吐露
倉庫の扉が、コン、と遠慮がちに芳音を呼んだ。びくんと大きく肩が揺れ、同時に腕が荒っぽく目許を拭う。そんな自分の条件反射に近い動きが、芳音自身の苦笑を誘った。
(何ビビってんだよ)
心の中で呟きながら、慌ててメディア再生ソフトをクローズさせる。古新聞も急いでデスクの広い引き出しに納めて閉めた。それとほぼ同時に、錆びた鉄の扉が軋む音を立ててゆっくりとこちら側へ開かれた。
「芳音くん、入るよ?」
てっきり克美だと思ったのに、扉の向こうから聞こえた声は、柔らかでいてほどよく低い、意外な人物の落ち着いた声だった。
「……北木さん?」
芳音は顔を覗かせた布袋顔に釣られ、ほっとしたように笑い返した。それはこの数年で張りついてしまった強張りを感じるものではなく。
「階段を上って来たら、ちょうど芳音くんの上がっていく後ろ姿を見掛けたから。ここへ来るってことは、何かあったのかなと、少し気になって」
北木は少し困った顔で笑い、芳音を気遣うように視線を逸らした。彼の方へ向かう芳音の足取りが、それを聞いてぴたりと止まった。
「えぇと、もしかして」
途端に頬が引き攣れる。慣れた強張りが、皮肉ったものにしか見えないゆがんだ笑みを芳音に浮かばせた。
「うん、ちょっと、聞こえちゃった。だから、今はもしかしたらお邪魔かな、と思っておうかがい」
北木が大きな身体を扉で半分隠し、遠慮がちに白状する。その心遣いを、苦い思いで受け取った。
「克美にはナイショだよ」
芳音は上っ面の微笑を浮かべ、北木を中へと促した。
北木は、自称“克美ちゃんの友人”だ。克美が東京から松本に移り住んだ少女時代の頃から、彼女を見守り続けて来た。愛美からそう聞くまでもなく、芳音にとって彼は理屈抜きで、物心ついた頃からそこにいて当たり前の存在になっていた。
今は実家のある松本で会計事務所を経営している北木だが、それ以前も勤め先や仮住まいのあった諏訪市からはるばる『Canon』へ通ってくれた常連客でもある。その理由が彼の克美への好意からと知ったのは、望の父親でもあり、それまで芳音にとっても父親代わりに近い存在だった穂高との関わりが途絶えて間もない頃だった。
『克美ちゃん。結婚を社会契約のひとつだと割り切ることは出来ないかな。恋愛の延長にあるのだけがそれとは限らないものだよ、意外と』
居室と店を隔てた扉の居室側から、北木のそんな言葉を聞いた。閉店間際の深夜、ふたりのほかには誰もいなかった夜の店。当時の芳音は、聞いてはならない大人の会話を“また”聞いてしまったのか、と妙な不快感を覚えた。
『だから、自分の事務所を開けた開業祝ってことで、これにサインをしてくれると嬉しいんだけどな』
“これ”が何を指すのか、扉が芳音を阻んでいたので判らなかった。だが北木に返す克美の答えが、それが何かを芳音に知らせた。
『婚姻届……と、養子縁組届? 芳音の?』
『愛美ちゃんから聞いたよ。安西さんからの支援を断ったんだってね』
その言葉が、望との再会を絶望視させた。それは当時の芳音にとって、その時噛みしめた唇の痛みを今でも鮮明に思い出せるほど、受け容れがたい事実だった。
『芳音くんの意思が最優先だけど。僕の希望だけじゃないのはもちろん、克美ちゃんのためだけでもないつもりなんだ。芳音くんのためにも相談出来る同性の身近な大人が必要なんじゃないか、と思って』
その言葉が、小さな芳音の心から、不快な何かを拭っていった。
(僕が、いてもいい?)
いつも笑って頭を撫でてくれる北木のことを、古い馴染みのお客だとしか思っていなかった。彼はほかのお客とは少し異なるまなざしで芳音を見るお客のひとりだった。当時はそれがなぜなのか解らなかったから、いつも不思議に思っていた。そのときは、少しだけ彼のまなざしの優しい理由が解った気がして、噛んだ唇から食いしばる歯の力が緩んでいった。
『安西さんがバックアップしていたこれまでは、僕の出る幕はないと思っていたけど……僕には彼ほどの力がないから、法的にだけでも家族の形を取らないと介入することが難しい。手を取ってはもらえないかな』
音を立てずに、そっと扉を開ける。ギリギリ通れる程度の幅を、四つん這いになってすり抜ける。芳音がそうやって店に足を踏み入れ、その時に見たふたりの表情は、今も芳音に複雑でもやもやとした、もどかしい気分にさせられる。
『……ありがとう』
一瞬だけ浮かんだ、克美の微笑。
『……でも、ごめん。やっぱり、ボクは辰巳の家族でいたい』
途端、くしゃりと微笑がゆがむ。深く刻まれた眉間の皺が、これ以上ないというほど色濃く浮き上がった。
『守谷克美……これしか、ないんだ。ボクと辰巳を繋ぐもの、……うそっぱちでも、辰巳がくれたこれしか、辰巳の家族がボクだっていう証明が、今はこれしか、ないんだ』
いつも下品とさえ思わせるほどの豪快な笑いしか聞いたことがないのに。笑っているつもりなのだろうと思わせるのに、そう思えないいびつな表情で克美が言う。
『ごめんね、北木さん。何度も、何度も……ごめ』
謝罪を繰り返す克美の声を、あの時北木は彼女を懐に納めることで、とても柔らかく遮った。それは芳音がそれまで一度も見たことのない、克美の泣き顔を上手に隠していた。
『謝られると、つらいなあ。五回目のチャレンジが、あとあとしづらくなるじゃないか』
優しい笑い声が、柔らかく響く。
『辰巳さんを好きな克美ちゃんが、それごと好きなんだけどな。君はいつ自分を許せるんだろうね』
克美の嗚咽に混じって、子守唄のように赤裸々な告白が紡がれる。聞いてはいけないことを聞いたような気がした。
『芳音くんが心配で、ちょっと先走り過ぎちゃったかな。やっぱり気長に待つよ。だからもう泣かないで、克美ちゃん』
北木の面に宿っているのは、相変わらずの落ち着くふくよかな微笑で。それが幼かった当時の芳音にも、ふたりの長い歴史と彼らの繋がりの濃さや理解の深さを複雑な思いで認識させた。幼いながらも、同時に知った。彼が克美本人以上に、彼女の胸の内を知っていること。
北木悦司。彼はその日を境に、芳音の中にある居場所を『Canon』古参の常連客から信頼のおける大人へと変えられた。
マン・ウォッチングを得意とするそんな彼に、見え透いた嘘など通用しない。どんな顔をしていいのか解らないまま芳音が顔を上げると、無意識に左眉がわずかに上がった。見下すような表情にしかならない、いけ好かない自分の顔つき。それが自分でもよく解った。芳音はデスクに戻って肘を立て、頬杖をつく形で北木から視線を逸らした。そんな芳音の目の端に、少し距離を取った位置から注がれる北木の視線と苦笑が映る。何も言わずに待つ彼の厚意に、頑なだった意固地な見栄が少しずつ溶けていった。
「やっぱり北木さんが言ってたとおり、なんでも屋のバイトが克美にバレちった」
それをごまかすために自分から免許証の偽造と無免許運転を白状したのに、すでにどちらも愛華が克美に話してしまったらしいことと、克美がそれについて問い詰めて来たので逃げて来たことを白状した。
「愛華に裏切られたぁ。黙っててくれると思ったのに」
そんな逆恨みに近い愚痴を漏らし、背もたれを支えに背を思い切り反らす。涙腺が芳音を裏切り、ぬるいひと筋がまなじりから耳へと伝い、ごぽりと不快な音が耳の中で鳴った。
「芳音くん?」
「北木さんがいつまでもモタモタしてるから、悪いんだ」
つぶらな瞳が驚きで大きく見開いた北木を見て、慌てて両目を手で覆う。自分でも八つ当たりだと解っているのに、喋り出したら止まらなくなった。
「北木さんなら、母さんのこと、任せられるのに。母さんが悪いんだ。いつまでも、いつまでも……親父があんな言葉を遺していく所為だ。だから母さんがいつになっても、あの時のまま止まってる」
言っていることが支離滅裂だと、心のどこかで解っていた。いい・悪いの話じゃない。頭の片隅でそう諭す自分がいるのも確かなのに、何年も溜めて来たモノは、一度溢れ返った途端、留まることを忘れてしまったようにさえ感じられる。
「俺なんか遺していくから、いつまでもいつまでも……好きで似て生まれたわけじゃない。親父がどんな奴だったかなんて、二次元からだけじゃわかんないよ。逆立ちしたって俺に親父の真似事なんか、無理だ」
がたん、と乱暴に身を起こす。思い切り拳でなぎ払った机上のキーボードが、ぎゃん、と嫌な悲鳴を上げて床に叩き落された。
「どうせ俺は何やっても中途半端で失敗ばっかで、失望させてばっかだよっ」
お門違いな文句を北木に向かって吐き捨てる。今日一日の出来事は、いろんなことが重なり過ぎていた。そこにいるのが北木だった気の緩みも手伝って、芳音の理性のたがが、今日に限って限界の悲鳴を上げていた。
「体がいくつあったって足りないよっ。俺は俺でしかいられないよっ。俺にどうしろってんだよっ」
北木のスーツの襟を掴み、立ち上がらせる。
「中坊ン時とは違うんだ、母さんから逃げたいわけじゃないっ。人並の夢も見ちゃダメなのかよっ」
北木に答えようのない問いを叫び、食って掛かる。ぼやけた視界では、彼がどんな表情で自分を見ているのか判らない。居た堪れなくなって、固く両の瞼を閉じると、ふっくらとした感触が芳音の両手を優しく包んだ。
「……今週は芳音くんの高校、進路相談週間だったんだっけ。今日が芳音くんの面接日だったのかい?」
北木の穏やかなひと言に、荒れたモノが津波が引くように去っていく。ふたりして固まったまま、長い時間立ち尽くす。芳音の腕が北木の襟首を解放した。
「……白紙で提出なんて、教師舐めてんのかって」
「高橋先生に、叱られた?」
北木よりも頭ひとつ分高い位置にある芳音の頭が、縦に小さく傾いた。
芳音が気の向くままに話したのは、“自分が一体何者なのか”“何者であればいいのか”という抽象論と、愚痴ったところでなんの意味も成さない“もうひとつ体が欲しい”というバカみたいな願い。
「そしたらさ、東京の学校へ行きながら、母さんを独りぼっちにさせなくても済むじゃん?」
「どっちの芳音くんも夢の方を追いたくて、自分同士で喧嘩してたりして」
「だーぁ、そこを突っ込むのかよっ」
ふたりして、くつくつと笑う。笑う余裕が出来たことにほっとする。不意に気恥ずかしさが芳音を覆い、北木から視線を逸らして俯いた。
「芳音くん」
少しだけ改まった声が、芳音にきちんと聴けと訴えて来た。
「いつの間に、どうしてそんな風に思うようになったのかな。気づけなくて悪かったね。でも周囲の人は、誰も辰巳さんの代わりなんかを君に望んではいないと思うよ」
少なくても僕はね、と、念を押すようなひと言がつけ加えられた。
「さっき芳音くんが言ってくれた言葉。僕はものすごく嬉しかったよ」
「さっき?」
「うん。僕なら安心して克美ちゃんを任せられるのに、って」
「あ……」
お互いにこそばゆさを覚えて苦笑する。今度は北木の方が先に目を逸らした。
「辰巳さんと同じことを言ってくれるんだなあ、って。でもそれは、決して芳音くんが辰巳さんの代わりに認めてくれたから嬉しい、というわけじゃあないんだよ。この違い、解ってくれるかな」
なんとなく解るような、解らないような。思ったままにそう返したら、彼にとても困った笑みを返された。
「まあ、なんだ。例えば同じ言葉を愛美ちゃんが言ってくれたとしても、同じように感じる、ということだよ」
克美を大切に想う人の心からの吐露が、それだととても心強く感じられる、と彼は言う。
「辰巳さんが、特別過ぎたんだよ。あの人の代わりになんて、誰にも出来やしないんだ」
「北木さん?」
伏せた顔を上げて真正面に腰掛ける彼を見れば、言葉を失うほどの寂しげな笑みが芳音をじっと見つめていた。
「芳音くんに偉そうなお説教なんて、出来ないな」
彼らしくもなく、吐き捨てるようにそう呟く。
「今の僕があるのは、辰巳さんのお陰だ。あの人が僕の僕らしさを、最初に見つけ出して教えてくれた」
北木が今日初めて、辰巳を知る誰もが見せる懐かしげな遠い目を見せた。
「あの人が完ぺき過ぎて、結局真似事になってしまう。僕も自分なりのやり方を探すのだけれど、卑屈だった若い頃の僕も、彼に成長させてもらって来たようなものだから、なかなかどうして、難しい」
辰巳を越えられない内は、まだ自信がないのだと寂しげに笑った。いつまでも克美に合わせて過ごして来た彼は、もうすぐ五十路を迎えようとしている。彼の諦め混じりの笑みは、芳音にしてみれば歯痒くて仕方がなかった。
「北木さんは、親父に文句とか恨みとか、そういうのはないの? あいつがいつまで経っても過去形にならないから、俺も北木さんもこうやってスローテンポな毎日を送っているわけじゃんか」
食い入るように彼を見れば、つぶらな彼の瞳に必死な顔をした自分の顔が映っていた。対照的とも言える北木の驚いた表情が、芳音に続く言葉を詰まらせた。
「たったひとつだけ、辰巳さんには僕に劣っているものがあったんだ」
自分のことに酷く鈍感だった。その不器用さがあまりにも気の毒で、嫉妬や憤りをぶつけることさえためらわせる。北木は哀れむ声音で、芳音が初めて辰巳の映像を見た時に抱いたものと同じ感想を愚痴零した。
「君は辰巳さんと違って、ちゃんと自分が見えている。自分のフィルター越しに周囲を見過ぎているきらいがあるけどね」
自分の思い込みを一度捨ててごらん、と言われても、具体的にどうすればいいのか解らなかった。