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好きとか嫌いとかとは別の次元 2

 君塚に憶測だとなだめられて、理屈では納得したつもりでいる。ただ、今はまだ気持ちがそれについていけない。望は自分へ何度も「それだけのことだ」と言い聞かせる一方で、まだ自分の中にわだかまるものを燻らせ続けていた。

(考えてみたら、私以外の人といる芳音のことって、ほとんど知らない)

 君塚の言っていた「自分のことをあまり話さない」「普段は感情を顔に出さない」という望の知らない芳音の一面は、それを耳にした望を密かに驚かせた。望の知っている芳音は、小学生かと呆れるくらいに喜怒哀楽が素直に出てしまう人だ。そしてすぐ場の雰囲気に流されては自分を責めて落ち込む、心許ない危うげなイメージが先に立つ。

「うそつき」

 図らずとも思いは言葉となって零れ落ちた。帰り道を独り歩く望の小声に注視する通行人はひとりもいない。

「どこが“一緒に”よ」

 どろどろとしたモノが腹の底で粘りを帯びて攪拌(かくはん)されている感覚が気持ち悪い。誰の、何に嫉妬しているのか解らなくなっていた。解らないというよりも、あり過ぎてひとつに絞れないと言ったほうが正しい。

「割に合わないわ」

 大通りを横切り、碁盤の目のように伸びる住宅街の細い道でそう呟いたら、嫌に自分の声が反響して聞こえた。

 望は携帯電話を取り出し、芳音の連絡先を引き出した。編集画面に進み、着信拒否にして保存する。それは芳音への嫌がらせや当てつけからそうしたのではなく。

「解除が自分への報酬」

 背伸びと精神的な成長を勘違いしていた自分に気づかされ、芳音に置いていかれた気がして不安になった。堤果穂の態度はひどく不愉快だった。それは疑惑や不審から来る嫉妬だけではなく、甘えた態度への生理的嫌悪感もあったのだと気づく。それが同属嫌悪だと自覚してしまうと、同じレベルになりたくないと強く思った。

 次に芳音と連絡を取るのは、絶対に自分から。感情的な何かを孕まず、自然とバイト先のことや堤果穂のことを聞ける器の自分になってから。

「今は基礎を積み上げる大事な時期だもの。私も芳音も、お互いに振り回し合ってる場合じゃないわ」

 望は敢えて声にした。小さくも凛とした声は、その決意を脳と心に深く刻ませた。




 翌週が明けて早々に、望は総務課へ足を運んだ。各学科の今週の予定を確認するためだ。

「パティシエ専攻科は……明日は終日概論、か。それなら調理師Ⅲより先に終わるわね」

 芳音の在籍する調理師専攻科Ⅲもパティシエ専攻科と同じビルだが、明日の予定は終日校外講習になっている。仮に自習で校舎へ戻って来るとしても、就業時間後に出先を出発することになる。芳音とバッティングする確率はゼロに等しい。

 望はひと通りの確認を済ませると、明日のスケジュールに『十六時・堤果穂襲撃』の予定を追加した。


 翌日、望の服装を見たクラスメートたちに驚きの声を上げられた。

「どしたの、そのカッコ。いつもの望らしくない」

「スポーツ観戦? っていうか、安西ってキャップが似合わないね」

 彼女たちがそう言うのも無理はない。理性では自分でも彼女たちに同感だ。髪をひとつに束ね、キャップは穂高のクローゼットから若いころに使っていたと思われるものを拝借した。ジーンズは去年の春に信州で芳音が見立ててくれたものだ。それに合わせたカットソーとカジュアルシャツもそのときに買ったものなので、日ごろは着ていない。スカート仕様の望しか知らないクラスメートから見れば、かなり違和感があるだろう。

「ちょっとは性別不詳に見えない?」

「ぜんっぜん」

 全力で否定された。

「おかしいなあ。メイクもかなりナチュラルにしたんだけど」

「何、男装のつもりだったの、それで」

 と訊ねて来たのが望と芳音の幼馴染関係を知っている百花だったので、ついうっかり

「うーん、芳音の従姉らしく見えればな、って」

 と答えてしまった。途端、ざわり。

(え? あ、しまった)

 いきなり周りの空気が変わった。

「芳音くんと知り合いなの!? 従姉!?」

「え、ああ、うん、そんな感じ」

 という答え以外を口にしたら、食い殺されそうな勢いだ。望の頬筋が自然と引き攣った。

「どうして黙ってたのーッ、ケチっ」

「ケチって。だって言えば紹介しろとか言われそうで」

「あったりまえでしょ」

「っていうと思った。私、あの子が苦手なの。鏡見てるみたいで気持ち悪くって」

 言いながら、ツキリと胸が痛んだ。

「ああ、言われてみれば、確かに。さすが従姉」

「ホントだ。こんなスタイルで見ると、姉弟でも通用しそうよね。身長が同じで芳音くんが女装したら、安西と思うかも」

「やばい。芳音くんに女装させてみたくなった」

「やめてー。それ、子どものころに親たちが実際にふざけてやったのよ。お陰さまで、それ以来あんまりまともに話してない」

「なーんだ。仲がいいわけじゃないのか」

「トラウマか。ゴシューショーさま」

 そんな流れで追及する面々には、ようやく芳音と会うわけではないと納得してもらった。さらに食い下がる先輩陣からは、始業五分前のベルが助けてくれた。


 十五時五十五分。急な腹痛を装って早退した望は、予定よりも五分早くパティシエ専攻科の入ったビルの前に到着した。道路を挟んだ向かいのスタンドコーヒーショップで、ガラス張りの店内から入り口を窺う。

(終わった。そろそろ出て来るころね)

 束になってビルから出て来る女性陣をそう推測し、キャップを被り直した。ほとんど口をつけていないアイスティーをひとすすりする。潤った喉を下りていくそれは、望の背筋をしゃきりとさせた。

 道路を渡ってビルの真正面に位置するガードフェンスに軽く尻をもたれさせる。行き交う人を真正面から右へと追っては、また視線を正面に戻す。何度かそれを繰り返しているうちに、望の視点がぴたりと正面で固定された。

 目的の人物は、初見のときとは違ったカジュアルな装いで友人と話しながらエレベーターから降りて来た。うっかりすると、やはり見惚れてしまう。決して濃いメイクではないのに、色香を漂わせる。それは二十歳前と二十歳以降の差なのだろうか。ショートボブの横髪は耳に掛けられ、細くて大きめなリング形のイヤリングが清潔な色っぽさをより引き立てる。長く整ったまつげは自前のものだろう。綺麗なカールで整えられているだけでも充分な目力が演出出来ているというのに、羨ましいほど大きくて女らしい瞳だ。

 その瞳が、ゆるりとこちらを向いた。友達と談笑していた彼女の唇が、にわかに小さな「あ」をかたどった。

「堤さん、初めまして。守谷芳音の従姉の、安西望です」

 望はそう返しながらガードフェンスから身を起こした。

「芳音がお世話になっていると今ごろ知って、ご挨拶が遅れましたけど、少しだけお時間をいただけます?」

 望の待ち人、堤果穂は、友人に小さな声で何かを言うと、望の待つ車道側のほうへとゆっくり歩み寄った。

「初めまして。意外だわ。芳音って自分のことをあまりしゃべらない子だから、こっちのことも身内には話してないとばかり思ってた」

 果穂はそう言いながら、気さくに右手を差し出して来た。

「私も堤さんのことは、芳音から聞いたんじゃあありません。芳音のクラスメートから聞いたんです」

 そう答えながら彼女の手を握り返す右手に、妙な力が入った。この人の芳音に対する印象も、君塚たちと同じだ。自分の知らない芳音を知っている人。それが妙に引っ掛かった。

「あら、そうだったの」

 と返す果穂の声音には、何かを孕んでいる響きを感じた。同じように望を見据えて来る瞳にも、探る意図が見え隠れする。

「何か言いたいことがあってわざわざ乗り継いでまで訪ねてくれたんでしょう? お茶でもしてく?」

 果穂は打診の言葉を口にする傍らで、望に有無を言わせないかのように力強く握り返して来た。どこか既視感を覚える悪戯な瞳を、どこで見たのか思い出せない。ただ、とにかく不愉快で仕方がなかった。自分よりも背丈の低い彼女に、内面から見下されたような錯覚に陥った。

「いえ、堤さんもこれからバイトでしょうし、すぐに済む用件ですから」

「そう? 何かしら」

 果穂は実に楽しそうな微笑を浮かべ、ようやく手を放してくれた。

「芳音にはもう、待ってくれているお客さまが故郷にたくさんいるんです。今までは喫茶店だから軽食を出す程度のことしか出来ていなかったけれど、お客さまに応えられることをもっと増やしたい、って。お店を再建したい、という夢があってここへ通っています」

 牽制のつもりで語り始めたはずなのに、次第に訴える声に生の想いが宿っていく。尖った口調がいつの間にか懇願の声音に変わっていた。

「ずっと独学で創作ばかりやって来て、基礎も知らないって落ち込んでいたことがあるんです。あまりバイト先や学校での話を聞いたことはないんですけど」

 きりりと一度唇を噛む。今の自分では、芳音になんの助けも出来ないと痛感する。

「芳音のこと、公私ともにくれぐれもよろしくお願いします」

 身体をくの字に折り曲げたら、くぐもった声になってしまった。キャップがぽとりと路面に落ちる。束ねていた髪がさらりと前に流れ、果穂から望の顔を隠した。

「芳音にとっては、一分が惜しい心境なんだと思います。何も知らない人ですから、色々教えてあげてください。よろしくお願いします」

 たくさんの意味をこめて、頭を下げる。芳音で遊ばないで欲しい。遊びじゃないなら真剣に向き合って欲しい。無駄に時間を浪費させないで欲しい。後ろではなく、前に進むための力添えが欲しい。

「私じゃあ、芳音に何もしてあげられない、から」

 零れそうになるモノを堪え切れなくなりそうな自分に焦り、望はそれを言い切ったあと、くっと息をとめた。

 俯いた先で、路面に落ちたキャップが少しだけ傾いた。つばを摘む細い指に望の目が留まった。悔しいほどの憧れを抱かせる、颯爽とした果穂の全体像とははちぐはぐな、傷やあかぎれで赤みのある彼女の手。使い込まれた、修行している人の手だ。果穂の本質をその手が明確に伝えていた。

「はい、落としたわよ。頭を上げたら?」

 その言葉に弾かれて面を上げる。すると待ちかねたようにキャップが頭に収まった。真正面には、なんの含みも持たない微笑が望を待っていた。

「世間って狭いわねえ。まさか噂のお嬢さまが芳音と知り合いだったなんて」

 それに聞いていたイメージとも違う、と言われ、つい話を引き伸ばしてしまった。

「噂って、あの」

「面接試験で開口一番、先生方に喧嘩を売って、あの安部先生を虜にしちゃった渡部薬品のお嬢さん」

「う」

 いやな記憶が蘇る。知らず果穂から数歩退いていた。ガードフェンスにそれ以上の後退を阻まれ、じわりと近づいて来た彼女から逃げるタイミングを失った。

「渡部薬品社長の娘を一流レストランに送れれば学校の宣伝に繋がる、という理由だけで筆記試験が通ったのなら遠慮なく言ってください、だったっけ」

 果穂の口から、実際に望が面接室に入るなり言い放った言葉とほぼ同じ内容の言葉が復唱された。

「安部先生って、専攻科専門、つまり芽の出そうな人間しか教えない、という厳しくてワガママな先生よ。あの先生を専科へ持っていったのは、あなた。かなり絞られるでしょうけど、見込まれてるんだから頑張って追いついて来なさいね」

 それは、初めて聞く情報だった。心の中のどろどろとしたものが、その瞬間だけ綺麗に浄化されてしまうほどの衝撃を受けた。

「うそ……だって、あのときものすごく叱られて、だから私、合格したのが信じられなくて」

「負けん気とやる気だけでは難しいけれど、筆記試験の記述問題に何か見出してもらえたんじゃないのかな」

 果穂は、そう言って小さく笑うと、おしまいとばかりに望の二の腕をぽんと軽く叩いた。

「芳音とはいいライバル関係なのね。仲良しっていうだけじゃなく」

 足引っ張らないように気をつけるわ。彼女がそう告げるころには、もう望に背を向けて歩き出していた。

「よろしく! お願いします!」

 叫ぶ望の声に、ひらひらと果穂の右手が答えてくれた。

(敵わないわ)

 凛とした背中に完敗の気分だった。悔しいくらい、完ぺきな人だ。不完全の象徴である脆さを含めて、人として魅力的だという意味で、完ぺきだ。百花の話から少なめに見積もっても、二十二、三歳。自分がその年齢になるころ、あんな風に押し付けがましくない形で後輩へ激励を施せるのだろうか。自分のことで精一杯なのではなかろうか。

(追いついて、追い越してやる)

 ネガティブになり掛けた自分に気づき、望は自分自身に向かって精一杯の虚勢を張った。

 今は形から入ることしか出来ないけれど、とにかく自信を持つことが最優先。曇り過ぎたガラスを元の透明に戻すには、こびりついた汚れが酷すぎるほど手間が掛かる。

「やっぱり夜の座学を受けてから帰ろう」

 そうと決まれば、時間はもうあまり残されてはいない。望は邪魔なキャップをバッグへ押し込むと、駆け足で駅に向かう道を戻っていった。




 ゴールデンウィークの連休中には、信州から上京して来た綾華や圭吾に会うことが出来た。毎年恒例になっているらしい。歩行者天国でのライブに参加するので上京したとのこと。

「え? 芳音、今実家に帰ってるの」

 ふたりからの知らせで初めて知った。

「って、お前が芳音のメールをガン無視してんだろ」

 と口汚く責めるのは圭吾のほうだ。彼に言わせると、芳音がかなりいじけて愚痴を零していたらしい。

「――ってな、お前、何考えてんだ?」

 と、かなり悪者扱いされているのだが、つい口許がゆるんでしまう。

 望の知る芳音が、圭吾の語る中にいた。それは、圭吾や綾華の知る芳音と自分の知る芳音が一致しているということ。

「ねえ、ケイちゃん、綾華姉ちゃん。芳音が無口とか感情が顔に出ないとか思われてるって聞いたら、信じる?」

 突然沈黙するふたり。そしてその数秒後に、爆笑が湧いた。

「ないないないない! あんな解りやすいガキんちょ、そうはいないでしょ」

「ねーし! あいつってばさ、男子だけでスタジオにこもってエロビ大会ンときも、アイツだけ体育座りで顔をうずめて耳たぶ真っ赤にしてやんの。いぢられキャラの典型じゃん」

「ちょっと待て圭吾。今、なんつった」

「あ」

「スタジオ練習って、そーいうこともしてるんだ。へえ~」

「あんたね、神聖なスタジオを、よりによってリーダーが」

「いやだからそれはリクがだな」

「黙れ! このエロ少年!」

「綾華姉ちゃん、男子ってみんなそんな感じよ。ケイちゃんだけじゃなくて、メンバー全員を叱っておかなくちゃ」

「だって」

 そんな会話を笑いながら交わす。その一方で望は、姉さん女房とへたれ亭主といった感じのふたりを見て、少しだけ芳音が恋しくなった。

(でも、邪魔しないって決めたもの)

 つい芳音には甘えてしまうから。せめて座学の集中講習が終わる夏休み前までは、このままでいようと思った。


 米国のラボへ視察に行っていた穂高が二ヶ月ぶりに帰宅したのは、六月の声を聞くころだった。

「おかえりなさい。パパ、試食をお願いしてもいいかしら」

 それは望が初めて自分から父親に示した打診だった。

「飯? 菓子?」

 と問いつつ、穂高の破顔がどちらでも構わないと解りやすく伝えている。それを見るとつい赦してしまいたくなる。一方で、未だに赦せない自分も確かにいる。疎まれていないことが当たり前だと思っていたころには抱いたことのない葛藤だった。

「チーズケーキ、なんだけど」

 おずおずと答えたのは、穂高がチーズケーキには口うるさいと知っているからだ。

「ええ度胸やな。自信ありと見た」

 からかいの混じった言葉とともに、スーツジャケットとバッグが望の両手に渡された。

「ねえ、パパ。パパの言っている“イチオシのチーズケーキ”って、本当にもうどこに行っても食べられないの?」

 寝室で着替えている穂高に背を向けたまま、荷解きをしながら問い掛けた。

「……せやな」

 と曖昧に答える声が、やけに沈んでいた。怪訝に思って振り返れば、どこか遠い目で見えない何かを見ている父の瞳が妙に気になった。

「パパ?」

「食えるとしたら……地獄、かな」

 寂しげな横顔が、望にそれ以上問うことをためらわせた。

 そして案の定、試行錯誤の末に仕上げたチーズケーキは、穂高の舌から見ると落第だった。

「お前さ、これ作ってるとき、楽しかったか?」

 唐突にそう聞かれ、反射的に「ううん」と答えてしまう。

「前に教わったレシピを参考に、それよりももっとおいしく作ってやる、って気負っちゃった、っていうか」

 芳音から教わったとは言えず、口ごもりながらおずおずと答えた。

「お母さんのサロンに来るお客さまには出せないほどまずいかしら」

「まずくはないねんけど、マニュアルどおり、言うんかな。既製品とあんま変わらん」

 ほかには何か作ったのかと問われたので、泰江のサロンに来るお客に選んでもらええるようにと作っておいたプリンの方も出してみた。

「お。こっちのが俺、好きかも知れへん」

「ホント? 卵をふんだんに使ったお菓子は大好きなの」

 と、うっかり好物のプリンについて延々と語ってしまった。はたと我に返ったのは、堪え切れずにといった感じで穂高が噴き出した瞬間だ。

「な、何よ」

「いや、ホンマに食うほうが好きやねんな、と思うて」

 誰かのことを思いながら作るもんは美味い。それが証明出来たということで結構やないか。

 穂高がそう言ったのは、望の垂れた講釈の中に、「甘いものなら心の疲れで見えるお客さまの疲労回復にもなるかと思って」という部分をとどめていたからだろう。そして口には出さないけれど、入学式のあったあの日、芳音の料理を作る姿勢について望が語ったそれのことも含めての発言だろうと思われた。

「……作るのも、好きだもの」

「さいでっか。でも、俺は今でも、お前にはマネジメントのほうが向いていると思うけどな」

 プリンだけは及第点、という評定をもらい、その日はなんとなく温和に終わった。望が穂高の妥協に気づいたのは、普通に一日を終えてベッドに身を沈めてからだった。

「パパ、なんにも訊かなかった」

 芳音とその後どうしているのか。芳音との関わり方についての説教もなかった。

「先にお母さんのところへ寄ってから来たのかな」

 そう思い至ると、穂高のスーツジャケットからコロンとは別のアロマの香りが漂っていた気さえした。




 芳音との再会は、思い掛けない形で唐突に訪れた。それもまったく知らない人からの呼び出しで。

 六月の声を聞くころになると、さすがに忍耐と意地が砕けそうになっていた。そんなとある休日の昼、望の携帯電話へ知らない電話番号からの着信があった。

「はい?」

 少しだけ警戒した声で、見知らぬ都内の電話番号を受ける。

『こちら、日本帝都ホテルでございますが、安西望さまのお電話でしょうか』

「は? ああ、はい」

 どこかで聞いたことのあるホテル名だが、利用したことがあるならもっとはっきりと覚えているはずだ。名前を知られていることが、さらに望の警戒心を煽った。

『大変失礼でございますが、海藤芳音さまとお知り合いでございましょうか』

 と、相手は個人名も名乗らずに、突然思い掛けない人物の名を告げた。しかも、守谷ではなく“海藤”などという。なぜか突然寒気が走り、この不吉な電話を切ろうとした。

「こちら、そちらのホテルを利用したことはありませんが。どこで何をお調べになったのか解りませんけど、マスコミ関係者でしたら、切らせてもらいますね」

 そう告げて電話を耳から離すと、大きな声で「待って」と訴えられた。

『大変失礼致しました。お電話を替わりました。私、日本帝都ホテル支配人の阿南泰子と申します』

 阿南と名乗った女性は、望のリアクションを待たずに用件を告げた。

『火急でしたのでフロントに代理の電話をさせました。大変失礼致しました。実は当ホテルに訪ねて来られた海藤芳音さまが倒れまして、当ホテルでご休息いただいています。ご家族に連絡をと思ったのですが、海藤さまが安西望さまのお名前を口にしただけですぐ意識を失いましたので、救急車を手配の上、取り急ぎ安西さまにご連絡させていただいた次第です』

 それを聞いた瞬間、血の気が引いた。望は咄嗟に電話主へ叫んだ。

「すぐに救急車を断ってください! 彼は病院で受診出来ません。私がすぐ伺いますから」

 一笑に付されるとばかり思っていた。その間に少しでも早く近づこうと、すでに玄関を飛び出していた。

『本当に、辰巳さんの息子さんだったのね。解りました、救急車をキャンセルし、安西さまのお越しをお待ちしてます。阿南に案内するようフロントに伝えておきます』

 望の悪い予想に反し、阿南と名乗った女性は、望の言葉を信じた。そして彼女の呟いた名前が、聞き覚えのあるホテル名だった理由を思い出させた。

「三十分ほどで着くと思います。芳音をよろしくお願いします」

 望はどうにか気丈にそれだけ告げて電話を切り、流しのタクシーが走る大通りまで駆け足で向かった。


“藤澤会幹部銃乱射事件”


 去年の夏、芳音が見せてくれた古い新聞記事の大きな見出し文字が望の頭の中いっぱいに広がった。

(どうして今更、何を調べていたの?)

 倒れたのは恐らく、心因性。芳音が何を考えているのか、この段階では何も解らなかった。

 嫌な予感を振り切るように、タクシーに大手を振る。扉が開くなり時を惜しむように後部席に滑り込み、身を乗り出して運転手に行き先を告げた。

「S区、日本帝都ホテルまで。出来るだけ急いでください」

 走り出したタクシーの中、望はひたすらに胸元を飾るネックレスのヘッドを握りしめ、芳音の無事を祈り続けた。

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