関心事 1
肉弾戦覚悟で臨んだ“VS克美課題”も、結局は肩透かしを食らうほどあっさりと受け容れられた。東京へ戻る電車の中で望にひと通りの報告をしたら、
『きっと芳音の先々を考えて、軍資金として一時預かりをするつもりなのよ。芳音が後々受け取りやすいように、って』
と羨ましそうに笑った。
『どういうこと?』
『だってほんの数ヶ月前までは、克美ママの世話にならない、って言い張っていたんでしょう? 私もね、入学式のときに買ってもらった服、お母さんがプレゼントしてくれたんだけど、やっぱり少し気兼ねを感じてしまっていたの。そうしたらお母さんが“サロンのお客さまにお茶をお出ししてくれたバイト料だと思って”って。うわあ、私の弱いところ突いて来たあ、って、ありがたく受け取らせてもらったんだけどね。きっと克美ママもお母さんと同じ気持ちじゃないかな、と思う』
『意地っ張りにはひと手間掛けた心配り、ってヤツっすか』
『そういうこと。癪だけど当たってるし、しょうがないわよね』
お互い親に対する意地の張り方が人並み以上だという自覚がある。それだけに、どちらからともなくばつが悪そうにぎこちなく笑った。
『弱いトコ突くって? のんにも弱点があったんだ』
芳音がからかい半分でそう突っ込んだ。てっきり怒るかと思ったのに、望は更に困った顔をして、笑った。
『七海や彼女の彼から話を聞いて、いいなあ、って』
ふたりはバイト代を積み立てて来ていて、この春に卒業旅行を敢行したそうだ。あとで親にバレて怒られたらしいが、そのとき親に言った七海の言葉が
“自分たちの稼いだお金をどう使おうと自由でしょ!”
という、言ってみれば悪あがきの口答えだった。
『特に七海のお父さんやお母さんの心配はそこじゃなかったんだろうな、とは思うけれどね。ただ、たとえ屁理屈でも、そう言い返せる自信っていうか、自負みたいなのが、いいなあ、って』
望は穂高からのバイト禁止令のせいでバイト経験がない、ということをそのとき初めて知った。
『だから、弱いトコなのか』
『そう。確かにサロンのお客さまにお出ししたスイーツは手作りで、材料費はお小遣いから出していたから。趣味のつもりだったのね、私。自分の作ったスイーツがスーツに化けた、と思うと、すごく嬉しかった』
『だったら、克美からのバイト代も受け取ればよかったのに』
帰り際に克美が差し出した封筒を返していたのを見た。望は克美の耳許に口を寄せて何か囁いていたが、内訳までは行儀が悪いと思って傍耳を立てるのは遠慮した。
『いいの。きっと克美ママ、それも軍資金に回してくれるんだろうから』
望はそこでなぜかニヤリと笑った。
『なんだよ』
『秘密。克美ママとの約束だもの』
『まさか、俺名義の口座にその分まで混ぜ込むとか企んでないよな。ヤだよ、のんに金を工面してもらうのなんか』
『同じ学生の立場なのに、どうして私が芳音のパトロンをしなくちゃならないのよ。そんなわけないでしょ』
そう言って目尻を上げるところをみると、ごまかしているわけではなさそうだった。
『……や、マジわかんないんっすけど。何?』
結局、「だから秘密」と逃げ切られてしまったので、未だによく解らない。
克美をまた独りにさせて帰るのは少しだけ心苦しく感じた。だが、藪の言葉がどうにか芳音を支えるまじないに近いものとなっている。
『甘やかすのと支えるのは、似ているようで違う。例えば筋肉を鍛えるのとおんなじだと思え。適切な運動量で出来た傷なら、より強い筋肉を再生させる。人の心ってえのも似たようなもんだ』
去年の芳音の選択は克美にとって、いきなり筋肉を切断させ兼ねないほど過激な運動をしたようなものだ、と藪には苦笑いをされた。あれであの状態を維持出来ているのだから、てめえの親を見くびってやるな、と。
少しずつ気遣いのメールを減らして、自然と克美が芳音を主軸に考える生活から自分中心の生活に馴染めるようにしてやれ、と言われた。
そうせざるを得なくなる二学期が待っていた。基礎が中心だった一学期と異なり、各ジャンルの実習メインになって来る二学期以降の二年半は、バイトとの両立だけで精一杯だ。レストランのバイトも週五日を一日減らしてもらうことにした。学業優先にしたい、ということだけが理由ではない。
食欲の秋を迎える二学期には、芳音にとって待ち望んでいた一大イベントが控えていた。
九月の残暑が過ぎたころ、とある日の授業終了後。芳音は君塚、佐藤とともに調理師専攻Ⅲの担当講師から教務課まで来るようにと呼び出された。
「一学期末にあった校内選抜試験の結果、コンペの予選通過を見込めるだろうということで、君たち三人がBブロックで出場することに決まったよ。基本がメインの一学期の中で、自己研究や自学を頑張った成果が出たな」
なかなか誉める言葉を出さないことで名の知れたこの講師は、芳音が辻本調理師の受験を決めた理由のひとつだ。気難しい眉間の皺が取れると、こんなにも屈託のない笑顔を作れる人なのだと初めて知った。
「ありがとうございます」
三人そろって頭を下げる。中でも佐藤の嬉しさはひとしおのようで声が上ずっていた。
「佐藤、君の伸びが一番抜きん出ていた。守谷は家業で予備知識を持っていたし、君塚も和食については父親からプロの仕込みを受けているだけに、さぞ気後れがあっただろうとは思うので、自信のなさが君に対する心配の種、というのが私の見解だ。アシストに回ろうなどと考えず、自分で一品を受け持つ、くらいの意気込みを見せること。コンペの出品メニューを三人で話し合い、意見がまとまったらレジュメやレシピをまとめて提出しなさい。用件は以上だ」
「本当に、ありがとうございました」
「頑張ります」
選抜試験は学年を問わずに受験出来る、というのは入学時のオリエンテーションで説明されていた。だが、同時に試験の日程が入学間もない七月だった。
『公正化をプロバガンダする目的で学校側が奇麗事のガイダンスをしているだけだろう。どうせ、実際には三回生からしか選抜されないよ』
と言っていた君塚も、再三の礼を口にするほど嬉しいらしく、いつもより感情の乗った声で講師に挨拶をしていた。
そんな中、芳音だけが「これでやっとスタートに立てた」と、更にその先を見ていた。校内の上位程度で認識を改めたり妥協を許したりする穂高ではない。ひとり無表情を保つ芳音に講師は一瞬だけ訝しげに眉をひそめたが、特に引き止められることもなく、三人は教務室から帰路に向かった。
帰りは隣駅で三人とも降り、待ち人たちのいるスイーツの店に向かった。
「女性審査員も何人かいるらしいから、口の肥えた女性陣に出品するメニューのアドバイスをいただこうかな、と思って」
君塚がそんな理由を前置きしたあとで、待ち人が望とその級友、河野百花だということを電車の中で初めて説明された。
「アドバイスを頼めるの?」
と尋ねたのは佐藤だ。
「ま、そういうこと」
と少し困った顔で答える君塚の表情を曇らせたのは、彼女たちの結果を思ってのことだろう。つまり、彼女たちはスイーツ部門で選外だったというだ。このころにはパティシエ専科のふたりと芳音の悪友たちも互いに連絡先のやり取りをしているらしく、今回の待ち合わせも芳音と望の間で設けたのではなく、君塚と百花の間で交わされていたものだった。
「部門は違うけれど、同じ学校から優勝を出すとは考えにくいし。そうなるとパティシエ専攻科もライバルになるわけだしね」
「パティシエ専科からは誰も選ばれなかった、ってことか」
「うん。芳音、堤さんから聞いてない?」
「あー……俺、バイトの日を減らしたから、昨日は会ってないや」
そんな話をしているうちに目的のスイーツショップに着いた。
「――なるほどね。ヘルシー嗜好でボリュームを少なく品数を多く、か。それであって満腹感も、って、女子って貪欲」
君塚の漏らした感想に、ほか男子二名が唸りつつ、同意を込めて深く頷く。
「カルパッチョを和風アレンジに、ってのは出来そうだよな。君塚の十八番だし」
いくつかもらった提案の中から、芳音もそれを選び出す。
「品数を多くっていうのは、タイムロスの危険性があるよね。カルパッチョにタコを使うんだから、高カロリーの食材はタコだけにして、魚料理をメインディッシュにこの三品を味比べみたいにしたら、飽きが来なくていいかなあ」
佐藤がそう言って候補に挙げたのは、タラ、カツオ、サケの三種だ。
「お。なかなかなチョイスね、佐藤。あんたなら味優先でサンマに走ると思ってた」
百花がそう言って笑った。
「じ、自分が、た、食べるなら、そう、だけど」
と、さっきまで砕けた調子で話せていた佐藤が突然どもり出す。それを見た望と君塚が視線を合わせて笑う。何かしらのアイコンタクトだということだけは、芳音にも判った。
「で、ヘルシー全開で来たあとのデザートには、カロリー無視の味最優先でご褒美、って感じだと満足感が得られると思うのね」
そんな望の提案は、メインディッシュが冷製ならばチョコレートフォンデュなどの温かいデザートを、温かなものだった場合は、シャーベットやジェラート系はどうか、とのことだった。
「ケーキってダイエットの敵の代名詞って感じじゃない? レアチーズでもアウト、みたいな固定観念を持っている女性もいると思うのね」
「んー、望ちゃんの言っていることは解らないでもないけれど、それはアイスクリームも同じじゃないかな」
「ジェラートの方がアイスクリームよりは低カロリーなんだけどなあ」
「え。ジェラートとアイスクリームって別物なの?」
「ええ。でも今の君塚くんの意見で、一般認識がよく解った気がする。ジェラートも却下ね」
「じゃあ、それならいっそ、和菓子系は?」
「あ、いいな、それ。白玉をアレンジしたフルーツポンチとか懐かしい。さすが百花、年の功」
「年の功って言うな。君塚とひとつしか違わないでしょうが」
「あ、でも君塚くん。餡って好みがあると思う」
「そうなのか?」
「あ~、そうよねえ」
「って、百花も餡って苦手?」
「私は平気だけど、うちの母なんかは漉し餡以外はまるでダメ」
「へえ。おいしいのになあ。あの、望ちゃんは、和菓子、苦手なの?」
「ううん。スイーツで苦手はほとんどないわ。ただ、従姉が豆アレルギーで、餡入りの和菓子がダメってのが頭にあったから、つい」
望は取り繕うようにそう説明しながら、ちらりと君塚へ視線を向けた。彼の意見に反論したことを気にしてのことだとは思う。彼はそんな望の視線には頓着せず、額に手を当てて大袈裟に天井を仰いだ。
「あー、そっか! 食物アレルギー! 審査員にヘルシー食であることをアピールするなら、その辺の配慮も込みでレシピを考えないと、ってことか」
「それ……って、む、難しい……」
と小さな呟きを零して肩を落とした佐藤は、和菓子が甘いものの中でも特に好きだ。以前パソコンを借りに家へあがらせてもらったとき、彼の母親が当然のように山盛りのどら焼きを茶菓子に出してくれたことがある。
「それを言ったら米粉もそういうことになるんじゃない? あと、成形しやすい食材を使わないと、スイーツは芸術性を問われるのがメインディッシュ以上ってこともあるんじゃないかしら。何を作るかにもよるだろうけど」
そんなやり取りを聞きながら、芳音も頭の中だけでみんなの意見を集約してみる。
確かにタラなら低カロリーでいろんなバリエーションを考えられそうだ。サンマは旬なので脂がのっている。ヘルシーで美味いものの、ダイエットなど女性の関心から考えると二の足を踏む食材だ。カツオやサケも調理次第でカロリーのリスクを上回る健康効果をアピール出来る。
スイーツはケーキが一番無難だとばかり思っていたので、全員の言っていることに意表を突かれてただ聞き入るだけだった。和菓子はまったく作ったことがない。でも話を聞く限りでは、テーマに沿ったスイーツにするならば、幅広くいろんな味を舌で知っている佐藤を主軸にレシピを考えたほうがよさそうだ。
芳音は課題についてそう考える一方で、自分ひとりだけが妙な違和感を覚えていた。
(なんか、俺だけ浮いてる気がする)
いつの間にこの四人は、呼び捨てやファーストネームで違和感なく話すようになっていたのだろう。馴染みのない人を相手にすると吃音が出てしまう佐藤も、望とは普通に会話が出来ている。
そう言えば、と、ふと思い出した。春の合コンで、この四人は面識がある。それをきっかけに、芳音がバイトと辰巳の調査にばかり気が向いている間に、彼らの中で交流の機会がたくさんあったのかも知れない。
(のんって、なんにもそういうのを話さないよな)
振り返ってみれば、以前よりは増えたとはいえ、望から連絡が来るのは芳音からする数の三回に一回程度だ。メールも、こちらから送ったものの返信のみ。せっかく一年前より近くに住めるようになったのに、合鍵をねだることもしない。仮にそういう申し出があったとしても、多分お互いに穂高の目が気になってやめるオチにはなっていただろうが、欲しがる素振りさえ見せない。
(なんか……)
考えてみれば、そもそもこっちは望がいるのに合コンに参加など、不義理だと思ったから拒否したのに。望は付き合いだかなんだかよく解らないが、断りもせず参加した。男子の参加費より安いとはいえ、わざわざ金を払ってまで参加する目的が芳音には皆目わからない。
(なんか……なんだかな)
上っ面だけで笑いつつ、いきなり不機嫌になった内心で望を盗み見る。彼女が笑う。芳音の知らない表情で、ほかの男に笑い掛ける。
君塚が気に食わないわけではない。望を信用していないわけでもない。ただ、嫌なことを思い出してしまっただけだ。
(北城にもそういう顔して笑ってたのかな……)
どうにか繕っていた作り笑顔まで、とうとう芳音の面から消えた。