初喧嘩 2
果穂に連れて行かれた店は、今回もまた初めてのれんをくぐる店だ。毛筆体の『家庭料理 いろり』という店名が一枚板の杉材に彫り込まれ、艶やかな黒をまたたかせて存在をアピールしている。だが数奇屋風の外観や藍色ののれん、黒檀でしつらえた板壁の落ち着いた雰囲気が、少しだけ芳音に気後れを感じせた。
「いらっしゃい。お、果穂ちゃん、久しぶり」
果穂が先に格子の引き込み戸を開けると、店の中からそんな声が聞こえて来た。
「こんばんはー。今日はニューフェイスを紹介しに来たわよ」
「あれま。彼と喧嘩でもしたのかい?」
「ああ、あいつは今年から就職で実家に戻ったの。ごめんね、帰る前に連れて来れなくって」
「そいつぁ寂しくなるな。でも、また東京に出て来たときは顔を見せな、って伝えといてくれよ」
「うん」
そんなふたりの会話を邪魔しない程度に、一歩退いたところで待つ。
「立ち話もなんだ。入んな。後ろの兄さんも、いらっしゃい」
店主は常連の果穂に接するのと同じように、芳音にも屈託のない笑みを零した。それは決して見目麗しいものとは違うのだが、妙に芳音をどきりとさせた。一瞬詰まらせた挨拶の言葉を絞り出すのに、少しだけ苦心したのを示す間が空いた。
「……こんばんは」
「果穂ちゃんが連れて来るってことは、兄さんも勉強熱心な子と見た。だけどレシピは教えないぜ。自分の舌で当ててみな」
そう言ってまた笑う彼を見て、ようやくどきりとした理由が解った。
(あったかいや)
芳音は『Canon』の店番で客を待ったり、営業時間が来て克美が居室に戻るのを待ったりなど、迎える側の経験が多かった。数少ない“迎えられる側”にいたのは、反抗期だった一年と少し。学校をサボっては愛美の家に逃げ込んでいた中学のころ、彼女は克美に連絡を入れることなく芳音を家の中へ入れてくれた。この店の主が口にした「いらっしゃい」が、あのころの愛美が迎え入れてくれた「おかえり」とよく似ていることに気がついた。
「了解です。その代わり、当たりのときは細かいレシピを教えてくださいね」
と答える芳音の返事は、珍しく少しだけ甘えた声音になっていた。
「ここの肉じゃがと酢の物が絶品なの。芳音が未成年じゃなければ、日本酒もつけるんだけどねえ」
果穂はお姉さん然としてそう語り、店主にカウンター席ではなく座敷を希望した。
「家庭的であったかい雰囲気のお店だね。いい店を教えてくれてありがとうございます」
果穂に小声でそう伝えると、彼女は得意げに微笑んだ。
まずは一献、とおどけた口調で、果穂の手にした杯に熱燗を傾ける。アルコールがほどよく舌を滑らかにしたころ、果穂がおもむろに尋ねて来た。
「芳音さあ、学校で何か面白くないこととか、何かあった?」
「俺? 果穂さんに関係する話じゃなくて?」
「うん、そう。君」
「……」
日ごろカウンター席を陣取る彼女が座敷を選んだ段階で、何か言いたいことがあるのだろうとは思っていた。例えば、プライベートな相談や無理な頼みごとといったような、なんでも屋だったころによく請け負っていた類の話。まさか自分に振られるとは思ってもみなかったので、答えに詰まった。
返事に迷ったのは、彼女の発言に驚いたからというだけではなかった。
彼女は一度就職している。学費を貯めてから辻本へ入学したそうだ。つまり年齢で言えば、芳音よりも四つ年上になるらしい。そんな気負いのせいか、芳音に雑用を頼むことはあっても、こんな風に場を作ってなどというかしこまった形で何かを頼んで来たことはない。やっと少しは対等な仲間として認めてくれたのだと思っていたが。
(なんだ、勘違いか)
そんな一抹の寂しさが、芳音の言葉を一瞬だけ封じていた。
「なぁに? その面食らったような顔。当たりだった?」
少しだけとろんとした果穂の目つきは、見る人が見れば誤解される視線になっている。それでも芳音には、ほろ酔いの彼女でも、その中の大半を占める先輩としての心遣いだと解っていた。
「いや、はずれだけど、なんで?」
「んー、なんかここ半月ほど、元気ないなあ、って気がしたから」
「……」
巧く隠せているつもりでいただけに、また返す言葉を探さなくてはならなくなった。ジンジャーエールに浮かんだ氷が涼しげな音をからりと奏で、芳音の背中を押したのだが。
「まだ生活スタイルに体が慣れてないのかな。でも大丈夫。自覚ないし。ありがとね」
そう返しながら、にこりと笑う。両の口角を左右対称に上がるよう意識し、少しだけ目を細めれば、瞳の奥を覗かれる心配はない。
「……そ、ならいいけど」
芳音の得意な作り笑いが、そうだと覚られたのかは判らない。果穂はただそれだけを返すと、あとは特にその話題を振っては来なかった。
駅から『いろり』までの所要時間は、確か十分弱だったかと思う。果穂を終電に押し込むには、十二時二十分には店を出ないと間に合わない。そして壁に掛けられている時計は、十二時二十一分を示しているわけだが。
「ほらー、芳音、つき合いなさいよ。ホントは飲めるクチでしょー?」
と成人にあるまじき言葉を放つ果穂は、完全に目が据わっていた。彼女が熱燗を六合も空けるころには、いつものパターンになっていた。
(またうちに泊まる気かよ)
ほぼ確信に近い十数分後の自分を思い描き、心の中で肩を落として膝をつく。彼女はバイト先で初めて顔合わせをした日から、周囲が引いてしまうほど無防備な自分を芳音には晒すことが多いのだ。その信頼はありがたいものの、彼女の警戒心のなさは、ある一面に於いてどうしても芳音を複雑な心境に陥れる。
(まあ実際のところ、お互いさまではあるんだけどさ、もうちょっとこう)
芳音は彼女が自分のことを異性だと認識してもいいんじゃないか、と毎回思う。一度だけそう言って警告をしたら、百倍ほどの威力を持つ反論で大ダメージを受けた。
『なーにいっちょ前の台詞を吐きくさってんのよ。そっちもそんな気、ゼロでしょ』
『ツラさえよければ黙ってても女がホイホイ寄って来るとでも思ってんの? 顔しか取り柄のない、ヘタレで田舎くさい地味なジャリボーイのくせに』
『こっちにも選ぶ権利があるっつうの。女の嗅覚舐めんなよ。このドーテーが』
果穂曰く、何人かとそういう関係を持ってみればわかるもの、らしい。彼女にそう論破されてから、その手の話に話題が及ぶと逆らわないようにしている。
(あ……なんかまた胸が痛い……)
頭の中で果穂の言葉を復唱したせいで、泣きたくなって来た。
「親父さーん。お勘定お願いしますー」
確か果穂のおごりという条件でつき合ったはずなのに、気づけば芳音がもらったばかりの給料袋から紙幣を出していた。
芳音の借りているアパートは、“ダイニングを兼ねた広めのキッチン付の部屋”という条件を最優先にして選んだ、古い分家賃も格段に安い1LDKの物件だ。必然的にベッドは果穂に明け渡すことになる。
「ちょっとー。もう少しつき合いなさいよー」
芳音が自室のベッドから自分が寝ていた布団一式をダイニングへ持ち込むと、果穂がつまらなそうにそう言って駄々をこねた。
「彼氏さんから果穂さんちに電話があったらどうするの。早く寝て、朝一番で帰らないと」
そう説教をする一方で、予備の(というよりも、果穂のせいで買う破目になった)布団を取り出して彼女の寝場所を整える。
「ンにゃッ!」
芳音はダイニングのソファに寝そべっている果穂を容赦なくフローリングの床へ転がした。背もたれを倒せばソファベッドが芳音の寝床に早変わりする。芳音はそこへ自分の寝具一式を敷き、足許であひる座りをしたままうな垂れている果歩の前で膝を折った。
「果穂さん。その台詞は、直接彼氏さんに伝えたほうがいいと思うよ」
芳音がそう言って浮かべた今の笑みは、『いろり』で果穂をごまかすために浮かべた偽物のそれとは違った。ふたりの間を取るフローリングの小さな隙間は、数滴の雫で濡れていた。
「……ムリ。もう、今度こそ、本当にムリ」
小さくか細い声が、芳音の提案を否定した。
「だって、帰っちゃったもの。あいつは地元に帰る道を選んだもの」
初めての泣き言は、果穂の涙腺を決壊させた。数滴の雫はあっという間に涙溜りになった。
「遠恋だと壊れると思ってるの?」
芳音のその問いで、彼女はさらにうな垂れた。
「彼とはね、幼馴染で、おんなじ地元なの」
果穂は鼻を軽くすすってそれだけ言うと、とつとつと彼に対する私見を並べ立てた。
「ちっさな田舎町でね。あいつは弟の親友で、私しか見れなかったっていう環境に近かった。だけど大学に進学して、都会に出て来たわけじゃない? 私以外のいろんな人ともつき合い出したら、私っていう人間の小ささが解っちゃったんじゃないかな。きっと愛想が尽きたから、私から逃げるために実家へ帰る道を選んだんだと思う」
「どうして果穂さんはそう思うの?」
「だって、“長男だし、帰らなくちゃ”って言ってたもの。自然消滅を狙ってることくらい解るわ」
芳音は果穂のそんな憶測に首を傾げた。
「ねえ、彼氏さんの就職って今月決まったわけじゃないでしょ? 俺が果穂さんと知り合ってからまだひと月しか経ってないけどさ、先月まではすごく元気だった気がするんだけど。どうして急にそんなネガな発想が出て来たのかな」
そう尋ねながら立ち上がり、冷蔵庫の上からボックスティッシュを手に取る。冷蔵庫を開けてみれば、よく冷えたアイソトニックドリンクが一本だけまだ残っていた。
「あいつが地元に帰るって決めたときから、ずっと覚悟を決めてたわ。今に始まったことじゃないけれど、ちょっとずつ、メールや電話が減って」
と、堰を切ったように溢れ出す果穂の言葉に溺れそうな気分になりつつ、手にしたアイソトニックドリンクの五百ミリリットルボトルを手渡した。
「恥を忍んで弟にそれとなくメールしてみたわ。“そっちのみんな、またあいつをからかったりしないかな”って」
「また? からかう?」
彼女の膝の上にボックスティッシュを置く芳音の手が、ゴミ箱へ伸びる前に一瞬とまった。
「あいつ、中学のときはいじめられっこだったの。それがきっかけで弟と仲よくなって」
中学入学を機に果穂の彼氏が転校して来るまでは、果穂の弟がからかいのターゲットだったらしい。芳音は、彼女が先に「自分しか見えていなかった彼の環境」と言っていた意味をようやく理解した。同時に、かなり憶測が混じっているとは思うものの、彼女の恋人がなぜ故郷へ帰る決意をしたのかも理解出来た気がする。
「果穂さん、彼にこういう泣き言や甘える言葉とか、そういうのって伝えたことがないでしょう」
芳音に遠慮や恥らう素振りも見せずに思い切り鼻をかむ彼女へ、ゴミ箱と一緒にそんな質問を傾けた。
「言えるわけないでしょう。余計に追い詰めちゃうじゃないのよ」
(思ったとおりだ。なんか、似てるなあ)
そう思うと苦笑いが抑え切れなかった。
「何よ」
「あのさ」
自分のことを話すのは、苦手だ。そんな意識が芳音を口ごもらせる。
「俺さ、好きな子がいるんだけどね」
と言うよりも先に、顔が床とまともに対面した。
「……うん」
「その子がね、果穂さんのそういうところと、よく似てる」
腹立たしいくらい頼ってくれなくて、姉貴面をしてこちらを気後れさせる。そのくせ突然そんな強気な姿勢を崩したかと思うと、放っておけない気になってしまう表情を浮かべる。それを見ると、すごく胸が痛くなる。
「果穂さんも前に言ったけどさ、へたれ過ぎるから、甘えるには頼りなさ過ぎるのかな、って、自己嫌悪する」
それを象徴するかのように、いつの間にか芳音は果穂の前で正座をして話していた。あひる座りをしていた彼女の膝頭をなんとなく見つめたまま視線を上げられずにいると、不意にそれが視界から消え、彼女が立ち上がったことを芳音に知らせた。芳音の背後でグラスを取る小さな音を聞きながら、芳音は自分の思うところを彼女に告げた。
「だからさ、彼女が安心して思っていることを言えるような自分にならないと、っていうか。ならなくちゃ、って。逃げることからまずやめないとなー、って」
語りながら過去を振り返る今の自分が、過去の自分を笑う。道化に見えてしまうのだ。こんなにも非力なくせに守るつもりでいた自分が心底可笑しかった。
「彼氏さんは、そう思って帰る道を選んだんじゃないかな。少なくても俺は、そう思って色々足掻いてみたんだけど……俺は、結局それでしくじっちゃったみたいだから、彼氏さんにおんなじ思いはして欲しくない、かな」
へへ、と情けない笑いが芳音の口から零れ落ちた。ことりとフローリングへ直に置かれたグラスは、望が選んでくれたものだ。
「芳音も飲む?」
「うん」
少しだけ白く濁った半透明の液体が、ふたつのグラスの下半分へ沈んでゆく。
「芳音が最近元気なかったのも、失恋が原因?」
「うん」
互いに視線はグラスに向いていた。白く濁ったアイソトニックドリンクは、まるでお互いの白く濁った心の澱を揶揄しているように見えた。
「彼氏さんは、果穂さんに守られてたんでしょ? そこから卒業したつもりでいるだけかも知れないじゃん?」
ちゃんと彼と直接話したほうがいい。それを言い終えてから、さすがに差し出がましい物言いに気づき、口をつぐんだ。口にした言葉は、果穂の彼氏の代弁というよりも望に対する自分自身の願望に近い。芳音は居心地の悪さをごまかすように、目の前のグラスを手に取った。
「うん……そうだね。そうする」
今度は彼女から反論の声は出て来なかった。その代わり彼女から返って来た言葉は。
「芳音も、もしうちの彼氏と同じようなことしてるんだとしたら、自分から連絡を取ったほうがいいよ……安西望に」
「ぶフッ」
「ぎゃッ! きたなッ!!」
と、果穂が心底汚いモノを見る目で芳音を見つめる。彼女はびっくりするほどの身軽さで芳音との距離を充分に取り、見事に服の汚れを防いでいた。だが芳音には、そんな彼女のリアクションを責め立てる余裕など持ち合わせていなかった。
「なんでのんのこと、知ってるんだよッ」
ティッシュを何枚も取り出して床を拭く果穂を、今度は芳音が見下ろしていた。相手が先輩だということも忘れ、日ごろ以上に口汚い言葉が乱舞する。
「校舎違うじゃん! 専攻科と専科って接点はないはずだろう!? 俺、それ確認したはずだもん! なんで知ってんだよ!」
「だって、彼女の方から会いに来たんだもの」
「え……? なんで」
――守谷芳音の従姉の、安西望です。お世話になっていると今ごろ知って、ご挨拶が遅れましたけど。
「敵意剥き出しの目で“公私ともにくれぐれもよろしくお願いします”って言いに来たわよ」
「いと、こ」
芳音の口からそのひと言だけが漏れ、ぺたりと小さな音がする。芳音の目線がまた、床に座っている果穂と同じ高さに戻っていた。
「芳音、ごめんね。私が甘えていたせいで、彼女に誤解させちゃったみたい。ちゃんと謝って伝えなくちゃ、って思ってたんだけど、なかなか切り出せなくて」
果穂はそう言うと、びしょびしょに濡れてしまっているティッシュでもう一度床をひと拭いした。彼女はもう泣いていないのに、彼女が拭いた傍から、またぽたぽたと零れ落ちる雫がフローリングを濡らし始める。
「彼氏ってさあ、顔は芳音ほどイケてるわけじゃないけど、どっか君と雰囲気が似てるんだよね」
果穂は使い物にならなくなったティッシュをゴミ箱に放り込んだ。それと一緒に見えない何かも捨てているような表情を浮かべた。
「どこが?」
芳音はその問いを口にするや否や、派手に鼻水をすすった。その音が神妙な雰囲気を見事にぶち壊した。
「鼻かみなさいよ」
そう言って彼女がくすりと笑った。
「ご、めんなさい」
そう答えるものの、ボックスティッシュに手を伸ばせない。果穂がそうしたように、ぐちゃぐちゃとした気持ちをティッシュと一緒に捨てられる自信が持てなかった。
「どこが、って、何その質問。ホントはもう、解ってるんでしょ?」
そう言われると、ぐうの音も出ない。そして彼女はそれすらも解っているかのように、ボックスティッシュを突き出した。芳音はおずおずとながらも、やっとそれに手を伸ばし、多過ぎるというくらい何枚も抜き取った。それで目頭を思い切りこすり、落ちそうだったモノを片っ端から吸い取った。
「いくら似ていても、君はあいつじゃないんだよね」
すっかり酔いの醒めた声が、優しく鼓膜を揺する。
「いくら代わりを見つけて自分をごまかそうとしても、気持ちなんてそう簡単に変えられないね」
こめられた真意が、甘酸っぱく胸の内を撫でていった。
「お互いに、ちょっとだけ甘えてたね。逃げてちゃダメだよね」
視界の中から果穂の膝頭が見えなくなる。スカートの裾がふわりと上がるかすかな衣擦れの音と、そしてそれの作った小さな風を頭上に感じた。
「ありがとう。君の“のん”ちゃんにそう伝えておいて。もし彼女が来ていなかったら、きっと遅かれ早かれ、私は鈍感な芳音に業を煮やして、引き返せないところまで逃げて悔やんでいただろうから」
果穂のそんな言葉が頭上から降って来る。かさりとテーブルに紙の何かが置かれる音。玄関でコツリとパンプスのヒールが鳴った。
「今夜のおごり、テーブルの上に置いといたから。約束は果たしたわよ」
「って、どこ行くんですか」
「帰るわ。今から名駅に向かうつもり」
名駅、つまりここから三百キロは離れている名古屋駅へ、こんな夜中から向かうと言っているのだ。そんな彼女の突拍子もない答えが芳音の顔を上げさせた。
「だって、もう電車は」
「タクがあるでしょ。善は急げ、よ。朝一番であいつに電話して会って来る」
そう言った彼女は、晴れ晴れとした顔をしていた。芳音がそれをどんな顔と言葉で受けとめていいのか戸惑っているうちに、彼女はさっさと部屋を出て行ってしまった。
「……いっこしか、わかんないよ、果穂さん」
自分ひとりだけすっきりとしたあの顔は、芳音に対する説教と宿題だ。
“自分の言葉に責任を持て”
“君も逃げるな、ちゃんと相手に伝えろ”
そういう意味だと思う。けれど。
「それ以外は、果穂さんが何を言おうとしてたのか、さっぱりわかんないぞ」
広いダイニングキッチンに、ごん、と鈍い音が床を這って、消えた。
「鈍いって、どゆこと?」
果穂と対峙したときの望のように、自分も穂高の前では弟に徹しておくべきだった、大人みたいなずるい対応をしておけ、ということなのか。
「違うよな。だって果穂さんには、その話してないし」
お互いに甘えていた、と言っていた。それが彼女に鈍感と言わせたのだろうか。
「解ってたぞ、それくらい。自分だって、散々その場で甘えるなって説教してたじゃん」
果穂が自分で考案したレシピを掠め取るみたいに喰らいついて教えてもらった。接客でトラブルになりそうなとき、何度も助けてもらってもいた。それは確かに甘えていたという自覚は持っている。
こっちが自覚していないと勘違いして「鈍い」と言ったのだとしても、どうしてそこで望に「ありがとう」というところへ繋がるのかが。
「……わかんねえ……っ」
へたり込んだまま、頭を掻きむしる。胸のもやもやが益々酷くなっていく。
また同じ鈍い音が、キッチンに響いた。
結局、このあとひと月以上もの長い時間、芳音は望と和解出来ずじまいのまま過ごすことになった。