関心事 2
――やっといつでも好きなときに芳音と逢える。
それが、お互いに辻本調理師専門学校へ通えると判ったとき、望が最初に思ったこと。
芳音が引っ越して来てからは、実際毎日のように逢っていた。食器や雑貨を買いに行ったとき、芳音から
『ちゃんとしたのは一緒に暮らすようになったときに買うから、今回はディスカウントショップを案内して』
と当たり前のように言われ、頬が熱くなってとても困った。調理家電だけは一緒に悩み、それなりのものを買った。そのときも、必ず彼は望の意向を合わせ考えて選んでくれた。お互いに顔立ちがきついせいか、実年齢より老けて見られる。店員に「新婚さんですか」と言われた芳音が、耳たぶまで真っ赤にして「はい、あ、いえ」としどろもどろになっていたときの顔には笑った。
近所を一緒に散策して地理や店を把握したり、気になったお店を巡ってみたり。泰江への挨拶に来たときやそのあとも、「逢えなかった十二年の間、のんが何を見てたのか俺も見てみたい」と言って、何日も掛けて望の中高時代の通学路やよく行った場所などを一緒に巡り歩き、すべて楽しい思い出に上書きしてくれた。当時の望は、それが四月以降もずっと続くと思っていた。
走り出したらとまることを知らない芳音は、入学式以降からなかなか掴まらなくなった。毎日メールは届けてくれる。何回かに一度は“電話してもいい?”と聞いて来て、声も聞かせてくれる。
でも、七海とその恋人のような楽しそうで甘やかな時間は、まだ一度も望のところにはやって来ない。
“解ってる。ふたりでおんなじ夢を実現させるために頑張っているのだから”
おまじないのように、何度も心の中で唱える。あっという間にそれが日常になっていった。芳音が忙しいから、というだけの理由で逢えないわけではない。むしろ夜学の部もある望の方が、就学時間については芳音よりも長かった。ただ、休日が来るたびに余計なことを考えてしまうだけだ。自学や家事や予習でもすればいいのに、そして実際こなしているのに、心のどこかが暇を持て余している。聞き分けのない駄々っこな自分が顔を覗かせる。
そんな自分に辟易としていたところへ、堤果穂の存在を知るところとなった。
自暴自棄に走らずに済んだのは君塚のお陰だ。間に芳音さえ挟まっていなければ知り合うことさえなかったのに、彼は芳音の友人として望を心配し、休日のプライベートタイムを恋人ではなく望のために使ってくれた。
“夢と望ちゃんを天秤に掛けさせるようなことは、しないでやってくれると嬉しいかな”
堤果穂と芳音の間柄を知っている君塚からの忠告だ。彼にはただの幼馴染だと弁解したが、受けた忠告には横っ面を引っ叩かれた気分になった。芳音の邪魔はしたくない。芳音のお荷物にはなりたくない。強く、そう思った。
忠告へのささやかな恩返しのつもりで、君塚とその恋人の喧嘩を取り成した。それをきっかけに、七海ペアと君塚ペア、寂しい者同士という括りで佐藤と望との六人で休日や学校帰りに遊んで帰るなど、一緒に過ごす時間が増えていった。
佐藤の片恋相手に気づいたのも始めは君塚だった。
(ね、今度映画を見に行くとき、河野さんも誘えないかな)
佐藤が百花とまともに話をしたのは、合コンのとき一度だけだ。あとは時々彼らとの待ち合わせに百花がつき合ってくれたとき、軽く挨拶を交わす程度だ。
七人の大所帯で集まると賑やかこの上ない。そしてなんといっても七海が仕切り役だ。仕切り役がいればマイペースに徹する百花のことだ、居心地悪そうに黙り込んでいる佐藤を見ればお節介心が疼くだろう。そんな君塚と望の予想通り、自然とふたりの会話になっていった。それは望が傍から見ていて羨ましさの混じる微笑ましい光景だった。
そしてまた振り出しに戻ったことに気づく。
百花は佐藤の恋心にまだ気づいていないようだが、彼らの恋路の邪魔になることはしたくない。望はそんな思いから、あまり口を挟まないよう心掛けることにした。相槌と愛想笑いに終始しながら、三組のカップルを羨ましげに眺める時間が増えていった。
芳音を信用していないわけではない。
芳音を責めたいわけでもない。
ただ――少しだけ、「こんなはずじゃなかった」という幼稚なワガママを自分で巧く消化出来ないでいるだけだ。
紛らせる方法が、いつからか少しずつゆがんでいった。隠すことでもないのに、今まで以上に共通の知人との会話や会ったことなどを芳音に語らなくなった。寝てしまって気づかなかった振りをしてメールを無視することが何度か。
(ワガママを言って、芳音の重荷になるのは、イヤ)
物分りのいい恋人であろうと頑張っているだけだ。自分にそんな言い訳をしながら、実のところ芳音に嫌な形で当たっていた。
そんな自覚があるくせに、今回も芳音に何も言わなかった。今日の言い訳は、百花が「君塚たちからアドバイスが欲しいと言われたから望もつき合って」と伝えて来たのが今日の朝一番だったから、というものだ。昼休みにメールで芳音に知らせることも可能だったが、それについては「講師からは実習終了後に知らされるだろうから、楽しみを奪っちゃいけないと思って」という弁解を用意して、だんまりを決め込んだ。
だから、悪いのは自分だ。望は心の中だけで訴える。
気づいて欲しい相手は、君塚の手で髪を拭ってもらっている望を斜め右の席から睨んでいる。
話しながらチーズケーキのベリーソース添えを食べていたら、束ねた髪が前に垂れてしまい、ソースが髪についてしまったのだ。
目の前に座る男子が、同時に手を動かした。内、ふたりが、ペーパーナフキンへ伸びそうだった手を自分の方へ引き戻した。佐藤がそうしたのは、望に気があると百花が勘違いするのを恐れての躊躇だろう。芳音が手を退いたのは、プライベートを知られて校内でからかわれるのがうっとうしいと公言しているからだ。皆の邪推を敬遠したくて手を引いたと望は推測した。君塚が彼女もちなのは、ここにいる全員が知っている。そして座っている配置からも、望の真正面に座っている君塚のサポートが最も自然だ。下心ゼロの信用のもとにそういう気障な機転を行使出来るのは彼しかいない。だから、しょうがない。
(だから、睨まないでよ。君塚くんが悪いわけじゃないでしょう)
芳音が人前でここまで露骨に不快感を漂わせるのは初めてだ。罪悪感は芳音に対してよりも、自分の幼稚な嫉妬のせいで友情にひびが入りそうな君塚に対しての方が大きかった。
「それにしても、ホントに髪を綺麗に伸ばしてるよね。初めて間近で見たけど、美琴が羨ましがるわけだ」
君塚は滴るほどについてしまったソースをおしぼりで拭い切ると、それで髪の束を包んで望の方へ差し出した。美琴、と恋人の名を口にするくせに、ちゃっかりと両手で望の手を開かせ執拗に見えなくもないやり方で望の不始末をフォローする辺りが策士くさい。
「美琴ちゃんに私の紹介カードを渡したけれど、そこの美容院の予約は取れたみたい?」
さりげなく君塚の手から自分の手を引きつつ、芳音を刺激しない無難な方へと話題を逸らした。
「うん、さっそく。一緒にスタッフの話を聞いたんだけどさ。髪質が望ちゃんと違って重みを感じさせる色だから、カラーリングとシャギー入れてみたら、って薦められて、最終的にはショートになった」
そう言って携帯の待受画像を見せてくれる辺りは、君塚の本命が誰なのかというのが顔にまで出るので心地よい。見せてもらった画面を四人で一斉に覗き込んだ。
「うっわ、全然いいじゃん。美琴は童顔だから、こういうヘアスタイルの方が可愛さアップするわね」
百花がそう絶賛すると、君塚は少しだけ頬を染めて笑った。
「へえ。君塚の彼女って、可愛いね。こういうこと許してくれるんだ」
と、淡々とした口調で呟いたのは、芳音だ。
「こういうことって?」
「写メ持ち歩かせてくれるとか、晒しオッケーとか。いい顔して笑ってるよな。君塚が撮ったんだろ、これ」
「うーん……無理やり撮らされて、勝手に設定されたんだけどね。虫除けなんだと。嫉妬深いのが珠に瑕。こっちに余裕がないときは、正直なところ、たまに重く感じる、かな」
途端、空気が凍った。芳音が思い切り溜息をついたせいだ。大袈裟なほどのそれに、皆が視線を芳音に向けた。この中で望だけが二度目に見る目つきだ。彼の敵意まみれの視線が君塚を睨みつけていた。
(大樹に向けたときと……同じ?)
一年前、北城大樹に窃盗と援助交際の事実をネタに脅されていた望を助け出してくれたときに芳音が見せた目は、相手に物理的なダメージを与えかねない威圧感と狂気を孕んでいた。今の芳音はそれに近い負の感情を瞳の中に宿している。フォローしなくちゃ、と思うのに、舌が完全に固まっていた。望には、君塚が何を意図して芳音をそんな風に煽っているのか解らなかった。
「お? 君塚、それは問題発言よ? 私と望で美琴にチクっちゃおうかしら」
百花はおどけた口振りでそう言うが、雲行きの怪しい内容と、がらりと変わった雰囲気には敏感に反応している。五人の周囲にだけ暗雲を運んだ元凶の張本人が、自分だけテーブルに頭を寄せた中からついと身を引いた。それをきっかけに全員が突き合わせた頭を引っ込め、椅子の背もたれに身を預ける。
「百花、君塚くんの場合、その逆が本音だから。本気でうっとうしかったら、そもそもこんな風に見せてくれないでしょうし、黙って削除しちゃう人でしょう」
一瞬動揺したものの、望は百花の声で理性を取り戻し、ようやくそんな機転を思いつくことが出来た。
「言われてみれば。なーんだ、奢り狙いで脅しても無駄かー」
と百花が更なるフォローを入れた。だが、もう男子勢の中でその話は終わっているらしい。前に座る三人を見れば、芳音が書き出したメモを佐藤と見ながら何か相談をし始めていた。そこへ君塚も加わって話し込んでいたが、もう芳音はいつもの調子に戻って君塚と接していた。適当に流れていく他愛ない話の中、それでもひとつだけ望の中で引っ掛かり続けていたものがあった。芳音は最後まで、望とだけ視線を合わせなかった。
二学期からは、コンペ出場者が研究のために実習室を使うので、パティシエ専科の実習室使用権が後回しになる。夜学がなくなったのでこうして自由時間を取れるようになったものの、そういった予定は親にも通達済みなので帰りが遅いと心配する。特に、父親が。
「今日はホタが帰って来る日なんだ」
望が先に帰る意向を伝えると、芳音が最初に言葉を返した。
「ええ。さっき髪を流しにトイレに行ったとき、メールチェックをしたらお母さんから連絡が入っていたの」
一時間ほど前に見せた表情が消えていつもの芳音になっていたことに、ほっとしながらそう答える。こちらに連絡がないということは、二階で過ごすか抜き打ちかの二者択一だ。後者だった場合、また長い説教が始まるに違いない。そんな愚痴めいた答えを全員に返し、
「過保護な親なの。場の雰囲気を壊してごめんなさい」
と軽い謝罪を添えて席を立った。
「ま、八時を回ってるしね。このあとみんなで飯でもと思っていたけど、解散にしよっか」
君塚の音頭で皆が帰り支度を始めてしまい、戸惑った。
「え、いいわよ。普通ならまだ早い時間でしょう。みんなはゆっくりしていって」
「んー、でも、望ちゃんのお母さん、すごい心配しそうだし」
君塚がそこで口を閉ざす。一瞬、妙な沈黙が漂った。
「君塚、望のお母さんと会ったことあるんだ」
と尋ねたのは百花だ。心の中だけで悶絶する。百花、空気を今こそ読んで欲しかった。
「ヤボ用で、一度だけお邪魔したことがあるから。ほら、例の件で」
例の件とは、恋人の美琴と喧嘩をしたことを指す。取り成したのは望と七海だが、お互いが共通の友人となってからは、その顛末を百花も知っている。だが芳音がそれを知らないので、色々と憶測を巡らせやすい情報量でもある。
「望ちゃんのお母さんもかなりの心配性っぽいから、家まで送るほうがお小言の数も減るかな、と思って。な? 芳音」
策士の笑みが芳音に向けられると、芳音から完全に表情が抜け落ちた。
「確かにな。俺は反対方向だから、君塚、よろしく」
どうしよう。望がうろたえて口をつぐんでいるうちに、男子陣が会計を済ませてしまった。
五人で駅まで戻り、改札へ向かう途中で芳音がいきなり「ロッカーに荷物を預けていたのを忘れていた」と言い出した。
「悪い、ちょっと取りに行って来る。先に行ってて。のんのお母さんに渡すものが入ってるから、これ借りてく」
とつけ加えたなり、望の腕を強引に掴んで引き寄せる。「これ?!」と怒る暇も与えられないまま、みんなとは逆方向へ引きずられていく。
「ちょ」
「改札で待ってるよー。ごゆっくりー」
と手を振っている君塚が目の端に映った。策士の意地悪な笑みの両隣では、呆然とした顔の佐藤と百花が立ち尽くしている。彼らが君塚に向き直り、百花が彼の襟首を掴んだところで望の視界にいた友人たちの姿が見えなくなった。芳音に引きずられた望の身体が、右へ道筋を折った芳音とぶつかる格好になったせいで視界が遮られたらしい。それを認識するのに、ひどく時間が掛かってしまった。
「ムカつく」
誰に対する言葉なのか解らない芳音のひと言が、望の意識の大半を奪っていた。