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嫉妬 2

 カリキュラムの序盤は座学が中心だと入学案内には書いてあった。あらかじめそう明示されていたとおり、概論、製菓理論、衛生学などと分厚い背表紙に記された教材の山を見つめ、望は「座学だけなら一学期は楽勝」と高を括っていた。

「うそつき。座学の日程は夜ばっかりじゃない」

 小声でごちる入学二日目、望は早速実習室に入っていた。入学説明会で、序盤は座学中心だと言っているだけだったが、その後、受験申し込み時に『各部門専攻科への進学を予定していますか』という設問があったので、『はい』に丸をつけた。それがパティシエ専科のクラス編成に関わっていると知ったのは、今。もっとしっかりチェックしておくべきだったと悔やんだところで、今更どうにか出来るものではない。

「って、安西、受験案内に書いてあったでしょ。読まなかったの?」

 と間髪入れずに突っ込んで来たのは、同じ班になった河野百花だ。彼女は望たち新入生より一年先輩に当たる。つまり、パティシエ専科を留年し、専攻科を諦められずにもう一年同じ授業を学び直している、という立場にある、らしい。彼女がそれを恥じらわないのは、留年組がクラスの半分を占めているからだ。そして“留年”という言葉の響きがどうにもネガティブになりがちなので、校内では“停留”と称しているらしい。それを知ったのも、ついさっき百花が耳打ちしてくれたお陰だった。

「読んだつもりだったんですけど」

 望は中高に於ける女子高暮らしから、女子特有の縦割りの厳しさを痛感している。その経験が、つい言葉遣いや聞く姿勢に比重を置かせていた。基本実習、パートシュクレを作るためにバターと砂糖を混ぜ合わせていた望の手が、百花に問い掛けたその一瞬だけピタリととまった。

「手はとめない。バターの風味が抜けちゃうよ」

「あ、はい」

 慌ててまた作業の手を動かすと、百花は簡単に説明してくれた。

「まあ、小さな文字で書いてあったからねえ。おおっぴらには言えないんだけど」

 という切り出しで彼女が教えてくれたのは、生徒の面接と筆記試験の結果、そして専攻科への意欲を総合的に判断し、「他部門専攻科に送る資質のある者」と「パティシエのプロとして育てたくなる人材」と「それ以外」を振り分けている、とのことだ。

「さすが、実践主義」

「そ。んで、進級卒業試験のとき、私みたいな専攻科希望だけどあと一歩、っていう人間だと、もう一年がんばってみないか、って食い下がられるわけ」

「って簡単に言いますけど、停留ってことは一年分の学費をもう一回払うってことですよね。それって詐欺みたい」

「と・こ・ろ・が」

 粉雪のようにきめ細かに振るわれた薄力粉をまたふるいに戻しながら、百花が望の耳許にそっと口を寄せた。

(最初から入学金に停留分を盛ってる、っていう話よ)

「うそッ?」

「しっ」

 うっかり声にしてしまい、百花にコツンと頭をぶつけられた。

「A班、生地が出来たのですか」

 声に気づいた教官がこちらを注目する。ふたり同時にこめかみと額から嫌な汗が噴き、不恰好な笑みを浮かべてごまかした。

「あ、いえ。まだ」

「あと十分で生地を作り終えてくださいね」

「はい」

 ふう、とまたもや同時に溜息をつく。

(すみません)

 望が小声でそう謝罪を零すと、百花は気にした風でもなさそうに笑った。

「ねえ、昨日から思ってたんだけど、敬語使わなくてもいいわよ。私も安西って呼び捨てにしてるんだし」

 中高と女子高だった望にとって、それは意外なリアクションだった。

「でも、実際にこうして色々教えていただいているし、やっぱり先輩」

「って、それが留年の傷口をえぐるのよ」

「あ」

 と声が漏れると当時にまた手がとまってしまう。でも、今度は叱られなかった。

「ん。いい感じ。均等に混ざってるね。じゃ、手早くこっちと混ぜちゃおう」

 百花は実習の言葉に織り交ぜて、「さっきみたいにタメ感覚の方がやりやすいな」と望の顔をまっすぐに見つめたまま、はにかんだ笑みを零した。

「は……い、じゃない。うん」

 ぎこちなくそう答えると、百花は「ぷっ」と噴き出した。当然ながら、せっかくのパウダー状態にした薄力粉が宙に舞う。

「ああああ!」

「ちょッ」

「A班! マスクを外すなと言っておいたでしょう!」

「うゎーん、すみませんー!」

「すみません、でした」

 結局教官から雷を落とされてしまった。教師から怒鳴られるなど、望にとっては初めての経験だった。その日は相当落ち込んだ。




 実習がメインとなる昼の部は五時で終了となる。夜の部は七時半から。その二時間半の間に夕食を摂る人は済ませるらしい。百花がほかの面子にも声を掛け、コンビニで買い出しをして共有ホールでプチ歓迎会をしよう、ということになった。

 数人で駅前の大きなコンビニへ向かう。その間に持ち上がるのは、新入生の質疑応答や、今日の実習での愚痴などだ。

「えー、安西さん、マネジメント専攻科へ進むのにパティシエ専科なのは、どうして?」

「ただ経営するだけじゃあ現場のことって解らないと思ったの。私、自分のお店を持つのが夢だから。シェフと店はある程度めぼしをつけているんだけどね。私がパティシエとしての腕と経営スキルと資格を手に入れないと、ほかが揃っていても始まらないっていう感じ」

「って、ちょ、何、その具体的でめちゃくちゃゼータクな状況は」

「めぼしって、どういうこと?」

「一緒にお店を作ろうって言っている相棒がいるの。でも、お互いにまだ勉強中だし、まずは相棒が親からお店を委ねてもらえるだけの腕を持たないと、私まで共倒れ」

 気さくに交わす会話の中で、ふと七海を思い出す。今こうして気後れせずに話せているのは、彼女が自分と友人になってくれたお陰だ。

「ほら、ビッグマウスになってしまえば、あとに退けないじゃない? 結構これでも必死なの。親の反対を押し切ってこの道に進んだから」

 七海と親しくなった当初、彼女から忠告されたキツい事実を思い出し、慌ててそう付け加えた。

『安西って、黙ってるとお高く見えるのよね。顔で損するタイプでお気の毒さま』

 七海の忠告に従い、少しばかりの謙虚さを言葉に織り交ぜる。せめて少しでも笑顔をと心掛け、左右対称に口角をゆるりと上げた。

「え、そうなの?」

「あ、そうか」

「え、そうか、ってなんで?」

 買い出し仲間のひとりから出たそれは、望も思った疑問だった。努力の笑顔があっという間に怪訝な表情に塗り替えられた。

「来週末うちの科と合コンする調理師専科の幹事クン、あいつが『知れば知るほど怖い薬のウソホント』って番組のファンだったらしくてさ。それで安西さんが社長令嬢だって知ったみたい」

 その言葉にぎくりとする。自然と歩みが少しずつ遅くなる。

「えー!? 社長令嬢なの、安西さんって」

「当時あの番組ってすごく流行ったよね。薬の解説かなんかで半レギュラー化してたイケメン副社長。社長になったのかー」

「あ、そう言えば、安西、望さんか。渡部薬品の社長も確か、安西解説員って言ってたよね」

「五、六年も前の話をよく覚えてるね」

「実は私も、安西解説員のファンだった」

「ませガキー」

「あはははは」

 そんな屈託のない笑い声が、とても遠くからのものに聞こえていた。

 嫌な記憶が蘇る。あの番組への出演を機に、安西穂高という名が世間に知れ渡った。その結果望を待ち受けていたもの。

“親が優秀だと、こっちまで同じ期待をされてキツイよな。望もそうだろ?”

“真面目になんてやってても、それが当たり前としか受け取らないよ、大人なんて”

“望、ガッコなんかフケようぜ。俺が連れ出してやる”

 口に出さなくても解ってくれる人だと思っていたアイツ。芳音みたいになんでも解ってくれて、でも芳音よりもはるかに望に弱音を吐かなかった、兄貴分のように思ってしかいなかった人。

“俺は芳音とかいうヤツじゃない!”

“俺を見ろよ”

「安西? どうしたの?」

 百花にそう声を掛けられるまで、自分の歩む足がとまっているのにも気づかなかった。

「あ……うん」

 一緒になって望と肩を並べて歩き始めた先輩が、ぽんと肩を叩いて笑った。

「なに、社長令嬢の話がガチってこと? だからって、安西は安西じゃん?」

 百花のそんな返しには、女特有のやっかみや妬みを懸念する望、というイメージを湧かせたのだと教えている。

「勝手に盛り上がってキャーキャー言ってるだけ。別に変な目で見やしないよ、みんな」

 そしてまたぽんと肩を叩かれる。その手はとても温かくて優しい感触だった。それが望の恐怖心をとろかしてくれた。

「そうですね。気にしないようにします」

「あ、また敬語」

「あ」

 くすりとお互い小さく笑う。ただそれだけで、少しだけ楽になった。前を歩く三人の話も、耳に入れる余裕が出来た。

「で、その合コン幹事のお母さんがそもそもファンだったらしくてさ、親子でストカっていたことがあったらしくて」

「やだ、何それ。きもいー」

「だよねー。それで安西さんの名前と顔でわかった、とかね、得意げに言うことじゃないっていう」

 女性ファンということが解って、心の中でだけほっと胸を撫で下ろした。

(アイツ関係じゃ、ないんだ)

 そう気づいてから初めて、自分のバカさ加減にも気づかされる。穂高をテレビで知ったことがきっかけで、中学時代の望の友達へ自分を紹介しろといったあの男は、とうの昔に死んでいるのだ。

「あ、それで写真とか盗撮? 勝手に撮って、秘書みたいな人に怒られてデータをその場で削除されてお母さんが喧嘩してたとか言ってたわ」

「親が親なら、って感じ?」

「げ、なんでそんなのが幹事なのよ」

「行く気が萎えるね。私の彼氏も同じ科にいるから、幹事のスマホ没収しとけ、って言っておくわ」

「頼むわ。盗撮なんて、今なら立派に犯罪じゃん。安西さん、当時は大変だったんでしょう?」

 意外な感想と複雑な表情を浮かべた同級生から、過去に対する心からのねぎらいが望に投げられる。そこで初めて望は、クラスメートへの関心が戻って来た。

「撮られてたなんて、気づいてなかったわ。一緒にいるときなんて滅多になかったし」

「そうなの?」

「ええ。きっと学校行事のときとか、そういう大勢の目があったときでしょうね。気づいていたら、きっと私が直接胸倉掴んでる」

 お高くとまっているわけじゃない。それを自然な形で表せるように、少しだけ冗談を交えて答えてみた。

「ちょっ、お嬢さまの台詞とは思えない」

「安西さん、見た目とキャラが違い過ぎる」

「そう? 去年の夏には、友達と殴り合いの喧嘩をして反省文を書かされたわよ」

「うっそー」

「殴り合……ちょ、やだもう、おなか痛いッ」

 口々に笑ってそう言うのだが、そこに悪意をこめた皮肉の色は微塵もない。女子にもいろんな人がいるのだなと、いい意味で改めて安心させられる。正直なところ、同じ班になった百花以外に友達が出来るのか心配だった。おどけてすくめた肩から力を抜いた瞬間、それ以前よりも肩が軽く感じられたことで、ずっと緊張していたのだと自覚した。

「んじゃ、痛いヤツが絡んで来たら、安西さんにボディーガードを頼もうか」

 振られた話に微笑で答える。

「そうね。絡まれたらそいつを財布にして、みんなで二次会へ行きましょうか」

「おーっ! それいい!」

「っていうか、安西、あんた悪人過ぎるわ」

「きゃはははは」

 取り繕うのには慣れている。事実をきちんと踏まえられれば、その程度に自分を立て直すのは容易だった。そして気がつけば、教官からの叱責に落ち込む自分もすっかり消えていた。

 いい仲間と出会えたみたいだ。そんな浮き足立った気持ちは、その間だけ芳音との初喧嘩による気まずさを忘れさせてくれた。


 駅前のコンビニは、待ち合わせに格好の場所だ。駅方面から丸見えになる雑誌コーナーは立ち読みの人だかりで埋め尽くされている。買い物客というよりも、待ち合わせをしている人だろう。店の外にも店内外の灯りを欲しがる待ち人が何人か立ち尽くし、忙しそうに携帯電話やスマートホンをいじる指と、それを追う目がひっきりなしに動いていた。

「あ」

 百花が待ち人のひとりに目を向けてそう呟いた。

「先に入ってて。去年の相方がいるからちょっと喋って来る」

 彼女はそう言うや否や、皆の返事も待たずに小走りで該当の人物へと向かっていった。

「はーい」

「了解でっす」

 それぞれに形ばかりの返事を口にし、コンビニの自動扉をくぐる。望は最後に店内へ足を踏み入れるとき、少しだけ百花の相手を盗み見た。

(小柄なのに、格好いい雰囲気の人ね)

 まず身長に目がいってしまうのは、望が一六八センチという女子としては決して低いとは言えないコンプレックスが原因だ。彼女はパンプスを履いているが、それでも望と並んで大差ない身長の百花と頭半分ほどの違いがある。そんな小柄なのに、“可愛い”のではなく、カッコイイ。パンツスーツがそう見せるのかと思ったが、あまりじろじろと見るのも失礼と思い、望もようやく店内へ入った。

 みんなと食べ物や飲み物を物色する中、望だけが外へ何度か視線を向ける。なかなか百花が入って来ないからだ。

(河野さん、食物アレルギーとか苦手なものとか、大丈夫なのかしら)

 それが気になってしまうものの、友達とやらが話し込んでいるのか、一向にこちらへ来る気配がない。ガラス越しで丸見えのふたりの表情がどことなく強張って見えたので、話を割ってまで呼びに行くのもしのびなく、ただ時間だけが過ぎていた。

 不意に友達女史の表情が、明るさを取り戻した。百花から視線を外し、店の前にある横断歩道に向かって大きく手を振り出した。どうやら待ち合わせた人が来たようだ。隣にいる百花も、さっきまでの明るい表情に戻った。

(え……?)

 横断歩道の信号が青に変わり、信号待ちの人々が一斉に渡って来る。その中に、ひときわ目立つ長身が混じっていた。それが迷うことなく望のいるコンビニの方に向かって走って来る。人ごみを掻き分けて息を切らす様は、望に去年の夏を思い出させた。

『よかった……』

 渋谷の駅で待ち合わせた去年の夏、あのとき芳音は「来てくれないかと思った」と言った。今、その言葉はなかったものの、彼のかたどった唇が「よかった」と心底ほっとしたように紡いでいた。その相手は、望ではなく百花の友達女史だった、というのがもうひとつの違うこと。

(誰?)

 芳音の前髪を馴れ馴れしく手ですきながら、笑って何かを言っている人。芳音に自分の目線まで自然に屈ませてしまうほど強気な態度の人。昨日喧嘩したばかりなのに――あんな優しい笑顔を芳音にさせてしまう人。

 よく見れば、芳音も昨日と同じようにスーツを着ていた。今日からは平服でいいはずなのに。名も知らぬ彼女が、芳音の束ねられた細い後ろ髪を引っ張って何かお説教のようなものをしている。芳音がその不躾な手首を軽く握って離さない。何か二、三の言葉を交わしたあと、彼は百花に会釈し、そして彼女の手首を掴んだまま、また青になった信号を渡っていった。

「あーんざいさんっ、どしたの?」

 その声ではっと我に返る。絶妙なタイミングだった。もう一瞬遅かったら、こちらを向き掛けていた百花とまともに目が合ってしまうところだった。

「あ、ううん。なんでもない」

「って顔じゃないよ。なんか、怖い」

 どうごまかそうかと思ったところへ、ようやく百花が合流した。

「お待たせ。ごめんね。相棒の連れが来るまで、って、つい話し込んじゃった」

 ほっとしたのも束の間、ひとりが百花に鋭い突っ込みを入れ出した。

「河野さん、今さっきの相棒さんって、堤先輩ですよね」

「あら、果穂のことを知ってるの」

「もちろんですよ。パティシエ専攻科へトップで進学した人でしょう? 私もパティシエ専攻科希望ですもん」

(堤果穂、パティシエ専攻科。同じ学校の人、なのか。でも、どうして知り合いなんだろう)

 そんなことを考えながらも、目と手は軽い夕飯にするコンビニ弁当を物色する振りに徹していた。

「っていうか、果穂さんの連れが気になったんだけど。去年までよく一緒に待ち合わせてた人と違うじゃない?」

 そう探りを入れているのは、百花と同じく停留した一年先輩だ。

「ああ、あれは三月から果穂のバイト先に入った後輩。っていうか、ペット」

「ペット? やだなんかそれ、ヤラシイ響き」

 さざめくような皆の笑いが、やたら耳障りにこびりつく。

「田舎から独りで出て来ていて、なんにも知らないからしつけてるんだと。あのふたりのやり取り見てると、どうしても調教前のレトリバーと女王なご主人サマって感じで見てて面白いのよね」

「彼氏じゃないんだ、ラッキー」

「芳音って、珍しい名前だから、総務課で生徒名簿を調べれば何科かわかるんじゃない?」

「来週の合コン、どうでもよくなって来たわね。あのイケメンくんの学科を調べて、伝手を探そうか」

「いいね!」

 仲間たちのそんな下世話な雑談をBGMに、望はひたすらコンビニ弁当の棚から少しでも食べられそうなものを探し続けた。

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