初喧嘩 1
春の雨が、容赦なく桜の花びらを散らしていた。去年とは打って変わって早く訪れた春が、あっという間に春爛漫の象徴を醜い姿に変えていく。舗装された歩道の上で通行人に踏み潰され、哀れさを増していく花びらたち。芳音はそんな路面を見て溜息をついた。
「今年はお花見し損ねちゃったな」
最後の客を見送ってから、レストラン名の書かれた電光プレートのプラグを抜く。アパートの近くで見つけたこのレストランでバイトを始めてから、間もなくひと月が経とうとしていた。
芳音が勤めるフレンチレストラン『ドゥ・ターブレ・ティエッド』は、人と人を縁で繋ぐ不思議な空間。誰かにそう話したことはないが、芳音の中では勝手にそんなイメージが出来上がっていた。
面接に赴いたときに初めて、この店のオーナーの娘が芳音や望の通う辻本調理師専門学校の卒業生だと知った。彼女はこの四月から本格的なフレンチを勉強するためフランスに行くとのことで、そのため店の手伝いが必要になったらしい。そこですぐに使える人材が雇えればと、学校の求職課に求人募集を出したそうだ。
それを聞いた芳音は、絶対に落とされると思った。料理のカテゴリを意識したことがないからだ。すでにカリキュラムを進めている先輩たちに空いた席を取られるのだろう。そんなネガティブな予想が脳裏をよぎった。
『で、君はこれから辻本に通うようだね。外の募集チラシを見てくれたとのことだけど、これも何かの縁だろう。フレンチの経験や理解などはどの程度あるのかな? もちろん、パーフェクトなんて望んじゃいないよ。ただ最低限のことは押さえていてくれると助かるんだが』
そう尋ねられたときのオーナーの声が、芳音を背水の陣に追い込んだ。言い換えれば、諦めたくない気にさせるオーナーの言葉だった。技術よりも熱意を計る声音に聞こえた。
『多分、何も解ってません。作ったこともないのかも知れません』
芳音は一縷の望みを賭けて、ありのままの自分を正直に伝えた。
『多分? かも知れない?』
『はい。創作ばかりだったので。でも、すぐ覚える自信はあります。作るのが好きだから』
日ごろの芳音であれば、恥ずかしくて言えないような言葉が次から次へと溢れ出た。
『どうしてもここで働きたいです。ここへ越して来てから、ずっと気になっていたお店なんです』
『ほう、なぜ?』
オーナーがひくりと片方の眉尻を上げ、興味深そうに先を促してくれる。それに甘えて、履歴書には記さなかった志望動機を口にした。
『商店街へ買い物に来るたびに、この店の前から漂って来る匂いに足をとめさせられてました。すごく、あったかい匂いなんです』
『あったかい? 美味そうな匂いだとはよく言ってもらえるがね』
オーナーはそう茶々を入れて、豪快に笑った。ひとしきり笑うと真顔に戻り、客として来店したことがないだろうという突っ込みを入れて来た。
『……学費と家賃で精一杯だから、外食する余裕がなくって』
自分でそう言って情けなくなった。赤貧学生にはかなり厳しいコースメニューの値段が書かれているボードを見るたび、悔しさを押し殺してこの店の前を通り過ぎてばかりいたことを語るうちに、いつの間にかきちんと上げていたはずの顔がうな垂れていた。
『募集の張り紙を見て、すぐに電話しました。この店の味を覚えたいんです。もっと勉強しないと、やっつけ仕事みたいになっちゃいそうで、お客に喜んでもらえるものが作れなくなっちゃいそうで怖いんです。教えてもらえるなら、ほかのこともなんでもします。だから、お願いします』
気づけば口が勝手に厚かましいことを口走っていた。どうしてもこの店の雰囲気や料理のあたたかさの理由を自分の中に取り入れたくて、勤めたいと強く思った。だが、言いたいだけ言い切ると同時に我に返り、我欲が羞恥と入れ替わった。
『――って、ご、ごめんなさい。すみません。なんか、すごく勝手な、えっと、変なこと言いました。本当に、すみません』
驚いた表情を引っ込めて苦笑するオーナー父娘を見たら、そんな言葉しか思いつけなかった。
(終わった……サイアクだ)
泣きたい心境が、芳音に引き攣った笑みをかたどらせた。
『今どき珍しくハングリーな子だね。ただしうちも慈善事業じゃないから、条件をつけさせてもらうよ』
オーナーは芳音の提出した履歴書に再び目を通しながら、ひととおりの条件を口にした。
この店が居住地の最寄駅であり、通学途中経路にも当たるので、交通費支給の雇用条件は却下。
同じ理由により、勤務時間を閉店まで延長。ホールと掛け持ちをすること。
時給を五十円減額。ただし休日に厨房の利用を許可する。オーナーの指導付。
レシピの守秘義務必須。違反したら即時解雇。その際退職手当等をは認めない。その旨を明記した正式文書を交わすこと。
『君の熱意に賭けてみようじゃあないか。条件は少し厳しくなるけれど、それでもやってみる気はあるかい?』
オーナーが粋な打診とともにいたずらな笑みを零し、芳音に確かめるような物言いで念を押した。解っているのに問い質すそれはきっと、自問を促す年長者の懐深さだと思う。人好さげな彼の人となりは、芳音に北木を思い出させた。
『はい! ありがとうございます』
芳音は深々と頭を下げ、即答した。初めて人の下につく不安も、彼の人柄を知って少しだけ和らいだ。続けていけるという自信が日が経つに連れ増していった。
オーナーの娘が旅立つまでの間に、学校のカリキュラムに対する私見や内容などを根掘り葉掘りと聞いてしまった。
『そんなに焦らなくても大丈夫よ。知識よりも、まずは心。それは芳音くんもご実家のお店で学んで来たことだったんじゃないの?』
彼女にそう苦笑されたことで、初めて自分が焦っているのを自覚した。
『それは……でも、俺は本当に基本を知らないから』
彼女やオーナーの「基本を学ぶことで初めてアレンジが可能になる」という持論を聞いて以来、芳音は自分の無知に危機感を持っていた。オーナーの娘が本場での修業を決めた理由もそこに端を発している。実家での待機期間のうちに対応しておけばよかった、と今になって嘆いたところで後の祭りだった。
そんな焦りと慌しさで心身ともに落ち着かないさなかに穂高と再会した。今思い返せば、一部だけなら望の怒った理由も理解出来る気がする。
『芳音のバカっ。まだ独り立ちも出来ていないのに、どうしてもっと巧く立ち回らなかったのよ!』
あの日、貴美子と三人だけになった部屋で、望は芳音にそう怒鳴り散らしたかと思うと、いきなり平手打ちをお見舞いして来た。
『痛ッて。なんでぶつんだよ! なし崩しに姉弟にされちゃってもいいのかよ』
ぶたれたことに、ひどく理不尽を感じた。穂高がいなくなった気のゆるみからか、それまで固く閉じていたはずの感情のふたが弾け飛んだ。
『それとも、もう約束なんかどうでもよくなっちゃった、とか?』
意地悪を通り越した皮肉る言葉に加え、ない交ぜの感情が芳音の口角をいびつに上がらせた。そんな自分に気づいたのは、芳音が皮肉を口にした途端に眉尻を下げた望から、一切の表情が抜けたのを目にした瞬間だった。自分の失言に気づいても、もう遅かった。
『……だからバカだって言ってるのよ。なんでもバカ正直に話せばいいってものじゃないのに』
そう零して笑う望の顔が、昨年の今ごろにも浮かべていた上っ面だけの笑みをかたどった。
『芳音、知ってる? 人って、自分の中に概念のないものは思いつきもしないものなんですって』
――本当に約束がどうでもよくなっちゃったのは、どっちなのかしらね。
『……どういう意味だよ』
望は芳音の問いに答えなかった。
『貴美子さん、私も帰るわ』
彼女はそれだけ言うとバッグを手に取り、両親を追い掛けるように扉の向こうへ消えた。出て行く望と入れ替わる形で、ギャルソンが五人分のデザートをカートに載せて入室した。
『オーナー、安西さまは』
と、戸惑いを隠せないギャルソンに、貴美子は苦笑混じりで二人分だけテーブルへ置くよう伝えた。
『貴美子さん、俺が悪いのかな』
再び二人きりになった広い部屋に、芳音の自信なさげな声がやけに響いた。
『いい悪いの話とは違うんじゃないの? 望にしてみたら、複雑な心境でしょうね』
そして、初めて知らされた。穂高と望の間に亀裂が入った本当の理由。
『五年前に望が被害を受けた事件、穂高は泰江にも隠して自分ひとりで処理したわ。アタシが知ったのは、全部終わってから。望も穂高のやらかしたことを薄々勘付いているんじゃないかと思うわ』
望を襲った少年が、父親の一家心中に巻き込まれて死んだことは望から聞いて知っていた。だが、そこまで彼の父親を追い詰めたのが穂高だということは知らなかった。
『興信所を使って……って、それじゃあ、やってることが辰巳と似たようなもんじゃん』
彼が辰巳を毛嫌いしているのは知っている。その理由が、何かにつけて命を軽んじる傾向や、手段を選ばない非倫理観にあることも。漠然とではあるが、まだ守谷家と交流があったころに穂高が芳音に語る言葉の端々からそんな印象を受けていた。
『穂高にしてみれば、守り切れなかった罪悪感の裏返しだったんでしょ。それ以来、穂高は望に不利だと判断したことに対して容赦のない対応をするようになったわ。去年の北城の件もそのひとつね』
貴美子もそれについては苦々しい思いでいるのだろう。煙草をねじる乱暴な仕草が芳音にそう思わせた。
『望は、穂高に先回りされてあんたも潰されるんじゃないかって、あれでも心配をしてるのよ』
貴美子はそう締めくくると、デザートに手をつけた。同じものが配膳されている手許に視線を落とす。白い皿に装われていたデザートは、芳音が唯一作る意味で苦手としているレアチーズケーキだった。白いチーズケーキに彩られたベリーソースは、果実そのものの色を活かしたくすみのある赤で純白を汚していた。
『芳音。今のあんたにしちゃ、上出来だったわよ。相手が穂高じゃなければ望だって両手離しで喜べたんでしょうけどね』
貴美子のそんな慰めを、苦手なレアチーズケーキを食べながら聞いた。とてもクリーミィで上品な味なのに、芳音にはどうしても美味いとは思えなかった。
『でも、のんを泣かせた』
泣けない望は、心を捨てることでそれを芳音に知らしめる。あの無表情が彼女の自分に対する失望を告げていた。そう思うと、貴美子へのお門違いな八つ当たりまで浮かんで来た。
『もっと早く教えてくれたらよかったのに』
自分たちが失くした十二年間に起きたこと。そう愚痴を零すと、貴美子は大きな溜息をついて背もたれに寄り掛かった。
『アタシがもし望の立場だったら、あんたにだけは知られたくないと思うから言わなかった。あんたにとっても、決して面白い話ではないし』
貴美子はそう言って、望の代弁なのか彼女自身の憶測なのか芳音には判断に迷う言葉を連ねた。
『目撃されてしまったのは自業自得、しょうがない。あんたにしか甘えられなかったから、全部吐き出してしまった。乗り越えなくちゃ前に進めない。でも前を見ることが出来ても、ふと立ちどまって悔やんでしまう。やっぱり言わなければよかった。自分は芳音みたいに綺麗じゃない。本当は同情されてるだけかも知れない……そんなところじゃないかしらね、あの子の中のとっ散らかった言動の理由は』
貴美子はデザートに舌鼓を打ちながら、わずかばかりの朗報も知らせた。
『穂高のことは、泰江に任せておけば心配ないわよ。伊達に十二年もあんたや克美に内緒であんたたちを見守って来たわけじゃないから。いい加減なことさえしてなければ邪魔なんてしないから、大丈夫』
『のんの邪魔も、しないかな』
おずおずと訊けば、心底呆れた顔をされ、そのあと大爆笑された。
『ないない。邪魔する気なら、最初から学費なんて出してないわよ。それより自分の心配でもしたら?』
どういう意味かと尋ねたら、「喧嘩と仲直りの経験も人生勉強だ、そっちをがんばれ」と返され、笑われた。
それ以降、望と連絡を取るきっかけが掴めないまま過ごしている。慌しい毎日の中で時間を作れなかった、というのは、きっと自分自身への言い訳だろう。そう思うとまた溜息が零れる。
「……のん、まだ怒ってるかな」
芳音は誰に聞こえることもない不安を呟いた。すっかり葉桜になった公園の桜を見上げ、かれこれ二週間も連絡を取っていない望に思いを馳せた。
芳音が外回りの戸締りを終えて店内に戻ると、今日は閉店後のまかないがない。オーナーは着替えを済ませ、帰る準備を終えていた。
「はい。芳音くんにとっては初めての給料だね。仕事始めだった今月は少ないけれど。果穂くんが芳音くんに奢るそうなので、今日はまかないナシにしておいたよ」
オーナーはそう言ってくすりと笑い、客席の一番奥を顎でしゃくった。芳音がそちらへ視線を流すと、芳音よりも一年だけバイト歴の長い先輩が帰り支度を済ませて客席のソファで待っていた。
「明日はガッコも休みだし、いいでしょ?」
果穂は芳音に有無を言わせない顔でそう言った。時計を見れば夜の十時半を回っている。どう頑張っても午前様は免れない。
だが、彼女はバイトだけでなく、学校でも芳音の先輩に当たる。望と同じパティシエ専科から専攻科へと進んだ一年上の生徒で、芳音がこの店に入るまではホールメインで働いていたらしい。つまり、芳音という後釜のお陰でようやく厨房に専念出来るようになったというわけだ。
「ゴチ、プラス情報付。つき合う価値があると思うわよ?」
と言いながら意味ありげな微笑を返されると、芳音の目が自然と剣呑に細まった。ここ数日の空き時間や駅までの帰り道で、彼女が今年から就職した彼氏と過ごす時間が減ったとぼやいていたことを思い出した。
(また愚痴につき合わされるのかな)
とは思えど、まだあらゆる面で新参の立場でしかない芳音に断る権利などあるはずがない。
「……はい」
やむを得ずイエスを告げると、果穂は急かすように芳音の腕を取って更衣室へ押し込んだ。「ありがとう」と言わないことだけが、芳音のささやかな抵抗の意思表示だった。