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モラトリアムの終焉 1

 父、穂高がアメリカの支社から帰国したのは、芳音の体調がすっかり回復し、安西家に日常が戻ってしばらくしてからだった。到着を知ったのは、穂高が空港から望宛に送ったメールから。泰江を介しての報告というスタイルを変えて、直接やり取りをすることに随分と慣れて来た。

「夕飯はどうするんだろう」

 不満に近い問いと一緒に溜息が漏れる。到着時刻は夕方だった。会社に一度戻るのか、それともすぐ帰って来れるのかくらい、一度に報告してくれればいいのに。望は心の中でだけそうごちつつも、返信には『お疲れさまです。夕飯はどうしますか。食べるなら用意します。』と入力するだけに留めておいた。きっと泰江ならそうしただろう。そしてこれまでもきっと、そうしていた。

『要らん。ドアチェーンだけよろしく』

 愛想のない返信がほどなく届いた。会議があるのだろうとは思うものの、家族間のメールで、業務連絡にしか見えない用件のみというのは如何なものか。

「お母さんが寂しそうな顔で笑うわけだわ」

 これまでの泰江の苦労を窺い知れる穂高とのやり取りに、望の口から溜息がもうひとつ出た。


 望が二階で泰江との夕食を済ませて最上階へ戻り、風呂も済ませてレポートに向かおうとしたころになって、ようやく玄関のドアキーがカチャリと小さな音を立てた。

「おかえりなさい」

 急いで部屋を出て玄関口へ向かう。努めて自然に振舞おうとしたが、笑顔が微妙に引き攣れた。

「ただいま。なんや、まだ起きとったんか」

 そっけない返事とともに鞄が手渡される。一瞬むっとして目を細めたものの、顔を合わせるのは入学式のあったあの日以来だから三ヶ月ぶりになる。話が中途半端なまま喧嘩別れをしたので、父にも自分と同じように思うところもあろう。望は自分をそうなだめ、ぐっと批難の言葉を呑んだ。

「早めにレポートを仕上げてしまおうと思って。それに」

 続く言葉が、ついくちごもる。いつもなら穂高の方から「それに?」と促す言葉があるのに、今夜はそれがない。望がその違和感に戸惑っている間に、穂高は寝室へ入ってしまった。

(ま、負けるもんですか)

 玄関にぽつりと取り残されたものの、急いであとを追い掛ける。スーツジャケットと鞄を手に、穂高の寝室のドアをノックした。

「パパ、入るわよ。いい?」

「あ? ちょい待った」

 それから待つこと、数秒。ネクタイを外し、シャツのボタンを幾つか外した穂高が着替えを手に扉を開けた。

(なんだ、もう寝ちゃうのかと思った)

 気ままな父は、諸々を二階で済ませて来ることも多々ある。今日は下へ寄らずにこちらへ直行しただけだと解り、自然と安堵の笑みが浮かんだ。

「何か?」

 やっぱりかなり刺々しい。喧嘩の原因がいつもと違い、芳音が絡んでいるせいだろうか。

「ちょっと、話したいことがあるんだけど」

 眉間に皺が寄らないよう最大限の努力をし、可能な限り柔らかな口調でそう言った。

「解った。シャワーだけ使わして。汗で気持ちが悪い」

「うん。その間にアイスコーヒーを作っておくわ」

 ブルマンのナンバーワンで、とつけ加えると、穂高は心なしか相好を崩した。

「頼むわ」

 声もいきなり柔らかくなった。疲れた顔をして帰って来たくせに、バスルームに姿を消した途端、中から鼻歌が聞こえ出した。ものすごく、解りやすい。望は堪え切れずに噴き出した。

 父の寝室へ入り、鞄をデスクの脇に置く。ジャケットを手にしたまま脱衣場へ向かい、脱ぎ捨てられたパンツやシャツを回収する。一見飾りのオブジェを思わせるデザインのクリーニング専用ランドリーバケットへ、それらをたたんで押し込んだ。

(確かに、甘やかされてたわ)

 ふと気づく。それは望自身のことだ。芳音や泰江もそうだが、自分の周りには甘やかしてくれる人が多い。穂高がさっき感じさせた違和感の源は、多分それだ。

 続きを促さないのは、子ども扱いをしないという意思表示、と解釈したらポジ過ぎるだろうか。

 浮かべた疑問符は、誰に宛てたものだろう。望は自分でも解らないまま、取り急ぎコーヒーの用意に取り掛かった。




 望が穂高にコーヒーを淹れることはほとんどない。なかなか味にうるさい人だからだ。穂高には近所に住んでいる姉(つまり、望から見れば伯母に当たる)がいるのだが、喫茶店を営む友人を持つ彼女が淹れたものと、その伯母から教わった泰江が淹れたものにだけはケチをつけない。

(あと、多分、克美ママのも文句を言ったことがなかったわね)

 そりゃそうか、プロなんだから、と笑えるネタのつもりでつらつらと思いを巡らせる。それほど緊張していた。

 芳音や泰江に教えてもらった淹れ方を意識して湯を落とす。口頭説明だけだったので、今いちイメージを掴めないながらも、雫にしてゆっくりと豆に湯を注いだ。穂高にとってブルーマウンテン・ナンバーワンは、特に思い入れのあるお気に入りの豆らしい。その理由を先ほど泰江に突っ込んで聞いてみたが、答えを聞いてひどく悔やんだ。

『苦味系が好きなママさんだったのに、パパさんが好きだと知ってから、自分のアパートにいつも置いてくれたから、みたい』

 まだ翠と穂高がつき合ってもいないころの話だそうだ。泰江は望の顔色を見たのか、

『ママさんって、そういう人だったんだよ。私は紅茶党だから、って、いつも私のお気に入りの茶葉も置いてくれていたの』

 と、殊更に気にしていない様子をアピールしていた。

 寝室は、望が信州から引き戻されて以来ずっと変わりないレイアウトのままだ。翠の片鱗を感じさせる、そのままの家具や、残されたままの衣類。穂高は泰江や望に「適当に処分しといてくれていい」と言っていた時期もあったが、それも残酷な物言いだと思う。

「出来るわけがないでしょう」

 泰江がかつての友人の遺品を捨てるなんて。だけどかつての友人は、夫の前妻だ。そして翠の遺品は、望にとって数少ない生母との繋がりでもある。縋りこそすれ、捨てるなど論外だった。

 いつまでも過去を引きずっている。みんながみんな。それが望を苛立たせる。自分も同類のくせに、他人のそれには憤る。穂高への苛立ちがざわつき出したことに気づき、無心に努めてコーヒーを巧く淹れるのに専念した。


 ドリップしたコーヒーをグラスに注いだ絶妙なタイミングで穂高がリビングに戻った。

「カウンターでええわ。ソファに落ち着いたらそのまま寝落ちしそう」

 穂高は髪をタオルドライしながらそう断り、カウンターのスツールに腰掛けた。アイスコーヒーに、一応ミルクとガムシロップを添える。落第のときには無言でそれを入れる人だからだ。そして今回も容赦なく、ブラックをひと口含んだあとは、それをグラスに放り込まれた。

「ごめんなさい」

 そのひと言とともに、頭を下げる。

「あ? ああ、疲れているさかいに、甘くしたかっただけや」

 謝罪の内訳をコーヒーの味と勘違いされたようだ。望は頭を上げ、カウンター越しながらも穂高の目をまっすぐ見たまま、もう一度繰り返した。

「それじゃなくて。会食のあとでのこと」

 するりと言葉を紡げたのは、気づいてしまったせいだ。

 面倒くさげな口振りでごまかし、望の淹れ方が今ひとつだとは絶対に言わない。取り繕うのに必死過ぎてそれが丸解りになる、芳音とよく似た“気づかせまいとする気遣い”に気づいてしまった。

「あー、その話は」

「終わってないの、私の中では。嘘をつこうとしていたこと、ごめんなさい」

 席を立ち掛けた穂高に食い下がる。あからさまな不機嫌顔に怯み掛けた自分を奮い立たせた。

「自分のことを棚に上げて、パパの昔のことで揚げ足を取ったことも、ごめんなさい」

 少し前なら――芳音と心を通わせるまでは解らないでいた。それが穂高なりの“自分から話を切った”と面倒ごとの全てを被るプロバガンダだと。自分はそうやって、甘やかされて来た。それに気づいた今はもう、子どもじゃない。望に背を向け寝室へと踵を返した穂高の後を追った。

「パパを避けて来たことも」

 言いながら、穂高のスウェットの袖を掴む。まだ直接腕を掴めるほどの度胸はない。見上げれば、なんとも言えない表情で穂高が望の手許を見下ろしていた。

「理由も話さずに……すみません、でした」

 結局言い終わるまでは姿勢を維持出来ず、望はもう一度頭を下げる形で穂高から逃げた。腕がだらりと力なく落ちる。悔しさでその手がエプロンを握りしめた。下げた頭はいつまでも父に向けて上げられないままだった。

「どういう風の吹き回しだ?」

 益々頭は下がる一方だ。髪が望の顔を隠して穂高の様子を窺わせない。やがて、懐かしいくらい穏やかなテノールが、なだめるように頭上から降った。

「話したくなければ、話さなくていい」

 まだ芳音と一緒に過ごせていた幼少期のころ、芳音と悪戯をしては母親たちに叱られる中、よくそう言って庇ってくれた遠い日を思い出す。知らず視界が唐突に波打ち、俯いた先に雫がはたはたと舞い落ちた。望の涙を見て咄嗟に上がった穂高の手が、葛藤している仕草を見せた。

「パパが……怖かったの」

 嫌いだったのではなく。穂高の見せた小さな所作が髪の隙間から覗いたお陰で、やっとそう告げることが出来た。いつも、そうだった。穂高が望に触れる前、必ず一度間をおく。迷うように手が固まる。そうさせたのは、望だ。五年前の事件後ならいざ知らず、そして北城大樹の件を知った今なら尚のこと、「どうして自分は父親なのに」という複雑な心境を抱くのは否めないだろう。

「怖かった、か」

 落胆と自嘲の混じった声が、望の胸をえぐった。く、と奥歯を噛みしめる。そこで話が終わりと思われたくはない。

「五年前のあのとき、すごく苦しくて。呼吸しようとしても、シャワーのお湯でむせてしまって、余計に息が出来なくなって。逃げたくても、逃げられなかった。パパも、あの人と……同じに見えた」

 傷口に塩を摺り込む物言いをする。穂高の息を呑む小さな音がやけに響いた。

「渡部に傷がつく。きっとパパに叱られる。怖くてやっと言い訳を思いついて、どうにか笑って見せたのに、全部見抜かれて、怒鳴られて……パパに、汚いものを見るような目で見られた。真っ先に、芳音が浮かんだの。パパに知られたなら、いつかきっと芳音にも知れる。芳音にも、汚いと思われる。私、もう終わったんだな、って、あのころは、思ってたの」

 逆恨みでしかない幼い理由を、つかえてはまた紡ぐ。穂高はその間一度も口を挟まず、ただ黙って聞いていた。

「過去に負けるなんて悔しかった。だから、こんなことはなんでもないことって……ちょっと我慢すれば、お金になる、その程度のものだって強がっていないと頭がおかしくなりそうだった。パパはお母さんにも言わないでくれたわ。だから、芳音にも知られずに済むって、期待してた。せめていつか、一緒に最高のオムライスを出せるお店を、って」

 なのに、やっぱり芳音とは会えない。阻むものは、真夏の夜の悪夢。

「芳音がパパを赦せないうちは、私も芳音には会えなかった」

「俺が、芳音に?」

 穂高が初めて口を挟んだ。心から腑に落ちないと不服げな声音だ。

「最後にうちに泊まった夏休みのとき……克美ママが芳音だけ残して先に帰った前の日の……夜……私たち、トイレに行こうって、起きてたの」

 自分でも寒気のするほど冷たい声で、それは紡がれた。しん、と静まり返ったリビングに、穂高の溜息が耳障りなほど大きく響いた。

「なるほど。理解した」

 続く弁解を待ったが、穂高からはいつまで待っても言葉がないままだった。再燃する憤りの混じったじれったさが、少しだけ望に顔を上げさせた。

「言い訳とかは、ないの?」

「俺と泰江の中ではとっくに終わってる話ではあるがな。まあ、親父の情けない泥酔ぶりを晒していたことにも気づいていなかった、という部分については素直に詫びておく」

 いつもより少しだけ饒舌な言葉の中に、使った音以上の内容が凝縮して返される。見上げれば不遜ではあるものの、日ごろよりやや鋭才の欠けた苦笑が、そして逸らされることのない瞳には、嘘ではないと思わせる真摯な色が宿ったまま望を見下ろしていた。

「お母さん、知っていたの」

「そういうヤツだから、俺のカミさんが務まってる」

「おっきな人ね。身体はあんなに小さいのに」

「頭が上がらん。それはお前かて知っとるやろう」

「うん」

 その頭の上がらない賢妻が、昨夏の旅行を打診した穂高に、芳音の同席を言外に促したという。

「泰江っていう外堀から埋めようとしたのか、お前に気を寄せるやつの何人かが、客を装ってサロンにアポを入れて話していくことがあるらしい。泰江はお前に繋ぐ必要ないと判断して出入り禁止にしているそうやけど」

 さりげなく話題を本筋に戻され憤りが燻った望だが、今優先すべきは自分が穂高に“話したいこと”なので、どうにか気持ちを切り替えた。

「そう。知らなかった。今度お礼を言わなくちゃ」

「ネックは芳音だったようやな。泰江の憶測だと本人は前置きしていたが」

 芳音と再会してからお前は変わった。戻った、というほうが正しいか。呟くように語る穂高の声音は、芳音の肯定を思わせる言葉に反し、ひどく機械的な淡々とした口調だった。

「俺になくて芳音にはあるものがお前を本来に戻したんやろうけどな。何が至らなかったのか、俺にはわからん」

 ああ、プライドが無機質な声にさせたのか、と、ようやく理解した。

 同情の思いは、芳音へと振れる。自分と同じように、未熟だという前提で語られる彼に心は傾く。発想の根本が間違っている父に、どう説明すれば理解してもらえるのだろうか。噛みつく形でしか対応したことのない望は、しばらく唇を固く結んだままだった。

「パパが至らないとか至るとか、そういう話じゃ、ないの」

 芳音以外の、すべての人がダメなの。その言葉を告げ終えるころには、また顔が床と向き合っていた。

「臭い、トラウマになっていたの、多分、きっと。夏の満員電車には耐えられなかった。エレベーターも乗れなかった……芳音と、会うまでは」

 渋谷駅で待ち合わせたとき、遅れたことを気に病んで走って来た芳音。「来てくれないかと、思った」と泣きそうな声で呟きながら、抗えないほど強い力で抱きしめられたとき、すべての記憶が上書きされた。

「上京してすぐに、ここへ来てくれたの。お母さんと一緒に部屋中を見て回って、“懐かしい”ばっかり言って、笑わせてくれて。嫌な思い出を全部書き換えていってくれたの。それでバスルームは怖い場所じゃなくなったの。離れてた十二年分、全部一緒に歩いて回ってくれたの。全部、新しい思い出に書き換えてくれたの。あの河川敷を通るとき、思い出すことが芳音と草笛で遊ぶ思い出に変わったわ。援交相手と待ち合わせた場所は、芳音との待ち合わせ場所での恥を掻いた笑い話に変わった。キッチンでは芳音のほうが上手にオムライスを作ってくれて、悔しくて喧嘩して、お母さんに笑われて、だけどもうパパと克美ママの」

「もうええ」

 不意に視界が薄暗くなる。ボディーソープの清潔な残り香が、心地よく望の鼻先をくすぐった。

「追い詰めた。堪忍」

 苦しげな声がぼんやりと望の鼓膜を揺らす。強張った身体は反動のように緩み、足許から崩れていった。それにつき合うように、父も床に座り込む。望の頭を抱えたまま。

「パパ。私もう、パパのこと、怖くないわ。私がパパを怖がっていた理由を、芳音が教えてくれたから」

 ぴくり、と小さく父の手が揺れた。

「だから私、芳音と姉弟には、なれない」

 望の髪を掴んだ穂高の手が、感情を押し殺すかのように握り拳を作った。

「認めて、なんてねだるつもりはないの。認めてもらえる自分たちになろうって、お互いに約束したから」

 だからせめて公正な目で見守って欲しい。

「芳音は辰巳さんと克美ママの息子であって、パパの息子じゃないの。誰かの何かじゃない、芳音自身を見てやってください」

 望はようやく“話したいこと”を穂高に伝え切ることが出来た。

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