嫉妬 1
――きっとまた、いつものように、芳音の方から『ごめんなさい』という件名のメールが届くとばかり思っていた。
最悪な会食会のあと、望が敢えて両親のあとを追ったのは、持て余した自分の感情の捌け口として泰江に甘えるであろう穂高に対する嫌がらせのためだ。
「お母さん、私も一緒に帰る」
望は閉じ掛けたエレベーターに無理やり乗り込み、穂高を無視してふたりの間に割って入った。
「な、おま」
と頭上から聞こえた批難の声には、聞こえない振りで自己主張を貫いた。
「芳音くんをほったらかしてしまって、大丈夫なの?」
泰江はちらちらと穂高の顔色を窺いつつも望を優先し、彼女自身も気掛かりでいたのであろうことを尋ねて来た。
「貴美子さんがいるし、大丈夫でしょ。芳音だって子どもじゃないんだから」
そう答えた望の無理な作り笑顔も、そこまでが限界だった。
「子どもじゃない言うやつに限って、大概ガキやねんけどな」
挑発的な物言いに弾かれ、泰江に向けていた視線を上げた。父親とまともに目を合わせると、自分と同じ冷ややかな瞳が悪びれもなく見下ろしている。
「弁解くらい、聞いてやらんでもないが?」
小ばかにした上がり調子の語尾に苛ついた。
「早合点が過ぎるんじゃないかしら。芳音は“時期店主として”と言ったはずよ」
「では、“別の形で家族として”というのは?」
「保護の対象じゃないって意味よ! 親離れする前にお爺さまを亡くしたパパにはわかんないでしょう。ママの日記を読んで知ってるのよ、私。お爺さまが亡くなったとき、たくさんの人に散々迷惑を掛けたそうね」
「のんちゃん、言い過ぎ」
と泰江が、初めて穂高の肩を持った。それが余計に望をカッとさせた。
「そこまで言わないとわかんない人でしょう。この半年近く、なんのために私が妥協に妥協を重ねて来たと思ってるのよ」
生半可な気持ちで将来の夢に挑んでいるわけではない。それは芳音も同じだ。そんな類の文句を垂れた。
「それについては認めていると言っている。では、もし俺が愛美さんから事前に諸々を聞き出してあった、と言ったら?」
「マナママが言うはずないわ!」
しまった、と思ったときには、その言葉がすでに口から飛び出していた。苛立ちで熱を持った感覚が一気に冷めてゆく。その表情を読み取られまいと思わず俯いたが、多分それも手遅れだ。望は垂れた髪の奥で唇を噛んだ。
「せやな。こっちも彼女や赤木にはお前たちが信頼を置いていることも織り込み済みや。最初から彼らが口を割るとは思うてへんさかいに、訊いてはいない」
それでは完全に騙まし討ちだ。親なら子どもに何をしても許される、なんて理不尽だ。そんな想いが握り締めた拳に宿る。望はその言葉をそっくりそのまま叩き返すつもりで顔を上げた瞬間、息を呑んだ。
「俺の何が、お前にそんな顔をさせるんかな。わからん」
今にも泣きそうな微笑が、望から言葉を奪った。どこかで見覚えのあるその表情は、そう遠くない最近見た気がするのに、思い出せない。自分の記憶からそんな表情を探そうとする歯がゆさも、望を黙らせる原因になっていた。
そんなやり取りを交わすうちに、エレベーターが一階への到着を告げた。
「泰江、望を頼む。俺、仕事に戻るわ」
力なくそう零した穂高は、ふたりに背を向けて先にエレベーターを降りた。
「うん。連絡待ってるね」
「……」
望の思惑通りの展開になったはずなのに、まるで穂高が自らの意思で立ち去ったかのような形が気に食わない。望のその内心は、無言という形で表された。
帰路に向かうハイヤーの中で、泰江は一切口を開かなかった。もちろん無愛想だったわけではなく、望の問い掛けや語り掛けには答えていたが。
そして望の掛ける言葉と言えば、心の中の大半を占めていることとはまるで関係のない話ばかりだった。
「高校までのときと違って、今日のうちにケータイの連絡先を交換する仲間がふたりほど出来たわ」
「そっかあ。よかった。きっと今ののんちゃんは、前に比べて話し掛けやすい雰囲気が出来たから、かもね」
そう言って笑みを浮かべるのは、いつもと変わらない一連の流れだ。
(やっぱり……怒ってる?)
望がほっと出来るような、見ようによっては幼くさえ見せるまあるい笑みとは少し違う。いつもならば、きっと「そっかあ」ではなく「わあ、ホント?」と大はしゃぎしそうな内容なのに。
(パパにきつく当たったせい、かな)
そう思いついたのも束の間、望と穂高のいがみ合いなど、今に始まったことではない。これまでの生活が、それとは違う理由だと即時撤回を望に促した。
(じゃあ、何を怒ってるんだろう)
解らない怒りこそが一番怖い。泰江のそれは、滅多にない分、一度宿るとかなりあとに引く。責められるならばいっそ楽なのだが、彼女は自分を責め立てる。それが望にとって、最もキツい。
(八つ当たりをするお母さんじゃないし。私だけに怒っている、ということよね)
そこまでは察しがつくものの、理由に皆目見当がつかない。怯えながら考えているうちに、いつの間にかハイヤーの中が無線やラジオの音だけになっていた。
ふたりで最上階にある穂高名義の部屋の方へ戻る。
「お母さん、今日はありがとう。私がお茶を淹れるわ」
望は玄関の扉を開けるなりそう言って、逃げるようにキッチンへ向かい、ケトルをコンロに掛けた。
「ありがとう。お湯が沸いたら見ておくから、先に着替えて来ていいよ」
泰江はフレアスカートのスーツを着たままエプロンをつけ始めた望にそう言って自室へと促した。
彼女の進言に従い、先に着替えとメイク落としを軽く済ませる。部屋を出てリビングへ続く扉を開けると、すでにラズベリーの甘ったるい香りでいっぱいになっていた。
(えっと、ラズベリーの効能って、なんだっけ)
一秒も経たないうちに、苛々の解消が効能だと思い出した。その苛々を抱えているのが、泰江なのか自分なのか。そしてそれを定義づけているのが誰なのかさえも曖昧になっていた。
「ちょっと自分で淹れたくなっちゃった。キッチンを使わせてもらったよ」
扉の手前が入り口になっているキッチンの方からそんな声がした。泰江は相変わらず他人行儀なことを言う。
「私だけのキッチンじゃないんだし、お母さんが自由に使うのは構わないのよ」
と、望はリビングのソファへ促す泰江に苦笑を投げた。
ことりと目の前に置かれたカップを手に取りひと口すする。
「のんちゃん。隠すつもりでいたのなら、パパさんが“気色悪い”と言った段階で隠すべきだったね」
泰江はぽつりとそう零すと、自分もカップに口をつけた。
(あ……)
芳音だけでなく、自分の言動も穂高に確信させた。はたとそれに気づいて悔やんだところで、すでにこの手は芳音を引っ叩いている。
「隠したいような、疚しい気持ち、なのかな」
淡々とした声が、却って怖い。泰江は自分にではなく、望自身に答えろと告げている。激情を秘めたときの泰江が発する、過剰なまでに静かな声になっていた。
「ママさんは、すぐ隠してしまう自分の悪い癖をすごく後悔していたよ」
首を横に振ることすら出来ないでいた望に、容赦のない言葉の針がツキリと胸を突いた。
胸が痛んだのは、芳音に対する罪悪感からだけではない。望に遺された翠からのビデオメッセージには、天使の微笑しか映っていない。芳音が見せてくれた翠の日記からでは、記録として理屈でしか解らない。自分が翠と同じ過ちを繰り返そうとしていると警告されているのに、今一歩のところで心が理解出来ていない。望はそんな自分に対する歯がゆさが感じさせる痛みだと自己分析した。
「お母さん」
そして、やっぱり割り切れないものが、穂高に反発する望を形作る。
「どうしてママのことを好意的に話せるの? パパをお母さんから取ってしまった人なのに」
「パパさんとおんなじくらい、ママさんも私を必要としてくれたから、かな」
いつもと同じ問いには、相変わらずの答えしか返って来ない。そして今も望には理解しがたい泰江の答え。
「ママに関することなら」
例えそれがもし泰江と亀裂が入るような――翠とよく似た克美との過ちなども赦せてしまうのか、と言い切る前に言葉を呑み込んだ。それは、決して口にしてはならない、芳音と望だけの、いっそなかったことにしてしまいたいくらいの、秘密。
「なぁに?」
と振って来た泰江には、
「芳音はママも自分の子みたいに可愛がっていたから。ママに関することだから、お母さんは私と芳音とのことを許してくれてるの?」
という質問に置き換えてごまかした。
「ん~、私もね、実際のところ、ついさっきまでは保留って思ってたんだあ」
と漏らす泰江の声が、幾分か和らいだ。どうやら少しだけ、彼女の怒っていた原因に近づけたらしい。
「え、そうなの?」
「うん。でも今日の芳音くんを見たら、やっと安心した、かな」
そう言った泰江は、やっといつものようなまあるい笑みを浮かべてくれた。
「こんな大切なことを、ママさんに関するからとかそうじゃないとかで判断するわけないよう」
ゆるい笑いを交え、だけど真面目で率直な本音だと彼女の瞳が教えている。泰江だけが望に向けてくれる“親”の瞳。
「何がパパを憎ませるのか解らないなんて、親じゃないわよね」
ないまぜになった思いは、そんな憎まれ口に姿を変えて望の中から吐き出された。
「……芳音君のほうが、のんちゃんよりも大人になったね」
「え……?」
思わせぶりなひと言だけを耳に入れさせ、泰江はすました顔でラズベリーティーを口にした。「それは、パパが言っていたのと同じ意味?」と訊くのに、数秒ほどの時間を要した。
「ちょっと、違うかな。パパさんも、充分、子ども」
そう言ってくすくす笑っているだけで、なかなか答えを教えてはくれない。
「芳音と私、何が違うの? 私だって本気でパティシエを目指してるわ」
「そういう意味では、いいライバルだねえ。でもね、もっと本質的なところ、っていうのかな」
ヒントをあげる。泰江はそう言ってカップをテーブルに戻し、そして初めて望とまっすぐ向き合った。
「今の芳音くんはね、巣立ち間近の雛鳥と一緒なの」
「ひな、どり?」
「そう、くちばしがまだちょっとだけ黄色い雛鳥みたい」
そう言われても、どうもピンと来ない。もう随分長いこと、ゆっくりと辺りを見渡して過ごしてなどいないから。望が遠い記憶を手繰り寄せると、ふと藪診療所の軒下の光景が思い出された。
「ああ、思い出したわ。昔、藪先生のところの柱によじ登って見たことがあった気がする。ツバメの子たちって、すっごい大きな口を開けると、巣の中が黄色一色になったわよね」
「そうそう。賑やかだよねえ」
ふたりくつくつと笑いを噛み殺す。少しだけ和やかさを取り戻したころ、泰江が感慨深そうな声で、しみじみと言葉を繋いだ。
「ずっと巣の中で餌が運ばれて来るのを待っていた子が、巣立ちを前にすると、途端に羽をばたつかせるようになるんだよね」
それはツバメの雛たちの話だと思うのだが、別の誰かを例えているようにも聞こえる。
「飛ぼうと必死になって、ぶきっちょながらも翼を一生懸命動かしているの。がんばれえ、って、応援したくなっちゃう。一人前になろうとがんばっている姿って、カッコいいよね」
さすがにそこまで言われると、芳音“だけ”を比喩しているのだと判った。
「私だって、がんばっているつもりだけど。確かに学費をお願いしたけれど、ちゃんとお給料をもらったら返していくって約束もこぎつけたわ」
「そうだね」
「それに、芳音だって結局克美ママを説き伏せられなくて援助してもらった、って、お母さんも知ってるじゃない。何が私に足りないの?」
「なんだろうね?」
にこやかな笑みと対を成すように、望は眉間に深く皺を寄せた。合理的な望にとって、泰江がよく使うこの手の謎掛け問答は、大の苦手だ。それを解っていて彼女が言う場合、十中八九、彼女にその答えを教えてはもらえない。つまり自分で発見しなさい、という示唆である。
「今日は下で寝る?」
唸り始めた望への配慮か、泰江がそんな形で宿題の意向を示した。
多分、ランチでのことも慮っての誘いとは思ったが、ふと彼女が穂高に告げた「連絡を待っている」という言葉を思い出した。
「ううん、いい。上で寝るわ」
泰江を一日中子守で疲れさせるのは、大きな子どもひとりでも充分に申し訳ない気分になってしまう。せめて自分だけでも胸のうちのもやもやを自分で処理しようと思い、笑ってそう返事をした。
その晩は、早めに自分の部屋で落ち着くことにした。穂高対策だ。
「ま、無理やり会食の時間をねじ込んだ分、帰りは遅いんだろうけど」
それでも、もし万が一穂高が泰江のサロンに赴く気になった場合、必然的に自分も彼と顔を突き合せなくてはならないことになる。まだその状況を受け容れる気にはなれなかった。
「芳音にあって、私にはないもの……?」
何度も頭の中で繰り返す疑問が、ついには声となって寝室に零れ落ちる。今ひとつ思考する集中力に欠けるのは、携帯電話が着信を知らせるのを待っている自分がいるからだ。
「貴美子さんに掴まってるのかな」
いつもなら、すぐにでもメールが届くはずなのに。始めはその程度にしか思っていなかった。だが望はほどなく、このとき感じていた軽い寂しさが大きな不安に変わっていくことになる。心身の疲労と静寂の夜が、まだ近い未来を知らない望を深い眠りへと引き込んでゆく。望は淡い夢の中で、いつもどおりな芳音とのやり取りにほっと胸を撫で下ろしていた。