高く、厚い壁 1
芳音は克美と大喧嘩した末、愛美の助言も手伝い、自分の稼いだ金で進学することの了承に成功した。だが、別の意味で大失敗をやらかした。
「で、芳音。あなた、アパートの契約費用や引越し費用、向こうでバイトを見つけるまでの生活費も考えて貯金が出来てるの?」
愛美のそれに、絶句した。
「あ、四月分の生活費……」
「だと思った。ひと月飲まず食わずっていうわけにはいかないわよ? 学校までの交通費だって必要でしょうし。どうするの?」
「だよね……。ど、どうしよう……」
そんな芳音の蒼ざめた顔を見て、克美の瞳が飼い主の弱味を見つけた仔犬のようにキラキラとした輝きを放った。またたく仔犬もどきのきらめきは、それを視界の隅に捉えた芳音がより落ち込むのに充分な破壊力を持っていた。
「ばーっかでぇ、やっぱどっか抜けてんじゃんっ。な? そう意固地にならないで、少しは素直に子どもらしく甘えろってばっ」
そう言って寂しい胸をドンと叩き、ゲラゲラと笑う頼りない母親。そこから一歩先を考えず、今と過去しか見えていない。それが芳音の目に映る克美の姿だ。そんな彼女の将来を踏み台にして自分の夢を歩むようで、本当はその申し出を断りたかった。だが、取り返しのつかない時期まで既に過ぎている。そんな現実の前では、折れるよりほかに選択肢がない。
「……ごめんなさい、お借りします」
芳音は悔しさを苦笑で隠して深々と頭を下げた。
克美が泰江にコンタクトを取ってくれたと知らされたのが二月の初めだった。
「部屋探しで何度も上京するのは大変だろうから、任せてくれるなら予算と希望の間取りを連絡してくれって。急がないと時期的に空き物件が少なくなってるらしいよ。泰江とのんが下見に行ってくれるらしいんだけど。お願いしておく?」
彼女が「のん」と名を口にした瞬間、少しだけ寂しげに眉根を寄せた。
「のんの話が、出たんだ」
「うん、電話にも出てくれたよ。十二年ぶりにのんの声を聴いた。夏にこっちへ来てたんだって」
それを聞いた瞬間、腹の底がひんやりとした。そう遠くない昔に克美の見せた消えそうな微笑が、今のそれと重なった。役目は終わったとばかりに消えてしまうのではないか、というばかげた妄想が脳裏を過ぎった。“辰巳に連れて逝かれる”と、なぜか思った。
「あのさ、克美」
夏に望に会わせられなかったことを詫びるつもりで口を開いた。
「芳音にも伝えてくれって。“会いに行けなくてすみませんでした”って、謝られちった」
望の機転に内心で舌を巻いた。その時の泰江がどんな反応だったのかも、少しだけ気になった。
「……そっか」
「うん。敬語使われちゃった。のんもすっかり大人になったんだよなあ、って、思った」
「……そか」
「お前、バンドのラストライブとか卒業関係とか、結構過密スケジュールになってるだろ? 泰江とのんに部屋の方、任せておくぞ?」
「……そだな。うん」
「あと、貴美子さんから店に電話があってさ。バイト先、なんだったら貴美子さんところのレストランで厨房をやらないか、って」
「……そ、か」
「お前、さっきからそればっかじゃん。ちゃんと聞いてるのか?」
そんな言葉と同時に、克美の手にしたマドラーが芳音の鼻先をつついた。
「うぉ。聞いてる、ちゃんと聞いてるよ」
克美の空元気が芳音の罪悪感を刺激した。なかなか抜けない考え方の癖が、芳音に思ってもいないことを口にさせた。
「やっぱさ、入学式の日、店を閉めて東京に来る? のんと会えるよ、きっと」
克美が再三それを言ったときには、「絶対来るな」と駄々をこねた。だが、自分が克美にそんな顔をさせていると思うと、そう言わずにはいられなくなった。彼女は一瞬だけ嬉しそうに目を見開いたのだが、
「ううん。きっと離れたらここが気になっちゃうんだろうから、やっぱり上京するのはやめとくよ」
とだけ言って、洗い物をする手許に視線を戻した。どんな表情でそう言ったのかは、芳音の視点からでは解らなかった。
もし克美まで上京するともなれば、多分避けては通れない気がする。
(ホタもきっと、都合をつけて入学式に来るんだろうな……)
まだ、穂高と克美を会わせたくない、と思った。克美の中から辰巳が消えないうちは、辰巳とよく似た穂高に会わせたくない。まだ心のどこかで、穂高を赦せないでいる自分がいた。
四月、専門学校入学式。芳音は憂鬱な思いでその日を迎えることになった。決して欠かすことのない朝食も、さすがに今日はトースト一枚を喉の奥へ押し込むのがやっとだった。
(ここまで順調にことが運べて来てるんだから、それでいいじゃん)
芳音はこの半年を振り返り、無理やり自分へそう言い聞かせた。
(進学も出来たし。なんでも屋のことがばれないまま、高校も卒業出来たんだし。思っていたほど『Canon』のお客に引き止められずに済んだから早めにこっちに出て来て落ち着けたんだし。万事オッケー、それでいいじゃん)
それは店やお客の要望を理由に、克美が引越しの手伝いを諦めてくれたお陰でもあるけれど。
(貴美子さんにも借りを作らなくて済んだんだし、それで……いいじゃん)
早めに上京出来たお陰で、バイト先も三月の間に見つけることが出来た。厨房を希望した芳音に対し、フレンチレストランを経営する店主は、ホールと兼務という条件をつけて来た。その条件を呑むしかなかった。身内の世話になるよりは、まだ妥協出来る部分だと自分に言い聞かせた。
「順調なはずだよな……はっ」
洗面台に据えつけられた小さな鏡が映し出す自分を見て鼻で哂う。今まで一度も着たことのないスーツは、芳音に過剰な緊張を押しつけた。克美が辰巳の持っていたものを何着が引っ張り出してくれたのだが、ほとんどがホストご用達かと呆れるほどの極彩色なカジュアルスーツだった。軽いめまいに絶句したあと、丁重に辞退した。堅苦しいのは、新品だから、という理由だけではない気がする。一八七センチと言えば長身に間違いない。それにも関わらず、芳音の目には、どうしても中身である自分がかすみ、服が歩いているようにしか見えなかった。
すべて自力で出来たわけではない。望のように、いずれ借りを返してみせると割り切ろうと言い聞かせても来たが、結局それも心が受け容れてくれなかった。望と違って自分の場合は、存在そのものが自分を取り囲む人々の我慢や譲歩の上に成り立っている。
「やっぱ、無理。のんと同じように受けとめろって言われても、無理だよ」
芳音はいつの間にか鏡の中の自分に向かい、ネガティブな弁解を零していた。
つい先日ネット配信されていた“沖縄チャリティー公開オーディション”の映像が芳音の脳裏を過ぎった。それはほんの一瞬映っただけのものだった。審査員席でヘッドホンに手を添え、肘をついて聴き入る審査員の中のひとり。音楽業界という水の性質上、ラフなスタイルの審査員が多い中、ただひとりスーツ姿で席についていた人物。資料とステージを見比べながら、耳を澄ませてサンパギータとセッションするユニットを見据えていた“選ぶ側”の視線。スーツに着られるのではなく着こなしていた彼の雰囲気が、妙に芳音の劣等感を刺激した。
冷静に考えてみれば、当然のことだった。泰江が芳音の上京に関する支援を実行に移せるのも、望が荷解きの手伝いをしに芳音のアパートまで出て来れたのも。
「ホタの手の上で踊らされてるのも解らないで、自分でここまで歩いて来たって勘違いをしてただけの話じゃん。バッカみてえ」
数日前に仕事の都合で入学式に来れないらしい穂高から、メッセージカードと芳音名義のクレジットカードが現金書留で届けられた。
『卒業入学祝い、プラス、夏に望が世話になった礼と、克美からの卒業も兼ねて。諸々おめでとうさん。何かと当分の間は物入りかと思うので、馬宮にカードの手配を頼んでおいた。これがいつ手許に届くか今のところ解らないが、役に立てばこちらとしても幸いだ。成長した芳音に会える日を楽しみにしている』
入学式終了後に貴美子の経営するフレンチレストランへ招待されていた。泰江を介して伝えられたそれを断る権利が芳音にはなかった。
退屈な入学式の中、そっと携帯電話に収められている望とのやり取りを読み返す。
『泰江ママから、明日の入学式が終わったあと、ホタと貴美子さんがお祝いをしたいそうだからってランチに招待されたんだけど。それ、のんはいつ聞いた?』
『明日?! 聞いてないわ。ちょっと下へ行って来る』
『返信遅れてごめんなさい。仕事で帰れないって言ってたくせに、お母さんのところへ行ったらパパがいた。で、パパまで上に来ちゃった、ヤブヘビ状態な私。ムカツキ! パパに余計な詮索されたくないから、トイレにこもって返信中。私が逃げ出さないようにギリギリまで内緒にしてたみたい。パパがお母さんに口止めしていたそうよ。何を企んでるのかわからなかった。バイトとかなんとか口実作って、ドタンキャンしちゃえばいいのよ。無理してつき合う必要なんかないわ。明日、会場で会えるといいんだけど。解ったことがあればまた連絡入れます。着信がパパにバレると何かとうっとうしいから電源切るわ』
そのあとは連絡が入っていない。百人単位で集まっている会場の中から、ほかの専攻科の一生徒を見つけるのは不可能だった。
(どうすっかな……)
穂高にクレジットカードを突き返したい気もする。彼と顔を合わせたくないとも思う。だがそれ以上に芳音が気に病んだのは、昔は望とどういう関わり方をしていたのか、気の持ち方を完全に忘れている今の自分が、大人たちの目にどう映るか、ということだった。
(絶対、バレそうな気がする)
突っ込みどころがあり過ぎる未完全な今の自分では、絶対に誰も受け容れないと思った。携帯電話を握りしめる手が小さく震える。力の入り過ぎた親指が、携帯電話の電源をオフにした。
式次がひと通り終わり、学科ごとに指定されたミーティングルームへ足を向ける。教材を受け取るためだ。幸か不幸か長身が存在を目立たせ、思ったより早めに教材を受け取れた。ついでに芳音をポール代わりにして早めに教材を入手出来た同じ学科の数人と少しばかりの会話を交わすことも出来た。
「へえ、守谷くんは家の跡を継ぐんだ。就職難とは縁遠そうだね」
「うーん……その代わり、ヘタしたら廃業で失業、とか、すげえ高リスクでもあるけど」
「ああ、それ解る。家の親父も、今でこそ雇われ職人だけど、回転寿司が流行る前までは自営の寿司屋だったんだ」
「君塚くんちも苦労してるんだね」
「親父がなー。だからすっげえこっちの進路も反対された」
「守谷くんも君塚くんも、なんか志が高いっつうか。僕、単純に美味いもの食うのが好きで、自分で作れるようになったらいいだろうな、とか。やばい気がして来た」
「やばくない、やばくない」
「初っ端は誰だって、そこから始まるんじゃない? 美味いもんにこだわりがなかったら、お客に喜んで食ってもらえるものが何か解らないじゃん」
「そうそう。佐藤くんのそれは考え過ぎだよ。あ、このあとふたりとも予定がある? なんだったらこのまま飯食いに行かないか?」
渡りに船のこの申し出に乗ろうと芳音が口を開いたその瞬間、はるか前方に見えた人物の存在そのものに、開いた口を塞がれた。
「守谷くん?」
隣を歩いていた君塚という新たな級友が、芳音を怪訝そうに見上げて問い掛けた。
「うわ。誰の保護者なんだろう。守谷くんとは別の意味で目立ってるな」
佐藤と名乗った小太りなクラスメートが、芳音と同じ方へ視線を向けて溜息を漏らした。
白やベージュなどの淡い色を基調としたエレガントなスーツやワンピースに身を包む保護者たちの中で、ただ独り浮きまくっているその人物は、深紅のビジネススーツに身を包み、保護者というよりも水商売の女性が同伴相手を探しているように見えた。ゆるい春風が彼女の明るい茶髪をなびかせ、その髪の長さがより存在感を際立たせている。水商売に見えるのは派手な濃いメイクのせいだけではなく、十メートル近いこの距離でも目視出来る大柄な刺繍入りのストッキングを恥ずかしげもなく履いているせいもあると確信出来た。
(……あり得ないし)
彼女の横を通り過ぎる生徒やその保護者が、ちらりと批難の目を向けていく。彼女は相変わらずそういった視線を意に介する様子も見せず、“誰か”を探すように視線をあちこちへ飛ばしていた。その視線から逃れるべく、芳音はくるりと踵を返して元来た道を戻り始めた。
「守谷くん? 何、忘れ物?」
そう尋ねる友人たちに、曖昧な微笑を投げて同伴を願い出た。
「校舎案内のリーフレット、もらい損ねちゃった。つき合ってもらってもいいかな」
もちろんそれは口からの出任せだ。だがその数秒後、芳音は自分の悪あがきが無駄な抵抗だったと思い知らされる。
「やっと見つけた。で、芳音、あんたどこへ行く気よ」
背後からそんな声と同時に、ぐいと腕を掴まれた。
「げ」
「え?」
「うそ」
「守谷くんの……お母さん、ですか?」
その問いが彼女の癇に障ったらしい。芳音が恐る恐る振り返ると、せっかく出来た友人たちを絶句させるほどの睨みを利かせて唇だけで微笑む熟女がいた。
「あら、もう友達が出来たの? 君たち、今度アタシを“お母さん”なんて言ったらグーで殴るから、名前で呼ぶようにね」
派手でケバい熟女な目立つ女性は、芳音の友人たちに「姉代わりの久我貴美子」と名乗った。