高く、厚い壁 3
穂高に座るよう促され、芳音は椅子を引いてくれた支配人に礼を述べつつ恐る恐る腰掛けた。
「恐縮です」
と支配人が苦笑する。彼の苦笑でまた気づかされる。自分がマナー知らずの失態を繰り返し、そしてリアクションされるまで気づかない情けなさを思うと、消え入りたいほど頬が熱くなった。こんな厚遇は初めての体験で、芳音はいちいち戸惑った。
(いちいちお礼なんか言わなくていいのよ。そういう場所なんだから、ここは)
隣から小さな声でそう忠告され、芳音は反射的に声の方へ顔を向けた。目にした望の横顔は、底冷えを感じさせるほど無表情だった。
一年前の、望と再会した当初を思い出す。あのときも望の目尻は、今と同じようにきつく尖っていた。一年前のときは口許だけで笑んでいたが、今はそんな余裕さえなさそうだ。
そんな彼女が見つめる先には、穂高と泰江が腰掛けている。支配人がグラスにワインを注ぐ傍らで、軽く談笑をする大人三人のゆるい微笑。彼らと対を成す強張った望の表情が、まだ穂高の本題を彼女も聞いていないと知らせていた。
(ごめん)
それは作法知らずに対する詫びなのか、昨夜のメールのやり取り以降、結局連絡を取れなかったことに対するものなのか。自分でも解らないまま、そう返していた。
支配人に注がれたワインがみっつ、ふたりに向かって掲げられる。
「芳音、望」
「入学おめでとうさん」
「のんちゃんは二年、芳音くんは三年、頑張ってね」
芳音と望も、薄桃色の発砲飲料が注がれたグラスをおずおずと持ち上げた。
「ありがとう」
「ございます」
ふたり揃って手にしたグラスを大人たちに向かって掲げると、いつつのグラスがチンと小さな音を奏でた。
「それ、まだ開発途中の試作品なの。お味はどうかしら」
と貴美子に勧められたノンアルコールの発砲飲料は、スパークリングワインを模したものらしい。
「うま」
舌に転がし飲み込んだ直後、芳音の口からそんな感想が漏れた。ほとんど普通のスパークリングワインと変わらない。というよりも、そもそも『Canon』で扱っているワインとは品質が違うのだろう。ノンアルコールにも関わらず、店にあったどのワインよりもワイン独特の芳香に似たあの香りが活きている。舌で転がしたときには、ほどよい炭酸の刺激とかすかな甘みが溶け合って、格段の逸品だった。
「これでまだ試作段階なんだ。商品としてのクオリティ充分じゃん」
芳音はその瞬間だけ、わずらわしい諸々を忘れられた。思ったままをそのままに、砕けた口調で貴美子に感嘆の言葉を並べ立てていた。
「味そのものは芳音から見ても及第点なのね、よかった。三ヶ月前にブルゴーニュの農園と契約をしたの。今はそこで、この味を維持した状態でどこまで機械化出来るか試験中。これが商品化出来るかどうかは、その結果次第ってところなのよね」
貴美子が少し不服げに、このスパークリングワインもどきの解説をした。
「機械化? ってことは、これ、全部手作業で作ったモノってこと?」
芳音が驚いてそう問い返せば、望がそれに続く形で、
「機械化の研究は、人件費のコストダウンを計るためってところかしら」
と関心を示す言葉を投げた。
「それと大量生産化ね。まだ向こうは手摘み足揉み、なんてところが意外とざらなのよ。アルコール類ならともかく、ノンアルコールでは価格設定になかなか厳しい制限があるでしょう」
そんな話の流れから、今の食品や飲食店関係の市場についての話や、渡部薬品とクガフーズの共同研究開発のひとつ、サプリメント開発についてにまで及ぶ話が交わされた。芳音はその話を聞く一方で、『Canon』に思いを馳せていた。
『Canon』はこの不況のさなか、未だに常連客の善意に頼っている。貴美子や穂高が提唱するような、自分からお客のニーズを先取りする意識もなく、リサーチして求められる前にお客へ提供するという器用さや機転も持ち合わせていなかった。また、自分とは無縁と思っていた株や為替の動向からも、市場の変化を読んで早めの対策を講じる必要性も話題に出た。それは芳音にとって初めて意識した着眼点だ。滞りなく安定した経営を続けるためには、調達先を複数確保しておくことも必要だと感じさせる話だった。
作ることばかりに目を奪われて、そういったマネジメントにはまるで無関心だった自分に初めて気づかされた。
(克美も……解って、ないんだろうな)
だから昼夜問わずに店を開けているのだろう。情に流されて、懇意にしている農園や卸問屋からばかり材料を調達している。その面々は克美が幼いころから辰巳を介して知り合った人たちだ。つまり、彼らにもそろそろ引退時期が差し迫っているということ。
今ごろになって店を克美に丸投げしたことが悔やまれる。だが不安を感じたところですでに後の祭りだ。
(いやでも、うん。うちの場合はこれでいいんだ。だって)
今のやり方であれば、克美が独りで過ごす時間が少なくて済む。周りの人も安心するし、克美自身も寂しさを紛らせる利点以上に、自分に何かあったときに独りではない、という安心感で却って安定が保てる。
(……辰巳なら、どうしてたかな)
もしも辰巳が今も変わらず克美の傍にいるとしたら、今の状況をどう改善するだろう。それとも改善の必要を感じないだろうか。
ぼんやりと浮かぶのは、親父のくせに少年みたいなはにかんだ笑みを零す、極上の微笑。
――じゃ、よろしくっ。
(よろしく、じゃねえよ。答えろっつうの)
頼りない母親を思うたびに、いつもそこへ帰結する。そしていつも絶対に、答えは返って来ないのだ。芳音の中にいる辰巳は、ただ曖昧に笑みを浮かべては、あとを残った人たちになすりつけて消えてしまう。何ひとつ教えてはくれないのだ。客の皆が懐かしむレアチーズケーキのレシピひとつさえ、適当なことを書かれていたらしく、芳音は未だに同じものが作れない。
芳音は自分の思考に流されているうちに、いつしか会話から外れて独り黙り込んでいた。
「芳音」
不意に呼ばれて思わず顔を上げた。
「あ……はい」
芳音を呼んだ声は、倉庫で映像を介して耳にして来た辰巳の声とよく似ていた。自分の浸っていた内面世界と現実がごちゃ混ぜになり、初めて辰巳が返事をしてくれたのかと一瞬勘違いさえしてしまった。だが、反射的に顔を上げて呼んだ主を見とめると、心臓が破裂しそうなほどの悲鳴を上げた。
「今、店のことを考えとったやろう」
声の主が眉根に深い皺を寄せ、口をへの字に曲げたまま芳音にそう尋ねた。いつの間にか芳音の隣にはギャルソンが立ち、空になったオードブルの皿とメインディッシュの皿を取り替えている。考えごとをしている間にも、オードブルのマリネを食べていたらしい。芳音は牛ほほの赤ワイン煮が装われた皿を見つめながら、そんなどうでもいいことを考えた。よそごとを思い浮かべることで、穂高の視線から逃げていた。マリネの味も食感もまったく覚えていない。しくじったという後悔の言葉を思い浮かべるが、それさえ阻むように本能的な恐怖感が肌を通して訴える。目を逸らしても刺して来る穂高の視線と圧迫感が、芳音をそんな心境にさせていた。
「あ……と」
顔をどうにか上げるが、平常心を探し求めて視線がさまよう。穂高はそんな芳音からようやく目を逸らし、赤ワイン煮に手をつけながら愚痴を零した。
「昔のお前は、なんでもはっきりとモノを言えるヤツやってんけどな。悪い意味で克美と似たな」
決して下品にがっついているわけではないのに、赤ワイン煮の肉を口の中で噛み砕く穂高の表情に妙な戦慄を覚えた。例えるならそれは、空腹のときしか獲物を襲わないライオンというよりも、備蓄のために空腹時以外にも獲物を狩る狡猾な虎、とでも言えばいいのだろうか。
「いつまでも辰巳の影を追い続けているガキに、ガキを育てられるわけがない」
視線は皿に据えられたまま、穂高は肉を刻みながら尚も苦言を吐き続けた。見るからに柔らかそうな上質の肉が、淡々と彼の口へ運ばれてゆく。せっかくの料理なのに。命の享受とも呼べるものを、なんの感謝もなく胃へ流し込むその所作に、言いようのない憤りを覚えた。
(もったいない食い方すんなよ)
芳音はそんな形で怒りを正当化した。そうすることで克美に対する口汚い暴言への憤りを無理やり抑えつけた。
「パパ、人の悪口が会食のテーマだなんて、こっちまで気が滅入るわ。せめて食事くらいゆっくり味わって食べたらどう?」
隣の席から尖った声で助け舟が出された。同時にかちゃりと小さな音がする。盗み見るように望を見れば、カトラリーを手放し両手を膝の上に置いていた。その手許をそっと見下ろせば、芳音の贈ったリングが右手の薬指に収まったままでいる。彼女の左手の指が、そっとそれに触れた。まるで芳音を慰めるように、何度もリングを指先で撫でていた。芳音の右手も、そっとスラックスのポケットに伸びる。彼女の撫でるそれと同じものが、その中でこの会食が終わるのを待っている。
(落ち着け、俺。用件を思い出せ)
芳音は自分にそう言い聞かせ、ポケットの中にあるリングを握りしめた。再び手を開き、もう一度リングに留守番をさせる。小さな溜息が勝手に零れ落ちた。
「別に急いてはおらんねんけど。まあ、確かに面白くもない話題だったな。堪忍」
穂高は視線を望に移すと、芳音が呆れるくらい表情をゆるめて苦笑いを浮かべた。
「このところは愛嬌が出て来とったのに、今日のうちのお嬢さんは、えらくご機嫌が斜めやな」
何事もなかったかのよう穂高は望に話を振り、そして彼の両脇を固める女性陣は、不自然なほど無言を保っていた。
「当然でしょう。お母さんにも貴美子さんにも口どめさせて、私だけこの席のことをなんにも知らされてなくて。もし昨夜私が予定をお母さんに尋ねなかったら、今ごろ私、誘ってくれた子とランチに向かっているところだったわ」
望はナイフとフォークを再び手にすると、そう吐き捨てながら仇のように肉を細かく刻んだ。
「なんや、今の子は親に金だけ出させて自分らは自由を謳歌、ってか」
「パパが子離れ出来ていなさ過ぎなのよ。だいたい今日の入学式だって、保護者が来ていたのは遠くから出て来た人だけよ」
「え、そうなの? やだ、私、のんちゃんに恥ずかしい思いをさせちゃったかなあ」
緩和剤のように、泰江がのんびりとした声でふたりの会話に加わった。
「え、あ、やだ、お母さん。お母さんはいいのよ。ほとんど来ていたのがお母さんだったでしょ。お母さんがとめてくれなかったら、パパも来るつもりでいたじゃない。普段は仕事ばっかりのくせに、こんなときばっかり、って言いたいのっ」
「お前、人の悪口は飯がまずくなる言うてなかったか?」
「わ、悪口じゃないわ。事実よ」
そんな親子の会話をBGMに、芳音は黙々と食事を口に運ぶ。
(なんだかんだ言ってても、巧くやってるじゃん)
そんな安堵が、少しだけ芳音の緊張をほぐしてくれた。
「恥ずかしかったのは望よりも芳音の方だったみたいよ」
不機嫌全開のアルトがそう言い、向かいの席からそちらを見なくてもそうと判る痛い視線が芳音をぎくりとさせた。
「還暦近いババアが派手なカッコして来るな、って」
「そ、そこまで言ってない!」
貴美子の誇大発言に慌てて、思わず顔を上げた。必然的に、視界の隅には穂高の姿が映される。
「……」
彼の視線でまた言葉を失う。
(やっぱ、気のせいじゃない、と思う)
何かを探るような観察の瞳は、ほかの面子を見るときと違う。今の穂高が芳音を見る目は、サンパギータとセッションをするオーディション最終選考のバンドに向けていた“品定め”の視線に近いものがあった。
この店に来てからずっと引っ掛かっていた穂高の言葉が燻りを再燃させる。
『ようやく克美抜きでお前と話せる』
思い出した途端、芳音の喉がこくりと小さく上下に波打った。
メインディッシュの皿が下げられ、デザートが運ばれるのを待つ。まだ大人たちのワインボトルや芳音たちに贈られたノンアルコールのスパークリングワインが残っている。それを味わいながらの待ち時間こそが、穂高の待ち望んでいた時間らしい。
「芳音」
彼は食後の一本に火をともしながら、改めて芳音の名を呼んだ。その響きには、ようやく砕けて来た和やかな雰囲気を変えるのに充分な威圧を伴っていた。
「はい」
と答える声が小さくなる。テーブルの下では膝の上で握り拳が握られていた。決して視線を合わせない穂高の本題が、まだ判らなかった。
右手をそっと隣へ伸ばす。誰にも見えない位置から、望の細い小指を探す。
彼女からの伸ばされた手に芳音のそれがそっと触れた。手探りで彼女の小指に自分の小指を絡ませれば、答えるように細い指が芳音の小指に力なく絡みつく。
約束、そのつもりで絡ませた小指に力をこめた。改めて望と話す機会はなかったけれど、同じ気持ちだろうと思っていた。
(ホタに、認めさせてやる)
望とのこと。そして、もう十二年前のような子どもではないということ。望と一緒に同じ夢を叶えるために、『Canon』の次期店主としても、彼女が欲しいこと。それらを伝えるつもりでここへ来た。少しだけ克美に借りを作ってしまったけれど。まだ完ぺきなまでの自信はないけれど。
言葉として思い描けば、自然と表情が引きしまる。望に絡めた指をほどき、膝の上で再び拳を作って穂高の言葉を神妙な面持ちで待ち構えた。
「今日無理を言うたのは、ほかでもない。まずはお前と望には、詫びておかなあかん、と思うてな」
意外な言葉に目を丸くした。隣で息を呑む気配がした。
「詫び? ですか」
「せや。不本意とは言え、十二年もお前をほったらかしに近い形にしてしもうた。姉弟のように育って来たのに、こっちの都合でお前たちを引き離した」
そんな切り出しでとつとつと語られたのは、この十二年の間にあった、芳音が知らなかったこと。
「克美のアレは無免許の藪先生の診断やさかい、表向きは健常者の立場のままや。当時は法的な意味合いで、望しか引き取ることが出来なかった」
穂高はそう言いながら、ワイングラスに残る最後のひと口を飲み干した。
「一番しんどかったのは、お前が中学のときや。ただでさえ男親が必要な時期や性別やったのに、肝心なときに何も出来ひんかった。克美と巧いこといってないと知ったときは、お前を連れ帰るつもりで藪先生のところへ赴いてな。克美のメンタルを考えろと藪先生にどやされた挙句、結局追い返されてしもうた」
穂高は自嘲気味にそう言って、溜息をついた。
「藪じい、何も言ってなかったから。知りませんでした」
そう合いの手を入れる声は、自分で思っていたよりも冷静に発せられた。いちいち驚いて動揺している場合ではないと自身に言い聞かせた。
「心配してくれていたことには感謝します。それに、謝ることじゃあないと思います」
それは自分の事情を無視した客観的な意見でもあり、芳音の率直な感想でもあった。
「俺、人並みに反抗期があってよかったと思ってます。あれを機会に、辰巳がどうして消えたのか知ることが出来たし。克美も俺に全部話せたことで、それを事実として受け容れられたからいい方へ向かい始めたんだろうし」
「それに、北木さんがおるしな」
穂高がそう合いの手を入れたとき、一瞬だけ目を細めた。それはまるで芳音の反応を見るかのような意図が感じられた。
「……ですね」
彼が自分に何を言わせたいのか、まだ解らない。そんな状況下では、無難にそう告げるしか思いつけなかった。
「赤木から克美の経過を聞いている。随分と以前の克美に戻って来ているみたいやな。独りで長い時間を過ごすことも出来るようになったとか」
穂高は残り短くなった煙草を揉み消しながら、芳音自身に事実確認をさせる口振りで克美の状況を口にした。
「はい。そのお陰で俺も自分の将来を決めることが出来たし」
「それは、本当にお前の決めたことか?」
「え……?」
穂高の問いが芳音の心臓に強い刺激を与えた。どくんと大きく波打った瞬間、突然息が詰まった。
「俺には『Canon』が、克美やお前の鳥かごに見える」
呟きに近い低い声が、穂高の口から絞り出された。
鳥かご。それは克美にとっての、『Canon』。克美を辰巳に縛りつけるもの。拘らせるもの。穂高とそんな話をしたこともないのに、そのキーワードが芳音の中に燻り続けるモノと隙間なくピタリと合致した。それが芳音から言葉を奪った。
「前々から散々克美には断られて来たことやけど」
気丈な声に戻った穂高の視線がゆるりと芳音に定められてゆく。
「ひとつだけ、気掛かりがあった。お互いに不本意とはいえ十二年のブランクがあったさかいに、望と巧くやっていけるかな、と」
そのフレーズが、一番容態の悪かったときの克美がよく口にしていた寝言を芳音に思い出させた。
『芳音は、辰巳とボクの子だ』
『穂高の息子じゃない』
当然のことを何度も口にする克美がどんな夢を見ているのか、幼いころには思い巡らせる余裕もなかった。
「せやけど見た感じ、さほど問題はなさそうやな」
ゆるりと口角の上がっていく穂高の表情が、芳音には悪意の塊に見えた。
(しまった……先手をつかれた)
腹の底が一気に冷えていく。額に嫌な汗がじとりと滲み始める。
「芳音、成人してからでは何かとややこしい。今のうちにお前と養子縁組の手続きを済ませておきたい」
芳音の予測を言葉に置き換えた穂高の声が、耳障りなほど室内に響いた。