりげなく穂高の過失を自分の過失と訂正した。
「……その、色々と悪かったな。娘の無礼についても、俺の無理なごり押しも」
彼女が自ら傷つけた唇を見て、またツキリと胸が痛んだ。
「女性の立場として言わせていただけば、望さんの怒りは当然のことと思います。謝罪は要りません」
どこか憂いを帯びた零の微笑は、却って穂高の罪悪感を煽るだけだった。
望の粘り強い懇願に折れ、一緒に日本帝都ホテルへ訪れたのが数時間前。赴いてから半時間ほどで携帯電話が鳴った。
“土方です。もう到着していますか”
是の答えを受けるなり、芳音が倒れたことを知らされた。
“阿南支配人が前回を踏まえて部屋を確保してくださっています。六〇一五号室までいらしてください”
そう告げる零の声は、いくぶんか息が上がっていた上に、緊迫感を帯びたものだった。
(また風間のビッグマウスか)
今度は大丈夫だと言ったくせに、という批難の思いと妙な胸騒ぎが走る。穂高は苦虫を潰したように顔をゆがめながら、すでに切れた電話を胸ポケットにしまって早々に席を立った。
『パパ、もう行ってもいいのね? 芳音はどこにいるの?』
そう言って自分も立ち上がろうとする望を制した。
『いや、まだらしい。雑用を頼まれた』
『雑用? パパに?』
訝る瞳が穂高の本音を探るように、逸らすことなくじっと凝視して来る。それが益々穂高の不快を増させ、無意識に表情が剣呑になった。
『なんなら私が代わりに行くわ』
『いや、いい。お前はここにおっとき』
穂高はそう濁す一方で、反論しかけた望を残して上階の客室フロアへ向かった。
指定された客室へ赴いてみれば、想定外の報告を受けて開いた口がふさがらなかった。
『芳音の意識が深層に沈んだまま、だと……?』
零の報告を受ける傍らで、ベッドに横たえられた芳音を見下ろす。瞼さえぴくりとも動かないその姿は、ほとんど昏睡に近い。GINがそんな彼の額へ直に掌を押しつけ、固く瞼を閉じたまま苦痛を訴える表情でひざまずいていた。
高千穂の間に留まったままでいた辰巳とは、当時の彼が遺した残留思念ではなく彼の魂そのものだ、という話も信じがたかった。それがGINに直接思念を送って来たらしい。
《芳音に何も遺してやれなかったから、それを託せたらようやく終われる、と思ってたんだけど。俺、芳音の中でヘタな消え方をしちゃったみたいだ。GINちゃん、芳音をサルベージしてやって》
『今、風間が《送》で芳音くんの思念を追っていますが、彼の中へダイブして探しているわけではないので、深層まで《送》が届かなくて』
『ダイブ?』
『対象者の中へ風間自身が潜り込むことです。今は海藤辰巳の個を維持するためにも能力を消費しているので、ダイブに回せるだけの余力がありません』
『ふ、ざけるな』
状況も立場も彼らの厚意から現状があることも忘れ、穂高の呟く声が憤りで震えた。
『安西さん、落ち着いてください。怒らせるために呼んだわけでは』
『冗談も大概にせえッ。優先順位は一目瞭然やろうが。風間、さっさとダイブに切り替えろ!』
穂高の怒声に反応し、芳音の額に押しつけていた手を離してこちらへ振り返ったのは、咄嗟に息を呑んでしまうほどの悲痛な微笑。
『穂高クンは、克美に心だけ死んだまま、それでも笑って生きろって言うの? それが芳音に同じ生き方をさせることになるとしても?』
『!』
その嫌味な口振りと不遜な呼び方、見下されているように感じて不快をいざなう皮肉な微笑。一度だけ間近で見たことのある。今それを見せつけているGINとは別の顔で、遠い遠い昔、若いころに。
『約束を果たしたいだけだから、見逃してくれないかな、穂高クン』
『……まさか』
ようやく絞り出した声はからからに渇いていた。嫌な汗が穂高のこめかみを伝い、暑くもないのに顎を伝って滑り落ちた。
『やっと信じてくれたみたいだね』
彼の口調は相変わらずなものの、ひどく苦しげな声でそう言って口角をほんのわずかだけ上向かせた。
『人の人生を引っ掻き回したまま消えたせいだ、どう落とし前をつけるんだ、って芳音に叱られちゃったからね。落とし前をつけてからでないと、消えられない』
悪びれる素振りも見せず、ぶしつけなほどまっすぐに射抜いて来る深緑の瞳から、突然その奇異な色合いが消え去った。ベッドに横たわる芳音の前で立ち膝になっていたGINが突然姿勢を崩す。
『だーッ、もう、サイアクだ!』
倒れる寸前で零に支えられた身を立て直し、GINが責める目つきで穂高をキッと睨んだ。
『なんで邪魔するんだ! お陰で微調整が利かなくなっちまったじゃんか!』
その鬼気迫る勢いにまた穂高の方が黙らされる。自分は何か重大なミスを犯したらしい。
『午前中の応用を利かせようと思っただけなのに。さっきの今じゃあ、また望ちゃんに余計な心配をさせちゃうでしょうがっ。俺の声が届く層までサルベージしてから彼女に芳音くんを呼んでもらおうと思ったのに、段取りがパーじゃんか。なんで邪魔したっ』
『って、そんなん、知らんし……』
と口にしてしまったものの、原因は零の話を最後まで聞かなかった自分にある。
『さっきのは、辰巳……か?』
半信半疑でGINに問えば、半分心ここにあらずの状態でイエスと答えられ、穂高は続く言葉に窮して黙り込んだ。
『気に流すことは再三して来てるけど、本来還るべき気を留めるなんて、今までにしたことないし。それに今すごく、俺も辰巳も不安定なんっすよ。そのバランスを取るので精一杯だったのに。今の俺だと、あと数時間はノーコンに近い状態じゃん。どうすっかな……』
最後にはGINの言葉が独り言に変わってしまった。芳音の状態を聞いて動揺したツケは予想以上に大く、穂高というよりも芳音に回る結果となってしまった。
『風間。辰巳は芳音の望む形でケリをつけられたのか』
悔やんでも何も進まないと自分に言い聞かせ、次の手を考えるために情報を求めた。
『まあ、八割ってトコですかね。芳音くんにはまだ伝えたいことがあったみたいだけど、辰巳がそれから逃げちゃったんで、芳音くんは納得がいかなくて深層で辰巳を探し続けちゃってる、っていう状態』
『逃げた?』
『……気を悪くしないでね?』
――あんたの息子で、よかった。俺のままでいい、って言ってくれて、ありがとう。
『辰巳の息子で、よかった……か』
無機質な声で繰り返し、ぴくりとも動かない芳音を見下ろす。
『辰巳としては、またこっちに未練を感じちゃうからツラを見ては聞けなかったんでしょうね』
今の辰巳は曖昧にしか感知出来ず、その程度の淡い思念しかわからないらしい。GINは穂高にそう説明する途中で、はっとした顔をして穂高を見上げて苦笑した。
『あ……と、安西さん。だからと言って、芳音くんは安西さんのことも本当はちゃんと』
『解ってる。そこで拗ねるほど青くない』
『あ、そっすか……失礼しました』
GINにそんな虚勢を張ったものの、久方ぶりの敗北感を自覚する。血の繋がりよりも絆だと信じていた。だがそれは、血の繋がりがあるにも関わらず、情が微塵もない場合に限るのだ。それをこの親子に知らしめられた気がした。
穂高は子どもじみた自分の嫉妬心に嫌気が差し、それを払うように強く頭を振った。
『辰巳なりに芳音を囚われから解放してやろうとしていた、ということやな』
『そんなところっすね。芳音くんの思うところは解っていただろうから、芳音くんがまた自分の言葉に縛られて、あなたと辰巳との間で悩むのを避けるために逃げた、っていうか』
言葉。学校に通えなかったがために学力のなかった克美が、辰巳の教えで学んだ中で、最も大切に扱っていたもの。それを教えた張本人が嘘にまみれた言葉を紡ぎ続けていたとも思わず信じ続けた克美と、その息子。それを当人が悔やんでいるからこそ、ケリをつけたいというのであれば。
『土方』
まだ綺麗事を信じられる若いこの子らに大人の理論を押しつけるのは気が引けるが、そう言っている余裕はない。もし望の知るところになったとしても、芳音そのものが消えるよりはと、いずれ納得してくれる日が来るだろう。穂高は自分にそんな弁解をして、零にひとつの提案を口にした。
『確かあんたの能力は、対象が一番強く抱く欲や感情を増幅させる、だったな。芳音にそれを発動させることでサルベージの代わりになるのと違うか?』
『よろしいのですか。こんな純粋な子なのに』
戸惑いと後ろめたさで顔をゆがめる零に、同情と罪悪感の両方を覚える。そしてここにはいない愛娘に、心の中でそっと詫びた。
『綺麗事を言っている場合やないし、仕方がない』
吐き捨てるように締め括ると、逃げるようにきびすを返す。
『外で待っておく。何かあれば呼んでくれ』
穂高は想像した数秒後に我慢の限界を覚え、ふたりにそう告げて部屋を出た。
神だか仏だか知らないが、人知の及ばない何かは、穂高に自分を立て直すわずかな時間さえ与える気がないらしい。
阿南の用意してくれた角部屋のすぐ脇が喫煙所のあるエレベーターホールになっていた。そこに腰を落ち着けて紫煙をひと燻らせただけのわずかな間に独りの時間が強制終了させられた。
『安西さん、俺も便乗』
GINはそう言って、穂高の返事も待たずに隣へ腰を落とした。
『杖は?』
ふと気づいた疑問を口にすると、ただの世間話をするかのような普通さで
『発動中は痛覚がなくなるから要らないんだよね』
とだけ答え、美味そうに目を細めて紫煙を吸い込んだ。
『ノーコンってのは、発動能力がなくなった、という意味とは違うんか』
『むしろ逆。出力オーバーになったり、その逆だったり。不安定になるんですよ。まあ、今も辰巳の個を維持出来ているから、元の状態になるまでそう時間は掛からないと思うけど』
『なるほど。一応発動継続中、ということか。痛みを感じないなんて、便利なもんやな』
『冗談。能力を優先させるために勝手に麻痺しちゃうだけだし、あとで来るリバウンドがキツいのなんの』
彼はそう言っておどけた仕草でこめかみを指差した。その仕草で、十年前に彼がスラムで行き倒れていた原因がそれだったことを思い出した。
『で、どうしてそんな無茶をしてまで抜け出して来た? 以前のあんたなら任務最優先で現場から離れへん奴だと思ったが?』
皮肉った理由に大した意味はない。独りになりたかったのを邪魔されたので、追い払う程度の気持ちで言った。
だが、GINは穂高の予想もしなかった驚きを示し、それから少し寂しげに笑った。
『さすがに自分のカミさんがほかの男と、とかねー、見てるのは、キツイっすよ』
『……は?』
『あー、やっぱ夫婦には見えないか、俺ら』
『……え?』
今度はこちらが驚く番だった。
『って、見えないよなー。だよなー。零ちゃん、相変わらず冷たいもんなー』
大袈裟に肩を落としておどけるものの、ひとつだけになってしまったGINの瞳には、本気の憂いが宿っていた。それの意味するものがいくつも思い当たり過ぎて、逆に穂高にはこれと絞るだけの確信が持てない。
『それならそうとさっきそう言えば、というか……すまん』
仕事とはいえ、自分の妻になった女性がほかの男に触れるのは面白くなかろう、というのは想像がつく。その指示を下したのは自分だ。そう思うと意味もないと解りつつ、今更な謝罪を口にした。
『綺麗事を言っている場合じゃないんでしょ?』
とやり込められるとぐうの音も出ない。
『あのさ、安西さん』
GINが遠慮がちに穂高を呼び、言葉を探すように隻眼を泳がせ、そしてぽつりと呟いた。
『あなたも辰巳もパーフェクトを狙いたがるけど、そもそも人って、そんなに完ぺきな存在になれるものなのかな』
藤澤会事件について、高木は辰巳の参画を最期まで悔やんでいた。辰巳は克美に嘘をついたまま逝くことを最期の最期で悔やんでいた。GINや零は、その事件で正義と信じて来たモノを根本から覆され、彼らの救出が彼らにとって本当に正しいことなのかどうかを一瞬でも迷った。
GINがとつとつと語る言葉は後悔の列挙なのに、その横顔には薄い笑みさえ浮かび、達観を思わせた。
『零の能力はああいう、なんていうか、女としては屈辱なんだろうし、すごくキツいものだろうな、とは思うんですよね。でもあいつは割り切って生きて来たし、そうでもないと自分がやってられないんだろうし』
そう語る彼の横顔が、いくぶんか俯く。束ねた割には雑過ぎる髪がその横顔を隠し、穂高からは薄ら笑いをかたどる口許しか見えなくなった。
『それでも、零は零なりに、そのとき信じた最善を選んで、出来る精一杯をやってるわけだし』
それは穂高に語るというより、GINが自身に言い含めているような響きだった。
『それは俺もおんなじだし。ただ、グロスで悔いのない生き方が出来れば……最期に笑って逝けたらそれでいいんじゃないか、って思うんですよ』
不意にGINが顔を上げた。まっすぐにこちらの瞳を見つめて来る。穏やかなグリーンアイズがゆるやかな弧に囲まれ、笑みをかたどった。
『あまり自分で自分を追い込まないでね。独りで背負う必要なんてないからさ』
そう言われて初めて、自分が慰められていることに気がついた。
『それは、辰巳の代弁か?』
『さあ?』
とぼけた口振りでうそぶく辺りは辰巳ではないかと思わせる不遜さだ。だが、この状況での妙な落ち着きは、零の能力に対する絶対の信頼を感じさせる。それはGINにしか持てない感覚のはずだ。
『なあ、風間』
『はい?』
『あんたがそうやって安心して土方に任せられるくらい、芳音にとって望は、なんていうか』
どう言い表してよいのか、言葉を探しあぐねて口ごもる。それを汲んでくれたのか、GINは苦笑混じりに穂高の代弁をしてくれた。
『安西さんにとっての、翠さんであり、今の奥さんみたいな存在ですよ。だから、ちょっとの誘い水ですぐ浮上して来るはず。あの子、そういうところは割と安西さんとキャラかぶってますよね』
そう言ってくつくつと含み笑いを押し殺すGINの態度が腹立たしい。燻らせる煙草がやたら苦く感じられた。
『いいじゃないっすか。何も完ぺきな理想の父親じゃなくたって。娘を掻っ攫われて寂しい親父でも、それで小憎たらしいガキだと思っちゃっても、芳音くんはそれで安西さんを丸ごと否定しちゃうなんて、そこまでの子どもじゃあないっすよ』
『……せやな』
スケールはまるで違うものの、ほんの少しだけ、辰巳の後悔が解った気がした。
ただ、笑って幸せに過ごして欲しいだけだったのだ。よかれと思った対応が、のちに悔やむことになるとも思わずに。
翠の望むようにさせてやるのが、愛情表現だと思っていた。だから最期のときを故郷で暮らさせた。自分がこんなにも悔やむとは思わずに。もっと多くの時間を彼女と過ごせたらという後悔が、いつまでも泰江を待たせることになってしまった。待たせた歳月が、泰江を頑なにさせた。
翠の固執が解ってしまうほど、克美を放っておけなかった。気丈に見せるくせにやたらと目が離せない、頼りない彼女は、女系家族の上に強い女ばかりの中で育った穂高にとって、“妹”という憧れていた存在に近い感覚で。
望を自分の手で育てることが、望の一番の幸せだと信じ切っていた。少しだけ欠けた“芳音”という寂しさは、成長とともに薄れるとばかり思っていた。小さな子どもたちがずっと引きずるとも思わずに。
克美の症状との折り合いを見て芳音を引き取るのが、芳音にとっての最良の対応だと思っていた。ともにあることが彼ら自身の願いでもあると知ったら、尚のこと自分の考えに確信を持っていた。ともにありたいと願う、その根底にある想いがなんなのかさえ思い至らずに、辰巳への固執というネガな憶測から、芳音と克美を引き離すのが最善の策だと思っていた。
――のんちゃんが恋をしたら、まっさきにアタシが応援してあげるの。穂高はのんちゃんがお嫁に行ったらきっと寂しがるから、そうしたら娘のように草木を育てて暮らしましょう。
不意に遠いどこかから聞こえたのは、懐かしいほど甘ったるい、アルトで紡がれる翠の声。最期のビデオレターで彼女の語った夢物語のひとつが、不意に穂高の中で再生された。
『……せやな』
穂高はGINではなく、もうこの世にはいない人に向かって、もう一度だけ呟いた。