もうひとつの壁 4
芳音が次に目覚めたときにまず見えたのは、ようやく見慣れて来たアパートの天井だった。そこに合わせていた焦点が、次第に背景となりピンボケになる。覗き込むふたつの顔に商店が合うと、そのうちのひとつが、金に近い赤茶色の長い髪と、相変わらずの派手な化粧が少しだけ崩れているのが判った。泣かせてしまったのだろうか。ふとそんなことを思った。自分の行動が、彼女にとっての嫌な思い出をほじくり返してしまったのかも知れない。
もうひとつの顔は、毎日毎晩、夢の中でしか会えない、自分とよく似た面差しを曇らせて自分を見下ろしていた。
「……ごめんなさい」
芳音はどちらへともなく呟いた。自称“姉代わり”が、芳音の前髪をすいてそっと額に触れた。
「望から来てって言われた場所を聞いたときには、さすがに驚いたわよ。あんな資料をどこから手に入れたか知らないけど」
この人はいつもこうやって、怒っていい場所で赦す表情を宿す。やっぱり「ごめんなさい」としか繰り返せなかった。
「事の次第は阿南支配人から聞いたわ。あの女ともう一度会えたのはあんたのお陰だから、それで帳消しにしてあげる」
貴美子は「藤澤会事件を売り物にした阿南をようやく引っ叩くことが出来た」と苦笑した。「もう一度会えたのは」ということは、それ以前――オカルトブーム以前の事件直後にも会っていたということなのだろう。どこか吹っ切れた表情を覗わせる貴美子を見て、少しだけほっとした。
芳音の意識が飛んでからこれまでの経緯も、貴美子から伝えられた。
ホテルから借りた従業員用のPHSの電源が突然切れたらしい。電源オフを厳禁としているため、管理している部門の担当者が異常と判断したらしい。また所持者が部外者である芳音だったことも、阿南への連絡を即決させたようだ。数人の若いホテルマンが高千穂の間に駆けつけ、倒れている芳音を医務室へ運んだらしい。そのとき回収された従業員用PHSとともに、音楽プレイヤーもなぜか電源がオフになっていたそうだ。
「あんた、阿南に望の連絡先だけ伝えてまたひっくり返ったんですってね。アタシじゃ信用出来ないってこと?」
「教えてないよ! なんだそれ」
芳音にはまったく記憶にないことを貴美子から言われ、思わず否定した。
「え、だって、あんたじゃないと携帯電話のパスワードを解除出来ないじゃない。阿南はあんたに見せられた望の連絡先を見て連絡したそうよ。実際、あんたも携帯以外に望の個人情報が判るようなものを持ってなかったし」
「って言われても、そんなことしたって、俺にはデメリットしかないし。嘘は言ってないよ」
「……それもそうね」
貴美子はまくし立てるだけまくし立て、それから戸惑いを浮かべて首を傾げた。何やら口の中でブツブツと言っていたようだが、気を取り直したように芳音を再び見下ろした。
「ま、前例からすると数日で熱も引くみたいだから。この子がいろいろ機転を利かせてくれたのよ。感謝しなさい」
貴美子がそう言って隣へ軽く首を傾ける。俯いたまま無言を貫いていた望が、ようやく少しだけ顔を上げた。
「どうしてまた辰巳さんに拘り出したの」
遠慮がちにだが、確実に怒っている声がそう尋ねた。彼女の視線が軽く貴美子の方へ泳ぐ。遠慮は貴美子に対してのものだろう。貴美子もそれを感じたらしい。少し呆れたように溜息を漏らすと、彼女は
「芳音、アタシはそろそろ行くわ。望、落ち着いたら泰江に連絡を入れておきなさいよ。あの子も心配性だから」
と椅子から立ち上がった。
そのあと、すぐ本題へ話題が移ることはなかった。
「戸籍を操作してるって聞いてたから。藪じいに電話をしたの。そしたら今はもう大丈夫だからって」
望はそんな切り出しで、とつとつと経緯の続きを語った。
客に万が一の事態が生じた場合に備え、日本帝都ホテルにはとある病院との連携が今も保たれているらしい。
「今も、って?」
「芳音が調べてたあのオカルトブームの時代に、芳音みたいな症状で倒れた人が多かったんですって。そういう関係で往診を呼ぶことがなくなった今でも、お互いにメリットがあるから提携を続けている、って言ってたわ」
ホテルへ往診に来た医者は、原因不明の高熱に対して悩みも驚きも見せずに、解熱剤の頓服薬を処方しただけだったそうだ。
「また霊障だろう、医者の専門外だ、って」
「レイショウって」
「霊の影響で人に現れる障害っていうのみたい」
そんな話がしたいんじゃない。投げやりな言葉の中に、そんな本音が見え隠れする。望は芳音の寝ているベッドの脇で、目覚めたときからずっと上掛けを握りしめたままだった。きつく唇を噛んでいるのもそのままだ。
「……ごめん」
話したいのは、そんなことじゃない。望と似たその感覚を抑え切れず、芳音は重い腕を伸ばした。毛先だけ少しゆるいウェイブをかたどる栗色の髪が、懐かしさを伴った甘い香りを芳音の鼻先に運ぶ。俯いた彼女の顔を覆っているそれを自分の方へさらに引き寄せた。必然的に望が芳音に身を傾ける格好で至近距離になる。
「ホタに、認めさせたかったんだ。心配掛けるつもりじゃなかった」
重い腕が悲鳴を上げ出し、望の髪を手指に絡めたまま、ぽすんとベッドに力なく落ちた。それに引きずられるように、望もさらに前屈みになる。正直、声を出すのもしんどくなっていた。でもこの距離なら、囁くだけでも充分望の耳に届く。
「俺は、ホタとは、全然違う、ってこと。知れば、少しは、とか。辰巳のことが解れば、それより上をいけば、一人前、って、ちょっとくらいは、認めてくれるかな、って」
でも、目の当たりにしたモノはあまりにも非現実過ぎて、辰巳に手が届くどころではなかった。もしもあの白昼夢を信じていいのだとすれば。
「すげえ……怖かった」
思い出した途端、望の髪から漂っていた好きな匂いが血の臭いに侵されていく。高熱から来る息の浅さが、血溜まりに顔を突っ伏したときの苦しさと重なった。望の髪を掴んだ拳が小さくカタカタと揺れ出した。それをそっと包むように、ひんやりと心地よい手が包んだ。
「人って、あんな風に弾けちゃうんだとか、自分の中に流れてる血って、あんなに勢いよく噴き出して来るもんなんだとか、あり得ない方に身体が折れたり曲がったりすると、ホントはあんなにも別の生き物に見えちゃうんだとか」
音があったら狂ってたかも知れない。上ずった声でそう零すと、望が小さな声で「音?」と繰り返した。
「多分アレ、辰巳の五感が認識してたものだったと思うんだ。見たモノとか自分が実際に感じたモノとか、そういうのを喰らった、っていうか」
銃声と、辰巳の声と、そして。
「辰巳の声だけ、聞こえた」
――芳音?
その一瞬に見せたグリーン・アイズが、初めて人の感情を宿した。
「怖い」
その瞬間、すごく嬉しく思ってしまった自分が。自分とそっくりな顔をした自分の父親が、平気な顔で、なんのためらいもなく、弾の尽きるまでトリガーを引き続けたのを目の当たりにしたのに。そんなヤツ、恐れて当然なはずなのに。それまで虚構の中で見せていた冷たい瞳が、自分を見とめた瞬間、和らいでくれたことが嬉しかった。まるで存在を認めているかのように見えて。
「ホタはリアルタイムで、あんなのと渡り合ってたんだよな。それ以上になるには、俺もあんな人間にならなきゃ、強くはなれないってことなのかな」
混沌としていたモノを言葉に置き換えた途端、それは芳音自身への呪いに変わった。
「なんで俺、名前を呼ばれて、喜んじゃったんだろ。それって、アッチ寄りってことじゃんか」
疑問が確信に取って代わる。
「みんなに笑ってて欲しいのに、だから料理人を目指してるのに、泣かせることとか、怯えさせることとか、消すこととかしか出来ないのかな」
確信は糾弾へと意識を変えてゆく。向けるべき存在は誰だと自問してみれば。
「でも、それって間違ってるよな。それとは反対へ行ったら俺、ホタには絶対認めてもらえない。のんを守れるくらい強いんだって認めてもらえない。だけど俺はホタの息子なんかになりたくない」
いろんな人を見て来て知っている。兄弟でも離れていってしまうこと。自分で築く家族が出来れば、幼いころのようにはいかないことを知っていた。何かあったとき、最初に連絡をもらえるのは、兄弟よりも当人の築いた家族の中でも一番近しい人。だから、望と姉弟ではない形で家族になりたい。そう思っていたけれど。
「のんとホタを喧嘩させたくはないんだ。親って欲しがっても手に入らないもんだって、俺が一番知ってる」
胸のうちに渦巻く嵐は、雑多で混沌としたすべてをごちゃ混ぜにして吹き荒れる。ひどく痛むこめかみがもどかしい。芳音は喘ぐように言葉の羅列を吐き出した。
「でもじゃあどうしたらのんに一番いいのかって考えれば、やっぱ俺がのんの傍からいなくな」
「芳音」
遮る言葉とともに、望の髪が頬を撫でる。次の瞬間、勝手に支離滅裂をまくし立てていた唇が柔らかくふさがれた。それは物心ついたころから馴染んでいるぬくもり。たくさんの親たちとも交わして来た種類の、優しくて淡い、だけど不思議なくらい落ち着かせてくれる、“家族のキス”。
「芳音は芳音って、言ったでしょ、私。そのまんまで、いいじゃない。私がそう言ってるんだから、それでいいの」
なだめる声は、昔よりもはるかに大人びた女性の声だった。だが芳音の耳には、いい意味で幼少だったころの望の口調を連想させた。
「支配人さん、芳音がこんな状況になったのに、それでもあのホールには近づけなかったの。あの事件を知らない若い従業員に芳音を医務室まで運んでもらったのよ。あの人は芳音の前でも、ひどく怯えた様子を見せていたんでしょう。強くなくちゃ出来ないことを芳音はしたんじゃないの」
必死な声で、努めて明るく芳音の不安をひとつずつ丁寧に解いてゆく。いつも、そうだった。それを心地よく聴いていた。今そうしてもらっているように、芳音の首に思い切りしがみつきながら。
「芳音はまっすぐで、素直で。すぐ暗示に掛かっちゃうんだから。たくさん資料を読んで、インプットして、そうやって自分で全部背負い込んじゃう」
悪い夢を見ただけよ。力強く彼女が言う。お願いと叫ぶようにも聞こえ、それでいて自論への自信の表れにも聞こえる言の葉は、ゆっくりと、でも確かに芳音の中へ染み込んでいった。
「辰巳さんが芳音を呼んでくれて嬉しいのは当然よ。だって、芳音が辰巳さんではないっていう表れだもの。芳音がそれを望んでいるから、そういう幻覚を見たのよ。芳音は芳音。辰巳さんじゃない。ずっと自分じゃない、ほかの誰かのための誰かであろうと頑張って来てたんだもの。嬉しいと感じて当たり前のことなのよ。自分のままでいいと言ってもらえたのだから」
そう思っている人の中に、私も入れてよ。望は少しだけ甘えた声でそう言った。
「のん」
呼んでみたものの、続く言葉はない。きつく瞼を閉じて唇を噛む。まなじりから零れたものが望の頬を濡らした。
「ごめん」
軟弱な自分で。大人たちに太刀打ち出来ない自分で。何をやっても不器用で、巧くやれない生き下手で。ちっとも素直なんかじゃない。ひと月以上も望に「会いたい」のひと言すら伝えられなかった。再会前の自分であれば、十二年も言えないでいた。
残った気力で右腕を持ち上げる。よく手入れされた栗色の髪が、さらりと芳音の手指に絡みついた。望の頭を力いっぱい抱き寄せたつもりが、少しも距離が縮まらないほど弱いのが口惜しい。
「芳音、ぶってごめんなさい。私が後ろめたさを感じているとパパに思われるなんて、癪だわ。きっと最初から、私もそう思ってたの。だからパパと芳音の間に割って入っちゃったんだと思うの」
――芳音が正しかったわ。嘘は必ず嘘と知れる。結局誰かを傷つける。
濡れた頬に、あらたな涙の筋が伝っていった。それが今度は芳音の頬を生温かく湿らせていく。
「私もちゃんとパパと向き合うから。反発とか愛想笑いでごまかすとかじゃなくて、ちゃんと向き合うから。お願い。だから」
消えるみたいなこと、もう二度と言わないで。と、か細い声で訴えられた。そのままの芳音でいて、と弱々しい声が囁いた。誰かの何かを見るのではなく、自分自身を見て、と。誰かの比較対照としての芳音ではなく、そのままの芳音でいて欲しい。
「壁が高くて超えられないなら、ぶち壊しちゃえばいいのよ。でないと、私の好きな芳音が、消えちゃう」
多分、必死の想いでそう言ってくれているのだろう、とは思う。真剣な気持ちでそう言ってくれたのだとも思う。思うけれど。
「……ぶっ」
「な、どうしてそこで噴くの!?」
芳音が堪り兼ねて噴き出すと、心地よいぬくさが途端に消え失せた。がば、と身を起こした望の目が、一気に剣呑さを増して芳音を見下ろしていた。真っ赤に染まった彼女の顔が一度はっとしたようになり、かと思うと小学生のように袖で目元を思い切り拭った。
「だって、ぶち壊すとか、あんまりにものんらしくって」
うじうじと悩んでいることがバカらしくなって来る。望といると、自分が自分のままで存在していいと思えてしまうから、不思議だ。
「ひ、人が本気で心配して言ってるのに」
次第に目尻の上がっていく望の髪をまた引っ張った。
「初めて“好き”ってゆった」
少しだけ意地悪が言いたくなった。そんな気になる程度には、回復している。芳音は単純な自分に気づいてしまうと、どうしようもなく可笑しくなって、また笑った。それが不遜に見えたらしい。望は益々顔を赤くして、眉尻まで吊り上げた。
「い、今そういう話をしてるんじゃ」
「うん。でも、ゆった。のんの方から話を振った」
だから、と目だけで訴える。ちょっとだけ、とねだる視線を投げて乞う。
「~~~~~~ッ!」
声にならない呻きを漏らした望は、結局黙り込んだ。くいと髪を引くと、素直に顔を寄せてくれた。
ごめん合戦は、あまり好きじゃない。きっと望も同じだろうから。泣かせてゴメン、と言う代わりに口付ける。“家族のキス”とは違うそれで仲直りの儀式をする。ほっとしたのか、突然睡魔が芳音を襲った。翌朝目覚めるまで、望はずっと傍にいてくれた。
穂高が芳音の起こした騒ぎを聞いたのは、日本時間で当日の深夜、泰江からだった。
『――そういうことだから、芳音くんが回復するまで私、数日ほどサロンをお休みにして芳音くんのアパートにいるね』
愚痴交じりの泰江の報告がしめられたと同時に、穂高は軽い溜息をついた。泰江の愚痴は、芳音の世話をすることに対してではなく、彼の高熱の原因だ。穂高には彼女の不愉快が解る。自分の実体験がなければ、基本的には穂高も現実主義の立場だからだ。
『ねえ、パパさん。川崎医大の先生に芳音くんを診ていただかなくてもいいのかな』
霊障だなんて言って自宅療養だけでいいのかな。泰江がそれを口にしたのは、この三十分ほどの中で何度目だろう。思い浮かんだ無駄な計測に穂高はまた苦笑いを零した。
(まあ、もう時効やろうし、話してもええかな)
多分、“そのとき”が来たのだろう。なんの前触れもなく、そんなフレーズがよぎる。
「ちと、ことがことやったさかいに、貴美子さんにも口どめしてたことがあってんけど」
『なぁに?』
責めることのないその尋ね方に、いつも救われる。十年ほど前、どれだけ彼女を心配させただろうかと振り返ると、やはり「堪忍」という語り口になってしまう。
「傾き掛けとったXファイザーの提携会社をうちのニューヨーク支店として買収したやろう。その理由を当時はよう話さんかってんけどな――」
穂高は初めて、十年ほど前に、ここ、アメリカで経験した出来事を泰江に話した。
信じられない。話を聴き終えた泰江は、電話口の向こうから、穂高に聞かせる意図もなかったのであろう、小さな声で呟いた。
「人間かて、ほかの生物と同じ、自然の中で発生した一種、っちゅうこっちゃ。人知の及ばないものは眉唾や、という考えは傲慢なんかな、と思わされる経験やった」
『穂高さんらしいね。アニミズム』
そう言った泰江の苦笑する声が穂高の鼓膜をくすぐる。褒められているのか、それとも呆れられているのか。解らないまま穂高も釣られたように苦笑いを浮かべた。
「まだソイツに十年前の借りを返してもろうてないねん。利子つけて返してもらうことにする」
『でも、どうやってその人を探すの? 十年も連絡を取っていないんでしょう?』
「ソイツの相棒が、今は警視長や。弟分や言うとったし、なんていうか……高木さんと辰巳が同じポジションに立っていたら、ああいう関係になれたやろうな、みたいな、個人の繋がりがすごく強く感じられたさかいに、足取りは掴めると思う」
穂高はそこで言葉をとめた。泰江の反応を見てから行動に移そうと考えたためだ。だが、通話の向こうは沈黙を保ったままだ。怪訝に思い、声を発しようとしたそのとき。
『穂高さんは、いいの?』
「いいの、って、何が?」
『その霊媒師さんみたいな人? に、翠ちゃんを視せてもらわなくて、いいの?』
日ごろとは違う響きを孕んだ声で、久しぶりに泰江の口から翠の名を聞いた。今ではもうすっかり見なくなった、翠の夢を思い出す。甘ったるく耳をくすぐる囁きが、年甲斐もなく穂高の胸を締めつける。
――穂高、愛してる。
それでも。
「あいつは辰巳と違うて、お前のお陰で心残りなく成仏しとるはずや。視えないやろうし、そもそも俺にはもう必要ない」
それもまた、嘘偽りのない穂高の思うところだった。泰江の献身があってこその翠と自分だったから。
「泰江」
いつからか口にしなくなったそれを久々に思い出した。翠の名を口にした今の泰江が思い出させた。
『はい』
強張った声が敬語で答える。バカなヤツだと思ったのは胸のうちにとどめておいた。
「お前は、俺がいつまで待てば、翠の友達から俺のカミさんにシフトしてくれるんかな」
原因を作ったのは、選べなかった自分だと解っている。それでも言わずにはいられなかった。
「いつになったら信じてくれるんやろう」
受話器の向こうで息を呑む気配がこちらにまで伝わって来る。いつから板ばさみの立場が入れ替わってしまったのだろう。遠い過去を振り返ってみても、穂高には見当をつけることが出来なかった。
「泰江、俺は」
『あ、のんちゃんから携帯に電話が入ったから、切るね。さっきの話はオフレコにしておくから。パパさんの判断に任せちゃうけどお願いね』
じゃあ、と、一方的に電話は切れた。トーン信号だけが、穂高を慰めるようにいつまでも同じ音を繰り返した。