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月と夜桜と、十二年ぶりの彼 2

 男がシャワーを浴びている間に、財布からもう一枚を失敬する。これだけお札が入っていれば、一枚くらい減ったところで今回もどうせ気づかないだろうし。

「ラッキー。これで取り敢えず学費分はゲット出来た」

 そんな思いや言葉とは裏腹に、ドレッサーの鏡に映る望の顔は無表情だった。それに気づいた途端、自然と眉根が寄せられた。

 そろそろ我慢の限界だった。何に対してかと言えば、何も知らずに鼻歌混じりでシャワーを浴びているあの男の存在そのものに。

 カードを使うと妻にばれるからと、現金を持ち歩いては若い子を狙う、バカでチャラい若作りの中年。望がナンパされた時の口説き文句は、芸能プロダクションの名刺と「トップスターにしてあげる」というベタで捻りのないテンプレートだった。左薬指からわずかに覗く指輪の跡を見て、最初から彼の魂胆を察していた。まるで似ていない風貌なのに、彼と自分の父親が重なった。

 それでも騙されたふりをし続けて来たのは、彼の人脈に興味があったことに加え、後ろめたさで常に持ち歩いている、この分厚い財布を利用価値ありと見做したからだ。

 彼にグルメ雑誌の編集長という男を紹介してもらってから久しい。その男とも個人的なやり取りが出来る今となっては、もうあの男に対する価値も関心もなくなっていた。

「あなたよりも編集長の方が、よっぽど舌を満足させてくれるもの」

 欲しいのは、お金と良質の食事を出す店と、当座をしのがせてくれるパトロンだけ。望は心の中で、改めて言葉に置き換えた。


 バスルームの扉を開く音が聞こえ、望は慌てて手にした紙幣をバッグに忍ばせた。男の財布を急いでジャケットの内ポケットに戻してベッドへ戻る。

「チトセちゃん、ごめん。今夜はその、なんだ……どうも妻に、勘づかれてるみたいでね、十時までには帰らないとまずいっぽいんだ」

 しどろもどろで告げる男のうろたえぶりに、思わず鼻で笑って答えた。

「そう。デート中も電話が鳴りっぱなしだったものね」

 彼の妻に勘づかせるため、こっそりと自宅へ無言電話を掛け続けたこの半月。それを言い放ってやりたい衝動を必死で呑み込んだ。

「ホント、ごめんな。そんな顔させて」

 そう言って男が望をそっと抱き寄せた。

(男って、やっぱりバカだ)

 単純に哂いたいのを堪えただけなのに、非恋を嘆いていると勘違いしている。その自意識過剰な彼の態度が、望を益々興醒めさせた。

「割り切ったおつき合い、って覚悟でいたもの。私は平気よ」

 望はそっと彼を押し退けて、バスローブ姿という不誠実な彼に、最後の笑みを惜しみなくくれてやった。

「一緒にいた時間、すごく楽しかった。今まで、ありがとね」

 先手必勝とばかりに言葉をたたみ掛ける。

「え? 今までって、それどういう」

「大樹の家庭を壊す気は、ないの。私にスターなんて無理ってことも解ってたし」

 恨みを買わないよう、素性を探りたくなるようなヘマをしないよう、相手に安堵を与えてゲームオーバーを宣言する。試合に負けて勝負に勝つ。それをいつものように繰り返すつもりで口にした。

「ドロドロしたのは、面倒臭くって苦手なの。だから奥さんとの修羅場みたいな心配しなくていいからね。私ってそういうキャラじゃないでしょう?」

 勘違いバカに気づかせるため、満面の笑みでそう告げる。その間にも、手早くバッグのショルダーを肩に掛けてベッドから腰を上げた。

「チトセちゃん、そうじゃなくって」

 彼の前をすり抜ける直前、腕を強く掴まれた。それは望にとって想定外のことで。

「大樹?」

 咄嗟に浮かべた表情は、自分でも解るほど剣呑な目つきになっていた。

(ちょっと、まだ茶番を続けなくちゃいけないの?)

 そんな内心が、目に表れる。彼の瞳に映った自分を見て、そう思う。追い討ちを掛けるように、彼がしどろもどろに言葉を次いだ。

「その、年甲斐もないと笑うかも知れないけど、俺は」

 いつまでもここにいるのは、ヤバい。なし崩しにまたヤられるなんて、メリットのない今となっては勘弁して欲しい、と思った。

「……桜が、見たいな」

 なぜそう思ったのか解らない。ただ、壁に張られたカレンダーの写真を見て、急に桜が見たくなったのだ。

「……そうだね。少し話そうか」

 上野公園ならここから近い。そんな言葉が安堵をまじえて望の鼓膜を不快に揺らす。望は身なりを整えた彼に肩を抱かれ、促されるまますえた臭いのこもる部屋を出た。




 見たかったのは、遠い昔に信州で見た、今にも倒れそうなあの桜。確か、ソメイヨシノというポピュラーな名前だった。

(芳音と一緒に登るたんびに、愛美ママや克美ママに怒られたっけ)

 温泉街にある別荘へ遊びに行くと必ず訪れていた。ふたりの秘密基地だったさびれた古い公園に佇む、老いたその桜の枝が好きだった。

『コラーっ、このクソチビっこどもっ! 危ないだろっ。さっさと降りて来いっ』

 克美の口汚い言葉、それと正反対の怯えを孕んだ顔さえもが、今ではとても懐かしい。驚いた望は、その時咄嗟に動いてしまい、バランスを崩して落ち掛けた。

『のんっ』

 ふわりと無重力になったかと思うと、きゅっと強い力に包まれた。

『いっ』

 そんな声が耳をつんざいたかと思うと、地面が顔すれすれに迫っていた。でも、傷ひとつ、痛みひとつ、望は感じていなかった。

『芳音っ! のんっ』

 克美の声に慌てて身を起こせば、自分と同じ顔がひどくゆがんで涙を零していた。あっという間にそれがぼやけ、頬に気持ち悪くて生ぬるいものが溢れていった。

『のんちゃん、抱っこ。ほら』

 愛美に抱き上げられて、初めて気づく。自分がヘマをした所為で、芳音が自分の下敷きになって高い桜の枝から落ちたこと。

『かのんっ。かのん、返事してっ。ごめんね、ごめんねっ。のんのせいで』

 克美が芳音を抱いて、愛美と一緒に走った。目と鼻の先にある病院へ。翠がずっと入院していた、温泉街にあるもぐりの診療所。克美の左腕の脇から、芳音の小さな手がぴくりと動く。それがピースサインをかたどった。

“だいじょうぶ”

 二本の指が、まるでそう言って望を安心させるかのように、二、三度くいくいと曲げられた。


 桜は幸せとぬくもりの象徴。優しい時間を思い出させる癒しの樹。今日に限って、なぜかそれがとても恋しかった。

(日記なんか読んじゃったせいかな)

 芳音のことばかりが思い出され、そんな自分にくすりと笑った。

「何かおかしなことを言ったかな、俺」

 まったく彼の話など聞いていなかった。花見で賑わう花見客の声さえも聞こえていないほど、満開の桜に見惚れたまま、ただぼんやりと歩いていた。

「ううん。ちょっと、思い出し笑い。大樹のことを笑ったんじゃなくって」

「話、聞いてなかったのか?」

 大事な話をしていたのにと咎められても、それは彼にとってだけのこと。

「答えに困る話なんだもの。聞いていなかったわけじゃないんだけど」

 聞いていたところで、どうせ現状維持を打診する言い訳や弁解だろうと踏んで、無難な回答を苦笑つきで返してやった。

「だから、君のことは妻に覚らせないよ。元々冷え切った夫婦仲だったんだ。離婚が成立したら、ちゃんと君のご両親とお会いしてご挨拶したいと思ってる」

「は?」

 地のアルトが飛び出した。この男は自分の立場や年齢、そして何より“チトセ”と名乗る見知らぬ小娘に対し、自分が何を言っているのか理解出来ているのだろうか。そんな疑問符がくるくる回る。

「だから、別れるなんて考えないで、ね? 待ち時間料だと思ってるから、こっちも黙って見逃してることもあるんだしさ」

「!」

 耳元に囁かれた言葉は、耳打ちの意味を成さないくらい、普通の音量になっていた。思わず周囲を見回す。血の気の引いていく感覚が、望の足をすくませた。

「とにかく、また連絡するから。着信拒否になんかしないでよ。ね?」

 抱かれた肩に、ぐっと嫌な力がこめられる。

「榊編集長とも会ってるんだってね。そっちはケンゼンなつき合いなの?」

 怒気を孕んだ声が、望の鼓膜だけでなく全身を這う。

「あの人の同期、週刊女性エイトの編集長なんだよ、知ってた? いいネタくれって頼まれてるんだけど、お嬢さまの裏の顔、とか、面白そうに書いてもらえるかな」

 ねえ、望ちゃん、と本名を呼ばれ、ついに歩む足が立ち止まった。

「?!」

 不意に体が解放された。かと思うと、また拘束される。けれど不愉快な男のような容赦のない力ではなく。柔らかくて温かな、それでいて息苦しい感覚。

「なっ、君っ」

 男の声が途中で遮られた。

「あんたこそ、姉貴の、何?」

 聞いたことのないバリトンの声が、頭上から男にそう問い質す。

(姉貴? 私のこと?)

 思わず正体不明の誰かの懐に納められた顔を無理やり上げた。

 頭上を覆う、満開の桜。その枝の隙間から見える黄金の月。哀しいくらいの三日月は、今にも消え入りそうな、新月間近の儚い月。

 その儚さを拒むように風がたなびかせる、濡れ羽色をしたセミロングの髪。それに望の長い栗毛が溶け合った。

「ねえ、なんであんた、姉貴と同じソープの匂いしてんの?」

 自分と同じ形をした冷ややかな目が、剣呑に細まり、深い皺を眉間に刻む。

「ねえ、あんたさ。既婚でしょ。指にリングの跡がガッツリとついてんじゃん」

 男がどんな態度と表情をしているのか、背を向けさせられているので解らない。解らないというよりも、そんなことはどうでもよくなっていた。

「知らないじゃ、済まないよ。姉貴、これでも十八歳未満だから。あんたヨユーで淫行罪にクリティカルヒットだよ」

 望の背に回された腕が、ひどく震えていた。見上げるその顔は、もし自分が男だったら、きっとこんな風に成長しただろうと思わせる。

「な、何を根拠に、君」

「北城大樹。ホリエプロダクション、企画部長兼ハンティングマネージャー。扶養家族、奥さんと三歳の娘さん、だっけ? 写真見せて自慢してくれたよね?」

 そう語る微笑が、いびつに左右非対称になっていく。

「君、どこかで……?」

「さすが、数打ちゃ当たる戦法で、手当たり次第スカウトする人だけあるね、北城さん。NATURE’s UNIONのことだけじゃなくて、髪を染めてないと俺のことも忘れる程度の軽さだったんだ……ふざけんな。NATURE’s UNIONは、そんなぬるい気持ちで音楽と向き合ってるんじゃない」

 自分を護る彼が、愛おしげに聞いたことのないバンド名を口にした。

「ねいちゃーず、ゆに……あぁっ?!」

「今回の野音ライブのドタキャンにはやられましたっす。オタクのアーティスト達が圭吾たちを慰めてくれてるよ」

 体温が、離れていく。代わりに望の手がきゅっと強く握られる。間を取って初めて気づいた。遠い昔は同じ背丈だったのに、父に勝るとも劣らない長身になっていた。

「ちょ、待ったっ。だから俺はユニットでというんじゃなくて、君個人をボーカルとして」

「うっせ、ばーかっ。のんは返してもらうぞっ。二度と圭吾たちのことも騙すなっ。今度信州にツラなんか出したら、ガチでぶっ殺してやっかんな、クソ親父っ」

 思い切り腕を引っ張られる。勝手に足が前に出る。もう震えていなかった。気づけば、自分の手を取る彼とふたり、桜の舞い乱れる中を全力で走っていた。

「は、話をっ、話を聞いてくれよっ」

 ――芳音君っ!

 大嫌いな男が、まるで望に教えるかような大きな声で、自分を連れ去る人の名を叫んだ。

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