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もうひとつの壁 3

 ――優しさの意味履き違えていくつもの季節をやりすごしてた

 ありったけのこの声を届けて欲しい 君のとこへ

 悲しみを残したまま 僕らは次の場所へもう踏み出してる――


 阿南の手にした音楽プレイヤーから、慎ましい音量で『明日の風』が流れる。幼いころから聴いていたその歌は、芳音も空で歌詞をなぞれるくらい頭の中に刷り込まれていた――締めつけられるような痛みとともに。

「私は、ここまでが限界。足を踏み入れる勇気はもうないから」

 阿南が小さな声で「ごめんなさい」と言い、音楽プレイヤーと鍵を芳音に手渡した。四十九階でエレベーターを降りたと同時に交わされたやり取りだった。

「俺の方こそ、無理を言ってすみません。許可をくれただけで充分にありがたいと思ってます。きっと、経験した人じゃないとわかんない怖さだと思うから」

 青ざめた彼女に、だから無理強いするつもりは最初からなかったと伝えるつもりでそう答えた。

「ひとつだけ、訊いてもいいですか」

 芳音は非常階段へ通じる扉の前で一度立ち止まり、阿南に振り返って問い掛けた。想定外で慌てたのか、彼女の浮かべた微笑にはやや無理があった。

「どうぞ」

「そんな思いをしてまで、どうして協力してくれるんですか」

 日本中を騒がせたあの事件は、目の当たりにした人のトラウマになっているだろうと思う。阿南もそのひとりだというのに、淡くて遠い昔の恋心だけが理由だとしたら、それはあまりにも説得力がない。

「罪滅ぼし、かしらね」

「罪滅ぼし?」

「あの人ね、“同じところにいられる人を大事にしな”って何度も言ったの。同じ職場で共有する時間がたくさんあるのだから、巧くやっていけ、という意味だと聞き流していたのだけれど。本当は、私ではない誰かに伝えたかったんじゃないかと、あとになって思ったの」

 阿南は芳音からエレベーターの昇降ランプに視線を移し、遠い目で移り変わってゆく点灯を見つめながら語り繋いだ。

「事件当時の彼を知りたいと訪ねて来た人に、私も彼の人となりを伺っていくうちに、初めて矛盾を感じたの」

「矛盾、ですか」

「ええ。彼があんなどうしようもない男に固執しろなんて意味合いの言葉を私に言うかしら、ってね。オカルトブームが去って、繋がっていた伝手もすべてなくなって、手掛かりを探せなくなるほど時間が過ぎてしまってから気づいたってのは、痛恨のミスだったわ」

 辰巳は自分に信頼をくれたかも知れないのに、それに応えることが出来なかった。不毛な恋の苦しみから足を洗わせてくれたのに、まだ彼にその恩を返せていない。阿南はそう言って笑ったが、芳音にはその横顔が泣いているように見えた。

「あんな大事件でホテルの名前に傷がついて、経営がすごく大変になった、って聞きました。阿南さんが立て直したってことも知ってます。だからそれは、しょうがないことだと思うし」

 芳音は気の利いた言葉のひとつも浮かばず、しどろもどろにそこまで言って、結局続く言葉を引っ込めた。言っても無駄だ。彼女の心がそれで慰められるのであれば、とうに自分で立ち直っているはずだ。自分が言おうとしていた言葉は、第三者視点の主観に過ぎない。

「ありがとう。君が訪ねてくれたお陰で、やっと罪悪感から解放される」

 君なら彼の声が聞こえるかも知れない。お母さまへ届けて欲しい、彼が伝えたかった最期の想いを。気丈に笑う女支配人はそう言うと、最後に社内用PHSを芳音に手渡した。

「そうだ。一応私のを渡しておくから、何かあったらこれを使って。スタッフには芳音くんの指示に従うことと、この回線からの内容はすぐ私へも連絡するよう伝えておくわ」

 阿南が用件をすべて終えるのを待っていたかのように、エレベーターが到着のベルを鳴らした。

「お借りします。本当に、ありがとうございます」

 芳音はエレベーターの扉が閉まるまで深々と頭を下げ、そしてエレベーターの上昇を確認すると、逆方向にきびすを返して高千穂の間へと向かった。




 重い足取りで四十八階のフロアへ最初の一歩を踏み入れる。非常扉を開けて中をそっと覗いてみれば、基本的には上の階と大して変わりはない景色が芳音の前に広がっていた。

「なんだ」

 という言葉が溜息とともに漏れる。反動で大きく息を吸い込んだ。それまで息を詰めていたということに、今の今まで気づかなかった。

 ベージュのカーペットやオフホワイトの壁には、弾痕どころか染みひとつない。照明は阿南の指示でつけてくれていたのだろう。まぶし過ぎるほど明るい四十八階のフロアはオカルト話と無縁に見えた。

「ま、そりゃそっか。そのままなわけ、ないよな」

 広い踊り場を独り歩きながら無駄口を叩く。手持ち無沙汰の右手は、高千穂の間のストラップがつけられたキーを放っては受け取るを繰り返して、キーを弄ぶのに忙しく動いていた。壁をコツコツ叩きながら、高千穂の間へゆっくりと進む。掌を壁に滑らせてみると、わずかな凹凸をキャッチした。芳音はウェストポーチに忍ばせた簡易の工具セットを取り出した。壁材のつなぎ目に合わせてカッターを走らせる。出来た切れ目に薬剤を垂らし、薬が染み込むのをしばし待つ。カッターを使って慎重にゆっくりクロスを剥がすと、むき出しの壁材が顔を覗かせた。一箇所だけ、穴を塞ぎ忘れている。

「場外にまで被弾かよ」

 穴の角度から見て、高千穂の間からの流れ弾だと推測出来た。想像以上の惨状だったことが窺えると、勝手に眉間の皺が深まった。接着剤でクロスを元通りに張り直し、先へ進む。真新しい扉を見ると、せっかくリフォームしたのに、使い込まれることなく閉鎖されたことが容易に察せられた。

 一度大きく息を吸い、そして思い切り吐き出す。鍵穴にキーを差し込んで回すと、小さく開錠の音がした。

「ふぅ」

 声らしきものが漏れてから、つい可笑しくて噴き出した。息を詰めていたことに笑えたのだ。信じてなどいないくせに。

 芳音はひとしきり笑うと、両開きの扉を思い切り手前に引いた。

「……普通じゃん」

 阿南の言っていた冷気を覚悟していたのだが、埃とカビくさい湿った空気が流れ出ただけだった。教えられたとおり、出入り口の脇にあるスイッチでホールの照明をすべてONにする。続いて空調の電源ボタンを押すと、ぶぉ、と空気の流れる大きな音が響いた。


(……え?)


 ホールの電源を入れれば、踊り場と同じようにまぶしい光が広い室内を照らすだけだと思っていた。だが唐突に芳音の眼前に広がった光景は、芳音をサイレント・ムービーの世界へ放り込まれたような錯覚に陥らせた。

 小学校の体育館ほどしかない狭いホールになだれ込む制服の男たち。見るからに硬質で防弾機能を備えた風のヘルメット、機能性重視の紺一色に統一されたアサルトスーツは、制服というよりも軍服に近い。彼らが得物としているMP5以上に、アサルトスーツの左上腕につけられたワッペンがその一団をSITと知らせていた。

 そんな重装備の彼らを相手取っているのは、一見ごく普通のスーツを纏っているだけの男たち。だが、この男たちもまた軍服たちとは異なる意味で、見るからに一般人では決して発することの出来ない殺気を放って応戦していた。ずば抜けてがたいのいい大男が複数のSITを相手に頭上から首根っこを掴み、そして――。

(う……ぁ……ッ)

 芳音は声も出せなかった。そんな場面は映画でしか見たことがない。咄嗟に腕で顔を庇う。SIT隊員のヘルメットを剥ぎ取った男が隊員の脳天目掛けて発砲したためだ。血飛沫を浴びるのを反射的に両の腕で防ごうとしていた。

(あ、れ?)

 だが、芳音の五感には、なんの刺激も加わらない。恐る恐る腕を下ろしてうっすらと瞼を開いて見れば、自分の身体を通過して、SITの隊員だった肉塊が床へ叩きつけられてゆくところだった。

「う……ぉぇッ」

 一気に吐き気がこみ上げる。嗅覚は何も捉えていない、なのに既知の情報が腐臭や鉄の臭いを連想させる。音のない世界が却って芳音の恐怖を煽っていた。

 いつの間にか芳音はホールのど真ん中でへたり込んでいた。そんなバカなと思うのに、感情が思考についていかない。殺し合っている彼らが虚構なのか、それらすべてに拒絶されるように何もかもがすり抜けていく芳音が虚構なのか解らない。解らないながらもカーペット敷きの床に這いつくばり、震えながら匍匐前進で出口を目指す。

「ち、がう」

 出口に向かっていたはずなのに、同じ場所に留まっている。気づけば歯がガチガチと音を立てていた。音がある、ただそれだけで、恐怖と安堵が同じだけ押し寄せる。

(なんだコレなんだコレなんだよ、コレ!)

 もう一歩も動けない。芳音はうつぶせた状態のまま、固く、強く目を閉じた。目尻にぬるいものが伝う。そのぬくもりさえ、今は怖い。

(なんで!? なんでだよ!)

 目を閉じても、幻覚が消えてくれない。目の前に目玉が飛び出しこめかみに穴の開いた黒ずくめのスーツを着た男が肌の“外側”を真っ赤にして芳音を睨みならが仰向けに倒れこんで来た。

「ひ……ッ」

 頭を抱えて突っ伏す。ねちゃりとした感触が鼻先をかすめた。勢い余って起毛のカーペット地に思い切り顔をつけたら、強打の痛みよりも窒息しそうな息苦しさにまた顔を上げた。

「――ッッッ!」

 もはや声らしい声にもならない。カーペットの起毛はすっかり寝てしまっている。そうさせたのは、赤い池。決して小さいものではない。芳音は半狂乱になって顔を拭った。だがその手に血はついていない。なのに、息も出来なかった。中途半端な感覚は、まったくの幻覚だと一笑するのを固く拒んでいる。では、どこかの感覚器官が死を感知したら、死ぬのか?

(や……だ、死にたく、ない)

 ぐっと拳を握り締める。カーペットが限界まで吸い込んだ誰かの血の粟立つ感覚を芳音の手の内が感じ取る。芳音は伏せた体勢のまま、恐る恐る脳髄を垂らしている男の手から拳銃を奪い取った。取った、つもりだった。

「くっそ!」

 掴めない。まるで空気を掴むような手応えのなさだ。そして視界の隅が場内の変化を感じ取った。芳音だけでなく、見えている者たちの動きもとまった。その間に呼吸を整えると、少しだけ落ち着きを取り戻せた気がした。やはり伏せた格好のまま、目だけで可能な限りの周囲をうかがう。入り口付近を固めているのはSITの一団。一度退いたようだ。その先頭に立つスーツ姿の男を、その更に背後に控えるSITの男が睨みつけていた。怪訝に思って目を凝らしていると、その男が先頭のスーツ男の後頭部に小型拳銃で狙いを定めた。

(な……ッ)

 思わず身を起こす。自分が妙な次元の狭間にいることなど頭から消し飛んでいた。だが、結果として芳音は身を起こしただけに終わった。


 ――パー……ンッ!


 不意に聞こえた銃声が、芳音を音の方へ振り返らせた。同時に再び戦闘が始まった場内。入り乱れる人々とは立っている次元が違うかのように、みな芳音の身体をすり抜けてゆく。やがて落ち着きを取り戻して来た芳音は、鼓膜が揺すられたことでこの光景を見せているモノの正体を確信した。ドラマや映画で聴くよりも軽い実際の銃声は、芳音自身が聞いた音ではなく、見せているモノの記憶だ。自分はその人物の何かとシンクロしているのだろう。そして、この光景を見せているモノは、芳音の視線の先にいた。


《まずは母さんの分。母さんは貴様の愛人にその道筋で刺されたんだよ》


 腹の底が冷えるほど淡々とした低い声。映像越しに一度だけ聴いた、切り捨てるような無機質な声。声の主は足許で腹を押さえて自分を見上げている初老の男へ、間髪入れずに二発目を撃ち込んだ。


《ニ発目は、赤木の分。年は取りたくないねえ。全然、動きが鈍いじゃん》

 

(赤木?)


 親しみを感じるその名前に疑問を抱き続ける暇さえ与えられなかった。声の主が、苦しげに、それでいて憎々しげに、ターゲットを見下ろしたままみぞおちへ銃口(マズル)をねじ込んだ。


《三発目、これが加乃の分。加乃への最初の一発はそこを撃った。あいつの痛みを思い知るがいい》


 言い終わるよりも早く、拳銃が至近距離でくぐもった音を弾かせた。

 みるみるうちに、淡々とターゲットに語っている男の純白のスーツが、深紅に染め替えられてゆく。対照的に青とも土色ともつかないくすんだ肌の色になっていくターゲット。芳音にとって初対面の男なのに、その面差しはどこか既視感を覚える顔立ちだった。もしも自分が年を重ねたらあんな感じになりそうな。

 声の主は、一発一発をターゲットへ撃ち込む前に、誰かの弔いをするかのように相手へ名前を聞かせていた。際立って長身の、冷たいグリーン・アイズの男。脱色のせいで細くなってしまっている、金色の長い髪。純白のスーツなのに、臙脂のネクタイと限りなく黒に近いグレーのシャツというセンスのなさ。だが今のスーツの色には似合い過ぎるコントラストだ。それが芳音の視界をぐにゃりとゆがめさせた。


《ラスト。克美を俺の鈴なんかにしようとした罰》


 両の手に、二挺拳銃。どちらも芳音が見たことのあるものと同じタイプの――トカレフと、コルト・ウッズマン。トリガーを引こうと力のこもる指にためらいの震えはない。グリーンに鈍く光る瞳が、ほんの一瞬だけ憂いを帯びた。芳音は震える足を無理やり立てた。左足を思い切り踏み込み、勢いのままに床を力いっぱい蹴って前へ飛び出した。


《先に地獄へ逝ってな、クソ親父》

「やめろ撃つな――ッッッ!!」


 小さな火花がマズルの先端に咲く。大輪の深紅がふたりの男の間に咲き乱れる。ターゲットの脳天から飛び散る赤い花びら。それが立ったままターゲットを見下ろす父、辰巳の顔を濡らす。血塗れたその顔が、おもむろに芳音の方へと向きを変えた。


《……芳音?》

「!」


 声が、届いた。辰巳に自分が見えていた。間に合わなかった。それでも芳音は、仇にトカレフを向けたままにしている辰巳の右手に自分の右手を伸ばした。

「と」

 父さん。そう呼ぼうとした途端、視界が一気にぼやけた。

《あ……ぁ、そっか。思い出した》

 かすむ視界の向こうから、かすかにそんな声がした。ほっとしたような、それでいてこちらまでほっとさせられてしまう、穏やかで優しいバリトンの声。

《俺、繰り返すためにここに留まっていたんじゃなかったんだ》

 その声を最後に、芳音の見ていた世界がホワイトアウトした。

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