高く、厚い壁 4
ずっと昔の遠い記憶。保育園の卒園式に起こったハプニング。
式次の始まる直前になってにわかに園の外が騒がしくなり、ホールで席に着いていた保護者や園児たちまでざわつき始めた。芳音の耳がホールの外から轟いて来た怒鳴り声をキャッチした。
『なんでお前までいるんだよッ!』
という怒声の主が克美だということは、その場にいた中で芳音だけがすぐに判った。
がなる克美と一緒にホールへ入って来た人物を見て、芳音だけでなく壇上の司会者も言葉を失った。場内がさらにざわめき出した。腕を引いてとめる克美を無視してホールに入って来た人物は、芳音とよく似た面差しを持つ、やたら背の高い目立つ男性だった。
『だって、卒園なんて一度きりしかないやんか。望も春休みやし、俺も丁度スケジュールが空いたさかいに、ほんならすぐ行こか、って』
悪びれもなく克美へそう返す彼の傍らには、その妻と一人娘もいた。だが周囲はそれに見向きもしなかった。
『う……そ。あれって渡部薬品の社長じゃない?』
背の高い芳音は、園児席の最後部席に着いていた。そのすぐ後ろの列に腰掛けていた誰かの保護者が、隣に座る別の誰かにそんな耳打ちをしたのが耳に入った。
『え? あ、やだ本当に? 生で初めて見た』
声を掛けられた保護者の方も、カメラの向きを我が子から後ろへ変えて隠し撮りをし始めた。まだ穂高自らが渡部薬品のPR目的でバラエティ番組などの出演依頼にも答え、世間に顔が知られていたころのことだ。
『おい、泣き虫。やっぱお前って愛人の子どもだったんだな。来てるじゃん、お父さんって顔してさ』
当時ひどく芳音をからかうので仲の悪かった圭吾が、小声で芳音にそう言った。さらに肘で小突いてまで来たが、いつもなら目に涙を浮かべて反論するところを、そのときは簡単に無視出来た。望が来た、という嬉しさが勝っていたこともある。だが、それと同じくらい嬉しかったのは、退場を求めた園長に返した穂高の言葉だった。
『お騒がせしてすみません。外の騒ぎは秘書がすぐ収めますので。書類上の手続きはまだですが、芳音は自分の息子みたいなものです。これ以上のご迷惑は掛けませんので、証書の授与だけでも見させてもらえませんか』
子ども心に穂高の多忙ぶりを嫌というほど知っていた。当たり前のように「息子」と口にして、貴重なオフタイムを自分のために使ってくれた。それが当時の芳音には、穂高からの目に見えないプレゼントだと思えていたのだ。
「少なくても、俺はお前が生まれたときから、お前の父親という意識で接して来たつもりでいる」
物心ついたときから、芳音が穂高に泣き言を言うたびにそう言って話を聞いてくれた。そのときと同じ言葉が十二年ぶりに紡がれる。あのころはあんなにも心強くてほっと出来る言葉だったのに。今の芳音には、ずしりとした重み以外の何かをその言葉から感じることが出来なかった。
「克美にずっと突っぱねられていた、というのは俺の弁解になるんやろうと思う。結局俺は、お前が一番しんどかった中学時代に、何ひとつしてやることが出来ひんかった。せやけど、今はもうあのころと違う。とっくに母親よりも本人の意思が尊重される年齢になっている。克美にとっても悪い話ではないと思う。あとはお前の返答次第や」
晴れ晴れしい、という形容詞が似合う微笑を湛え、穂高は芳音から目を逸らさずにそう言った。暗に答えを求められ、芳音は蛇に睨まれた蛙のように固まった。
「パパ、私はそんな話を一度も聞いてないわ。また勝手に独りで決めたのね」
隣から不意に発せられた声が、芳音の硬直と緊張を無理やり解いた。思わずまともに隣を見れば、自分の父親を睨みつける望のきつい眼差しが目に入った。だがその奥で不安とも恐怖ともつかない彼女の本音が、わずかながらも揺らいでいた。そこから泰江へ視線を泳がせると、彼女は穂高とは別の意味合いで、芳音を冷ややかな目で観察していた。
「望、人の話を早合点して噛みつくな。命令しているわけと違う。だからこうして芳音に尋ねている」
不審を表すように目を細め、穂高が不思議そうに望へ視線を移しながらテーブルに肘をつく。
「意外やな。望は聞くまでもなく賛成するとばかり思うとったんやけど」
隣から小さく息を呑む音がしたのは気のせいだろうか。芳音は別のことを見定める思考を巡らせる一方で、ふとそんなことを考えた。
「だ、だいたい、どうして今になってそんなこと。あと数年で社会人よ。自分で生活していけるのに。それに克美ママがいるんだから、何もパパがしゃしゃり出る必要なんてないじゃない」
「お前も今日の芳音を見て解ったやろう。こいつは自分の店から出たことがない。お前よりもはるかに経験がないのは明らかや。学校で勉強をしながらバイトで身銭を稼ぐ中で、どうやってこれまで養って来れなかった経験値を巻き返せると思うてる。世の中はそんなに甘くは出来てへん」
「それは、そうだけど、でも」
「芳音の腕前は知らんが、お前が見込んだのであれば無駄な投資にはならんのやろう。本人はもとより、克美にもそんな余力はない。他人ではいちいち面倒がついて回る。その点、親の肩書きがあれば支援の自由が利く。ついでに付け加えておくとすれば、望と同様、芳音に対しても渡部をどうこうしろという考えは毛頭ない。ほかに反対する理由があるなら言うてみいさ」
父と娘のそんなやり取りを耳にしながら、芳音は泰江が宿す無色透明な瞳の意味を考えた。彼女の視線をまともに受け、それから目を逸らさないままで考える。不意に泰江の細い目がさらに細まり、そして唇が少し困ったように笑む、ゆるい弧を描いた。
(ああ、そっか。そういうことか)
彼女の黙している理由がなんとなく解った。同時に貴美子が泰江と同じ対応をしている意味もあらかた理解した。だだ貴美子と違うのは、泰江の場合あくまでも望“だけ”を主軸に考えた上で芳音を見定めているところだ。芳音は彼女が望“だけ”の母親なのだと改めて認識させられた。そんな泰江に苦笑を返し、望へと視線を移す。
「のん、いいよ」
まだ何か言いたげに身を乗り出した望の腕をそっと掴んで引き戻した。
「自分の考えくらい、もう自分でちゃんと伝えられる。だから、大丈夫」
少し無理のある笑みをかたどり、望にそう言ってその場を退くよう願い出た。そう出来たのは、自分以上に目を吊り上げて感情的になっている望を見て、逆に落ち着いてしまったからかも知れない。
「でも」
尚も食い下がる望は芳音まで睨みつけて来た。
「いつまでものんに庇われてたら、情けないじゃん?」
そう言ってテーブルの下で、彼女の手をぐっと握りしめた。すると彼女は視線を逸らし、きゅっと固く唇を噛んだ。繋いだ手は誰にも知られないままそっと解かれ、望は背もたれに身を預け、そして芳音は姿勢を正した。面した大人三人は、ふたりの交わしていた小声のやり取りを無言で見守っていた。
「気遣ってくれて、ありがとうございます」
はっきりとした声で、屈辱を堪えて礼を述べる。口先だけの謝辞は、穂高の眉尻を一度だけ不快げに引き攣らせた。
「克美は翠ママの心友で、俺がその息子だから、そう考えてくれたんだと思うし、それに感謝もしてるけど……親戚でもないし、そこまでしてもらう関係じゃないと思います。うちの親が翠ママにして来たことを考えれば、そんな厚かましい気持ちにもなれないし。だから、支援は要りません」
一気に告げた芳音の声が、無意識のうちに挑発的な物言いになっていた。
「翠の心友の息子だからとか、翠が可愛がっていたからだとか、そういう理屈は一切抜きで打診したつもりだが。俺の何がお前の誤解を招いた?」
そう問い質す穂高の声も、そして口調もがらりと変わった。無難な回答で切り出したつもりでいる芳音としては、穂高の不興は意表を突いた。喉が意思を無視して、こくりと小さな悲鳴を上げる。膝の上で握った拳がにわかに震え出した。
「誤解してるのは、俺じゃなくて……あなたです」
無理やり言葉をひねり出した。一歩も引くことは出来ないから。芳音はこれまでのように、「ホタ」と呼べなかった。そうさせない重い空気が穂高の周りに漂っていた。
「俺が? 何を?」
「俺は、あんたの息子じゃない」
「随分と喧嘩ごしだな。それで?」
ついていた肘を引かれ、反射的に芳音の上体が反り返る。
(な、ぐられるかと、思った)
煙草に手を伸ばす穂高の手許へ視線を落とした芳音は、なぜそう思ったのか自分でもわからない歯がゆさで顔をしかめた。
「それで、って」
「お前の口調が汚くなるときは、腹ン中に何か溜め込んでいるときだ。昔と変わりなければ、の話だが」
ぐ、と息を呑む。穂高が意図的に、そして露骨にいちいち癇に障る言い方をしているのが解った。穂高に見透かされている口惜しさが、芳音の眉尻を上がらせた。
「ガキのころのまんまじゃないです。けれど、養子縁組のこととは別のお願いをしたいとは、確かに考えてました」
指摘された短所を改め、敬語に言葉を直す。
「あなたは『Canon』のことを、克美や俺の鳥かごだ、って言いました。でも、辰巳はそんなつもりで『Canon』を遺したわけじゃなかったし、俺も辰巳の遺したものだから跡を継ぐと決めたわけでもありません」
怯んでいた弱々しい声が、次第に滑舌のよいはっきりとした口調になってゆく。膝に置いたままだった震える両手には、いつの間にか力が入っていた。
「今の自分は、確かにまだ未熟で無知で何も知らなくて、力不足だと思います。だけど、お客が待っててくれてるんです。だから、お願いです」
――のんを、『Canon』にください。
「え……」
視界の隅に、目を見開く望の気配を感じた。
「……“カノン”とは、どっちの“カノン”だ」
真正面で表情の抜けた穂高が手にした煙草から、燃え尽きた灰が音もなく落ちた。
「お、言った」
貴美子が心から楽しそうに意地悪な笑みを零した。
「……」
泰江だけが、穂高とは違う内心を抱えた目をして無言で芳音を見つめていた。
「次期店主としてお願いしています。渡部薬品やクガフーズみたいな、でかいことをしたいわけじゃない。自分がお客のことを思って作ったもので、美味いものが食えて幸せだな、って笑ってもらえる、そんな店を作りたいんです。作り手が笑ってなければ、お客に笑って美味しく食べてはもらえない。俺が幸せだなって思ってなければ、それはそのまま作る料理に出ちゃうと思うから」
口から滑り出した言葉は、衝動に任せて吐き出したものではなかった。
思っていることすべてを吐き出した途端、直接穂高と会ってから自分の中で燻っていた恐怖が格段に軽くなった。何が怖かったのかを自覚した。だから敢えて口にしようと決めてここへ来た。
「俺とのんは、姉弟じゃありません。そういう意味で家族だと思ったことなんかなかった、ってことに気がつきました。別の形でホタに家族として認めて欲しいと思ってるから。だから……のんとおんなじ夢を追う俺を、今は息子として見ないでください。お願いします」
IFに怯えて過ごすよりも、恐怖の原因と対峙してしまえば、こんなにも楽なのだ。それを初めて実感したように思う。悟りに近いそんな感覚が、芳音を今までにないほど饒舌にさせた。
「……今日初めて、名を呼んだな」
穂高はそう口にした瞬間、ひどく顔をゆがめて眉をひそめた。たったそれだけの所作が、一度はなりをひそめた恐怖心を呼び戻す。それほど、芳音の腹を底冷えさせる穂高の視線だった。人ではなくモノを見るような冷たい視線が、望と芳音を見比べ何度かさまよう。それが芳音に据えられたかと思うと、針のように刺さった。
「だが、ひどく違和感を覚える。初めてお前が他人に見えた」
穂高はそう吐き捨てると、既に火の消えている煙草を灰皿へ乱暴にねじ込んだ。それを見た芳音は、自分が灰皿にねじ伏せられているような錯覚に陥った。
「望を更生させた報酬としては、随分と法外な内訳だな。勘違いだろうと自分に言い聞かせて来た俺は、いささか道化が過ぎたようだ」
床を這うような低い声が、椅子を引いて立ち上がる音に被さった。
「パパさん?」
「穂高、デザートがまだよ」
大人たちが席を外そうとする穂高に、遠慮がちながらも引きとめる言葉を口にする。だが今の穂高には、それを聞き入れる昔のような柔らかさがなかった。
「貴美子さんはごゆっくり。望を頼みます。泰江、帰るぞ」
「何よ。芳音から逃げるの?」
貴美子のそんな挑発も、今の穂高には通用しなかった。
「飯がまずくなる相手と席を一緒にするのは仕事のときだけ、と決めてますから」
真っ赤な唇から漏れる深い溜息。戸惑いつつも立ち上がる正面からの気配。芳音はそれらをただ黙って見送る気などなかった。勢いよく立ち上がって振り返る。すでに芳音の横も通り過ぎ、部屋から出て行こうとする穂高の背中に宣戦布告を叩きつけた。
「絶対、ホタに認めさせてやるから」
ためらうことなく穂高に近づいてゆく。
「『Canon』は鳥かごじゃないし、あんたは俺の親父じゃないってこと。それに……俺は、辰巳のクローンじゃない。のんに嘘はつかない。鳥かごになんか閉じ込めない」
長身がゆるりと振り返り、。嫌悪に満ちた目で芳音を見下ろした。
「姉弟のように育って来て、よくそういう気になれるものだな」
――気色悪い。
「!」
覚悟はしていたはずなのに、改めて口にされると返す言葉を失った。だが、背後から聞こえた椅子の倒れるけたたましい音が、芳音に理性を取り戻させた。
「そんな言い方ってないわ。みんなが勝手に姉弟みたいって思い込んでいただけじゃない」
望がそう叫びながら、芳音と穂高の間に割って入った。望の長い髪をまとめていたシュシュが、彼女の勢いづいた動きで弾け飛ぶ。ふわりと広がった栗色の長い髪と庇うように両手を広げた彼女の後ろ姿が、芳音に理性を取り戻させた。
「のん」
呼びかけて後ろへ退くようそっと促してみれば、栗色の髪がゆっくりと揺らめき、今にも泣きそうな顔が芳音を見つめ返す。それに一瞬だけ笑みを投げ、穂高へ視線を戻した。
「ホタ。そう呼ばれて違和感を覚えたなら、他人だと認められたってことだろう? ありがとうございます」
挑発的な笑みと嫌味な謝辞でエンドマークをつける。返すつもりで封筒に入れてあったクレジットカードをスーツの内ポケットから取り出し、穂高に突き返した。
「これ、返します。さっきのお願いとこれを返すのが、今日ここへ来た目的だったから」
うっとうしそうな顔でまんじりと芳音の差し出した封筒を見下ろす穂高に、もう一度だけ念を押す。
「俺がホタから欲しいのは、ひとつだけ。ちゃんと偏見抜きで見て、それから判断してください。力で無理やり俺たちを押さえつけないでください」
精一杯の虚勢を張って、それでもどうにか告げ終える。至近距離で立てば、わずかばかりとはいえ、今でもまだ穂高は見上げてしまう位置にある。
「……ふん」
高く、厚い壁が、不遜な笑みを零した。
「お手並みを拝見させてもらおうか。根を上げたくなったら、いつでも泣きを入れに来ればいい。赦してやる程度の寛容は持ち合わせているぞ」
穂高はそう言って封筒を受け取りもせず、再び芳音に背を向けた。
「ちょ、パパ、待ってよ」
「のん、用件は済んだから、もういいよ」
芳音はそんな望を制し、泰江を促して部屋から立ち去る穂高の背中を見送った。