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月と夜桜と、十二年ぶりの彼 1

 パパはママのことを「ママ」と呼ぶ。

 お母さんのことは「泰江」と呼ぶ。

 お母さんも、それは同じ。

 そして私のことを、パパは「望」、お母さんは「のんちゃん」と呼んでいる。

 私はお母さんのことを、今では「お母さん」と呼んでいるけど、幼い頃の淡い記憶の中に、「泰江ママ」と呼んでいた事実が潜んでいる。

 たくさんのママがいた。克美ママ、泰江ママ、愛美ママ、そして、私を生んだ、“翠”という名のママ。

 だけど、パパは一人だけ。今も昔も変わらない。

 普通だと思っていた幼い頃。だけど今は知っている。それが普通じゃないってことを知っている。


 ママは、好き。

 絵本を読む時の、ちょっと低めなのに優しい声。真っ白なネグリジェが、ママを幻想的な存在に見せる。「のんちゃん」と呼ぶ声に、いつもドキドキしてた。ママの病気のせいででなかなか一緒にいられなかった分、病院へ会いに行くと、まずそう呼んでから、すごく嬉しそうに笑ってくれた。それがとっても嬉しかった。

 ママの作ってくれたオムライスが大好きだった。病気が苦しいことだなんて解らなかったチビっこの私。きっと本当は立っているのも苦しかったんだろうけど、私がねだると頑張って作ってくれた。

 そんな優しい思い出しか残っていない。そのくらい、天使みたいなママに憧れていた。リアルタイムの思い出はそんなちょっとのことしか覚えていないけれど。でも、遺された映像や、ちょっとだけのその思い出が、ママに愛されていたんだと信じさせてくれる。


 ――のんちゃん、アタシね、貴女にママと呼んでもらえる自分でいられること、生きて来た中で一番のご褒美だと思ってるの。


 ママがディスクの映像越しから私にそう伝えてくれた。そのあとに続いたママの言葉、

“だから、もしいろんなことをあとで知っても、決して自分を嫌いになんかならないで”

 という言葉の意味が、随分あとになるまで解らなかったけれど。今なら、解る。解るけど。やっぱりそう簡単には割り切れない。

 青白くやせ細っていっても、天使みたいに綺麗だったママ。私がママのお腹にいる時、もう病気だったと、いつの頃からかなんとなく知った。私がママの命を削ったと思ってしまう。お母さんはそれを否定してくれるけど……そう巧くは割り切れない。

『ママはね、パパさんと家族になりたかったんだよ。のんちゃんが生まれて来ることを、誰よりも願っていたんだから。そんな風に思ったら、きっと天国で泣いちゃうよ』

 お母さんはそう言って、泣きながら笑った。

『翠ちゃんは泣き虫さんだったから』

 とママを名前で呼びながら言った時、懐かしそうな遠い目をした。全然ママを恨んでない。私はお母さんについ言ってしまった。

『ママはお母さんからパパを取った人なのに。お母さんは、ママのことをどうしてそんな風に思えるの?』

 お母さんは相当驚いたんだと思う。涙さえ止まった。

『ママはそんな話まで撮っていたの? 何歳ののんちゃんに宛てたお便りを見たの?』

『……二十歳の。パパが帰って来たから、慌てて隠したっきりそのあとほとんど見てないんだけど……』

『そっかぁ。克美ママから一気に送られて来たから、ママからのお便りを整理出来ていなかったものねえ』

 お母さんはとても困った顔をしながら、それでも話をしてくれた。

 最初から、パパはママが好きだったんだということ。それを知っていて、お母さんはパパとつき合ったのだということ。ママが最期までお母さんの気持ちを憂いで、何度もごめんなさいと言い続けていたこと。

『私はね、ママのことを好きなパパさんが好きだったの。私では、パパさんを強い人にしてあげられなかったから』

 お母さんはママのことを、

『守りたくなるような儚さと、一度決めたことを貫き通す強さの両方を持っていて、憧れていた』

 と表現した。だからママの分まで幸せを感じながら毎日を過ごして欲しい、と。でないと、ママが悲しくて泣いてしまうだろうから、と。


 そんなお母さんのことも、私は好き。本当の子じゃない私のことを、自分の子のように思ってくれているのがすごくよく解る。本気で心配して叱ってくれるし、一緒に喜んでもくれる。そして何より、決してパパとの間に子供を宿さない。学校で習ったから、という言い訳をして、この間突っ込んでみた。

『お母さん、二階をサロンだけにして、上で一緒に住もうよ。私、弟か妹が欲しいな』

 それの意味するところを察してくれたお母さんは、途端に頬を真っ赤に染めた。言葉を失くしたお母さんが、ようやく返して来たのは

『のんちゃんがいるから、充分幸せ。私の家族は、この三人だけ。今のスタイルが一番いいの』

 そう言ってまあるい笑顔を私に見せた。

『も~ぉ、おませさんなんだから。ひょっとして好きな男の子が出来たのかな?』

 巧くかわされただけじゃなくて、こっちに矛先を向けて来たから、それ以上何も言えなくなった。

“充分幸せ”

 ねえ、お母さん。それならどうして、こっそり泣いているの? どうして、時折寂しげな顔をしているの?

 パパの心がここにないことを、本当は寂しく思っているんじゃないの?

 いつまでもママとの思い出に浸ってばかりで、いまだに別々の階で暮らしていることが、本当は悲しいから、ではないの?


 小学一年の時に見た、真夏の夜の悪夢。今でもはっきり覚えている。かっと頬が熱くなるほど、生々しかったあの光景。

 芳音は『おやすみの挨拶だろ』とその時は言ったけれど、私と芳音がするような、そんな触れる程度のキスなんかじゃなくて――テレビの映画とかで見るような、なんだかとてもいやらしいものだった。

 芳音もすぐに同じように感じたみたいで。

『のん、そっと部屋に戻ろう』

 そう言って私の手を握った手が震えていた。ひとりでは頭がおかしくなっちゃいそうで、芳音と一緒にくっついて眠った。眠れやしなかったのだけれども。

『のん、ごめん。僕にも解った』

 そう言って、しがみついて来た。何を、と問うまでもなかった。

『お母さんが可哀想。結婚したばっかりなのに』

 と私が零すと、

『母さんは、翠ママの代わりなんかじゃない』

 と芳音も泣いた。

『きっとお母さんにいつか判っちゃうよ』

『きっと母さんがホタにもう会わないと思う』

『じゃあ』

『僕達』

『私達』

 同時に呟いた。

 ――もう会えなくなるの?

 いつも傍にいて当たり前だったのに。どうしてか解らないまま、私だけ東京に引っ越して。だけどそれからあとも、芳音が来てくれていた。私も『Canon』へ行くことが出来た。だから私達、ただ単純にパパの仕事の都合で自分の家が幾つもあるだけだという大きな勘違いをし続けていた。

『やだよ。芳音。どうしよう』

『僕だって、今よりもっとのんと会えなくなるのなんか、やだよ』

 殺しても殺しても漏れてしまう声。芳音が力いっぱい抱きしめてくれるけれど、涙も震えも止まらなかった。

『のん、いいこと、考えた』

 芳音の鼻づまりになった声が、少しだけ明るさを取り戻してそう言った。

『のんが僕のおよめさんになればいいんだよ』

 思いつかなかったその提案に、驚いて顔を上げたら、芳音が濡れたまつ毛のままにっこりと笑ってくれた。

『そしたら、芳音とまた家族になれるの?』

『うん、お店のお客が前にそう言ってた。だから、僕がのんをおよめさんにする。そしたら、またずっと一緒にいられるよ』

『うん、わかった。約束ね。早くおとなになって、家族にもどろうね』

 忘れないように、約束のキスをした。いつもしている“家族のあかし”。

『芳音、約束だよ。絶対忘れないでね』

『うん、約束。だからもう泣かないで。のんこそ、絶対忘れないでよ』

 何度も何度も、繰り返した。いつの間にか眠りに就くまで、何度も繰り返した。

 翌朝、パパがパパに見えなくなっていた。怖くて穢くて、憎たらしくて。大嫌いな人になっていた。あんなに大好きだったのに。

 パパ、嫌い。

 そんなパパに似ている自分のことも、大嫌い。

 芳音、私、もう中学生だよ。あれから七年も経つんだよ? どうしてなんにも言って来てくれないの?

 もう忘れちゃったのかな、私のこと。

 芳音、「好き」って言って。これ以上私が私のことを嫌いになる前に、会いに来て。




 たまたま別のものを取り出そうと、鍵付の引き出しを開いたのに。そんなことの書いてある日記を見つけたら、つい読み耽ってしまった。

「芳音、か。……懐かしい」

 望は、まだ素直だった頃の自分が吐き出す赤裸々な言葉たちを読んで苦笑した。

 あの頃はまだいろんなことに期待や希望を抱けていた。あの頃したためたこの日記がそれを示している。言い換えれば、今はそんなものが自分の中からとっくに消えてしまっている。そんな腐った自分を再確認したことから漏れた苦笑だった。

 ただ薄ら寒い空虚の中、無感動な自分が惰性でなんとなく生きている今。あんな男の血が混じっている自分に、幸せな家族なんて得られるはずがない。

「それに……どっちにしても、もう汚いもん」

 望はこの日記を書いた数日後の出来事を思い出して、顔をしかめた。

 中二の夏。忌まわしい記憶。突然の豪雨と草の青臭さ。

『俺もう限界。……望が悪いんだよ』

 芳音のような、甘えていい兄弟みたいな存在に見立てていたのかも知れない、あの男のことを。急に態度を変えたあの男に、心まで負けたくなんかなかった。

『ガキの振りするなよ。知らない訳じゃないんだろ?』

 真っ白だったワンピースが、泥にまみれて醜くなっていった。それ以上に汚いあの男が許せなかった。だから徹底的に追い詰めた。

「だからって、これみよがしに死ぬことはなかったんじゃないの? バカよね、男って、みんな」

 男、という単語で我に返る。日記のせいでタイムスリップしてしまったお陰で、本題をすっかり忘れていた。

「……とと、感傷に浸ってる暇なんかないんだった。約束に遅れちゃう」

 望は日記を引き出しの奥に戻し、探し物だった四角いアルミシートを隠した箱から幾つ分か千切り取った。それをシガレットケースに忍ばせ、引き出しをちらりと盗み見た。一度は片付けた古い日記を、机の中から取り出し、それからもう一度鍵を掛け直した。

 まだ純粋で綺麗だった頃の自分なんて、見たくない。今の自分が、もっと惨めになるから。

「捨てちゃお」

 誰にも言えない心の吐露を、望は無造作にゴミ箱へ放り込んだ。

 今の自分を芳音が見たら、一体どう思うのだろう。

 一瞬浮かんだその発想が、望の眉をひそめさせた。

「関係ないじゃん。もう逢えないんだから」

 あの夜の悪夢を境に、『Canon』に電話をしても繋がらなくなった。多分着信拒否にされているのだろう。

 まだあからさまに父への反抗心を表に出すのが怖かったあの頃、嫌悪を堪えに堪えて芳音と連絡を取りたいと父にねだった。

『用事があるなら、パパから伝えておいてやる』

 父はそれだけ言って、連絡先を教えなかった。芳音に携帯電話を与えたのは父なのに。知らないはずなどありえないのに。一瞬ゆがんだ父の表情を、今でもはっきり覚えている。

 簡単に諦めるなんてごめんだった。芳音宛に手紙を書いて送った。でも数日後に届いたのは、芳音からの返事ではなく、受取拒否の赤い文字を追記された芳音宛の自分が書いた手紙だった。受取拒否と書かれた手書きの文字は、見覚えのある大人の文字だった。

 自分の前に、父がはだかって邪魔をする。芳音の前に、克美がはだかって自分を芳音から遠ざける。

 大人の都合で自分達まで逢えなくなるなんて。悔しくて、悲しくて、そして芳音が恋しくて。眠れない夜を過ごし、夜毎枕を濡らした数年も過ぎたら、遂にはそれに疲れて泣くのを止めた。

 心にふたをしてしまえば、胸を痛めなくて済む。考えなくて済むから、ずっと楽。


「はぁ、出掛ける前に余計なこと思い出したな、ったく」

 能天気で明るくて、楽しいことが大好きで――ちょっとお金を出せば、簡単にヤらせてくれるチトセちゃん。

 鏡の前で、そんなペルソナを被って微笑んでみる。父を魅了したという、亡き母が愛用していた香水を軽く噴きつける。バカな男を釣るのは、少しでもたやすい方が楽でいい。

 幸せ家族なんかは、とうの昔に諦めた。だけど夢だけは、絶対に諦めない。例え父であろうと、絶対に邪魔させない。

「自分のお金で夢を実現させてやる」

 鏡に向かう望の目が、鋭く細まった。気づけば想いがそのまま舌にのっていた。

 望の夢。父の支配から逃れ、自分の力で生きていくこと。自分の店を自分の力で手に入れること。

 遠い昔味わった、母の作ってくれたオムライス。ふんわりと甘くてまあるい味。翠という本当の母と直接繋がれる、心に残っている幸せな記憶。それをひとりでも多くのお客さまに分けて、笑ってもらいたい。そんな果てしなく遠いけれど、絶対に叶えたい夢。

 その世界に、父なんか入れてあげない。自分の力で実現してみせる。

 自分の力だけで夢を叶えることが出来たら、失くした何かをもう一度取り戻せる気がした。

「渡部薬品なんて、クソ食らえ、よ」

 口癖に近くなったそれを今日も繰り返す。そのためならなんでもすると誓った自分が、惨めだと嘆く自分に言い含める。

「一人娘だからって、将来までパパに決められて堪るもんですか」

 望は鏡の中の自分にそう吐き捨てると、勢いよく踵を返して部屋を出た。ふわりと広がる栗色の長い髪が、ふるい落とし損ねた過去の残像を払う。勢いよくたなびいた髪が、重力に負けて望の背を撫でながら落ちていった。

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