意外な後押し 3
結局、親にも彼女にも、そして友人やお客にも恵まれている。言い換えてみれば、自分はとことん人に支えられることで成り立っている、いわゆる“ヘタレ”というヤツなわけだ。
芳音は久しぶりに浸かった我が家のバスタブで天井を仰ぎながら、そんな結論に辿り着いた。
克美と望は、芳音がキッチンの主導権を握ってから半時間ほどで『Canon』に戻って来た。お客は誰ひとり望を冷やかさなかった。彼らは克美からの
『この子、夏休みを利用して店の実地研修みたいなのをしたいってことで。安西望、ボクの友人の娘で、芳音とも幼馴染。よろしくね』
という紹介に一切突っ込みを入れず、いつもどおりに接してくれた。
克美はお客の手前もあったからだろうが、店にいる間ずっと何も訊かずにいてくれた。
北木は望を覚えていたので、お客との間を取り持つように当たり障りのない昔話で望と客の間を繋ぎ、双方の緊張をほどよくほぐしてくれた。
当の芳音はどうしていたかといえば、少しばかり記憶が曖昧になって来ていたお客たちの好き嫌いを思い起こしながら、お客ごとに違うオムライスを作ることで精一杯になっていた。
みんなして一斉にオムライスばかり頼むので、卵があっという間になくなった。
『松崎養鶏場だろう? 僕がちょっとばかり走って来るよ。芳音くんは克美ちゃんを手伝ってあげて』
北木がそう言って買い出しにまで行ってくれた。
望は最初こそ洗い物と芳音のアシスタントに専念していたが、克美がスイーツの作り置きが切れそうだと呟くと、あり合わせの食材で手際よく繋ぎ代わりのオリジナルスイーツを作って客に出してくれた。もちろん克美の了承を得てからだ。それが話題のネタになって、望もお客との交流に馴染んでいった。
午後には芳音の帰省を聞きつけたらしい綾華や圭吾が来店し、結局色々とバラされたりしたわけだが、そのころになると、既に望は“借りて来た猫”状態から抜け出していた。
入れ替わり立ち代り入って来るお客と、繰り返し近況報告の交換やら他愛のないバカ話で午後を過ごし、怒涛の目まぐるしさにありながらも、心境的には穏やかな時間を満喫出来た。
『ここはやっぱり変わらないわね。時間がとまったまま』
というのは、望が何度も口にしていた『Canon』の感想だ。彼女は肯定的な意味でそう言ってくれたのだと思う。だが芳音には、未だに古参の常連客と寂しげに笑って辰巳の思い出を語り合う克美が目についた。そのせいか、望に答えるタイミングと言葉がもたついた。
通常は六時からバータイムに入るところを克美がクローズした。まさか連れて来るのが望だとは思わなかったので、ディナーへの招待を考えていたとのことだ。
『外に出るの、苦手なくせに。見栄っ張り』
『今はそれほどでもないもん。近くだから平気だもん』
芳音と望は、北木にも強く同伴を願い出たが、固辞された。
『せっかく久しぶりの親子水入らずなんだから。望ちゃんも僕が記憶になかっただけに、気遣わせちゃうだろうしね』
北木が「ありがとう」の言葉とともに、芳音だけにそっと耳打ちしたのは、そんな理由だった。
結局食事の席では外ということもあり、本題に入れないまま終わってしまった。何よりも望が克美の変わらない見た目に感嘆を何度も漏らし、その時間のほとんどがスキンケアや体形維持のエクササイズについての話に終始した。芳音の無言率は、ほぼ百パーセント。それに何よりも克美が“母娘”の会話を楽しんでいた。それはもう、芳が口を挟む余地のないほどに。そのとき、ふと穂高の言葉を思い出した。
“俺は克美にとって、望を取り上げた敵のようなもの”
どういう経緯で克美が望を穂高に返したのかは知らない。どんな想いで手放したのかを想像すると、娘が帰って来るとでも思ってくれるかな、などと、少しはポジティブな期待も出来そうな気もするが。
一方で、怯む。娘同然として望を見ている克美が、自分たちの思い描く先の内訳を知ったら、やはり穂高と同じ反応をするのだろうか。
考えがまとまらないまま時間だけが流れ、結局芳音がもたついている間に話す機会を失った。
風呂が沸いたとき、克美がさらりととんでもないことを言った。
『昔みたいに、まとめて一緒に入っちゃう?』
その瞬間、自分がどんな顔をしたのかは望を見てあらかた察しがついた。ついでに克美のいかにも意地悪な微笑からも。望が先に自分を立て直し、おどけた口調で「レディーファーストー」と浴室へ逃げたことでその場は収まった。その雰囲気からして、改めて膝を詰めて説明する必要はないと思う。
「けど、完全スルーって訳にはいかないよな。そろそろ本題を切り出せよ、って思ってるんだろうしなあ」
望が手土産に持って来たマドレーヌは、まだラッピングされたままだ。克美が自室へ持っていったので、あとでなんとなく克美の部屋を覗き込んだときに、それが机の上に置かれていたのを見た。机の上に置かれていたのはマドレーヌの包みだけではなかった。供えるように置かれた包みの向こうに、辰巳がフォトスタンドの中で笑っていた。芳音がこの家を出るまではなかったものだ。いろんな思いと情報、思考がぐるぐると回った。それらが好き勝手に絡まって、解けない糸のようにぐちゃぐちゃになる。
「あーッ、もう、どっから考えたらいいか、解んねッ!」
堪え切れずに叫んだ声は、バスタブの水音を思い切り立ててごまかした。
「こらーッ! ガキじゃないんだから風呂場で暴れんなッ!」
リビングからにも関わらず、相変わらずの大声が芳音の鼓膜をつんざいた。
克美が仕舞い風呂を使っている間に、三人分のコーヒーを用意する。豆は克美の好きなホンジュラスをブラックで。
「これ、ブルマン以外でパパが唯一飲むコーヒーだわ」
淹れ方を教えて、とキッチンに立った望が、外袋のシールを見てそう言った。その存在を耳にして、芳音はつい顔をしかめた。
「ふーん」
妙な邪推が芳音にそっけない返事をさせる。
「パパの顔なじみの喫茶店が近所にあるんだけど、そこのママが時々届けてくれるの」
芳音の指示どおりにぽとぽとと落とす湯と同じテンポで、望がゆっくりと話を続けた。
「ママが好きだった豆なんですって」
と噛みしめるように呟いたのを聞いて、ようやく眉間の皺が取れた。
「そうなんだ?」
「ええ。ママの仏前に供えてあげて、って。ママもよく通っていたお店だったらしくて。ママの若いころの話を聞かせてもらったことがあるわ」
「そか。ホンジュラスって、克美も一等好きな豆なんだ。東京にいた翠ママがそういう風に覚えられてるってことは、お互いの影響なのかな」
ようやく口の滑りがよくなる。自分の邪推に内心で赤面する。
「きっと克美ママか……辰巳さんの影響をママたちが同時に受けているのかもね」
六月の事件以来なんとなく避けていた名前が出た途端、居心地の悪い沈黙がふたりの間に横たわった。
「あ、そろそろ蒸れたから、円を描くみたいに、ほそーくお湯を注ぎ回して」
「あ、うん」
その話題から逃げるようにコーヒーのレクチャーに戻る。克美と顔を合わせるまでは、あんなにも逃げ腰だったのに。こんなときでも好奇心が萎えない望の向学心に舌を巻く。土壇場の今になって及び腰になっている芳音とは正反対で、望は腹を括ったのかまるで緊張の気配がない。それは日中からずっと感じていた違和感だ。
「のん。昼間、踊り場で克美と何を話した?」
芳音のその問いに返って来たのは、去年ここへ来れなかったことに対するお詫び、という答えだった。あとは店のお客の冷やかしを避けるために、昼間のような立ち位置の擦り合わせをしただけらしい。
「でもね」
望の表情が不意に翳った。
「リングが芳音と同じだって、気づいたみたい。“彼氏とおそろいか。いいな”って」
望にそう言われ、初めて彼女の薬指からリングが消えているのに気がついた。
「克美ママ、辰巳さんから芳音と嘘しかもらってないのね」
いつか離れていく曖昧なモノと、行って“来る”という罪作りな嘘。
「ママの日記にあった“腹が立つ”って気持ち、ようやく頭じゃなくて心が納得した」
望の辛辣な正論に、芳音は何も言い返せなかった。
なかなか風呂から出て来ない克美の様子を窺いに浴室へ向かう。鼻歌混じりにタイルをこするバススポンジの音が風呂場の中から響いていた。
「うぉらッ! 俺がいるときくらい掃除すっから、とっとと出て顔の手入れでもなんでもして来いよ!」
という罵声とともに扉をガンと蹴飛ばし、自分にも勢いをつける。それは克美と暮らしているころから変わらないやり取りだ。だがそれを知らない望から、「喧嘩するんじゃないの!」という叱責が飛んで来た。
「えー、でも今日は疲れただろ。いいよ、今日はボクすごく楽しちゃったし」
ひょっこりと顔を出した克美は、すでに湯上り独特ののぼせ顔とはほど遠い。芳音が望と話しているうちに、着替えもすでに済ませていたようだ。
「なんだ。もうあとは寝るだけにしてんじゃん。マドレーヌ食おうぜ、マドレーヌ。今のんがアイスコーヒーを淹れてくれたから」
「飲む!」
寝る前の甘いものは吹き出物が出るからどうこう、というのが克美の口癖だったような気もするが。子どものように小走りでリビングに向かう克美の背中にぼそりと零す。
「のんのことは、溺愛だね」
という芳音の憎まれ口は、克美の耳には届かなかった。
リビングテーブルを挟んで、向かい合わせで腰を落ち着ける。望がテーブルのそれぞれの前にアイスコーヒーを、マドレーヌはテーブルの真ん中に置いた。
「えーと、そういうわけで、そういうことです」
「切り出しが、それか。お前はボクをエスパーか何かだとでも思ってるのか」
「う」
返す言葉がひとつもない。望までもが、大袈裟なほど大きな溜息をついた。
「ま、いいさ。あらかた圭吾がゲロってたしね。だいたいのことは昼のうちに把握した」
克美はそれだけを口にすると、「うーん」と両腕を思い切り伸ばして背筋を伸ばした。その両腕が輪を作り、首飾りのように望の頭をくぐらせる。
「克美ママ?」
克美は望をそのまま引き寄せ、懐の中に抱き込んだ。小さな子を守るように自分の華奢な身体で望を覆い尽くす。克美の向かいに座っていた芳音からは、ふたりの長い髪が顔を隠し、表情は見えなかった。それ以前に芳音自身が克美の見せた予想外のリアクションに戸惑い、頭の中が真っ白になっていた。
「おかえり、のん」
克美の意向すべてが、そのひと言に集約していた。
「それから、辰巳のバッタもんから本来の芳音に戻してくれて、ありがと」
呟きに近いアルトの声が、震える。克美の腕の中から、一度だけ小さな嗚咽が漏れ聞こえた。
「情けない親だよねー。この一年、いろいろわかんないことだらけだったんだ」
急に芳音が変わった。ものすごく心配になるほど不安定になって、何かあったことしか解らなかった。
突然進路をはっきりと決めて、それからあと、一気に逆のほうへまた変わった。何よりも嬉しかったのは、笑い方が変わったこと。辰巳みたいな皮肉な作り笑いが消えたこと。
泰江の対応が急に積極的になったことにも戸惑っていた。マナか貴美子さんを通してしか話して来なかった彼女が、いつからか直接電話をくれるようになった。
“普段会えない距離にいる相手のほうが、気楽になんでも話せることもあるでしょう? いつでも声を掛けてね”
って、昔以上に強く口癖みたいに繰り返す理由が解らなかった。
「でも、ようやく合点がいった」
克美はこれまでずっと独りで抱えていたのだろうかと思わせるほどに語り尽くし、それからようやく望を解放した。顔を上げた望の頬に髪が張りついているのをそっと手ですき払い、びしょ濡れになった頬を両の手で包んで拭ってやる。
「親としては不甲斐ないボクでさえ、芳音が変わったのだけは判ったんだ。穂高や泰江は当然知ってるんだろう?」
望の瞳を覗き込んでそう問う克美は、母親の顔をしていた。目を泳がせて答えに窮する望から内心を読み取ろうとしている。傍観の立場でそう感じられた瞬間、芳音は初めて自分が親としての克美を侮っていたと思い知らされた。
「入学式のあとで、ホタから支援の申し出をされたんだ。そのとき、俺から話した」
答えられない望に代わって、芳音から克美の問いに答えた。克美の視線が芳音に移る。なんとも言えない表情は、自分を責めているせいだとよく解る。克美のそんな表情に釣られたのか、芳音の目も苦しげに細まった。
「穂高は、なんて?」
「姉弟みたいに育って来たくせに、気持ち悪い、って」
芳音がそれを口にした途端、向かいの席からでも解るほど、望の肩が大きく揺れた。
「ごめんなさい……でも、姉弟じゃ、ないもの」
克美の手から逃れて俯いた望は、小さな声で穂高の言葉に抗う意向を克美に示した。
「そか。芳音のことで、のんにキツい思いをさせちゃってるんだな」
克美は再び望に視線を戻し、くしゃりと彼女の頭を撫でた。ごめん、と自分の代わりに謝らないでくれたことが、芳音にとって何よりもありがたかった。飾り気のない言葉の端々から、克美の考えが窺える。自分の中で勝手に築いてしまった勘違いも突きつけられた。
克美は芳音の親であり、芳音は辰巳のクローンでいなくてはならない存在ではない。
克美は望と芳音を姉弟の枠に押し込めはしない。
多分、自分が思っていた以上に克美は道理をわきまえた大人だったのだ。だから自らの立場をわきまえて、自分の意思で穂高に望を返したのだろう。心の中にぽっかりと大きな穴が空いて、小さな芳音にまで脆さを見せてしまうほどの喪失感を味わったとしても。
正していた姿勢が一気に崩れた。ソファに思い切り身を沈めると、緊張がゆるんで思い切り息を吐き出していた。芳音はその段になってようやっと自分がかなり緊張していたことに気がついた。
「キツくなんかないわ。パパの思い込みだもの。事実じゃない。解らせてやるつもりだもの」
力ない声のくせに、望の発言そのものは、あまりにも望らしかった。すまなそうな顔をしていた克美の顔が、望のそれを聞いた途端驚きの表情に変わった。そして困った顔をして笑う。
「のんは相変わらずのんのまんまだな。向こうッ気が強い」
そう言われた望にも、ようやく笑みが戻って来た。彼女が自分の隣へ身を落ち着けると、芳音は深々と頭を下げた。
「手に職つけて、自分のグレードをもっと上げて、ホタにちゃんと認めてもらって、そしたら、のんと一緒になる。届を出すとき、克美の戸籍もいじられることになると思うから、その辺の根回しをお願いします」
戸籍のなかった克美が、戸籍を自分と家族との繋がりを社会に示す重要なアイテムとして位置づけているのを知っている。辰巳が偽装した戸籍なので、願い出た根回し自体も本題の一部ではあるが、克美に解って欲しかったのは、自分たちの描く将来の展望をままごとだと一笑しないで欲しい、という決意表明の意味合いが大きい。
「よろしくお願いします」
隣から聞こえた声が、小さくくぐもる。視界の隅が、望も芳音と同じように深く頭を垂れたのを捉えた。
からん。溶け始めた氷がグラスを鳴らした。それにいざなわれるように克美が口を開いた。
「ん、わかった。昔よりデータのハックが難しくなってるけど、なんとか探ってみるよ。辰巳と高木さんのすることだから、ぬかりはないと思うけどね」
頑張りなー、とゆるい答えが返って来た。そんなおどけた物言いは、克美なりの話し合い終了宣言だ。
本題の中で最も優先順位の高かったものがクリアされると、無意識のうちに芳音の表情までゆるんだ。まだ課題は残っている。自分が大見得切った挙句にドジを踏んで克美に借りた一ヶ月分の生活費を受け取らせること。借りをチャラにした上で、学生の間は少しだけ支援を頼みたい、ということ。
「……」
顔を上げてそれらを口にしようとした芳音の唇が、凍った。
「ふたりとも、大人になったよなー。ボクの中でだけ、暫定成人、ってヤツな。おめでと」
そう言ってグラスをこちらへ傾ける克美と晩年の翠が重なった。消えそうな儚い微笑がそう思わせたのか、芳音は咄嗟に克美の腕を掴んでいた。
「うぉ、おま、何。こぼれるじゃんかよ」
「あ……ごめん」
辰巳に連れて逝かれるかと思った――とは、言えなかった。