Bizarre Visitor 1
ともあれ、外へ出ることに変わりはない。芳音は家まで送るつもりでいた望にどこかほかに寄るところがないかと訊いてみた。
「買い物とか、何かあればつき合うよ。荷物持ちくらいの役に立つだろ? どっか行きたいところ、ある?」
「でも、バイトは?」
遠慮がちに尋ね返す彼女に、今日はフリーだと伝え添えた。
「どうせまた果穂さんが飲んだくれて面倒見る破目になるんだろうな、とか思っててさ」
いい意味で予測が外れて思い掛けない棚ボタな今の展開に、「ラッキー」と思っていることは口にしない。
「次の新入生予定の子がふたり入ったし、オーナーの娘さんが一時帰国してるから大丈夫っしょ」
少し強引なくらいに望の懸念要素をひとつずつ潰していくと、ようやく彼女から遠慮の表情が消え、はんなりとした笑みが宿った。
「じゃあ、映画を見に行きたいわ。芳音と一緒に見に行ったことがないんだもの」
確かに、ふたりきりで出掛けたことがこの一年の間でほとんどなかった。グループ交際のような形が基本だったし、ふたりで出掛けたと言えば、引越し後の買い出しや自分の“辰巳探し”につき合わせたり、目的ありきの外出であって、ふたりの時間を楽しむ意味で出掛けたことなど一度もない。それに会うといえば学校のあとが大半な上に、休日はバイトが入っている。長い時間を一緒に過ごすだけの余裕もなかった。
「なんか、それって」
普通の恋人同士がよくする、“デート”みたいな気がした。中学生のころ、すでに綾華とつき合っていた圭吾が、映画だのテーマパークだのへ行ったなどという報告を聞くたびに羨んでいた。
「普通の彼氏彼女がするデートみたい」
映画を見るために出掛けるのではなく、一緒にいたいから場繋ぎのように映画のタイトルを探す。スマートホンで映画情報を真剣な面持ちで探す望の横顔を見ているうちに、むず痒くなって来たことも相まって、つい口走ったその言葉が照れ隠しのからかう調子になってしまった。
「イヤ? なら別にいいんだけど。ちょっと七海に薦められていたからと思っただけだし」
と言うが早いか、望がスマートホンのブラウザ画面を落とす。
「ち、違う。イヤとかじゃなくて」
芳音は弁解を続けながら、そっぽを向いてバッグにスマートホンをしまい始めた望を無理やりこちらへ振り向かせた。
「……ほら、のんだっておんなじじゃん」
と続く言い訳を端折ってよさそうだ。望は芳音と視線を合わせず、真っ赤な顔をして唇を噛んでいた。
「だって、芳音がバカにするみたいな言い方するから」
独りで浮かれてバカみたい、って言われた気がして悔しかった、と素直に零す唇を見れば、またあちこちが痒くなる。
「バカにするわけないじゃん」
熟れた果実のようにふっくらと瑞々しいそれをつまみ食いしたくなり、望の顎に軽く手を掛けたそのとき。
――ピピピピピピピピピピ。
「げぇッ! こっちに電話を寄越して来たかッ!」
そっけない着信音が浮かれた気分を一瞬にして打ち砕いた。鳴っているのは芳音の携帯電話の方だ。そして特定の人物に指定した着信音が芳音を青ざめさせていた。
「誰? 指定着信にしてるの?」
「うん……ホタ」
「!」
予想はしていたものの、まさかこちらに掛けて来るとは思わなかった。芳音は眠れずにいた朝方の間にシミュレートした内容を頭の中で復唱しつつ電話を取った。
「おはようございます。泰江ママから事情は聞いていると思うけど。昨夜は遅くまでのんをつき合わせてすみませんでした」
先手を打って穂高が喋り出す前に謝罪を口にした。時刻は朝の八時を回ったところだ。ころ合いを見た泰江から連絡を受けて、すぐこちらへ電話をして来た本題はそれだと思ったのだが。
『あ? 望? 今も一緒にいる言うことか? お前、今どこや。まだ朝の八時やぞ』
(やっべー、俺終わった!)
すぅっと血の気が引いてゆくのが自分でも解った。おまじないのように心の中で繰り返す。別に疚しいことは何もないのだから、堂々としていればいい。
「自分ちだけど、今からのんを送ろうかと思って。昨夜は先輩の壮行会で終電に乗り遅れちゃって、うちに泊まらせました」
穂高に突っ込まれる前に、すべてをまくし立てる。
「ホタは仕事中だから泰江ママから連絡を入れるって言われてたから、事後報告になっちゃったけど、ごめんなさい」
そのあとに続いた長い沈黙が、裁判官の判決を待つ被告人の心境を想像させた。穂高が自分たちを泳がせていることは判っている。それだけに、会うことまで禁じられたらと思うと、焦りが半分、禁じられた場合にどう連絡を取ろうかと次の段取りに思考を巡らせるのが半分。
しかし穂高からの答えは、そのどちらでもなかった。
『来客中やさかいに、その話はあとで望から聞く。お前、今からあとの予定を全部キャンセルしてすぐにこっちへ来ぃさ』
「へ?」
『望も連れて社に来い。会わせたいヤツがいる。やっとお互いの都合がついたさかいに、ほかごと全部キャンセルしてでもこっちへ来い。ええな』
「って、え? ちょ」
と詳細を尋ねる前に、電話が切れてしまった。不機嫌とも冷静ともつかない穂高の低い声は、あまり聞いたことのない種類の声音だった。呼び出した彼自身がまだ迷っている、という風にも取れた。
「パパ、なんですって?」
小首を傾げる芳音に、おずおずと望が尋ねて来た。
「俺に会わせたい人がいるから渡部薬品の社長室へ来いって。のんから昨夜の経緯を聞くから、のんも一緒に、って。なんかホタ、変だった」
「変?」
「うん。怒ってる感じじゃなかったんだ。強引だったけど、自分でなんか迷ってる? みたいな、っていうか」
「珍しいわね。会わせたい人って、誰なのかしら」
「わかんない。でもホタは俺が今日バイトを休んでるってことを知らないから、無理をしてでも来いって言ってた。あの人、優先順位はきっちりしてる人じゃん? よっぽどのことだろうから、行かないと」
「……そうね」
しょんぼりと肩を落として俯く望を目にして苦笑が浮かぶ。芳音も彼女と同じ気持ちではあった。
「せっかくの初デートはダメになっちゃったけど、もっと時間を作れるようにするから」
半分は自分へ言い含めるような、なだめる口調になっていた。
「そんな顔すんなよ。ホタのところまでは一緒にいられるんだし。な?」
と望の頭をくしゃりと撫でたら、彼女も少しだけ寂しげに苦笑した。だが無理に作った笑顔もすぐ真顔に変わる。
「それにしても、仕事より優先のことで芳音に関することってなんなのかしら」
「うーん。のんのことじゃなかったっぽいよな。俺に会わせたい人がいるとか言っているわけだし」
ふたり玄関先で靴を履き掛けていた動きが同時にとまる。
「まさか、克美関係か?」
「克美ママに何かあったとか?」
同時に発した声で、お互いが顔を見合わせる。どちらからともなく、引き攣れた笑みで自分の発言を否定した。
「まさか。それならマナママから連絡来る方が早いはず」
「そうよね。それに克美ママに関することなら、パパはきっと間にお母さんを挟むはず」
「だな。とにかく行けば解るか」
「ええ。曖昧な言い方なんてパパらしくないし。考えるよりもまずは行きましょう」
アパートの玄関に施錠をして駅へ向かうころには、どこかゆるんだ甘ったるい感覚がすっかりお互いの中から消えていた。
学生にとっては春休みでも、社会人からすれば普段と同じ平日の午前でしかない。芳音は渡部薬品に着いてから、自分と他者との間に横たわる大きな違和感に気がついた。社長の娘なので顔パスの望が芳音の説明をしたことに加え、穂高があらかじめ受付に伝えておいてもくれたらしい。すぐに穂高の秘書、馬宮が直接ふたりを出迎えた。
「馬宮さん、あの、俺、こんなラフな格好で来ちゃったんですけどよかったんでしょうか」
エレベーターで最上階の社長室へ向かう途中、居心地の悪い違和感を訴え、そして謝罪を申し添えた。
「すみません、遊び着みたいなカッコでみんなの目を引いちゃったかも」
過剰な低姿勢になってしまうのは、その理由だけがすべてというわけではなかった。顔を合わせた馬宮の顔に、露骨な不機嫌が出ていたからだ。
「それを言ったら望さんも同じでしょ。もしみんなが注目したのだとしたら、それはキミのストリート系のファッションじゃなくて面構えの方を、だと思うけど?」
馬宮はそう言って自分の頬を人差し指で軽く突付き、そしてようやく笑みを浮かべた。どうやら芳音に対して不快を抱いているわけではなさそうだ。
「ああ。ホタと似てるから、ってことか」
「そ。それに、もっとすごいのが朝一番でみんなの目を引いたから。さすがにアレのあとだったら、いくら芳音くんでも余裕でかすむわよ」
そこで馬宮が出会い頭のときの表情に戻った。どうやら穂高の言っていた客人が不愉快の元凶らしい。
「馬宮さん、よく通したわね。顔に“その人嫌い”って書いてあるわ」
「馬宮さんがそう言ってるのにごり押しか。ホタは何考えてるんだろう」
ふたり同時に発した言葉に、馬宮がまとめて答えた。
「彼は十年ほど前に、私や社長とアメリカで一度面識があるの。ちょっと厄介ごとに巻き込まれた、っていうのかしら。奇怪で変なヤツよ。ただ、バックについているのが警視庁上層部の人間だから、無碍にして敵に回したくはない存在、といったところ」
「警察……。向こうで何かあったんですか」
「彼がスラムで半死状態だったところを、偶然通り掛った社長と貴美子先輩が助けたの。きっかけはそれなんだけど、まあ厄介ごとは解決済みの話。で、今回はその厄介ごとを解決してやったときの借りを返しに来たみたい」
「恩返し?」
「それが芳音とどう関係してるの?」
「私の口から話したところで、キミたちはきっと信じないわ。社長もそう判断したんでしょ。直接接触してみるしか方法はない、って」
馬宮の謎めいた言葉は、余計に芳音と望を困惑させた。だが再び問い質す暇もなく、エレベーターが最上階への到着を告げた。