Clone 3
芳音は『Canon』を出てから、下りではなく上り階段の方へ足を向けた。またお客と鉢合わせて逆戻りさせられるのを避けようと考えた。
一階上のフロアに並ぶ、幾つか家で借りている倉庫の扉の中から、迷わず最奥を目指す。出入り口に飾っている造花の高鉢を持ち上げ、水受け皿に隠してある鍵を手にして開錠する。
「盗まれて困るもんは確かにないけどさ」
見つかったら困るものが山積みのこの倉庫の鍵を、こんな無用心な保管の仕方にしていていいのだろうか。
克美のやることなすことが、芳音には今ひとつ解らない。数少ない思い出の宝庫のはずなのに、骨董価値がありそうなものも幾つか納まっているのに。
「自分じゃ捨てられないから、誰かになんとかして、ってか?」
芳音の愚痴に近い問い掛けに、錆びた扉がギィと答えた。
扉のすぐ脇にあるスイッチを入れると、昭和の臭いを感じさせる裸電球が庫内を照らす。窓ひとつない密閉空間。スチール棚が埋め尽くす狭い空間。この部屋へ自由に出入りすることを許された中三の時から、ここが芳音の隠れ家になっていた。
真正面の突き当たり手前に置かれた机へと歩を進める。いつものようにパソコンの電源を入れ、棚に山と積まれた品を物色しながらパソコンの起動を待つ。
「……」
芳音が棚から床へ下ろしたのは『mie』と記された段ボール箱だった。
翠。望の実の母親で、望と一緒に生まれ育った芳音にとっても母親に近い存在だった人の、記録。何も知らない望にいつか伝えなくてはいけないと思っている、自分達の親が持つ秘密だらけの過去。
パソコンの音が静かになった。芳音は『mie』の箱から数枚のディスクを取り出し、その一枚目をパソコンにセットした。
ほぼ人の視線辺りの高さで映されたその光景。薄暗いどこかのマンション。画面の隅には見知らぬ少年が血まみれになって呆然と座っている。年の頃は、芳音とほぼ同じくらいだと思われる。それが誰なのかは未だに知らないし、知る必要もない。
芳音の視線がそんな片隅へ最初にいってしまうのは、何度見ても真正面に映る血と肉塊の惨劇を直視できない所為だった。
『どんな事情があっても、免罪符になんかならないんだよ』
歌うように、ゆっくりと、惨劇に不釣合いなバリトンの声が芳音の鼓膜を揺らす。
『抵抗も出来ない、こんな弱い存在なのに』
カメラの視点がわずかに動く。映った先に見えるのは、むき出しの白い肩と、血にまみれた女性物のダウンジャケット。肌寒い季節だと思われるそのジャケットの存在と、むき出しの肩という違和感が、異常事態を芳音に見るたび伝えて来る。白い肌と赤い血を滲ませる背中、そして何よりもそれを少女時代の翠だと認識させるのは、望と同じ、毛先が少しだけ癖でくねる、艶やかな長い栗色の髪。
『本当は、死んでも贖えないんだよ、クソ親父』
目の前で断末魔の悲鳴を上げるのは、辰巳が「クソ親父」と呼ぶにはあまりにも若過ぎる……多分。断言するには、辰巳の撃ち込んだ銃弾で頭部があまりにも破壊され過ぎていた。
芳音は今回も見るに耐えかね、ディスクと一緒に持って来た資料のページを無造作にめくった。そこに記されているのは、闇に葬られたこの事件の概要報告書。翠の高校合格祝いの約束をしていた克美が、ありえない翠のドタキャンに不安を覚え、翠の自宅へ赴いたと記されている。ドタキャンの理由を目の当たりにした瞬間、翠とよく似た少年に銃弾を浴びせながら、独り言のように語り掛けているのは、芳音の父親――海藤辰巳だった。
『辰巳、お願い……。自分を、責めないで』
聞き慣れたものより少しだけ高い声が、芳音の視線を上げさせる。同時に辰巳が仕込んでいた盗撮カメラの視点が、そちらの方へと流れていった。
『辰巳、お願い。……普通の暮らしをボクにって、約束したんでしょう?』
見上げて来るボーイッシュな雰囲気の少女は、間違いなく十代の頃の克美だ。なのに芳音の目には、ついさっき自分に向けられた今の克美と同じものに見えていた。
――お願い。帰って来て。
訴える大きな吊り目が、そんな強くて切実な思いを放っていた。
『……か、の?』
それは克美の死んだ姉の名前だ、と、戸籍謄本を見せられた時に初めて克美から知らされた。
克美と翠が出会ったきっかけ。それが『Canon』のウェイトレスと客だということに確かに嘘ではない。ただ、それはあくまでもきっかけに過ぎなくて、ふたりが親密になっていったのは、翠の辰巳への初恋と、当時男だと自称していた克美の翠に対する片恋が真の発端だった。そこに翠の兄からの虐待という事実の発覚が絡まって。翠の兄から滲み出る狂気に、辰巳は自分の父親を被せたらしい。それは手にした資料ではなく、初めてこの資料を見たあとで克美に尋ねて教えてもらったことだ。
『ごめん。間違えた』
辰巳の声が、変わる。少し怯えた声音は、自分のしでかしたことに対するというより、克美に対するものだと思う。視点が周囲に流れることなく、克美に固定されたままだから。
ほっとした克美の顔が、急速に近づいて来る。画面はそこで真っ黒になり、そしてブルーの画面に切り替わった。
「死んでも贖えないって思ってたんなら、なんでコロシなんかしたんだよ」
真っ青な画面に向かって呟いてみても、そこに答えてくれる辰巳はいない。
幾ら辰巳の真似事をしてみても、辰巳のことなど理解出来ない。理解出来なければクローンになんてなれるはずがない、とも思う。
「……ってか、本当にそれがベター、なのかな」
時を止めて過去の中で暮らす、壊れてしまった克美の心。辰巳の死を受け容れながら、どこか認められないまま少しずつ壊れていった。克美は今でも時折、“今”と“昔”をさまよい混乱する。特に夜。芳音が小学校に上がる数年前の出来事だから、彼女が三十路を過ぎた辺りだろうか。鏡に映る自分を見て、ある夜、突然叫び声を上げた。
『こんなの、ボクじゃないっ』
『いつか辰巳が帰って来ても、これじゃあボクだって解らないっ』
狂ったように鏡を壊す克美を、どうしていいのか解らなかった。克美や芳音のホームドクターだったもぐりの診療所へ電話を掛け、院長の藪と助手の赤木に助けを求めた。
『参ったな……元々夜や暗闇ってえのが苦手な奴だったが』
藪はその時、それ以上刻みようがないほどの深い皺を顔中に浮かべ、哀れんだ目で芳音を見下ろした。
『ちいとばかし、愛美んトコで寝泊りしとけ。克美はしばらくここに入院させる』
でも実際には半月ほどで、克美は『Canon』に帰って来た。独りにさえならなければ、自力で“今”にいられると聞かされた。『Canon』を守るためには、自分が“今”にいる必要があるから、らしい。藪が何かしらの診療をほどこし、人と薬の助けで“今”にいられる克美だったが。
『なんでかな。なんか、年を取るのが怖い』
そう言って異常なまでに、自分の見た目の若さに拘るようになった。金に糸目をつけない勢いで、基礎化粧品の購入に心血を注ぐ。勿論芳音の養育費を確保した上で、という条件つきだが。不思議なことに、その辺りから彼女の見た目がほとんど変わらないまま今がある。
愛美が何度も再婚を打診した。芳音も「その人なら父親と呼べる」と思っている人物がいるのも確かだ。それでも克美は
『ボクには芳音がいるもん。家族は、もう充分』
と笑って断り続けるのだ。自分の症状を藪から聞いて以来、さっきのように謝罪ばかりを繰り返す。高校に入って間もなくの頃に、克美に催眠療法を施しているのだと藪から知らされた。同時に、夜の経営を提案したのが藪だった、ということも。
『別にお前を育てるのに困って、っていうわけじゃあねえんだよ。その方がまだ人に接していられる分、今にとどまっていられるだろうと思ってよ』
その時藪は済まなそうに太い筆眉を下げられるだけ下げて芳音に小さく謝罪した。
『医者なんて名ばかりで、悪ぃな。人の心の数だけ対応の方法もある、ってのが正直なところだ。医者なんて、大した役に立ちゃしねえ。本人にしかどうにも出来ねえってぇのが、クソ腹が立つな』
辰巳はいないのだという刷り込みと、辰巳がいない世界でも生きていけるという暗示を繰り返しているが、克美にとってのそれは認められないものだから、どこかしらでひずみが出てしまう、とのことだった。
『藪じいの所為じゃないじゃん』
当時、芳音はそう言って笑った。その時引き攣れた頬の痛みが、今ではそんな笑い方に慣れてしまっていつも頬に宿るような自分になってしまっている。
『おめえの所為でもねえぞ。そんな笑い方するんじゃねえ』
そう言われても、自分の意思でどうにかなるものではなかった。
自分がどうしてやることで、克美を“今”の世界で安定して暮らさせてやれるのだろう。
それを考えては、溜息をつく。惰性でなんとなく机の引き出しを開けた。目に飛び込んで来たのは、古新聞と一枚のディスク。芳音はディスクを取替え、再び再生ボタンをクリックした。オートリプレイに設定したそれをBGMに、今日もその古新聞の数枚を割いて掲載された事件の概要を読み返した。
“日本帝都ホテル銃乱射事件 続報!! 容疑者は内部構成員と判明”という見出しが派手に紙面を飾る。芳音が生まれた年の六月、事件があった十八日は、辰巳の三十八回目の誕生日でもあった、とあとで克美が教えてくれた。
『克美、泣いてるんじゃないか? もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ』
聞いているこちらが気恥ずかしくなるほどの、甘ったるいバリトンの声がスピーカーから流れる。その声の主をちらりと盗み見る。モニタに映ったそれと、ライブ仕様のいでたちにした時の自分が、この頃益々似て来たと思う。乱暴に切り取ったような毛先を残し、束ねられた黄金の髪。カラーコンタクトを仕込んだグリーンアイズが、カメラではなく克美そのものに語り掛けていると言わんばかりに柔らかい。くすぐったさを漂わせてまっすぐ見つめて来るそれから、感じたままに視線を背けた。
『ひとつ、大事なことを言い忘れちゃったんだ。……もし俺の子が宿ったら、芳音、と名づけてくれると嬉しい』
思いめぐらすような間のあとに辰巳の声で告げられた、柔らかく穏やかに響く自分の名を聴きながら、新聞記事の辰巳を見た。パソコンの中で語る男とそっくりの顔写真で飾られている紙面。顔かたちは同じなのに、漂う雰囲気と表情がまったく違う。濁って澱んだグリーンアイズ。限りなく黒に近いグレーのシャツに、臙脂のネクタイには派手な龍の刺繍。派手な金色の長髪をなびかせ、ホストさながらのカジュアルな白いスーツをまとう辰巳の映像を切り取ったその写真は、事件直前にホテルのエントランスに設置されていた防犯カメラが映していたものらしい。その中にいる辰巳は、明らかに仁侠の世界の人々と知らせる雰囲気を漂わせていた。
『俺達の楽園の象徴を名づけてやって欲しい』
苦しげに、切なげに、愛しげに告げる。二年前に初めて聴いた時は、自分の存在が必要とされていたのだと素直にその言葉に喜べた。でも、繰り返し眺める内に、ふとした疑問が湧いた。その頃から迷いが生じたのだと思う。
「このままで、ホントにいいのかな」
視線を上げて、モニタを見る。極上の笑みで辰巳が芳音の視線を迎える。
『よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ』
相変わらず過去から語り掛ける辰巳は、芳音の問いには答えなかった。
海藤辰巳、それが芳音の実父の名前だ。五、六年ほど前に、正式に解体された藤澤会系暴力団海藤組の跡取り息子。それが辰巳の肩書きだった。十七年前、辰巳自身の意思とは無関係につけられたその枷が、辰巳がこの事件を起こしたことによって、芳音の祖父とも言える海藤周一郎組長を始めとした幹部全員を射殺後、辰巳自身も自殺、という形で外された。
古い新聞の三面を飾る、藤澤会と海藤組の遍歴と、この事件で殉職したという高木徹警視正の経歴を目で辿る。
敵対する暴力団組織との抗争や、証拠不十分として不起訴になったが疑いが濃厚だと記されている密売事件や殺人事件、暴力事件の数々など。どれを見ても、同情に値しない海藤組の概略だった。
一方、この事件でSITの陣頭指揮を執って突入し、殉職した高木の経歴は、芳音が理解や感情の想像が出来るものばかりだった。刑事の職に就いた当時から海藤組を追い続けて来たという高木という刑事は、若い頃に海藤組の手によって妻と腹にいた子供を殺されているらしい。警視庁内では“アイスマン”と揶揄される非常に冷徹な刑事だったと記事には面白おかしく書かれている。
何か、裏があったのだろう。今の芳音はそう考える。警視正という職にありながら、現場で陣頭指揮を執るなどありえない。マスコミも所詮は国にほどよく首根っこを掴まれている存在だ。その辺りをすべて高木の独断による暴走と書き連ねていた。
事実を知るのは、ごくわずかな人間だけだ。
この計画が、実行される十六年も前から立てられていたこと。立案者が辰巳と高木であったこと。その理由が、“克美を海藤から守るため”であったこと。
辰巳は堅気になりたかったが、海藤周一郎に克美という弱点を握られていた。高木は海藤周一郎に妻子の復讐を果たしたいのに、辰巳という海藤周一郎の右腕がそれを阻んで来るので果たせないでいた。
――俺が傍にいる限り、あいつに普通の暮らしはない。
親父がしつこいことくらい、あなたも知っているでしょうに――。
辰巳が『Canon』を出て行った年の日付が記されたディスクの中で、高木に伝えていた彼の言葉が芳音の中でリプレイされる。
――ばれなければ、なんてリスクは要らない。不確定要素があったら意味がない。
俺がやらなきゃ、この十六年が無駄になる。それじゃあこれまで犠牲になった仏さん達が浮かばれない。
ぬるいぞ、高木――。
辰巳は海藤組を潰す計画を手土産に、高木の許を訪れた。海藤組の情報と藤澤会壊滅の協力をする報酬として、克美が独立出来る年齢になるまで海藤の目から自分達を隠蔽することを提示した。ふたりは利害の一致を見て、違法行為を意にも介さず、期が熟した十七年前に海藤を殲滅する計画を遂行した。二度と自分の大切な者を奪わせない為、克美を始めとした海藤組に泣かされている弱者を守る為に、ふたりは自らの命を代償にして銃乱射事件を演じ、同時に決して社会的に許されることのない罪の清算もその場で果たした。新聞記事には、辰巳が高木を射殺したと記されていた。
そんなふたりの生き様、死に様を見て思う。「自分がどうあることで、彼らの意志を引き継ぐことになるのだろう」と。
生きていた世界が違う。現実味がまったくない。解らないまま、ただ時だけが過ぎてゆく。克美は壊れて掛けては自分をああいう瞳で見て今に帰る、そんな危うい生活をしている。
「必要なのは、辰巳のクローンなんかじゃなくって」
辰巳自身しかないじゃないか。その言葉を音には出来なかった。
「なんで俺が自分の母親を名前で呼ばなきゃなんないんだよ」
誰に命じられたわけでもないが、どんな自分でいることが克美を生きながらえさせることになるのかばかりを考えていった結果、こうなった。
『克美、泣いてるんじゃないか?』
リプレイで再び微笑を見せる辰巳が芳音に問い掛ける。
「泣くことも出来てねえよ。つか、俺にはなんかないのかよ」
『もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ』
「そんなこと言っていくから、変な期待を捨てられないんじゃんか。バカ親父」
『ひとつ、大事なことを言い忘れちゃったんだ。……もし俺の子が宿ったら、芳音、と名づけてくれると嬉しい』
「……なあ、それ以外に、なんか言えよ」
『俺達のエデンの象徴を名づけてやって欲しい』
「全然、エデンなんかじゃ、ないよ。まるで……鳥かご、みたい、だ」
モニタに映る辰巳がぶれる。ぼやけてはっきり見れなくなる。
「父さん……」
幼い頃の呼び方が、つい口から零れ出す。視界がクリアになると同時に、頬にぬるいものが伝っていく。
「父さんみたいに、なんか……なれない……よ」
握りしめていた古新聞紙に、また新たな滲み皺が作られた。
「東京に行きたい。のんに会いたい。もっと都会の店とか人の多いところで修行をして、料理の腕を上げたい。自分の夢、叶えたい」
克美には言えない胸の内を、芳音は辰巳に向かって一気にまくし立てた。
喫茶店でのよくある片手間の飯ではなくて、本格的に学びたい。喜ばせたい人がいるから。芳音が料理人を目指すと決めたきっかけは、塩コショウだけで味付けをした拙いオムライスを、望が満面の笑みで食べてくれたことからだった。
『おいしいっ。ゴチャゴチャしてるのより、すっごく、すっごぉく、おいしい。芳音、一緒にお店をやろうよ』
最後に会った小学一年生の夏休み、お互いに語り合った将来の夢。望の夢は偶然にも芳音と同じ、食に通じる“パティシエール”という夢だった。
「どうして嘘なんかついてったんだよ……」
克美には、言えない。克美の心を壊してしまうような気がして、言えない。
「なんで、俺なんか遺してったんだよ……バカ親父」
容姿が辰巳に似過ぎている所為で、克美が今も辰巳に囚われたままだと思い至ってから、いつも辰巳に垂れる責めの言葉。
「好きで、こんな風に生まれて来たんじゃ、ないのに」
自分の風貌が嫌いだった。自分の存在が重荷だった。辰巳の命と克美の心という、ふたつの犠牲の上に成り立っている、今の自分。克美を支えるすべての人の、支援という名の犠牲の下に成り立っている自分が疎ましかった。
「なんとか言ってよ……父さん……」
克美から、離れたい。自分の生き方で、生きたい。そう思うことそのものが罪の意識にすり替わり、芳音を執拗なほど責め立てる。いつからか、辰巳の上っ面な真似事ばかりを繰り返す自分が当たり前になっていた。
『よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ』
モニタの中の辰巳はそれだけ言うと、またブルーの闇へと姿を消した。