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意外な後押し 1

 七月二十日。

「はい、今月分。先月はちょっとお休みしたから大変だっただろう。よく頑張ってくれているから、ボーナスもどき程度の色をつけさせてもらったよ」

 今回で五回目の給料日となる今日は、芳音と果穂へバイト先のオーナーがねぎらいの言葉だけでなく、物理的にありがたいものまで添えてくれた。

「うわ、ありがとうございます」

「い、いいんですか。俺、オーナーには先生までしてもらってるのに」

「なに、構わんよ。正当な報酬だと思っていいさ」

「ありがとうございます」

 謝辞を述べる端から、つい顔がほころんでしまう。計算をミスった四月分の生活費、克美に借りたそれをこれで全額返済出来る。色をつけてくれたということは、克美への返済と生活費分を差し引いても、少しだけ自由の利く金が出来る。望とデートらしきものが出来るかも知れない。

 芳音は膨らむ妄想と一緒に、給料袋をバックパックのポケットへ丁寧に収めた。

「ところで、ちょっとだけ時間をもらっていいかな、ふたりとも」

 閉店の段取りも終わってあとは帰るだけの状態だったふたりを、珍しくオーナーが引きとめた。

「はい」

「大丈夫です」

 果穂とともにそうは言ったが、オーナーが心なしか剣呑な表情になっている気がした。


 オーナーを向かいの席にした格好でふたり並んで座らされた。オーナーの話は「越権行為だとは思うがね」という前置きから始まった。

「芳音くんは果穂くんの紹介をもらって、ほかにも副業をしているようだね。それも、私から見るとどうにも好ましくない内容だ」

 芳音の肩だけがギクリと震えた。そして逃げるように視線を逸らして俯いた。果穂は「ふう」と小さな溜息をつき「どこから漏れたのかな」とこれ見よがしに呟いた。

「芳音くん。君の提案で、うちは学生さんにもリーズナブルなランチサービスを提供するようになったよね。娘が卒業生ということもあるし、学校経由で君たちのような修行を兼ねたバイト志望の子の応募先にもなっている店だよ、ここは。通学圏内ということもあって、学生さんが授業をサボってランチタイムにご来店くださることもある。君は優秀な生徒のようだから、必然的に人の口にも名が上る。その自覚はあったかい?」

 そこまで言われれば、漏洩元が嫌でも判る。芳音はただただ大きな身を縮こまらせた。一方の果穂は、さほど悪いことをしたでもなさそうな態度で「なるほど、そっかー」とのんきな口調で納得していた。

「別れ話がこじれた子の恋人の振りをして、相手との清算を促す。要は別れさせ屋の真似事だろう。大人でも怪しげな人間が生業としている場合も多い内容だね。もし刃傷沙汰にでもなったら、遠く離れた親御さんが君を都会へ出したことに対してどれだけ後悔すると思うんだね?」

 今の子はやることばかりが大人顔負けで、何をしでかすかわからない。仮に事件にならなくても、娘に渡した小遣いがそんな使い方をされていると依頼主の親御さんが知ればどう感じるか、解るね。

 たたみ掛けられる言葉のひとつひとつが、芳音を益々俯かせた。

「オーナー、そんな大袈裟な。割とみんなヘーキでそんなことやってますよう」

「みんながしているのであれば、それがたとえ誰かを傷つけることだとしても、やっていいのだ、と。そういうことかね? 知らせなければ傷つけないだろう、という考えは、傲慢な希望的観測でしかないと私は思うんだがねえ」

 その言葉は芳音の胸の奥に沈めた古傷をえぐった。

「んー、まあ、そうですけど、でもお店に迷惑は掛けてないし、それに芳音は早くお母さんに」

「果穂さん、ストップ」

 顔を上げないまま、言葉と左手だけで果穂を制する。オーナーの話を聞いても変わらない彼女の態度から、そういう経験があまりないと感じられた。きっと彼女には解らないのだろうからと、敢えて庇ってくれる厚意を遮る形で断った。

「知り合いに、すごく心配性な父親がいます。そんな内容であれば、心配するの、解ります。自分も今更なんだよ、って思うようなことをずっと隠されてたことがあります。自分がされて嫌なことをしてました。すみません」

 店の名前を思い返す。『ドゥ・ターブレ・ティエッド』は“あたたかな食卓”という意味だ。僭越な認識かも知れないが、芳音がホールに立つようになってから若い層の客が増えた自覚もある。少しでも早く克美に借金を返したくて先走った結果、店の名前に泥を塗った。あたたかな食卓が、嘘にまみれたものという認識をされてしまうことをした。果穂のお人よしにつけ込んで、オーナーの思い入れがある彼の店名を結果的に汚してしまった。

「私は雇用主でしかないと自分に言い含めて黙っているつもりで今日まで来たが、やはり娘を持つ親として口を出さずにはいられなくてね。解ってくれれば」

 オーナーがそんな口振りでまとめ出した言葉も遮った。彼にこれ以上悪役(ヒール)を演じさせるのは忍びなかったからだ。

「店の名前に泥を塗ってすみませんでした。これはやっぱり、俺には分不相応なので返します」

 芳音はそう言いながら、バックパックに収めた給料袋を取り出してテーブルの上に置いた。

「果穂さんは俺に頼まれて仕方なかっただけで、彼女は悪くないんです。本当に、すみませんでした。お世話になりました」

 いつも、これだ。心の中で歯噛みする。肝心なところでいつもミスをする。気づいてしまえば、こんな恥ずかしく申し訳ないことはない。親のものとは言え、自分も『Canon』という城を持っているのに、オーナーの立場をまるで考慮していなかった。

「ちょ、芳音、何カッコつけてんのよ、そんな大袈裟な」

「いやいやいやいや、待ちなさい」

 引きとめてシャツの裾を引っ張る果穂の手をそっと引き剥がす。鞄のショルダーを肩に掛け、オーナーにもう一度深く頭を下げた。

「クレームが来てからじゃ遅いから。口先ばかりの謝罪になっちゃって、本当に申し訳ないんですけど」

「そう思うなら、まずは座り直しなさい」

 ぴしゃりと言い放つオーナーの声におののき、頭を上げた。見上げて来る彼の表情は、苦虫を潰したような顔だ。

「君たちに言われるまで、店の看板だの評判だのというところにまで気が回っていなかった。私はね、そんなことが言いたいんじゃない。誤解されたまま辞められるほうが迷惑だ。座りなさい」

 オーナーは芳音にそう命じると、自分は芳音と入れ替わるようにゆっくりと席を立った。ワイングラスをみっつ手に取り、商品のワインを一本開ける。

「クソ真面目のカタブツ親父と思われるのは心外だね」

 そう言って苦笑しながら、芳音のグラスにもワインを注いだ。


 アルコールで舌を滑らかにしたオーナーの話は、予想に反して芳音の料理に対する評価から始まった。

「非常に、完ぺきだ。だがね、それだけなのだよ、芳音くんの場合は」

 まったく知らない分野の料理で、基礎を覚えたいのは解るがね、とフォローらしきものを加えられても、本題にばかり気がいった。

「果穂くんにサブを任せられるまでに、やはり一年は掛かったよ。そう落ち込むことはない」

 グラスに口をつけて押し黙った芳音に、二方向から小さな苦笑が零れた。

「真面目過ぎるんだよね、芳音は」

 果穂は二杯目を手酌で注ぎながら、相変わらずの毒を吐いた。芳音に言わせれば、果穂が大雑把過ぎるだけだと思う。カチ、とグラスの端から小さな音が零れ落ちた。芳音は気づかないうちに、グラスの縁に歯を立てていた。

「そつはないけれど、個性もない。それがどうしてなのか、芳音くんには解るかい?」

 理屈では解っていると思う。芳音はグラスから口を離し、恐る恐る答えてみた。

「お客さまを見ていない、ってこと、ですか」

「そう」

 と答えて嬉しそうに顔をほころばせるオーナーを見て、つい眉間に皺が寄った。

(クイズやってるんじゃないっつうの。どうすりゃいいのかわかんないんだもん)

 心の中だけで浮かべた文句を見透かしたようにオーナーが続けた。

「お客さまに甘えるのも、コミュニケーションのひとつだよ。“今日のお味はどうでしたか”“だれそれさまはこの食材が少し苦手と聞いていたので、こちらの食材に変えてみましたが、いかがでしょう”とかね」

 そうそう、と果穂がオーナーに加勢する。

「夜は予約制だから、そういうゆとりがある、と言えばあるのよね。レシピは厨房に聞いてくれればいいんだし」

「聞いていいんだ」

「もちろん。でないと芳音くんは特に、問われる側に回ってしまっているようだし」

 知ってたんじゃん。これもまた口には出せないオーナーへの甘えた文句だ。腹に収めた不服の代わりに、懸念事項を口にする。

「でも俺、もしクレームが来ても自分で作ったわけじゃないから、そうなったらオーナーの手を煩わせるんじゃないですか?」

「君が自分の店に立っていたときはどうだったんだい?」

 遠回しに愚問だとひと言で却下された。

「そか。アレンジしたり、聞いたりしても、いいんだ」

「そう。迷ったり解らなかったりしたときは、聞けばいいんだよ。頼りにされれば、誰だって嬉しい。多かれ少なかれ誰にだって、承認欲求というものがあるんだからね」

 そう言いながら差し向けられたワインボトルに、空になったグラスを一礼しつつ傾ける。酒は弱くはないほうだと自負していたが、日ごろの疲労が蓄積しているのか、妙にふわふわと心地よかった。

「そしてその人のための一品を作れたら、結果的にそのお客さまにとってうちでのディナーが最高の食卓になる」

「頼り頼られる心地よさは、言い換えれば信頼関係とも言えるわね」

 果穂が少し呂律の回らない口調で合いの手を入れた。オーナーには聞けなかったことを彼の娘さんに聞いていたことや、芳音にそれを返せる自分を感じて自信が持てた、などというような話を、彼女は思いつくままにつらつらと語った。

「それは君と君の親御さんとの関係にも当てはめていいんだよ」

 不意にオーナーが芳音にそんな形で話を振った。ぼんやりとしていた焦点が一度に合う。いきなり話題が変わったことに戸惑う瞳をオーナーに向けると、彼はにこりと笑って飲み干したグラスをテーブルに置き、口ひげについたワインをナフキンで拭った。

「えと」

「詳しい事情は知らないが、履歴書の保護者欄は、お母さんの名前になっていたね。お母さんに負担をかけまいとがんばっているのは、果穂くんからの先ほどの言葉を聞く前から感じていたよ」

 でも、親の立場から言わせてもらうと、なんとも寂しいものでもあるよ。

「え、寂しいって、意味わかんないんですけど」

「頼りない親だと見限られているようでね。まあうちの娘がそうだったので、つい君のお母さんに肩入れしてしまうんだろうが」

 そう言われて思い出した。オーナーのところは父子家庭だ。フランス行きを強く薦めたのはオーナーだったらしいが、それは娘さんが密かに諦めていた夢だったからだと果穂に聞いたことがある。

「日ごろ頼らない子ほど、たまに甘えることは、親孝行になる」

 だから、そんな危ない副業からは足を洗いなさいと言われた。オーナーの伝えたかったことがなんなのか、ようやく芳音は得心した。解った途端、頭が下がる。せっかく注いでもらったワインに手をつける余裕すらなくなってしまう。

「あーあ、オーナー、芳音を泣かせちゃったー」

「な、泣いてないッ」

「果穂くんも他人事みたいに聞かない。お父さんも引っ込みがつかないだけで、もう反対のしようがないと解っていらっしゃるのだから、一度顔を見せに行きなさい」

「はーい」

 やっぱり果穂が大雑把なだけだ。放置かよ。と呪いの言葉が頭上に回る。思い浮かぶ悪態と裏腹に、芳音の胸の内はあたたかさで満ちていった。

「ふたりとも、定休日込みで平日の四連休くらいは取っていいよ。ふたりで相談して日程を知らせなさい」

 一人前に近づきつつある自分を親御さんに見せて来なさい、というオーナーの声音は、雇用主としてより、親のそれに近いのだろう。異国の地で頑張っている娘に「寂しい」「会いたい」「帰って来い」とは言えないオーナーの心情が痛いほど伝わった。

 次に『Canon』へ帰るときは、ひとつやり遂げようと思う課題があったのだけれど。予定よりも少し早まってしまうけれど。

「ありがとうございます」

 この夏休みに、一度帰ろう。そうと決めれば子どものように、いつまでも泣いてなどいられなかった。

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