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突き刺さるモノ 2

 昆布とかつお節でだしをとる。だしで米から炊く雑炊ならば、もし望の食欲がなかったとしても少しは口にしやすいと思ったからだ。

 あまり具は入れないように注意する。溶き卵と刻み葱、賽の目に小さく切ったニンジンで赤の彩を添える。目で愛で、鼻で満喫し、口で味わい、腹で糧とする。そうして初めて命を分けてくれた食材たちが報われる。そんな考え方をするようになったのは、一体いつのころからだろう。


 小学校のころは、飼育係を押しつけられてばかりいた。みんな塾や遊びや少年スポーツクラブなどで忙しかったせいだ。芳音の場合は通塾の必要はなかったし、スポーツは克美直伝で極真空手を嗜んでいたので、やはり必要性を感じなかった。遊ぶ仲間はほとんどいない。桁外れな長身がみんなを怯えさせていたことと、辰巳の行方不明が知られ始め、きな臭い家庭だから芳音とはつき合うなと親から言われている級友もいたからだ。克美に泣き言は言えなかった。相手の家に乗り込んでいくのが目に見えたので、愛美に当たり障りのない程度に愚痴っては、彼女の薦めてくれる甘いおやつで自分を慰める日々を送っていた。

 うさぎの出産に理科の先生と立ち会ったとき、怖かったのと同時に、ものすごく感動した。一生懸命育てている不器用な若い母うさぎが、克美の姿と重なった。

 愛美がつき添ってくれたお陰で自然ふれあい体験という宿泊イベントに参加出来たのも小学生のときだ。一日中飛び回ってようやく掻き集めた花の蜜を、人間が蜂から横取りしてしまう。それは仕事のためだし人間のためだとわかっていても、蜂に「ごめんなさい」と思った。必死で巣を守ろうとするミツバチが針で敵を刺すと命を落とすのだ、と図鑑で調べて知ったときには、泣いた。

 せっかくたわわに穂が実ったのに、台風がすべてなぎ倒してしまったことがある。そのとき肩を落としている農家のおじさんの見せた背中が、とても悲しかった。おじさんは毎日毎日、何度も田んぼを見に来ては、用水路から引いた水の調整をして、稲が育つのを見守っていた。ひどく疲れたおじさんの背中は、幼い芳音に「台風がおじさんの寿命を縮ませた」と台風を恨ませた。

 松崎養鶏場へ卵を買いに行ったとき、そこの娘さんが泣いておばさんと喧嘩しているのに出くわしてしまったことがある。いずれ捌かれると判っていたのに、娘さんがある一羽に名前をつけて可愛がってしまったのだ。おじさんとおばさんは、生活のためにその一羽も“商品”に変えた。勝手に名づけてペットにした娘さんが悪いのだ、とおばさんは悲しげな顔で叱っていた。芳音にはその善悪の判断がつかなかったものの、ただ確実に“自分たちの命がほかの命の上に成り立っている”ということだけは、痛みを伴う形で実感した。

 思えばこのころすでに、芳音の中には「多くの犠牲の上に自分の命がある」という概念が根を下ろしていた。そして中三の年に、最も大きな犠牲を知った。

『辰巳はきっと芳音の存在を信じて行ったんだよ。だから芳音に名前を遺していってくれたんだ』

『芳音のお陰でボクは生きていける、って思えた。あんなに家族を欲しがってた辰巳が、芳音を置いて逝くわけがない、って、信じることが出来たから』

 捨てられたとばかり思っていた辰巳が、実は自分と克美を守るために消えたと知ったとき、克美は芳音にそう言い添えた。芳音という存在を、“俺たちの楽園(エデン)の象徴”と見立てて名前をくれた。

 でも、それは克美のためについた“優しい嘘”でしかないのかも知れない。正解は、辰巳しか知らない。辰巳を知らない芳音には、予測さえ適わない。

 そしていつでも芳音の中の辰巳は、克美だけに笑みを向ける。自分には何かを期待していたのか、どうあって欲しいと願っていたのか、そんな類のことは何ひとつ解らない。

「ヘンなの」

 今日はやけに辰巳のことばかり考えてしいまう。

「ったく。全部のんのせいだからな」

 と責任転嫁を試みるも、敢えなく失敗に終わる。

 料理の腕を上げたいとか、望と進展があればいいなとか。こんな矮小で下らないことに悩んでいる自分など、ある意味で猛者だった辰巳や、ひとかどの立場を確立した穂高から見たら、どう贔屓目に見ても不肖の息子としか思えないだろう。

「道のりは……やっぱ、遠いなあ」

 そんな芳音のぼやきを聞いて慰めるかのように鍋が噴いて、芳音の関心を朝食準備の方へ引き戻した。




 雑炊のつけ合わせに厚焼き玉子を焼き上げたところで、ダイニングと寝室を隔てる扉がそっと開いた。

「……おはよ」

「貞子かよ」

 思わずそんな言葉を返したのは、望が恨めしげな目つきで扉の隙間から目だけを覗かせていたからだ。ぶっちゃけ、鋭い目つきがものすごく怖い。

「芳音、怒ってるでしょ」

「は? 怒った顔してるのはのんの方じゃん。っていうか、なんで俺が怒るんだ?」

 と芳音が指摘するのと同時に、望の表情が不意に和らいだ。

「どうせ女のくせに強面ですよー、だ。でもよかった。芳音、怒ってない」

 つ、とようやく扉がまともに開いた。やっとダイニングへ足を踏み入れた望は、すっかり着替えも済ませ、髪もきちんと整え終わっていた。

「やーん、朝ごはんが出来てるっ。やっぱり誰かに作ってもらう朝ごはんって、美味しそう」

 望は言うが早いか、芳音の問いも聞き流し、ちゃっかり席についていた。盛り付けを待って見上げて来る顔は、まるで餌鉢が目の前に置かれるのを心待ちにする仔犬のようだ。

「ほんっと、色気より食い気だな」

 と、芳音は噴き出しながら、出来立ての雑炊を望の前に置いた。

「厚焼き玉子に大根おろしも載せる?」

「うん。野菜系がないのね。私が何か簡単に作りましょうか?」

「や、俺もそう思ったんだけど、のんは冷え性だからサラダはアウトかな、と思って。今、根菜切らしてる。大根は中途半端な量しか残ってなくておろしに化かしちゃったし」

 そんな弁解を口にしながら芳音も小さなテーブルの一辺に腰を落ち着けた。

「やっぱり芳音には敵わないわね」

「へ?」

「作るものが、あったかい」

 食べる人の状態や気持ちを思いながら作ってくれるから、たとえ火を通さないサラダでも、きっと食べたらあったかい。

「昨夜はワガママ言ってごめんなさい。ありがとう。いただきます」

 ふわふわのオムレツみたいな笑顔が、ほんの少しだけ薄紅に染まる。気合を入れるかのように髪を束ねた望の横顔は、随分と昨夜に比べて健康そうな顔色を取り戻していた。

「……いただきます」

 ストレートに褒められると、どう答えていいのか解らなくて。結局芳音は望の言葉に何も返せないまま雑炊に口をつけた。


 望は酔っ払っていても、記憶が飛ぶ、ということはないらしい。

「自分ではあまり酔っている感覚はないのよね。ただ、いろいろごちゃごちゃと考えるのが億劫になる、っていうか」

 彼女はひと口食べ物を口へ運ぶたびに顔をほころばせながら、「あとに残らない」とか「飲んでから潰れるまでが長かったはずだけど」とか、「専門学校に入ってからは忙しくて飲みつけてなかったから、すぐに回っちゃったのかな」などと取りとめもなく酒を語った。

「高校までは飲んでたんだ」

 芳音の突っ込む言葉が意図せず尖った。自分の失言に気づいた望の顔が、一気に青ざめた。それは未成年の飲酒という意味ではないとすぐに判った。

 泰江の口振りから、家ではもう御神酒も飲ませないようにしているのは容易に推測出来る。穂高が留守がちな自分を自覚しているのに、家にアルコールを置いておくわけがない。望も買ってまで独り酒をするような性格ではない。だとすれば、飲む機会は多分、高校生当時ならばひとつだけ。

 いろいろと面倒なことを考えずに済む。だから自分の苦痛から逃げるためにアルコールへ逃げる、そのシチュエーションは、ひとつだけ。

「反抗期だったから、たまに、ね」

 満足げな笑みが翳り、望が苦しげに笑ってそう答えた。それでも、彼女は嘘をつかないでくれた。彼女自身をごまかそうとしなくなった。芳音は「それで充分だろう」と自身へ言い聞かせ、やはり無理のある笑みを彼女に返した。

 気まずい沈黙が少しだけ続いた。雑炊をすする小さな音と、時折零れるグラスを置く音。

「のん」

 堪りかねて先に口を開いたのは芳音だった。

「はい」

 にわかに強張った声と顔に、ツキリと胸が痛み出す。そんな顔をさせたのは、剣のある声で問い詰めた自分のせいだ。

「弁当、ついてる」

「え?」

 きょとんとした顔に、自分の顔を近づけた。

「微妙な位置に米粒つけてんなよ」

 それは芳音にしか見えていない“口実”という名の米粒だけれど。口許にそっと舌を這わせると、彼女がびくりと肩を上げた。

「デザートはのんの担当だろ?」

 口許に唇を寄せたまま呟いてみれば、そっと角度を変えて目を閉じてくれる。

 ――それで、充分じゃん。アイツらなんか、クソ喰らえ。

 守れなかった当時の自分を棚に上げて、望の過去を責める資格などない。頭ではわかっていても、未だに気持ちがそれについていけない。望に対する憤りではなく、やはり対象は相手のヤツらだ。何度潰しても何回殺しても、きっとそれは永遠に消すことなど出来ない気がする。

「か、の……ん」

「ダメ。まだ足りない」

 芳音は苦い過去という名の賞味期限が切れたまずい味を、甘くてとろける特別なデザートを味わうことで頭の中から追い出した。

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