先制攻撃 1
十二月二十四日。世間一般ではクリスマス・イブと認識されている日。この日は甘い夜を過ごす恋人たちで日本中が浮かれまくり、一時的に市場がわずかばかりの盛り上がりを見せる特別な日のひとつ、らしい。
らしい、と曖昧な表現で浮かんでしまうのは、穂高が若かった時代のイメージでしか想像が出来ないからだ。穂高の世代が愛だ恋だと浮かれまくる年のころは、まだバブル崩壊の影響が色濃くない時代で、派手なバカ騒ぎをするカップルが大勢いた。
とはいえ、穂高本人にはそういう思い出はない。異国の宗教に便乗した祭りの日というよりも、生母の命日だったり、自分自身の誕生日だったり、亡妻・翠の誕生日でもあったりと、重い意味合いが濃過ぎてクリスマスソングが耳障りで仕方がない。
そしてとうとう今年は四捨五入で五十路の冠をいただく年齢に達してしまった。秘書の馬宮には朝一番で「四十五なら、まだ充分若いでしょ」と、プライベート全開モードで手形が残るほど思い切り背中を叩かれた。そんな彼女は貴美子のふたつ後輩に当たるので、あと数年で還暦を迎えるはずだ。嫁いだ娘がいるとは思えない若々しさと頭脳明晰さは知り合ったころから衰えを知らない。お陰で彼女に代わる秘書を若い世代から見出せない。彼女の夫の理解に感謝しつつ、未だに働いてもらっている。そんな彼女や貴美子を見ると、自分もまだまだ、と思いはするものの。
「肝心の泰江がなあ……」
溜息とともにデスクに突っ伏す。人の目がない社長室でしか出来ない子どもじみたこんな態度は、時折馬宮に見つかって苦笑いをされるのだが。
イベントデーということもあり、挨拶回りで忙しい営業や行事ごととは無関係に年中多忙な開発部以外の社員や幹部は、異常な速さで仕事をこなして定時きっかりに退社してしまった。無理やり接待や会談のスケジュールを入れたくても、先方も家庭サービス優先であればごり押しは出来ない。そして馬宮は週末のイブということもあり、夫とフルムーン旅行だと言って午後から早退している有様だ。貴美子を相手にするのは勘弁したい、と思いつつコールしてみたが、
《月曜まで電波の届かない場所にいます。私用を御遠慮いただいた上、緊急の場合は以下の番号で久我を呼び出してください》
という呪いの応答メッセージを聞かされた途端、早々に通話を切った。以下の番号とやらが、何度か自分もコールしたことのある忌まわしい場所の代表電話番号だったのだ。その番号で思い出した。そもそも貴美子の方が、イベントのある日はホスト遊びで忙しい。
「……どっちに帰ろっかな」
知らない人が聞けば目を剥きかねない独り言がぽろりと落ちる。
父親の顔をして、望のいる最上階へ帰るか。
夫としての立場を味わいに、泰江のいる二階で過ごそうか。
「つうか、いつまでこんな二重生活をさせる気やねん」
すっかり面と向かっては言えなくなった隠れ鬼嫁に向かってそうごちた。
運転手は今年初孫が生まれたばかりで、やはり初孫とのイベントに遅れるのが心の引っ掛かりだったらしい。辺りがクリスマスソングで賑やかになり始めたころ、それとなく初孫の話を聞かされていた。それを聞いた穂高は、孫を見ぬまま若くして亡くなった渡部の養父に思いを馳せた。実親以上によくしてくれた養父に望を見せてやれなかった代償行為、かも知れない。穂高は運転手にも定時退社を与えたいと考え、今日はマイカーで出勤した。
取り敢えず自宅への道を進みながら、信号待ちの間に望へメールを送った。
《今から帰る。ディナーにでも行けそうならば予約を入れておく。泰江と相談して話が決まったら要返信》
とは言え、急なリザーブなどという無理を言えるのは、貴美子の経営するレストランくらいしかないが。
信号が青に変わり、先を進む。かれこれ十分が経過しようというころ、さすがに返信がないのを不審に思った。泰江にコールすると、すぐに電話は繋がった。
『もしもし? パパさん? 今日は早くあがれたんだね』
「ああ。週末のクリスマス・イブやし、みんな気もそぞろやったさかいに、こっちも早々に切り上げた」
『そっかぁ。じゃあ、今年はお誕生日のお祝いが出来るね。明日はおやすみなんでしょう?』
「そのつもりで、外に飯でも食いに行くか、って望にメールを送ってみたんやけど、返事が来いひん。どこかへ出掛けてるんか?」
そこでなぜか一瞬の沈黙が挟まった。
『えっと……気を利かせてくれた、のかな』
「は?」
しどろもどろと伝えられた泰江の話を要約すると、望は泊まりで友達のところへ出掛けたらしい。そして望には口どめされているのだが、穂高への誕生日プレゼントとして、友人何某の家で明日のランチの下準備をしているのだとか。
『のんちゃんは今年のコンペに出場出来なかったけれど、その子が校内の選抜試験に通過してコンペで特別賞を取ったらしくて。レシピを教えてもらうんだ、って張り切っていたよ』
年ごろの娘が父親に事後報告で尚且つ泊まり、そこは正直いただけない。とは思ったものの、自分のために張り切っていると聞いてしまえば、小言よりも先につい口許がゆるむ。
「そか。まあ、祝ってくれるだけありがたいと思っておくか」
そんな程度の愚痴にとどめることが出来た。
「ほんなら……出掛けるよりも、部屋でゆっくりさしてもらっても、ええか?」
自分が泰江に買い与えた部屋ではあるが。彼女は自分の妻であるはずなのだが。どこか遠慮がちになってしまうのは、もう癖に近いものだから今更直しようがない。
『うん。そうしてもらうつもりで連絡を待ってたんだあ。何も食べずに帰って来てね』
久しぶりに少し甘ったるい声でそう言われると、くすぐったい思いから苦笑が漏れる。
「了解。出来るだけ早く帰る」
想いとは裏腹にぶっきらぼうなひと言を返すと、早々に通話を切って行き先を少しだけ変更した。
今夜なら、何かプレゼントを贈ってもちゃんと受け取ってくれるかも知れない。自立心旺盛なのは結構だが、泰江はいつまでも、互いの間に一線を引き続ける。彼女にとって今日という日は、穂高の意向を尊重してもよい唯一の日なのだろう。こちらの好意を受け取ることがプレゼントだと自分に言い訳の出来る日だから。
「それでも、形に残るものやったら受け取らんのやろうな」
容易に想像のついたそれとともに、疲れたような溜息が漏れた。
泰江の中では今も翠が生き続けているから、彼女の中の翠が穂高の妻であることを赦さない。生前、翠が泰江に謝り続けたことによって、逆に加害意識を泰江に植えつけてしまったせいだと穂高は思っている。
“泰江ちゃんから穂高を奪う形になっちゃうのに……本当に、ごめんなさい”
それが泰江にとっての呪いの言葉。翠が遺した生前の想い。
『恋にあとさきはないと思うの。なのに翠ちゃんをたくさん苦しめた。私は最初から、穂高さんには翠ちゃんしか見えてないんだって解っていたくせに、つけこんだから。なのに翠ちゃんは私を責めたり恨んだりしなかった。そんな自分は、キライ。だけどそれじゃあ私を必要だと思ってくれた穂高さんや翠ちゃんに顔向けが出来ないから。自分で自分を罰するしか、償う方法がないんだもの。そうすることで、自分を嫌いにならないようにするしかないんだもの』
若いころ、他人行儀な姿勢を崩さない泰江を問い詰めたら、そんな答えが返って来た。穂高に反論する権利などなかった。大元を辿れば自分の強欲が原因なのだから。
口寂しさのあまり、煙草に火をつける。望に毛嫌いされてから車内禁煙を貫いていたが、もう彼女が親と一緒に出掛ける機会もめっきり減ったので構わないだろう。
「自業自得、か」
心とは、本当に侭ならないもの。選べなかった自分を責めるなどという、無意味で不毛な概念はもうなくなった。だが、最も愛する“ふたり”を泣かせた過去は事実であり、傷つけた加害意識は穂高の中で、いつまでも疼き続けるのだろう。
恋は熱病、はしかのようなもの。いつか必ず終わるときが来るもの。そう思って、翠に惹かれていたものの、穏やかな心持ちで過ごせる泰江を選んだ。
恋愛に対するそんな概念を丸ごとひっくり返した翠に翻弄された。結果的には泰江に背中を押される格好で、苦労の末にようやく翠を手に入れた。
自分を主軸に考えれば、思うように選び生きて来た。これまでを悔やんだことは一度もない。だが、泰江にとって今の在り様は、本当にベストなのだろうか。
人の心は、腹立たしいほど侭ならない。そんな思いを言葉に置き換え、繰り返す。
自分の心でさえそうなのだ。いわんや他者の心をや。
最も腹立たしいのは、芳音と望、それぞれの恋心だ。いっそバッサリと斬り捨ててやれたらどれだけ楽だろうと思う。
望に「芳音とのことを見守って欲しい」と泣きつかれた数日後、姪の華に愚痴を零した。華は望より一回り年上の従姉に当たり、穂高と望との中間の世代に当たる年代だ。穂高自身も華には姪というより妹に近い感覚が強く、華は昔から何かと相談のしやすい気楽な存在だった。
そんな彼女に零した愚痴は、
『華の母親と俺は実の姉弟と違うけれど、俺には姉貴としか思えないし、姉さんも当然同じやろう。だから望と芳音の話を聞いたときも、気色悪いとしか思えんかった。それが先に立ってしもて、理解するところまで思考が追いつかん』
といったような内容だ。それを聞いた華に言われたことが衝撃的だった。
『じゃあ、私も穂高ちゃんには気色悪いと思われちゃう、っていうことね。昔告白なんかしておかなくってよかったわ』
そんな言い回しで過去のこととして、華の初恋相手が自分だと初めて知らされた。
『翠さんを紹介してもらったとき、ああ、敵わないなあ、って思ったの。だって穂高ちゃんったら、すごくテンパってたんだもの。自分が守らないとお母さんが翠さんにどんなプレッシャー掛けるかって、すっごいハラハラしてるのが、中学生如きの私にさえ丸判りだったのよ。覚えてる?』
ただただ驚いて、言葉を失った。人の心の機微には聡い方だと自負していたのに、可愛がっていた姪の、しかも思春期という繊細な年頃の想いにまるで気づいていなかった自分に呆れて絶句した。
『穂高ちゃんが気づかないのは当然よ。だって、翠さんしか見えていなかったんだもの。私ね、穂高ちゃんのことが大好きだったから。翠さんなら安心して穂高ちゃんを委ねられると思ったから、何も言わずに諦めることが出来たの。穂高ちゃんの幸せが最優先と思えていた当時の私を、気色悪いなんて思わないで欲しいな』
それを聞いたとき、驚きはしたが、気持ち悪いとは思わなかった。そのままを華に告げると、
『ということはね、穂高ちゃんが望ちゃんと芳音くんのことを反対している理由は、別のところにあるはずなのよ。腹を括ってそういうちっぽけな自分を認めないとね』
と、小生意気な不遜の笑みを返された。そんな華も今では年子の母親が板についた一人前の大人になっている。この年になると、一回りの年齢差などないに等しいと思い知らされる。渡部の血を受け継ぐ女たちは、どいつもこいつもしたたかだ。いつも穂高はこんな風にやり込められる。
「子離れしろ、ってか」
別に望に固執しているつもりはない。ただ、翠と負の連鎖を続けるかのように幼いうちから辛酸を味わった――否、味わわせてしまったから。
「これ以上、しんどい思いをさせたくないだけや」
はしかのような苦しみを超えられるほどの相手は、何も芳音でなくてもいいはずではないか。
曰く付の子ども。潜在的な破壊衝動を持った海藤辰巳の血を受けた子。無戸籍でどこの誰なのかも判らない守谷克美との間の子。表面化していないだけで、心の奥深くに闇を抱えているかも知れない子。
「俺でさえ、翠のことで難儀したんやぞ。翠以上の爆弾に近い芳音の相手が、望みたいな甘ったれに務まるか」
そう、爆弾を抱えるようなものだ。実際、善悪の区別もつけず、辰巳の真似事をしていた時期もあったらしい。藪の話だと、芳音は自分を追い込む性分のようで、破壊衝動が内面や己の体へと向かっていく。それは翠の障害にも似通った傾向だ。それをとめるのに、どれだけ苦労したか。
「……」
どれだけ芳音の悪態を思い巡らせても、自分の中から消えてくれない泣き顔が鮮明に蘇る。
――ホタ。どうして僕だけ、ママがいっぱいでパパがいないの?
穂高のベッドへ潜り込んで来た幼い少年が、望とよく似た声変わりもしていない声で「ママたちには絶対に言えない」と、唯一同性の保護者に近い存在である自分を頼ってそう零した。その泣き顔を見たとき、翠の遺言や辰巳への当てつけとは無関係に、芳音を愛おしく思った。平均よりも大きな子とはいえ、大人から見ればまだ華奢な身体をしている小さな小さな子どもだった。なのに、母親に気取られまいと必死で笑っていた。そんな芳音を我が子として心から欲しいと思った。
「俺が親父になったるって言うたやん。裏切り者」
芳音に見限られた気がしたのだ。零した愚痴がそう知らしめる。
「うざ」
考えるのがバカバカしくなった。穂高は思いつくままに浮かんだすべてを揉み消すように、煙草を灰皿に強くねじ込んだ。
外商取引のある百貨店のアロマコーナーに立ち寄り、泰江の担当が述べる助言を参考に、十三種類のアロマオイルを購入する。量り売りをしてくれるので、少量を数多く揃えることも可能らしい。香り比べでも楽しめればと思い、そんな形にしてもらった。
「十三種類って、何かこだわりがあるんですか?」
担当が世間話のつもりで、箱には収まるものの五種類単位がポピュラーだといった話をした。
「少し早いんですが、来年の三月で結婚十三周年なんですよ。うちはクリスチャンではないので、前祝ということで贈ろうかと思って」
泰江はその日に何か贈ったところで、どうせ受け取りはしないだろう。というのは胸のうちにとどめておいた。
「まあ、そうなんですか。奥さまが羨ましいですわ。うちの主人なんて誕生日すら忘れてるんですよ」
そのあとに続いて語られた担当女性の愚痴は、無頓着な彼女の夫に「求められることが幸福であることを忘れるな」と説教をしたくなるほどの羨ましい内容だった。
ガレージに車を納めて運転席から降りると、早々に気持ちをシフトさせた。このところ望や芳音に関する話題に終始してしまい、泰江とは口論の一歩手前までいってしまうことが多い。別に誕生日をことのほか意識したことはないが、女はそういうイベントをだしにして和解を計るのが好きらしい。泰江もその類に漏れないというのが先ほどの口調で再認識出来た。ずっと漂っていた気まずい雰囲気を今日のうちにすべて消すことが出来れば、それに越したことはない。
こちらがうっとうしい顔のままで帰らないことが、当然の大前提だった。駐車場からマンション一階のエントランスへ続く裏口の扉に鍵を差し込む。電光掲示板が四桁のゼロを浮かび上がらせ、暗証番号の入力を促した。それを入力して鉄の扉を開けると、
「パパさん、おかえりなさい」
泰江がエントランスまで出迎えに来ていた。
「……どしたん?」
今までにない対応が穂高にそう問わせた。
「うん、えっと、ベランダからパパさんの車が見えたから、降りて来たの」
薄く頬を染めてそう答える泰江は、その身丈の小ささも手伝って四十路には見えない微笑を零す。そのときの穂高は、彼女の珍しい反応に気を取られ、エレベーターの昇降ランプの動きに気づかなかった。
「なんや。サロンの予約はスカスカやし、望は友達にもっていかれたしで、寂しくなったとか?」
「あはは~。そうかも~」
ゆるい弧を描く泰江の細い目が、ちらりとエレベーターのランプを見た。泰江の部屋もある二階でしばらく停まっているようだ。
「ほかの部屋の人のところにもお友達が来てるのかな。結構長いねえ」
穂高も階層表示のランプを見上げたからか、泰江がそう言ってジャケットの袖を引っ張った。必然的に目線を泰江の許へ戻すことになる。
「も?」
「あ。うん。なんかね、賑やかにしてしまうかも知れないので、って、同じ階の方がご挨拶に来たの。そちらはもう始めているみたい。若いっていいよねえ」
そうこう話しているうちに、エレベーターの扉が開いた。
「お前の影響か? 最近、華が似たようなことを言い出したで」
「同じって?」
「若いっていいな、って話」
他愛のないそんな話をしながら、泰江を促して二階のボタンを押す。
「え~、私、華さんの前ではそんな話してないよう。だいたい華さんってまだ三十になったところでしょう」
エレベーターの扉はほどなく開き、そして十歩も歩けば泰江の部屋に辿り着くほどの近距離だ。乗り込むときとはまるで異なり、彼女は我先とばかりにエレベーターを降りた。そしてなぜか自分しかいないはずなのに部屋のドアホンを押している。
「何しとん?」
「……えへ」
穂高の問いに対する答えは、泰江からではなく“部屋の中から”開かれた扉の向こう側に立っている面々から返って来た。
「はっぴばーすでー! ホタ!」
という声とともに弾けるクラッカー音。思わず固く目を瞑って耳を塞ぐ。恐る恐る目を開けて不法侵入の輩が立っているほうを見れば、悪びれもなく満面の笑み(ただし、段差のせいで腹が立つほど不敵に見下す且つ、嫌なヤツを思い出させられるほどにそっくりな笑み)を浮かべた“望にまとわりついている一番手強い虫”が玄関先で穂高を出迎えた。
「四捨五入五十路入り、おめでとうございます、パパ」
と、虫の隣で醒めた目をして冷静にクラッカーを鳴らしたのは、望だ。
「おじゃましてまーっす! 望の同期の河野百花です! 生で渡部の社長が拝めるって聞いて押し掛けて来ました!」
「先日はどうも! ご苦労さん、もとい、“とっとと帰れ”の君塚です、また来ました!」
と連なって咆える賑やか担当らしき、子どもらの友人たち。その向こうに、無言でクラッカーを握る男女が各一名。彼らもこのバカ似非息子と放蕩娘の悪友だとは想像つくが。
「お、まえ、ら……」
ふつふつとはらわたが煮え立って来る。
「あ、ホタ。泰江ママやのんを怒らないでやってな。これ俺と君塚のホタへの仕返しだから」
「って、芳音、速攻ネタバレしてどうするんだよ」
ビジネスバッグを握る手までもが小刻みに震え出した。
「男子は素直じゃないなあ」
「ねえ、三文芝居はこの辺にしましょう? うちの親をいつまでも玄関口に立たせておくのもどうかと思うんだけど」
この娘は友達の家で自分のためにせっせと昼飯の下準備をしてくれていたはずではなかったか。
「望、泰江に嘘をつかせたのか。友達の家でどうこう聞いていたんだが」
と唸る声が玄関のたたきを這うように滑る。望はしれっとした顔で言葉を返して来た。
「この課題が終わったら、みんなで芳音のアパートに泊まってランチの下準備をする予定だもの。うそはついてないわよ」
「!」
「あ、パパさん、あのね」
と仲裁に入り掛けた泰江を黙らせるため、穂高は彼女にバッグを突きつけた。
「ガキども全員上に来い! ここは俺と泰江の部屋だ、出てけ!」
言うが早いか望の腕を掴み、玄関の外へ引きずり出す。必然的にまずは芳音が飛び出し、続いてほかの悪友どももぞろぞろと出て来る。
「ね? 絶対お母さんの部屋から奇襲掛けるほうがよかったでしょ?」
と望が言えば、芳音が
「うん。このまま泰江ママのところに入り浸られたら待ちぼうけ喰らうとこだった」
と返している、それに引っ掛かりを覚えた。
「お前ら、何を企んでる」
「相互扶助」
意味の解らない答えは、絶対に芳音の嫌がらせだ。そういう食った態度が腹立たしいほど辰巳に似ている。
「意味わからんわ! 部屋でガッツリ聞くから覚悟しぃやッ」
持て余していた憂う気分は、ガキどもの暴挙のせいで完全に消え失せていた。