もうひとつの壁 2
テレビの天気予報で梅雨入りの声が聞かれるころ、芳音は初めて授業をさぼった。日本帝都ホテルの支配人、阿南靖子のスケジュールに合わせたためだ。
正攻法でホテルのフロントに電話を掛け、「海藤芳音」と名乗って阿南への取次ぎを頼んだのが半月も前。表向きの用件は、卒論のテーマとして十九年前に起きた『藤澤会幹部銃乱射事件』を扱いたいので取材させて欲しい、ということにした。もちろん適当な大学名を騙ったでっち上げだ。長いこと保留メロディを聞かされたときは次の手を考え始めていたが、
『海藤さんのお身内の方でしたら、その証明になるものをお持ちください』
という返事を直接阿南支配人からもらえた。こちらの真意を察したらしい。それは、意外といえば意外だった。そして、言われたことには途方に暮れた。戸籍上では、克美は姉の加乃と辰巳の養女という形になっている。芳音は私生児扱いだ。しかも苗字は守谷のまま。
人には見せたくなかったが、辰巳が克美に宛てた最期のメッセージディスクを持って行くことにした。もちろんマスターではなく克美に内緒でコピーしておいたものだ。
――もし俺の子が宿ったら、芳音、と名づけてくれると嬉しい。
辰巳が出て行った理由を知ってから、時折このディスクを再生させては返って来ない答えを求めて語り掛けていた。
こんなとき、辰巳ならどうしただろう。
こういう場合、辰巳ならどんな判断をしただろう。
辰巳のコピーとして生きていくには、必要なディスクだった。そんな生き方はやめようと決めてからあとも、なんとなくこのディスクは手許に置いていた。
この顔は阿南の知っている辰巳と同じ顔だろうか。一抹の不安を覚えながらも、芳音はそれを携えて部屋を出た。
老舗を感じさせるホテルを見上げれば、その向こうに見える空がどんよりと暗い。今にも降りそうな曇天は、芳音の心境を表しているかのようだった。
アポイントの時刻は午後二時。午前中はギリギリまで情報収集に努めようとネットカフェでアポイントの時間が来るのを待った。それでも予定より十分以上早く着いてしまった。芳音はホテルの敷地内へは足を踏み入れず、ホテルに一度背を向けて大通りの遊歩道に据えられたベンチに腰掛けた。
(もっかい、おさらいしとこ)
バックパックからファイルを取り出し、人に覗き込まれないよう小さく開く。真新しくて脳に刷り込み切れていない情報をもう一度確認した。
佐藤からもらったオカルト雑誌の記事には、新聞報道とはまったく異なる切り口で『藤澤会幹部銃乱射事件』のことも詳細に記されていた。
藤澤会事件の実行犯だった市原雄三(実際には市原と戸籍を交換した辰巳なのだが)は、元々海藤組と敵対していた藤仁会の構成員で、その事件の更に十七年前、海藤組・藤仁会抗争事件の際に海藤辰巳を殺害した疑いがあるとのことだった。この辺りの実情は芳音の方が知っている。辰巳が克美へ遺した戸籍謄本の写しが入っていた封筒には、克美宛の手紙に戸籍の交換を臭わせる記述がされていた。翠の日記にも、藤澤会事件で幹部殺害実行後自殺したのは辰巳だと綴られている。だが、オカルト雑誌の記事では、辰巳が市原に憑依していたと滑稽な見解を立てていた。
だが、その滑稽な見解の立った経緯は、記者の取材した辰巳の過去に起因するらしい。藪でさえ知らなかった情報がたくさん掲載されていた。
辰巳の母親が、父親の愛人に殺されたこと。辰巳がそれに関して、殺害した愛人ではなく父親である海藤周一郎を恨んでいたこと。海藤組・藤仁会抗争の発端となった麻薬密売事件が、死者を出しているにも関わらず突然捜査を打ち切られた謎など。これは恐らく高木の根回しによって隠蔽された、克美の姉が殺された事件のことだと思われる。
記事の信憑性がどの程度あるのか解らないものの、そういった新しい切り口の中に、阿南靖子のことも含まれていた。
藤澤会事件勃発のひと月ほど前、ホテル内に喫茶店があるにも関わらず、日本帝都ホテル付近の喫茶店で辰巳が阿南に接触していたという目撃情報があったらしい。そして当時、阿南は犯人に凶器を運んだ嫌疑を掛けられ任意同行されているが、証拠不十分で釈放されたということも記事に載っていた。阿南をリークした人間については記事に書かれていなかった。
そのオカルト雑誌が結論づけたのは、
『市原の霊は愛人関係にあった阿南靖子に未練があって、彼女の留まる日本帝都ホテルの地縛霊と化したのではないか』
というオカルト仕立てらしいものだった。この取材に対して、阿南靖子は取材拒否をしている。それは肯定を意味するのではないか、と締めくくられていた。
辰巳を調べれば調べるほど、不快にしかならない埃ばかりが出てきそうな気がする。自分が望んだことなのに、そう思うとどうしても気が滅入った。
軽く頭を左右に振る。事実は事実として受けとめるしかない。
(逃げるな、俺)
羽織ったシャツの胸ポケットに収めていた携帯電話が小さく震え、アポイント五分前を芳音に知らせた。
「う……っしゃ、んじゃ、行きますか」
芳音は資料をバックパックに戻し、それを背負って重い腰を上げた。再びホテルへ向き直ると、ようやくホテルの敷地に足を踏み入れた。
フロントに名前を告げると、「お繋ぎいたしますので、あちらでしばらくお待ちください」と、エントランスの中央へ案内された。受付嬢の女性はオブジェ風な円柱を囲むように据えられている柔らかなソファタイプの椅子に案内すると、自分の持ち場へ戻った。芳音は慣れない上質なそれにぎこちなく腰を落とし、再び自分の名が呼ばれるのを待った。持て余した時間で生まれた居心地の悪さを、また資料を読み返すことで紛らせる。
何度かエレベーターの到着を告げるチンという音を聞いた気がする。その都度資料から顔を上げていたが、今下りて来た女性と目が合った。
ほかの従業員とは若干異なるデザインの制服を着た女性。年のころは五十代辺りか。後ろへ詰めて高めにまとめた髪には、幾筋が白いものが混じっている。だが、背筋を伸ばして颯爽と歩を進めて来る彼女全体のイメージは、白い筋をおしゃれの一環に見せてしまうほど若々しかった。膝丈のスカートも違和感なく着こなしている。彼女が阿南靖子だとひと目で判った。
阿南はフロントへ芳音の所在を確認することもなく、まっすぐこちらへ進んで来た。
「お待たせいたしました。当ホテル支配人の阿南靖子です」
その声を受け、芳音も慌てて立ち上がる。
「お忙しいところ、今日はありがとうございます。も――海藤芳音です」
笑っているのに目つきだけは鋭い彼女の視線にうろたえ、芳音は大袈裟なほど頭を垂れて自己紹介をした。ほとんど立ったまま前屈をしたに近い格好だ。勢い余って足許に立てて置いてあったバックパックに頭をしたたかに打ちつけてしまった。
「いッ」
手にしていた資料を床にぶちまける。
「うわ、す、すみません」
急いでそれらを掻き集め、バックパックで強打した額をさすりながらようやくまともに阿南と対面する。
(し、しまった)
という言葉が浮かんでしまうほど、阿南は意外そうな表情を浮かべて芳音を見上げた。やがて彼女の口角が引き攣り始める。笑いを取りに来たわけでもないのに、阿南に口許を隠させ、彼女の肩を震わせた。
「す、すみません」
彼女は取り敢えず、それだけを絞り出した。ひとしきり笑いを噛み殺すのに苦心した彼女は、涙目でそれを押さえ込むと改めて芳音に向き直った。
「大変失礼致しました。“この件”に関して人に訪ねて来られるのは久しぶりで緊張しておりましたが、お陰でほぐれました。ありがとうございます」
彼女はそう言ってフォローにもなっていないフォローを入れた。そして初対面にも関わらず、懐かしいものを見るように芳音へ向ける視線を和らげた。
「あの人のお身内と伺っておりますが、甥御さん? にしては、生き写しのように似てらっしゃいますよね」
辰巳の名を口にしない物言いが、阿南にとっては“まだ終わっていない事件”なのだと推測させた。遠い目が、彼女にとっての辰巳がどういう存在なのかを、不愉快な意味で想像させる。不愉快の対象は、辰巳に対してだ。
「……息子、です」
いろんな意味で、そう宣言するのがどことなくはばかられた。まっすぐに見上げて来る阿南の瞳も、芳音にそう思わせたもののひとつだ。
「そう……おいくつなんですか?」
「今年の冬で、十九になります。あの、俺は客じゃないので、敬語じゃなくていいです」
芳音がそう答えると、彼女は小さく笑った。それから不意に視線をそらし、ぽつりと呟いた。
「十、九。そう……。バカな人ね」
バカな人が誰のことなのかは、問うまでもない。彼女から漂う言葉のままではない何かが芳音を黙らせた。
阿南が憂いだ横顔を見せたのは一瞬だけだった。こちらに向き直った彼女は、パーフェクトな営業スマイルを取り戻して芳音を促した。
「お客さまでない、ということなら、それなりに。卒論なんて大嘘には目を瞑りましょう。私の部屋へ案内します。こちらへどうぞ」
でまかせを突っ込まれ、苦笑いを浮かべる。同時に疑問も生じた。
「証明するものを、って言われてたんですけど」
部屋へ通してしまえば追い返しにくくなる。てっきり一階にあるビジネス用のミーティングフロアへ連れて行かれるのだとばかり思っていた。そういう類の場所にはパソコンが備えつけられている。そこでディスクを開示ことになるのだろうと思っていた。
「君そのものが、何よりの証明だわ。彼も変なところでお茶目さんだったから」
「お茶目?」
親しげな間柄だと感じさせるフレーズに、つい小さな疑問符が口から零れた。
「数日だけなのだけど、濃い時間を過ごしたから。君の、一生懸命になるとほかのことが見えなくなるところがお父さまと似ているわ」
エレベーターの前で立ち止まって芳音を振り返った阿南は、そう言って意味ありげに微笑んだ。
支配人室へ通されるとほどなく、コーヒーをトレイに載せた職員が入室した。
「失礼しました」
コーヒーを応接テーブルに置いた職員がそう言って部屋から出ると、芳音はソファからもう一度立ち上がり、阿南に深々と頭を下げた。
「父が生前、阿南さんにも大変な失礼を働いたみたいで、父に代わってお詫びします。すみませんでした」
辰巳の手癖の悪さは、なんとなく把握していた。辰巳が隠していたのであろう、貴美子に関連するファイルを開いて見もしたし、愛美や北木が昔話に花を咲かせたとき、うっかり口を滑らせ慌てて言葉を濁したそれらしい話も覚えている。そういうヤツだった、という程度には想像がついた。何よりも、辰巳と克美の知り合った経緯が芳音にとっては非道徳的にしか映っていない。それらの先入観が、阿南もまた辰巳の犠牲者だと思わせた。ところが、彼女は一瞬だけ驚きを見せたあと、笑った。
「殺人幇助の嫌疑を掛けられたことを言っているのだとしたら、それは警察が勝手に勘違いをしたのだから、芳音くんが謝ることではないと思うわ」
人払いをして気を楽にしたのか、阿南はフロントで話していたときよりも直接的な言葉を多用した。
「あ、いや。それじゃなくて。いえ、それもですけど、その……濃い時間って」
とまではどうにか口にしたものの、それ以降が続かなかった。
「ああ」
やっと思い至ったとばかりに、阿南が苦笑いした。
「事件後、彼の個人的な知り合いらしい人も何人か訪ねて来たのだけれど、似たような憶測を持った人がいたわね、そう言えば。芳音くんも彼の“そういう部分”を知っていたのね。でも私はそういう相手ではなかったから、安心して」
依頼をしたのだ、と彼女は言った。当時の婚約者の浮気を知って喧嘩をしていたところを辰巳に見られたらしく、「なんでも屋」と自己紹介されたらしい。依頼をしてみませんかと持ちかけられた彼女は、即答で首を縦に振ったそうだ。
「私の婚約者という男が、職場の新人の女の子にばかり手を出すどうしようもないヤツでね。それでも必ず私のところへ帰って来る人だったし、婚約を機にそういう臭いも感じなくなったから、って、安心していた矢先の修羅場を見られたみたいなの」
酒を飲みながら、辰巳にそんな愚痴を零したそうだ。それから阿南の婚約者が釣れるまでの数日間、辰巳は阿南の部屋で寝泊りし、阿南の浮気相手を演じたという。
「その間、しきりにお説教をしてくれたわよ、彼」
『失くしてから気づいても遅いんだから、同じところにいられる人を大事にしな』
『ヤケになると、あとで必ず悔やむときが来るから』
「――ってね。鈍い人だったんだか、巧く逃げられていたのか。私のほうは、婚約者だった男から心変わりしちゃっていたんだけど、最後まで巧くかわされてたわ」
死んだような目をしていた。それが君とお父さまとの違い。阿南は遠い恋の話を、そう締めくくった。
「だから、君のソレは誤解よ。私が婚約者との修復を依頼し、報酬として事件当日、彼の得物を密かに運んだの。これは警察にも言わなかったけれど、もう時効よね」
報酬の内訳は事件当日に明かされたという。それを阿南が運ばなければ、辰巳は丸腰で藤澤会の面々と対峙するつもりでいた、と。
「運ばないわけにいかないじゃない? あの人、あの日だけは死んだ目をしていなかった」
死装束を連想させる純白のスーツで身を包み、羨むような笑みを浮かべた辰巳は、阿南に「彼とお幸せにね」と寿ぎの言葉を手向けたそうだ。
「その段になって初めて解ったの。ああ、この人は誰かを守るために戦場へ行くのね、って」
でもまさか、こんな大きな息子さんを遺して来ているとは思わなかった。阿南はそう呟いて、哀れむような笑みを芳音に見せた。
「お父さまのことを聞きに来たのでしょう? さっき落とした資料、新聞記事が主だったわね。事件当日に関しては、新聞記事以上のことは私も知らないの。緊急退避で従業員も外へ出されてしまったから」
阿南はそこで言葉を一度区切り、おもむろにソファから立ち上がった。自分のデスクへ近づきながら、今度は彼女が芳音に問いを投げた。
「お母さまは、どんな方?」
答えに窮して黙り込む。阿南が克美のことを問う理由が解らなかった。自分を振った男の相手など、せめて自分の中からだけでも消したいと思うのが普通だと思う。過去話と笑えるのであれば、芳音と会ってすぐに見せた瞳の色合いは矛盾している。
「……どうしようもない、ガキです」
困った挙句、そうとしか答えられなかった。
変わり者で、男言葉を使うようながさつなヤツで、身寄りがなかったところを辰巳に助けられて育てられて。雛が親鳥にくっついて回るように辰巳しか見えていなくて、辰巳がいないと生きていけないようなガキのまま年齢ばかり大人になって。
「辰巳と家族でいたいからってだけの理由で、あとさき考えずに俺を産んじゃうような、ガキ」
渇いた声がやたらと室内に響き、いつまでも芳音の耳にこびりついた。
「そんな言い方をする必要はないわ。素直でステキなお母さまなのね。君はとても素直ないい子だと感じるもの。お母さまのお人柄を窺えるわ」
そんな言い方をするな、ではなく、必要はない。その言い回しの優しさが、北木を思い出させた。
「いい子じゃ、ないですよ」
子、の部分に強いアクセントがついた。そして続いた小さな笑い声。彼女はデスクから応接ソファへ戻ると、テーブルの上に一枚のディスクを置いた。それを芳音の方へついと滑らせる。
「新聞報道では、このホテルの名前は出てても、私の名前は出ていなかったはず。君が私を知ったのは、オカルト方面の雑誌からではなくて?」
阿南のそれを聞きながら、芳音は差し出されたディスクを手に取り、驚きで軽く目を見開いた。
「このアルバム……うちにも、ある」
それは音楽CDだった。克美が部屋でよく聴いていたアーティストのベストアルバムだ。かなり古い時代のもので、もうそのCDは売っていない。
「当時の『ミスティック』というオカルト雑誌には目を通したのかしら」
佐藤からもらったデータにはなかった雑誌名のような気がする。芳音は小さく首を横に振った。
「うちで一時期盛況だった“怪奇現象体験プラン”のことは知っている?」
「あ、はい。それは見ました。銃声が聞こえるとか、血まみれの男が現れるとか、エレベーターが高千穂の間のある階で止まっちゃうとか」
「それ、信じる?」
「……」
阿南の計る眼差しが即答を呑み込ませる。正直なところ、オカルティックな部分は斜め読みをしていたし、信じてもいなかった。だがそう言ってしまえば、阿南からこれ以上は何も教えてもらえなさそうな気もした。
「エレベーターの話だけは」
辛うじてそう答えた芳音に、阿南は嬉しげな微笑を零して見せた。
「よかった。人にバカにされるのは嫌いなの。頭ごなしに理解出来ないものを否定する人には、口を開かない性分だから」
そう前置きされたあとに話されたのは、オカルトプランを申し込んだ客からの話や、阿南自身が感じた、事件後の高千穂の間に起きた怪奇現象のことだった。
興味本位で訪れた人の大半は何事もなく帰って行ったが、中にはいわゆる“霊媒体質”という客もいたらしい。死に至ることはなかったものの、原因不明の高熱や、藤澤会事件を彷彿とさせる光景を目の当たりにして絶叫しながら高千穂の間から飛び出して来る客もあったという。阿南自身は何も見えなかったものの、あの事件を境に高千穂の間に漂う異様な冷気に不気味さを覚えたという。空調をどれだけ調節しても、室温を計れば適温を表示するにも関わらず肌は寒さで震えが止まらなくなるとのことだった。それは阿南だけでなく、従業員一同同じだったと判ったのは、会議のあとの飲み会での愚痴大会かららしい。
「バカバカしいと思ったけれど、お祓いを頼んだこともあったのね。でも、ホテルへ来るなり断られてしまうの。念が強過ぎて、逆にこちらが取り込まれてしまう、って」
バカにされるのが嫌いだと言った阿南自身が、自分の語るその話を鼻で笑った。自分でもどこか未だに信じられないでいるのだろう。
問題が大きくなる前にプランを中止し、今では高千穂の間を“開かずの間”として施錠したままエレベーターも通過させるような形にしている、と教えられた。
「このCDは、たまたまこのアーティストを好きだったお客さまが、好意で置いていってくださったの。高千穂の間に入ったときも、このCDを掛けたままだったそうなのね。怪奇現象に慌てて逃げ出したとき、イヤホンが耳から外れて、音量のレバーが最大になったらしいんだけど、その音楽が聞こえた途端、現象が収まったんですって」
そう語った阿南が、芳音の手からそっとCDを取り戻した。そしてある楽曲を指差した。
「明日の風……この曲で収まった、ということですか」
「そう。この曲は、お父さまに何か強い思い入れがあるのかしら」
「どうしてですか」
芳音が阿南の問いに答えず、逆に問い返してしまったのは、彼女があまりにも切なげな瞳でCDを見つめたからだ。
「事件当日の朝、彼のマンションに呼ばれて尋ねたの。拳銃を受け取らせるために呼ばれたのだけれど、ずっとこの曲が流れていたわ。お客さまからこの曲だと教えられて聴いたとき、初めて怪奇現象を笑えなくなったの」
――明日に向かう風が街を通り過ぎて 少しずつ変わってけばいい
いつの日かこの痛みが眠りにつければいい――
克美の部屋から漏れて来るその曲の、そのフレーズばかりが芳音の耳に残っていた。そっと扉を開けて、繰り返し繰り返しその曲ばかりを流して聴いては目を潤ませている母親の横顔を盗み見るたび、幼い芳音はその歌詞のままを願っていた。
では、辰巳は何を願ったのだろう。この曲を聴いて、何を思っていたのだろう。
「……阿南さん。俺、高千穂の間を見せてもらいたいんですけど、いいですか」
「案内するわ」
と彼女が先に腰を上げた。