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会いたい人 3

 ――このバカ親父。今まで何も応えてくれなかったくせに、今更謝りになんて出て来るな――!




『あら、芳音くん、上手に描けたわね』

 保育園で絵を描いていたとき、保育士の先生がそう言って絵を褒めてはくれたけれど。

『でも今は、みんなとおんなじテーマで描こうね。ああ、でも芳音くんはママを描いていいんだよ』

 六月になったばかりだったこともあり、テーマは父の日にちなんで“お父さん”と言われていた。

『先生、これ、パパだよ。まだ会ったことはないけれど、ホタがゆってたんだ。“俺や芳音とそっくりな顔や”って。だからパパは、きっとこんなかな、って』

『そっか……ごめんね。まだ、会えていないんだったよね』

『うん。会社の人たちがみんなパパに頼りっ切りだから、人に任せて帰って来れないんだって』

『そう……芳音くんもお母さんも、それじゃあとても寂しいね』

『うーん、でも、パパもホタみたいにすごい人なんだなー、って思うし。ママもすっごいパパのこと自慢してばっかいるしねっ。だから、寂しいときもあるけど、でも全然へーきだよ、僕』

『そっかぁ~。芳音くん、ホント、えらいね。先生、本当にそう思うよ』

 そのとき先生がどうして瞳を潤ませたのか、当時の芳音は幼過ぎて解らなかった。まだ親たちの“辰巳は長期の海外出張中”という嘘を信じていたからだった。


『愛人の子』

 そんな噂が流れたのも、保育園のときだった。

『うちの母ちゃんがノボルの母ちゃんとケンカしてたときに言ってたぞ。お前ンとこにたまに来る、テレビにも出てる、なんとかって名前の、でっかいおっさん。あいつがホントはお前の父ちゃんだ、って』

 最初にそう言って突っ掛かって来たのが圭吾だった。それをきっかけに、『Canon』の常連客や北木、愛美などを始めとした“辰巳を知る人”たちに父親の居場所を聞いて回った。穂高と克美にだけは訊いてはいけない気がしたので、克美の目を逃れて調べるのに苦心した。

『ケイちゃんのお母さんは、ノボルくんのお母さんが噂をばら撒いているのをとめようとして喧嘩になったそうよ。まったく、そんなバカバカしい噂を信じるノボルくんのお母さんがヘンなのよ。気にすることないわ』

 愛美はそう言って一笑に付した。北木はひどく不快な皺を眉間に寄せて、

『子どもの前でそんな話を平気でする親なんて、困ったものだね』

 と苦言を零し、やはり否定の言葉とともに、芳音の頭を撫でてくれた。

 でも、どちらも辰巳のことは、何ひとつ教えてはくれなかった。

『え、マスターの出張先? ……さあ、克美ちゃんはなんて言っているの?』

 常連客のみんなもそんな逆質問で芳音を黙らせ、誰ひとりとして芳音の問いに答えてくれる人はいなかった。

『お父さんのことを知りたい?』

 そう言ってまともに取り合ってくれたのは、赤木だけだった。

『克美ママには内緒だよ。辰――キミのお父さんの居場所まではわからないけれど。でも彼の若いころの写真ならあるよ。見る?』

 そう言って辰巳の写真を見せてくれた。ブレザーの制服を来た少年が、当時の芳音と同い年くらいの子を抱っこしている写真だった。今思えば、あの子どもが赤木だったのだと判る。「克美ママにも内緒にしているから忘れてね」と言われたことに疑問も抱けない子どもだったので、今の今までその出来事を失念していた。写真の中で笑っていた高校時代の辰巳は、安西家に泊まったときに見せてもらったことのある高校時代の穂高とよく似た面差しだった。穂高よりも皮肉な笑い方をしていたのが印象的で、それが芳音に穂高と辰巳の違いを感じさせた。

 それでもやっぱり、赤木も辰巳の所在を教えてはくれなかった。


『芳音。酷な話かも知れへんがな……辰巳のことは、もう忘れえさ』

 穂高が芳音だけを書斎に呼んでそう言ったのは、小学校へ上がる年の正月休みのとき。

『俺では親父の代わりにはならへんか?』

 保育園での噂が穂高の耳に入ったらしい。持ち上がりで小学校へ上がるので、同じ仲間内のところで同じからかいを受け続けるであろうことを予測して、卒園を機に東京で暮らさないかと言われた。

 それらしいことをほのめかされたのは、上京した一年前を除けば、そのときが最初で最後だった。

『ホタのことは、大好き。でも、母さんをほったらかしにはしたくない。それに、全然連絡を寄越さないけれど、父さんはちゃんといるんだもん』

 そんな返事の仕方で、穂高の「辰巳のことは忘れろ」という打診に対する答えは遠回しに避けた。

『おらんに等しいクソ親父でも、親父は親父、ってか』

『……うん』

『克美がアレだから?』

『……うん。ごめん。母さんをほっとけない』

『……そか。でも、無理はするな。お前は克美の子であって、保護者とは違う。それを忘れなや』

『うん。ホタ、ありがとう』

 そのとき解ったと思ったことが、“自分と母さんは、父さんに捨てられたんだ”ということ。それを裏付けるかのように見てしまった“真夏の夜の悪夢”。望と一緒に泣きながら眠ったあの夜、望には言えなかった、もうひとつの壊れたモノ。

“ホタも結局は、僕を利用しようとしてただけだったんだ”

 使い古した雑巾を捨てるように放置された克美を、穂高の好むように漂白し直して翠の代わりにするために。簡単には頷かない克美の頑固さを知っている穂高は、釣り餌として芳音に東京の学校へ通いたいと言わせるつもりだったのだ。

“ホタはもう、家族じゃない”

 そんな風に考えた。


『ごめんな、芳音。辰巳のことは、お前が小さな内は話せなかったんだ』

 克美がそう言った理由を、少しあとになってから調べて知った。芳音の十五歳になった年は、辰巳が事件を起こした当時の法律で、辰巳の藤澤会事件にかかる殺人の時効に当たる年だった。理屈で死んだと解っていても、心のどこかで辰巳がまだ生きていると信じていたがる克美がいたことを、当時の芳音は察してやることが出来なかった。

『でももう、子供じゃないよな。だから、教えてあげる。辰巳とボクの、長くて短い十七年』

 泣きそうな顔をして笑いながら、克美が語った昔話。それまでの辰巳に対する芳音の概念を根こそぎ覆すほどの、あまりにも日常とはかけ離れていた十七年。

 それを聞いてから積もっていったのは、

“こんなとき、父さんだったらどうするのだろう”

 と迷うたびに思い描く無駄な想像。答えなど決して返っては来ないのに、繰り返し同じ言葉しか紡がないモニタの中で笑う父に向かって問い掛ける。まるで克美を模写するように、複製したそれに語り掛けた。

『よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ』

 いつも思っていた。

『よろしくされてもわかんねえよ。バカ親父』

 克美しか見えていないそのグリーンアイズが、自分に何を求めたのか解らなかった。辰巳のクローンとして克美を支えるために遺していったのか、普通の家庭と同じように、愛されて生まれて来ていたのか――生まれて来たのが自分でよかったのか。自分でなくてはならなかったのか。

 克美のことしか口にしない辰巳からは、自分についての思いや考えは何も感じられなかった。


『俺はお前を自分の息子と思うて接して来た。それはお前が生まれたときから変わらない』

 辰巳がいれば、穂高にそんな勘違いをさせやしなかった。望と引き離されることもなかったはずだ。近過ぎて自分の気持ちが見えない、なんてことも、きっと、なかった。

『姉弟のように育って来て、よくそういう気になれるものだな――気色悪い』

 もし辰巳がいたならば、もっと普通な理由で反対されたり、母親同士で何かしら画策してくれたり、そんな普通の悩みで済んでいたはずだ。愛美が娘たちのことでそうしているように、泰江がもっとフラットな気持ちで自分を見てくれていたかも知れないのに。辰巳の存在そのものが、穂高に克美を翠と見間違わせなかったはずなのに。




「全部……ぜんぶ、あんたが勝手に消えていなくなったせいじゃんかッ!」

 芳音はこの二十年近くの諸々を、吐きたいだけ吐き出した。辰巳に庇われた身を起こし、馬乗りで彼を押さえつけて勢いよく右の拳を振り上げる。

「貴美子さんのことだって、北木さんのことだって、中途半端に任せてフォローもなしで! 肝心なことはなんにも伝えないまま……ッ」

 芳音が左手で襟を掴んで力いっぱい引き上げるままに、辰巳が軽く頭を上げる。彼の驚いた顔に数滴の涙が零れ、それが彼の目をまるくさせた。

「こんなにたくさんの人を引っ掻き回して! あんた任侠だったんだろう! 謝って済むなんて世界に住んでた人間じゃないんだろうが! どう落とし前つけるんだよ、この……クソ親父ッ!」

 ゴツ、と鈍い音が響き、鋭い痺れが芳音の握り締めた手から肩の方へ電流のように走った。

《ぃ……ってぇ……》

 その呻き声で我に返る。初めて加減もせずに、力任せに思い切り人を殴った。極真を始めとした武道の基本的な心得が、これまで芳音に拳を振るわせたことなどなかったのに。

《……ったぁ~。痛覚も戻ってるなんて思わなかったな。利いた》

 辰巳が切れた口許を拭って苦笑いを零す。芳音の握り拳にも痛みが走り、力が自然とゆるんでいった。辰巳の言ったとおり、痛みがひどくリアルで夢の中にいるとは思えなかった。

「ご、ごめ」

 言いながら慌てて辰巳の腹から身を退け、恐る恐る彼に手を伸ばす。彼は頬を押さえながらゆっくりと起き上がり、そして顔を伏せたままカーペットの上で胡坐を掻いた。

「父さ」

《芳音、ごめん。ホントに……ごめんなさい》

 芳音が辰巳の頬に触れるより早く、辰巳の頭が格段に低くなった。それに釣られて視線を落とす。胡坐を掻いているものの、床につくのではないかと思うほど深く低く垂れた頭は、なかなか元の位置まで戻らなかった。

《東京に戻るまで、ずっとこれがベストだと思ってた》

 ひどく苦しげに絞り出された辰巳の声は、ぎしりとした嫌な軋みを芳音の胸にまで感じさせた。

《総司に言われて、初めて後悔した》

 愛している証を欲しがる子どもの幼い思慕の思い。それは母親からだけなく、父親からも欲しいものなのだということを、辰巳は「そんなものを望んだことがないから知らなかった」と、自嘲とともに吐き出した。

《俺にとって親父っていう存在は、いない方がいいくらいだったから。親父なんてのはその程度の存在で、だから息子が父親に何を願い求めるのかなんて、想定の範囲外で……芳音に何ひとつ遺さないまま、『Canon』を出た》

 どこからともなく吹き込んで来た風に乗って、辰巳のそんな吐露が芳音の髪や頬を優しく撫でる。濡れた頬も撫でてゆき、それがピリリとしたわずかな痛みを残して通り過ぎていった。

《ああ……そっか~。うん。……芳音、もう充分だよ。もう、充分》

 ゆるゆると辰巳の頭が上がり、そして言葉には尽くしがたい表情の瞳が芳音の瞳をまっすぐ捉えた。

《俺がお前さんに願ったのは、俺の代わりに克美を守ることなんかじゃない》


 ――お前は綺麗に、まっすぐに、真っ白に生きて欲しい。


《俺みたいに切り捨てることしか思いつけない人間なんかじゃなくて。克美みたいに、誰に対しても最初にいいところを見つけられる人に。穂高クンみたいに、負の部分も含めて受け留められる器の大きな人間に。俺とは真逆の、綺麗な存在であって欲しいと思ったんだ》

 辰巳はそう言って笑った。笑って芳音の頬にそっと触れた。その表情は、克美に向けたラストメッセージを紡いでいたときと同じ、少しはにかんだ極上の笑みで。それは芳音を絶句させた。

《俺が願うまでもなくそう生きて来た、ってのが、GINちゃんの《送》のお陰でよく解った》

「ソウ?」

《そ。人の思念を送る能力なんだって。今のお前さんも、なんとなくではあるけど、俺の思うところが伝わっている状態なんだろう?》

 だから「ごめん」なんて思えたんじゃないのかと苦笑混じりに言われたら。

「う……ん」

 彼がなぜここに留まっていたのか、見えない何かによってその理由(わけ)を知ってしまった今、正直にそう言って頷くしかなかった。

「父さんにしか出来ないことだから。俺が頼むまでもないことだったみたいだけど」

《うん。でも、うっかり気を抜くと自分を保てないんだってこと、死んでから初めて知った。芳音が来なかったら、忘れちゃっているままでいた》

 辰巳はちゃかすような口調でそう言うと、ようやく胡坐を解いて立ち上がる素振りを見せた。芳音もそれに合わせてへたり込んでいた重い腰を上げようと床に手をついた。

《芳音》

 呼ばれて咄嗟に顔を上げれば、大きな両の手が頬を包む。

「!」

 額に柔らかで温かな感触が宿ったかと思うと、視界が一気にじわりと滲んだ。


 ――愛してる。


《人生を引っ掻き回しちゃったみんなには申し訳ないけど。お前さんの父親になれたことだけは、やっぱり悔やめないや》

 ずるい。咄嗟に浮かんだその単語は、辰巳へぶつける前に視界がホワイトアウトしてしまい、口にすることが出来なかった。

《父さん、って初めて呼ばれちった。幸せ過ぎて成仏しちゃいそう》

 最後に見た辰巳の顔は、克美に向けた最期の笑みに負けないくらいの愛情と照れに満ちた、極上の甘ったるい微笑だった。彼は自分の言いたいことだけ言うと、芳音が伝えたかった言葉を聞きもしないで勝手に消えてしまった。




 目覚めれば、心配そうに自分を覗き込む見慣れた顔がふたつ。芳音はまだ完全に覚めていない意識のまま、そのうちのひとりへ手を伸ばしてジャケットの襟を掴み寄せた。

「こ、の、バカ親父ッ! 言い逃げとか、ずるいぞ!」

「ま、ちょい待て! 俺は辰巳と違う!」

 という否定の言葉とともに芳音の手首を掴んだ手は、ホワイトカラー特有のしなやかな手指。芳音がさっきまでともに時間を過ごしていた相手の手は、どちらかと言えば使い込んだ職人の手のように無骨なものだった。

「……ホタ……」

 夢とうつつを混乱させた自分に気づき、恥ずかしさで弱気な呼び声が口を突いて出た。

「ごめん。間違えた」

 かなり不快そうな仏頂面でジャケットの襟を正す彼に、身を起こす傍ら謝罪を告げた。こめかみに走る頭痛とともに、胸の痛みが芳音の表情をゆがませた。

「ほかの誰と間違われても構へんけど、お前の親父だけは勘弁して欲しいわ」

 と、穂高の辰巳に対する毒舌はいつもと同じ強い拒絶を示すのに。

(あれ? なんか……)

 毒を吐いたその刹那、穂高がどこか哀れむような苦笑を浮かべた気がした。

「辰巳と話せたのか?」

「う……ん、アレがもし夢じゃないなら」

「言い逃げ、か。あいつらしいな、相変わらず」

 穂高はそれだけに留め、尋ねて欲しくないことには触れないでくれた。


 芳音の中では、夢と現実の境が曖昧なまま、また高千穂の間で意識を失った、という認識だったが。

「催眠状態にされたあと、GINさんの《送》で辰巳の残留思念を俺の中に送った、だけ?」

「ああ。風間の言うことを鵜呑みにすれば、の話やけどな。《送》を使って段階的に芳音の深層へ辰巳の思念を送った、という話やった」

 掻い摘んで説明されたのは、芳音の無意識が辰巳の残留思念に触れることで、自分の内面と向き合っていた、ということ。同時に、辰巳の残留思念が芳音へのメッセージという形になったのではないか、とのことだった。

「GINさんは俺と辰巳の会話も視えていた、ということ?」

「いや、その辺りは催眠療法に近いものがある。対話形式が芳音にとって一番受け容れやすいだろうから、だと。風間の誘導だと本人は言っていたが、どうだかな」

 卒倒したのもヒステリーの一種だと言われれば、素人の芳音としては「そう」としか返せなかった。

「前回の件があったさかいに、阿南女史があらかじめこの客室を用意してくれていて助かった」

 と言われて初めて、自分のいる場所がまだ日本帝都ホテル内だと知った。そして時刻を見て驚愕する。二時間近く眠っていたらしい。

「ホタ、ごめん。昨日は徹夜だったんだよね。丸一日つき合わせ」

「謝罪は要らん。動けるようになったら、とりあえず今日は家へ泊まり。泰江には連絡済みや。望、あとはお前に任せる」

 と言っている間にも席を立つ穂高を見上げて尋ねた。

「って、ホタは? 一緒に帰るんじゃなかったの?」

「子守仕事が出来た。それと風間らに追加依頼した、その打ち合せ。まだ当分帰れそうにないさかい、芳音の話は帰ってから聞く」

 そしてまた、芳音に首を傾げさせる微笑を浮かべた。穂高は溜息をひとつつくと、不思議なほどずっと黙り込んでいる望の頭をくしゃりと撫でた。

「風間の能力とやらは、受け手の芳音にも体力的な負担を掛けるらしい。ここぞとばかりに襲いなや」

「って! 私をなんだと思ってるの!」

 やっと顔を上げた望が、パシリと父の手を思い切り払いのけて責め立てた。その横顔にどきりとする。彼女がずっと黙っていたのは、零れそうな涙を堪えていたせいだ。動いた勢いで頬を伝っていったそれに気づいた彼女は、慌ててまた顔を伏せた。

 芳音は目で穂高に問い詰めたが、あっさりと無視された。

「ほんならな。泰江が迎えに来るまで、ふたりとも少し休んどき」

 穂高が退席を告げながら、小さな子どもをあやすように望の頭をひと撫でする。今度は何も言わなくなった望に小さな溜息をついて、穂高は結局何も教えないまま部屋を出て行ってしまった。音もなく部屋の扉が閉まると、居心地の悪い沈黙がふたりを包んだ。


「子守って、なに?」

 先に我慢の限界を迎えたのは芳音のほうだった。

「知らない」

 と答える望は、まだうな垂れて顔を見せないままだ。

「って、ずっとホタたちと一緒だったんだろう?」

「解らないわ。ラウンジで待っていたらパパの携帯が鳴って、それからすぐ出て行ったから。私は阿南さんの携帯番号を知っていたから、彼女から直接芳音の居場所を聞いたの。そのとき初めて芳音が倒れたって知らされて。ここに来たときには、もうGINさんとパパとの間でそういう話し合いが済んでいたみたいな感じだったわ」

「そか」

「それに、パパの様子がいつもと違うような気もしたの。だから何も聞けなくて、わかんない」

「ねえ、それでのんは何を怒ってるの?」

 拗ねているとしか思えない望の口振りが芳音にそう問わせた。望は目を覚ました瞬間を除けば、それ以降一度も目を合わせてくれない。今も会話を拒むようにそっぽを向いている。

「俺、気がつかないうちに何かした?」

「別に」

「それとも、のんの心配をオールスルーでここに来ちゃったことを怒ってるとか?」

「それは違うわ。納得していなかったら、最初からGINさんたちを呼びになんて行かなかったもの」

 いきり立って言い返しながら、ようやく望の顔が上がった。

「それは違うって、やっぱ怒ってるんじゃん」

「あ」

 と、うろたえた素の表情にほっとして、彼女の頬へようやく手を伸ばすことが出来た。だが触れる直前で彼女から思い切り手を撥ね退けられた。

「って……え、なんで?」

「あ……」

 芳音がショックを受けたのは、望から食らった拒絶の反応よりも、彼女の目から不意に零れた珠のような涙だった。

「やっぱ俺、知らないうちに、のんの気に障るようなこと、したんだ」

「違うの……ごめ、ん、なさ」

 俯いて上掛けを握る彼女に触れていいのか解らないまま、芳音の手が行き場を失って握り締められる。

「じゃあ、俺がひっくり返ってる間に何かあった、とか?」

 芳音のすぐ脇で小さく頷く頭にそっと触れると、今度は拒まれることなく彼女をなだめさせてくれた。

「芳音、零さんにもGINさんみたいな“特別”なモノがあるって、知ってた?」

「あ、うん。こっちへ来る途中で、ちょっとだけ聞いた」

 唐突に話題が変わった気がするものの、わからないことはあとで聞けばいい。まずは望が泣いているのをどうにかしたい、それが今の最優先だった。

「人の中で一番強い感情をもっと大きくする、とかなんとか、だっけ」

「それだけしか聞いてないの? 方法とかは?」

「へ? 方法? って、俺には関係ないし、興味もないから聞かなかったけど」

 顔を伏せたままの望がどんな想いを巡らせながら話しているのかは解らない。だが、ようやく少しだけ顔を上げて、芳音が意識をなくしている間のことを話し始めた。

「芳音が戻って来ない、って。GINさんは力を使い果たしちゃって、芳音を表層意識へ連れ戻せない、って」

 望はそこで言葉を詰まらせると、また俯いてしまった。

「それで、芳音が一番願っていることは、私と『Canon』を再生させることだから、それをもっと増幅させるために、って、零さんが芳音に……」

 紡ぐ言葉が途中で途切れ、自分の膝に移った望の両手の甲にはたはたと雫が落ちる。

「え、ちょ、のん?」

「解ってるの。芳音を助けるためだってこと。しょうがないってことも、意味合いが違うんだからってことも、頭では解ってるの。……私に不快だと感じる権利なんかない、ってことも」

 望が泣いている理由はもちろんのこと、言っている意味も肝心なところが解らなかった。ただ、いくら自分の前だとしても、ここまで望が自分のテレトリー外の場所で取り乱すなんてことは滅多にない。

「要は、俺が零さんの手を借りたってこと、だよね? それがのんを泣かせてる理由なんだよね? 彼女は俺に何をしたの?」

 望は芳音のその問いに、ひどく難解な物言いで答えた。

「零さんの力を発動させるためには、相手との粘膜接触が必要なんだ、って説明されたわ」

「粘膜せ……えっと、ごめん。解りやすく言うと、なに?」


 ――キス。


「……は?」

 望の言葉が芳音の思考を真っ白なキャンパスに変えた。

「皮膚に覆われていない粘膜の中で、一番対象に屈辱を与えないのが口腔なのだから、仕方がない、って。筋の通った説明もされたし、納得もしてるけど……どうしても割り切れなくて、そんな自分に腹が立つの。私ね、零さんが芳音とキスしているのを見た瞬間、彼女を押しのけて邪魔をしてしまったの」

 処理能力がとまった芳音の脳は望の紡ぐ言葉の意味を咀嚼する暇も与えられず、耳だけが辿っては頭の中で芳音に復唱させた。

「芳音が戻ってくれなかったら、私のせいだと思ったの。どうしよう、って」

 涙ぐむ望の表情が、次第にくしゃくしゃに崩れていく。昔よく見た、幼い泣き虫な少女のそれに変わっていった。

「パパの言うことを聞いておけばよかった。無理やりここに入らなければよかった」

 細い両の手指がくしゃくしゃの顔を隠す。その向こうから嗚咽混じりの懺悔が漏れた。

「零さんにはもう近づいて欲しくない。芳音を助けようとしてくれてるだけなのに、そう思っちゃう自分が、すごくイヤ」


 ――いつまで経っても、私は醜い。芳音みたいに綺麗な心に戻れない。


 望は本気でそう言って泣いているのに。心から悔やんで懺悔をしているのに、不埒な想いがとまらない。痛む胸が甘酸っぱさを交えて芳音の情動を意地悪なほどに煽ってくれる。それはもう、腹立たしいほどに。

「のん」

 自分でも驚くくらい甘ったるい声で名を呼んだ。彼女の両手首をそっと掴み、隠れてしまった顔を無理やり覗き込む。

「のんが思ってるほど、俺、綺麗じゃないから」

 零の“処置の方法”を聞いて動揺したのは一瞬だけで、今自分の中の大半を占めているのは、それに嫉妬してくれた望が意外過ぎて、そして、それがやたら嬉しいと感じている恩知らずな自分。その不埒でありつつ正直な感情があるのに、綺麗だなんて言われるのは心外だった。

「俺がこっちに来てからののんは、昔みたいにわがままを言わないから。時々すごく、不安になる」

 そんな彼女の代わりに、自分が駄々をこねてわがままを言ってみる。

「理屈で割り切れないってのは、俺もおんなじだから」

 北城のことは今でも忘れられない。赦せない。顔を合わせたら、自分でも何をするか解らないと思う。もうひとりの赦せない奴は、とうの昔に望へなんの贖罪もないまま死に逃げした。そんな本音を望には絶対に伝えることは出来ないけれど。

「俺、ホントは君塚がのんと喋ってるの見てると、今でもちょっとだけイラっとするから」

 解決済みのそれを例えに出し、笑いながら望の耳許で意地悪に囁いた。

 ふと思い出した。朝交わした口付けは、捌け口にするかのような誠意のない形でネガティブな感情をぶつけただけの醜いものだった。

「妬いたりする気持ちや独占欲が醜いっていうなら、俺ものんと同類じゃん?」

 望の手を解放し、代わりに頑ななほど固く目を閉じてこちらを見ようとしない彼女の顔を半ば無理やり上向かせる。

「のんを泣かせたのが零さんとのそれだって言うなら」

 ようやく開いてくれた驚きに満ちた瞳を、逸らすことなくまっすぐ見つめ返した。

「かの」

「のんが俺に上書きをしてよ」

 そんな意地悪でわがままな望への願いごとは、彼女の唇の上で紡がれた。


 確かに辰巳が自分の中で大きなシェアを占めていた。でも、その理由は自分が自分でありたかったからだ。その許しを、辰巳からだけはどうしても得たかった。自分が存在するにあたり、最も大きな犠牲を払ってくれた人だったから。

 自分でありたいと強く願った理由は――。

「のん、いっぱい、話したいことがあるんだ」

 惜しむように何度も離れてはついばんでを繰り返し、ようやく昂ぶった気持ちが凪いだころ、やっと泣きやんだ望を懐に収めて話を続けた。

 報告がてらに話し聞かせたのは、辰巳の気持ちや自分の気持ち、初めて交わした父子(おやこ)としてのやり取り。そして、願いが叶い、やっと誰に罪悪感を抱くもことなく、望と一緒に“守谷芳音”として同じ道を歩いていけること。

 芳音は泰江が迎えに来るまでの間、ずっと耳を傾けてくれる望を相手に、たくさんのことを語り繋いだ。望に心からの笑顔が戻るまで、笑い話を交えながら延々と自分の思いを語り続けた。

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