嫉妬 3
百花に堤果穂のことを尋ねてみようとは思わなかった。
芳音のバイト先は、望のお気に入りリストに入れている穴場のフレンチだ。所在を知らないわけではない。でも、例え客としてでも訪ねてみようなどとは思えなかった。
昼は実習、夜は座学。そんな毎日が探る余裕を与えないからだ。自分にはそんな言い訳をしてやり過ごしていた。
芳音からは、電話どころかメールの一通さえ届かない。もちろん、時間貧乏なのは芳音も同じだと頭では解っているが。
(でも、夜学がない分、私より時間の融通が利きそうなものだとも思うけど)
スポンジケーキの実習の傍らで、ふとそんなことを考える。
「芳音くんて、調理師専攻科Ⅲだった」
その声ではっと我に返る。慌てて周りの様子を確かめ、次の手順に取り掛かる。
「って、うちの学校の最難関じゃん」
「誘えるのかな。厳しくない?」
「だから今が誘える最初で最後のチャンスなんじゃん。今ならまだ夜間がないし」
あっという間に芳音の在学学科を調べたクラスメートに端を発した芳音の状況に関する予測が、望の思い浮かべていたことと重なった。
調理師専攻科はⅠ、Ⅱ、Ⅲとある。
座学を中心としたカリキュラムのⅠは二年課程、要は専門卒の肩書きが欲しい人たちの進む学科。
Ⅱは二年間で座学と実技の基本をマスターする。
芳音の選択学科は、三年を掛けて学ぶ間に調理師免許も取得出来る即戦力育成学科だ。昼の部のみの半年間だが、言い換えれば半年で座学を習得し、後期からは実習メインに切り替わる。
調理師専攻科Ⅲの教室の入っている渋谷校舎ビルは、夜間の調理実習室を九時まで生徒に開放している。意欲のある者は自費で材料を調達し、自由に実技練習が出来る場所を提供しているとのことだ。もちろん他学科の生徒も在籍番号と氏名を教育課へ告げて申請すれば利用出来る。入学金が桁外れに高いのは、それらの経費を含んでいるから、というのが入学案内の説明にあったので、それは望も覚えていた。
実習で作ったケーキスポンジがランチ、という健全な食生活の意味ではいただけないメニューを味わいながらメモを取りつつ、級友たちが勝手に膨らませた芳音のイメージを小声で語り合う。
(調理師Ⅲの君塚くんって人が、今週末の合コン幹事と高校時代の同級生なんだって。例のクソ幹事に調理師Ⅲも混ぜろって伝えて、君塚くんには芳音くんを連れて来てって根回ししといた)
(万井、やるぅ)
(だって、君塚くんとお近づきのチャンスだもの。逃す手はない)
(あ、そっち?)
(うん。君塚・守谷・佐藤って、三バカトリオなんて呼ばれていて、入学当日から有名らしいわ)
なんでも入学式終了後、公衆の面前で漫才まがいのことをやらかしたらしい。
(芳音くんの保護者らしいケバいおばさんに「おばさん」って言っちゃったらしいのね。で、その人に「お姉さんと呼びなさい」って、股間に蹴りを入れられてのた打ち回ったらしいわよ)
(げ、恥ずかしいー)
(そんなの序の口。そのあとヒールのかかとで思い切り背中をねじられてて、君塚くんは「もう言いません、すみません」だけだったんだけどさ、芳音くんは「お願いやめてなんでもするから」とか、佐藤くんなんかはガチで泣いてたみたい)
(ちょ、なにそれ、いまどきネタでもそんな寒い展開ないし)
(あ、これそのときの写メね。もらっちゃった)
そんな囁きと同時に、手前の席からファイルの陰に隠れた形でスマートホンがついと滑って来た。深紅のスーツを着た茶髪の女王と、うろたえて情けない表情をした見覚えのある男子とほかふたり。彼らの無様な格好を中心に、入学式終了直後の光景がスマートホンの画面いっぱいに広がっていた。
(……やっぱり貴美子さんか)
望も周りに合わせてそっと覗いたが、居た堪れなくなって目をそむけた。
(や、でもこんなケバ美人に般若な顔されたら泣くわよね、確かに)
そうフォローしたのは芳音をやたら気に入っているらしい留年組の先輩だ。
(というわけで、私は君塚プッシュで行くので、へたれコンビはお任せするねっ)
(ライバルが一人減った、らっき)
(へたれ言うな。芳音くんは中和剤ポジションよ。この三バカトリオの両極端を足して二で割ったプラス抽出、みたいなキャラっていうの?)
どうもこのノリにはついていけない。望は実習レポートを書くのに専念しようと、視線を手許のノートへ戻した。
(あ、それで、絶対数が女子の方、足りないのよね。君塚くんと例のバカ幹事から、パティシエ専科全員参加でよろしく、って)
せっかく書き始めたレポートの手が、またとまる。
(私、親の門限が)
と言い掛けたところで、それを速攻却下された。
(レポートのまとめが終わらなくてうちに泊まるってことにすればいいじゃん。親に口裏合わせてもらうよ)
余計なお世話、と思った自分に嫌気が差すようになったのはいつからだろう。
(でも、嘘をつかせるなんてよくないわ)
そう言い訳する一方で、ウソツキな自分がよく偉そうに言えるものだと笑えて仕方がなかった。
(渡部薬品とこのお嬢さんともなれば、うちの親も身元がシッカリしてるし、って二つ返事でオッケーするって、絶対。ホントに泊まればいいじゃん。ね?)
その傍らで別のふたりが話を進めているのが小耳に入った。
(パティシエ専攻科も何人か面子をそろえたみたいよ)
そう言って複雑な表情を浮かべるのは、やはり留年チームの中のひとりだ。
(うわ、私、堤とだけは会いたくないわ)
それに反応したのは、彼女と親しい雰囲気だった百花だ。
(あんたは繊細過ぎるのよ。果穂は見込みのないヤツにスパルタはしないよ。そう毛嫌いしなさんな)
「はい、では、今日はここまでです。残りは明日朝までに完成させて教卓に提出しておいてください」
教壇から響いた終業の声が、ひそひそ話を中断させた。
「起立、礼」
「ありがとうございました」
残りを食べ終わらせて食器を洗い、二十分の休憩が済めば、午後からは次の課題の下ごしらえに入る。
「ねえ、安西、どうする?」
「行くよね。お願いッ。実はあんたを連れて行く条件で参加オッケーにこぎつけたのよ」
マジか。とは心の中だけで。重く沈んだ胸のうちも微笑で隠す。
「一次会だけでいいなら、行くわ。人数合わせの約束を破ったことにはならないわよね」
「助かったー! 恩に着る!」
少しだけ、興味が湧いた。芳音と堤果穂が自分の存在を認識した上で、どういうやり取りをするのだろう。
“約束、今度こそ忘れないように”
そう言ってくれたペアリングの片割れは、芳音の右薬指にはめられていなかった。今は望の薬指にも収まってはいない。服の下に隠している翠のヘッドと一緒に落ち着いている状態だ。
(解ってる。衛生の意味でNGだし。会食のあのときも、パパを刺激しないために外していただけだって、解ってる)
ビンゴ、と言って欲しかった。笑って頭をくしゃりと撫でて欲しかった。だけど、それをメールや声に託すことは出来なかった。
その週末に行われた“新入生歓迎会”という名の合コンは、勤勉学生の自習終了時間に合わせ、夕方から始まった。学生の取り仕切る合コンなのだからとあまり期待していなかったのが幸いした。
「うわ、合コンっていうよりも立食パーティーみたいな雰囲気ね」
望は二度目参加の百花の肩を軽く叩き、ついはしゃいだ声を出した。
「とーぜん。ほら、口の肥えた面子でしょ。そこはやっぱり最優先。それにテイクアウトもいけるしね。研究の場でもある、ってわけ」
「なるほど」
気の重かった合コンが、少しだけ楽しみの対象に変わった。
立食パーティーの趣向とは言え、小さめのホールを貸し切っての会は、プチ卒業式謝恩会の雰囲気を思わせる。全員に梅酒の小さなグラスが配られ、いかにもナンパ風情の幹事が挨拶と乾杯の音頭を取ったあとは、次第に幾つかのグループが出来ていった。
結論として、望はこれまでに経験がないと断言出来るほどの肩透かしを食らった格好となっている。
「って、あんたがしかめっ面してるんじゃないわよ」
と深酔いして絡んで来るのは、芳音が目当てだった先輩だ。
「全員強制参加って、調理師Ⅲもそうだったのに、なんかずるいんですもん」
しかも絶対参加とまで言われた芳音がドタキャンだ。
「それがオッケーなら、私もそうすればよかった」
望はそう吐き捨てると、どこぞの学科の誰かが持って来たシークヮーサーのジュースを一気飲みした。
「もー、せっかくのタダ酒なのに、一気飲みとかもったいないなあ。そういうのは堤だけで勘弁してよ。あんた、堤二世?!」
「って、これジュースですから」
(ダメだ、完全に悪酔いしているわ、この人)
心の中で溜息をつきつつ、半ば投げやりな気分でなだめに掛かる。
「倉橋さんは、随分堤さんに対して否定的な言い方が多いわよね。何かあったの?」
百花の影響からか、あっという間に停留と新人の垣根が取れたパティシエ専科内では、敬語抜きで話せる。その気楽さも手伝って、また彼女の泥酔ぶりを見ると忘れてくれそうなのでツッコミを入れた。もちろん、吐き出してしまえば楽だろうと思ったので誘導しただけであって、興味はない。
「堤とはー、出がおんなじなのー」
「で?」
「地元。気が強いだけの平凡な女だったくせにさ」
倉橋は高校時代に地元で初恋の男を彼女に取られたらしい。
「きったないよねー。弟の親友だからって、ぬけがけー」
自分の好きになった男ばかり狙う、というのは多分かなり偏見が混じっている、という気はするが。
「そう言えば、ほかの先輩たちが“先月までの彼氏と違う”って言ってましたね」
「別れたんじゃないの? あの男、地元に就職したから」
そのあと堤果穂に対する罵詈雑言が乱れ飛んだが、そのほとんどが望の耳には入っていなかった。ただ、少し引っ掛かかりを感じさせるフレーズだけがこびりついた。
「父親が女と逃げたような家だから、男にだらしがない」
「弟なんか、あいつが引っ越して来るまでいじめられっこだったくせに」
「あいつがいじめのターゲットになったのは、弟が友達欲しさに近づいたからだ」
「気落ちしているのを利用して、堤はあいつを自分のモノにした」
どこまでが本当で、どこまでが嘘かは解らないし、興味もない。ただ、堤果穂という人が、年下の男が好きなんだ、という雰囲気だけは、なんとなく解った。
幸か不幸か、倉橋の子守は望にとってよい逃げ口上になった。
「安西さーん、いつまで隅っこで女同士イチャついてるん」
「がーッ! 去れッ、このブサメン!」
「倉橋さんったら……。もう、すみません。あ、それ持って来てくれたの? ありがとう。いただくわ」
といったやり取りが繰り返される、望にとっては無意味な合コンに終始した。よい番犬がほどよく男性陣を追い払い、話作りに持って来てくれる料理の盛られた小皿や飲み物は遠慮なく頂戴する。もちろん、水や烏龍茶の“お願い”も忘れない。倉橋の機嫌を損ねない程度に彼女への配慮をしながら時の経つのを待っていたが、このところの寝不足がたたったのか、いつの間にか望の瞼も重さを増して閉じていった。
「望、悪い、遅くなった。交代ッ」
と百花に声を掛けられるまで、自分が倉橋の膝枕となって舟を漕いでいたことにさえ気づかなかった。
「あ、ううん……いぃッつ!」
椅子の上での無理な姿勢が祟り、腰と首筋に激痛が走る。ついでにこめかみまでが痛みを訴え始めた。
「あ……れ?」
首に配慮し、ゆっくりと佇む百花を見上げたら、そこには彼女だけではなく、男子がふたり望を見下ろしていた。
「初めまして。噂はかねがね、望ちゃん」
と軽く自己紹介をした精悍な顔立ちの男子は「芳音の悪友その一、君塚です」と名乗った。となりにいる少しふくよかで細目の男子は、何度かつかえながらも「佐藤です」と名乗った。
「あんたも性質が悪いわね。芳音くんと幼馴染だったなら、最初にそう教えてくれればよかったのに」
百花からのそんな切り出しで、彼らが芳音から「もし来ていたら、断り切れなかったんだろうと思うから、抜け出す手伝いをしてやって欲しい」と頼まれたのだと知らされた。
「ごめんねえ、あんな雰囲気の中じゃあ、芳音くんはNGな子だなんて言えなかったよね」
百花はそう言って、何かを思い出したかのように肩を震わせて噛み殺すように笑った。
「どういう、こと?」
倉橋の反対隣の椅子へ腰掛けた百花に問い返す。
「調理Ⅱの、あの幹事、粘着なヤツだから睨まれると面倒なんで芳音を引っ張って来て、適当なところでずらかろう、って妥協案を出したんだけどさ」
望に答えたのは百花ではなく、前に立っている君塚だった。
「“タゲられてるのが解ってて行くのは、卑怯だと思うから行かない”って」
「そ、それに、み、認めてほ、欲しい人が、いるから、って。そ、その人に、文句いわ言われて、言い返せないような、こ、こと、したくない、って」
そう付け加えてくれたのは、とても話すのが苦手そうな佐藤と名乗った方の、芳音の級友だ。
ふわりと膝が軽くなる。くらりと軽い眩暈がする。不意に小寒い感覚に見舞われたのは、倉橋の頭が百花の膝へ移ったせいだ。そう認識するのにも時間が掛かった。
「バイトをサボって合コンなんて、その人に認めてもらえないって即答されたんだって」
三人とも、芳音の言う“認めて欲しい人”を、恋愛に絡めて自分のことだと勘違いしている、とは思った。だがそれをいちいち正す必要もない気がした。何よりきっと芳音が嫌がるだろうと思った。
(パパの名前を友達に出されるくらいなら、そういう誤解のほうがマシよね、きっと)
それまでのものとは別の理由から重い気分になる。芳音の言葉が遠回しに望の反省を促した。八方美人を振り撒いていい人ぶっている余裕など、自分にもないはずなのに、という自省。
「余興ってる今のうちに帰りなよ。イロイロと気が回らなかったこと、謝っておくわ」
百花が望の内心を見透かすようにそう言い、
「もうすぐお開きになるから、そうなるとまた群がって来るよ、きっと」
と、出口の扉を顎でしゃくった。そして不敵な笑みを浮かべて「これでフォロー出来なかったポカと相殺にしてね」と締めくくった。
「俺たちが送るから。帰る前に芳音のアパートまで案内して欲しいんだけど、いいかな」
「こ、ここの、デ、デミソースは、自家製ですごく、美味くて、有名なんだ」
それは望も知っていることだ。
「芳音は最近、フレンチの、勉強、がんばってる、よね。、だ、だから、届けてあげ、て、いいかな」
佐藤がそう言って律儀に包みの中を見せてくれた。それは望も今日何度か舌鼓を打ったビーフシチューのパイ包みだ。アルミカップを使用しているので持ち帰っても問題ない。
「ありがとう」
そう告げる口角が、自然とほころぶ。まるで望が芳音のプライベートを彼ら以上によく知っている前提で話しているという口振りだ。そう思うと、妙にくすぐったい感覚が望の警戒心を少しだけ解かした。
「基本を知らないってすごく落ち込んでいたから、きっと喜ぶと思うわ」
「んじゃ、そゆことで。逃げますか」
スマートに手を差し出す君塚の手を、望はようやく素直に受け取った。
遠慮するふたりを無理やりタクシーに詰め込んでホテルをあとにした。
「なんか、このシチュエーション、つい最近どっかで」
少しだけ顔色の悪くなった君塚がブツブツと繰り返す。佐藤などは、すでに震えて無言になっている。望は初見で受けた偏見の印象とは異なる意味で「このヤロウ」と内心で不貞腐れていた。
「あ」
「お、思い」
「出した、そうだ。入学式ンときの」
「かかか芳音と、ととと」
「調理師専攻Ⅲでは、ケバい年増で有名みたいね、うちの自称・姉」
「うちの?!」
というところだけ、ふたりの声が綺麗に重なった。
「貴美子さんって、私の母とは戸籍上の母親に当たるの。同時に芳音のお母さんの姉代わりみたいなところもあって。だからふたりまとめて自分の子、みたいな感じ?」
あの貴美子と同類扱いされた理不尽をぐっと堪え、当たり障りのない説明をした。
「へぇ~」
「自分の子、っていうか、お姉さんと呼べって命令されたんっすけど」
「今お気に入りのメンズが私たちとそう年の変わらないホストだし、若い気ではいるんでしょうね」
「……」
「アクティブ……」
そんなつまらない会話をしているうちに、芳音のアパート付近まで近づいた。
「あ。ここでいいです」
目の前の十字路を越えると、メーターが上がってしまう。そこから数メートルでアパートの門だ。三月に何度か通った懐かしい記憶が、心寂しい気持ちとともに蘇った。
タクシーを降りて三人で歩くこと、一、二分。特に何かを話すこともなくすぐに門扉まで辿り着く。
「一階の一番手前よ」
「って、あれ、望ちゃんは? 一緒に顔出さないの?」
「……そうよね」
そこで自分だけ敷地の外で待っているのは、明らかに不自然だ。どんな顔で芳音を見ればいいのか解らなくて戸惑う一方で、君塚たちに混じってしまえば、何事もなかったかのように話し掛けてくれるかも知れない、という打算も働いた。
元のお互いに戻ってから、連絡をくれなかった理由を聞けばいい。望は自分にそう言い聞かせ、腹を括って一歩を踏み出した。だが、ほんの数歩で、その足がまたとまった。
「かーのんー。酒が足りん! 買って来ーい」
その声に聞き覚えはないが、明らかに女性の声だというのだけは判る。
「って、まだ飲む気っすか。いくら明日休みでも、早く帰んないとヤバいですって」
隣でぴたりと足をとめた君塚が自分を見下ろしている気配を肌で感じた。
「ちょーっ。何寝る準備してんのぉ? 寂しいじゃーん。こっち来て君も飲め!」
「俺、未成年だっつうの。ほら、どいて。ソファ倒すから。果穂さんは、アッチで寝るッ。はい、ゴー!」
芳音の口にした名を耳にした途端、スタイリッシュで爽快なパンツスーツ姿が望の脳裏をよぎった。肩より上のショートボブはキャリアウーマンのような快活さを感じさせ、同性さえ憧れを抱くようなステキな人だという第一印象が、扉越しに聞こえる泥酔の声で粉々に粉砕された。
「しょーしんものー。へたれー、ドーテー」
「果穂さん、ガチで向こう行って寝てくださいってば」
「ヤダ。じゃあココで寝る。それじゃあまるで私が芳音のベッドを横取りしたみたいじゃん」
「そうだっつの」
「なんか言った!」
「言ってません! ほら」
そのあと小さな女性の悲鳴。「下ろせ」とか「襲うぞコラ」とか、立場が逆じゃないかと突っ込みたくなるような汚い言葉が幾つか聞こえ、そしてパタンという小さな音が聞こえた。
彼らのバカバカしいやり取りが、望の耳にはひどく楽しそうに、そしてかなり親しげな間柄でしか交わせない会話のように聞こえていた。
君塚と望の間を割るように、佐藤がそっとドアの前に包みを置いた。
(なんか、タイミングがまずかったみたいだね。行こうか)
君塚が耳許で囁いた。すっと自然に肩を抱かれ、背筋に寒気が走った。強張った感覚は、彼にもそれを伝えてしまったらしい。慌てた彼の手が望の肩を解放し、代わりに遠慮がちな力加減で腕を掴まれた。
「芳音に負けず劣らず、真面目な子なんだね、君」
悪気はなかったんだ、ごめんよ――と言われたら、こちらの方が謝りたくなった。君塚は、とてもいい人なのだと思う。たったひと言で、ふたつの意味を織り交ぜて望をなだめているのがよくわかった。
「弟に彼女が出来たときのショックって、こういう感じ、なのかしら」
十字路の辺りまで戻ったところで、やっと言葉を出すことが出来た。
「弟……って。そんな、見限らないでやってよ」
そう否定した君塚の声は、少しだけ裏返っていた。
「さっき否定しなかったから、誤解させたままだったわね。そうじゃないのよ。同じ日に、同じ病院で生まれたの。姉と弟みたいに育って来て、親同士も仲がよくて。ただそれだけよ。芳音の覚悟を知っているから、彼女の振りをしておけば今回みたいな面倒を避けられるだろうと思ったけど、君塚くんたちになら本当のことを話しても、きっと芳音は怒らないわよね」
淡々と告げる口調とは不似合いなほど、ヒールがアスファルトの路面をとげとげしく叩いていた。君塚が自分を観察している視線を感じる。望はそれに気づかない振りをした。駅に向かう道をまっすぐ見つめたまま、先を急ぐ姿勢を崩さなかった。
「勘繰り過ぎじゃないかな。今日は週末だから、バイトを休んだら迷惑を掛けるとも言っていたし。果穂さんって、確かバイトの先輩だと思うよ。気の強い女ばっかで頭痛いって愚痴られたことあるし」
「君塚くんにはバイトの話もしてるのね、彼」
もう、名前さえ呼べなくなっていた。
「あ……、あ、そろそろ佐藤を呼ぼうか」
君塚は話を逸らすかのように、携帯電話を取り出した。何かを打ち込み、それを再びポケットにしまう。そのまま駅に向かって歩いてゆく。望もなんとなく、それに従った。ほどなく駆け足の音が後ろから聞こえて来た。
「おま、た……せ……ッ」
「お疲れー。ノック・アンド・ダッシュ。いいダイエットになっただろ?」
君塚が明るい口調で佐藤へそう告げるころには、仮に芳音が道路まで飛び出しても、三人の姿が見えないところまで遠のいていた。