意外な後押し 4
その夜は、望たっての希望で克美の部屋に望の寝床を用意した。望がその希望をごり押しした理由は、表向き「芳音は男の人だから、異性が混じると話せない女同士の話もある」というものだった。だが彼女の本音は別にある、と望自身からほどなく告げられた。
克美が望の寝床を用意している間にふたりで食器を片付けた。そのとき望が
『子どものころにはわかんなかったけど、克美ママって芳音がいなかったらいつ消えちゃってもおかしくないくらい……脆い人ね』
少し迷いを交えた声音で、そんな感想を口にされた。連れて逝かれるかと思った。そう感じたのは芳音だけではなかったらしい。
『パパに話したときとは別の意味で、なんだか自信がなくなって来た』
と彼女は言った。穂高に対しては邪魔をされたくないという自分の都合で黙っておきたいと思った当時だが、克美に対しては彼女のメンタルの都合で時期が早過ぎたんじゃないか、というのが望の私見だ。
『克美ママに、芳音には言えないでいる率直な気持ちを聞いてみようと思うの。それによっては、私たちのことは先延ばしでもいいんじゃないか、って』
『のん、気持ちはありがたいけど。あの人、あれでも四十四だから。年を重ねれば重ねるほど、頭も気持ちも固くなると思うし、これでいいんだよ』
『でも……なんだか、さっきの克美ママを見たら怖くなったの。なんだか消えてしまいそうな感じで……ママを連想しちゃったの。ごめんなさい、こんなこと言って』
そう言って唇を固く結んだ望の頭をそっと撫でた。巧く笑えているのかどうか芳音に自信はなかったが。
『さんきゅ。それでもさ、遅かれ早かれ変わりないことなら、やっぱり少しでも早い方がいいんだよ』
望に答えたそれは、芳音こそが誰かからそう言って欲しいひと言だった。
克美に万が一の異変が生じた場合に備え、芳音は部屋着からすぐに出られるような服装に着替え直した。東京へ持ち帰りたいものがあるので三階の倉庫でそれを見つけてから寝る、と克美や望に告げて居室を出た。望にだけは、何かあったらメールか上に声を掛けに来てくれと頼んでおいた。
不眠は不注意を誘発し、却って自分まで傍に迷惑を掛ける事態を招きかねない。芳音は懐かしいデスクに腰掛けて仮眠程度の軽い睡魔を待つことにした。辰巳が残していった克美宛のラストメッセージをリピートで再生させる。寝つけない冴えた頭が退屈だろうと、幾つかの“落書き帳”をデスクに積み上げた。辰巳が生前お客たちとのコミュニケーションツールとして使っていたものだ。今となっては希少価値の、手書きの文字や絵で埋め尽くされた、あたたかな交流アイテム。ぼんやりと言の葉の断片を流し読む。ホテルで見た、冷たくて恐ろしく感じた任侠の幻影と、過去に息づいている店主のギャップに惑わされた。
「親父」
誰もいないときにだけ、辰巳をそう呼ぶ。語り掛けても答えなど返って来ないと知りつつ、問い掛ける。
「あんた、母さんが独りじゃ可哀想だから、って俺を遺したんだろうけどさ」
パラパラとめくる落書き帳に散りばめられた言葉から、辰巳の筆跡だけを無差別に目で追う。
「俺には? あんたがお客たちにしてるアドバイスを読む限り、あんたのレプリカを俺に望んでいたわけじゃなさそうだよな」
先見の目を持つ慎重な人柄と思わせる辰巳が、あとのことを考えずに自分を遺したとは思えない。芳音を自分のダミーとして、という人権無視な発想など最初から彼にはなかっただろう。今の芳音は素直にそう思えるのだが。
「ホテルで会ったとき、俺の名前、呼んだよな? あんた、成仏出来てないの?」
あとで休んだ分を巻き返すのに苦心したので、あの日以来日本帝都ホテルには足を運んでいない。
「俺に何か言いたいことがあったのかよ」
だったら。あんなところに留まっていたのなら。過去の繰り返しなんかをしてるよりも、もっと早く自分が現場まで来ていることに気づいてくれたらよかったのに。
「なあ、親父……俺、今の母さんに自分が独立を目指してるって話したのは、間違ってないよな?」
『もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ』
芳音の切実な問い掛けに、今日も辰巳は極上の微笑とともに的違いな答えを返す。
「人の笑い方を心配する前に、てめえの心配しろ、とか思わない?」
『もし俺の子が宿ったら、芳音、と名づけてくれると嬉しい』
「あんたが笑ってろなんて言うから、母さんは笑うしかなくなっちゃったんだ。解ってんのかよ。クソ親父」
『俺達の楽園の象徴を名づけてやって欲しい』
「ホタが鳥かごみたいだって言ってたぞ。俺もそう思う。だから、『Canon』をもらってもいいよな」
『よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ』
「よろしく、って、いいって解釈していいのかよ。、それとも行って“来る”って方を受け取ってダメ出しって解釈すればいいのかよ」
『克美、泣いてるんじゃないか?』
「なあ。訊いてんじゃん。俺にとってのベストが、母さんにとってもベストなのか、って訊いてんじゃん。答えろよ」
『もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ』
落書き帳の中の文字も、モニタの向こうで同じ台詞ばかりを繰り返す微笑も、芳音の問いには答えなかった。
いつの間にかうたた寝をしていた。目が覚めたのは、鉄の扉が小さなノックを繰り返していたせいだ。慌てて席を立ち、鍵を開けて扉を開く。心拍数はかなり上がっていた。目覚めたと同時に、懸念していた万が一が現実になったのかと思ったせいだ。
「どした?」
その声に安堵の溜息が混じったのは、扉が開くのを待っていた望の表情が緊急性を宿していなかったからだ。ただ、ひどく目が腫れていた。目が覚めてからすぐに三階へ来たわけではないらしい。
「寝言。克美ママの」
短い単語でそれだけ言うと、望は堪え切れないとばかりに、芳音の胸にトンと頭をつけた。
「辰巳……もう、いいかな……って……。迎えに来て、って意味なのかな」
克美は眠ったまま、まなじりから涙を零したという。望は起こそうと思ったものの、結局そのまま何も出来ずにいたと悔しげに語った。
「夢の中だけでも逢いたい人と逢えているのかも知れないと思ったら、起こせなかったの」
逢えないつらさはよく解るから。
悪い意味で克美の肩の荷を下ろさせてしまったのではないか。
自分たちだけ前に進んでいいのだろうか。
芳音は望の口から溢れ出してとまらない混乱の吐露を、ただその細い肩を包みながら聞くことしか出来なかった。
翌朝、克美は夢のことも寝言を口にしたことも覚えていなかった。朝っぱらからのハイテンションは芝居ではなく、上機嫌が自然と態度に出ているとしか思えなかった。
いつもどおりに店を開け、以前と同じようにチーズケーキやアップルパイの仕込をしながら客を待つ午前を過ごした。前日と少しだけ違うことと言えば、朝一番で愛華が出勤前に顔を出してくれたことと、ランチタイムのサポートが北木から愛美に変わったこと。あとは愛美が「やっとこれで克美ちゃんと芳音の恋バナで盛り上がれる」と嬉々とした顔で言い放ち、克美と軽い口喧嘩を繰り広げた程度だ。一見したところは、穏やかに何事もなく過ぎた。
藪との約束だったので、芳音と望はひと足先に店を上がった。
「克美ママ、今日は藪じいのところに泊まるわね。昨夜は私が克美ママを独り占めしちゃったから、今夜は芳音に返してあげる」
おどけた口調で克美へそう告げた内容の端々に、望の配慮が見受けられた。
「返すって、ボクはモノじゃないぞ」
「俺もマザコンじゃないぞ」
「あ、芳音。藪じいのところへ行く前に、ママのお墓へ案内してね。お参りして行きたいの」
「……いいけど」
「ボクらの反論は、無視か」
少女時代のときと変わらないマイペースさに、克美は文句を言いながらも笑っていた。久しぶりに作り笑いではない穏やかな笑みを見た。
「んじゃ、バイク使うよ。藪じいに掴まるだろうから、ちょい遅くなる」
「らじゃ。飯食って来るんだろ?」
「多分作れとか言いそう」
そう言うと克美が「どうせあそこには酒以外何もないぞ」と、食材を詰め込んだ保冷バッグを芳音に手渡した。
「調味料とかは、赤木さんところから借りてな。あとで返しておくから」
「藪じいに返させるよ。さんきゅ、行って来ます」
守谷家では、普通の家庭より少しだけ重い言葉。芳音が行って“来る”にアクセントを強く置くと、克美がほっとした表情で微笑んだ。
「いってらっしゃい。気をつけてな」
そんな顔を見てしまうと、つい辰巳を意識した作り笑いが浮かんだ。
翠の墓前に向かい、ふたりで同じ道を歩いていく、と宣言混じりの報告をした。活けられた花はしおれているものの、ほかの墓に比べて雑草ひとつ生えていないほど手入れが行き届いていた。
「管理の人だけじゃないわよね」
「うん」
「克美ママ、かな」
「多分」
いなくなってしまった人ばかりを追っている克美を不憫に感じ、ツキリと胸が痛んだ。
「のん。話してあった、残りふたつのノルマ、一応藪じいに相談してみるけど、藪じいがどんな答えを出したとしても、俺やっぱり克美に伝えようと思う」
驕った言い方かも知れないけれど、克美にはまだ自分が完全に巣立ったわけじゃない、と解釈してもらうほうが彼女にとって副作用のない薬になるような気がした。
「ホタから支援の申し出があったこと、多分克美の中ではショックでかかったと思うんだ」
「……そうね。でも、大丈夫なのかしら」
「辰巳が克美の結婚資金にって積み立ててた金を学費にしてくれようとしてたんだ。だからそっちは心配ない」
「パパがいろいろと引っ掻き回してて、ごめんなさい」
互いの目を合わせずに墓石と向かい合って語っていたが、遂には望が目線を落とした。
「あは、なんか、いいね」
あまりにもまぶしくて、つい羨む思いがそのまま言葉になった。
「何が?」
「パパのことで、ごめんなさい、とかさ。俺の場合、辰巳のやらかしたこと全部が謝って済むほどちっさいことじゃないし、関わった人間を全部辰巳が自分で切って逝っちゃったから、息子面も出来ないじゃん?」
と答えたら、余計に望の表情が曇ってしまった。そんな望の頭を、フォローするようにくしゃりと撫でる。
「ホタのお節介が善意からだってことくらい解ってるし、謝るほどのことでもない、って言いたいんだっつうの。ンな顔するなよ」
そう言って両の頬を思い切りつねって無理やり口の端を上げさせた。
「ひひゃいッ! はひゃっははら、はらひへッ」
「面白い。何言ってるかわかんないや」
怒りながらも、望が笑う。釣られて芳音も笑う。翠に、笑って過ごせている望を見せたかった。だから許してくださいと、心の中で翠に乞うた。
その後ようやく藪診療所へ赴き、藪からは開口一番「顔色が悪い、痩せた」とケチをつけられた挙句、半ば強引に栄養点滴を流し込まれる破目になった。
夕食準備を望に任せて診察室で点滴針をぶち込まれた状態のまま、職について数年後を目処に望とこちらへ戻るつもりだと報告した。
「だから藪じい、玄孫を見るまで長生きしてな」
冗談混じりの言葉で締めると
「おめえ、俺をいくつだと思ってんだ。せめて曾孫にしとけや」
と、意外にも驚きを見せないので芳音の方が面食らった。
「もっと驚くとか、キモチワルイとかさ、そういう反応が来ると思ってた」
軽く言い流したつもりでも、ついゆがみを伴う物言いと苦笑になる。それに気づいたかどうかは解らないが、藪は
「バーロー。俺の専門分野をなんだと思ってる」
と、芳音のネガティブな予測を一蹴された。
「去年、望が東京に帰るころには、てめえらとっくにデキてたろ」
「……言葉が汚いね、藪じい」
「まあ同じ野郎の立場としての心情を鑑みた上で、ガキ孕ますようなことしなかったのは、今更だが文句なしで褒めてやるよ」
(うわあ……殴りてえ……)
筆眉をひくひくと上下させ、意味ありげな目つきでニヤニヤと笑う藪に対し、初めてそう思った。膝に置いた両手で握り拳を作り、ぐっとあれやこれやの感情を押し殺す。
「見切ったみたいな言い方は嫌いだな。そんなの藪じいにわかるわけないじゃん」
野郎同士、というキーワードが妙にプライドを刺激した。藪の素性は知らないものの、そちらの意味でも人生経験上、藪が上位なのは解っているが、妙に悔しかったので見栄を張った。そして藪が大きく目を見開いて驚いた風を見せたので、少しだけ腹の虫が収まった。
「ンなもなぁ、てめえらの距離感見りゃ解るんだよ。それよかおめえ、まさかその年になってまだ童て」
「ああああ本題はそっちじゃなくて本題に入りたいんだけどその話はもう終わっていいかなああああ!」
叫ぶと同時に、パイプ椅子の倒れる音に混じり、望の小さな悲鳴が藪を黙らせるのに協力してくれた。
「芳音、何騒いでるのよ。うるさい」
キッチンから冷ややかな視線がねめつけて来る。
「はい……すみません……」
藪の呟いた「こりゃかかあ天下の先が見えたな」という独り言は聞かなかったことにした。