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捨てるべきもの、捨てられないもの 3

 店内に流れるBGMが、鼓膜をつんざく勢いで望にだけ大きく響いて聞こえた。グラスの氷が溶けて鳴らす、からん、という音にさえ怯えた。いつもならば場を和ませようと話題を振って来る泰江も、穂高に倣って居心地の悪い沈黙を保っている。深く頭を下げている望からふたりの表情を窺えることはない。両親の思惑を読み取れない状況が、余計に望を縮み上がらせた。

「いい休暇を過ごせたようやな」

 穂高の零したそのひと言に弾かれて、咄嗟に頭を上げた。見れば穂高が気だるそうな手つきでポケットから煙草を取り出し、一服を燻らせるところだった。彼は意外にも、苦々しいものではあるものの、笑みを浮かべて望をまっすぐ捉えた。望は唇を噛んで、震えを堪えるのに精一杯だった。

 穂高は煙草をひと燻らせすると、望の願いに対する返答とはまるで違う方へと話を逸らした。

「芳音は、ちゃんと真っ当に笑えていたか?」

「え」

「今朝、愛美さんに望が世話になった礼の電話をした。話の流れで芳音の進路の話になってな。てっきり音楽方面へ進むと思うてたのに、あいつも料理人を目指すことにしたらしいな」

 そう語る穂高が、なんとも言えない複雑な表情をかたどった。そしてぽつりと「道理で公開オーディションで見掛けないと思った」と拗ねた口調で呟いた。

「パパ、まさかホリエプロの公開オーディション企画を協賛した理由って、もしかして」

「芳音のおるバンドはサンパギータのコピーバンドから始まったと聞いていたさかい、てっきり応募して来ると思うててんけど、当てが外れた」

 彼は自嘲気味に「親ばかが裏目に出たが、若いもんにいい機会をやれたから損したとは思うてない」とバンドの話そのものはしめ括った。

「克美がどう言おうと、俺は芳音の親父代わりのつもりでいる。それは今も昔も変わらない。そう思うて、藪診療所や愛美さんを通じて遠目からあいつの様子も見て来たつもりやけど、お前には敵わんな」

 柔らかな口調だった穂高が、次の瞬間、声のトーンを落とした。

「芳音もお前と同じ学校を受験すると聞いた。『Canon』を継ぐ気でいるらしい。お前があの学校やパティシエに拘るのも、あの店が関係しているんか?」

「!」

 穂高の静かでありながら冷ややかな声で問われたことに、即答出来ない自分がいた。

(……わ、わからない……)

 翠の作ってくれたオムライスの思い出がきっかけだった。『Canon』の在り様に憧れた。食べることが大好きで、自分たちの店を持つことが芳音とずっと共有して来た夢だった。でもそれを『Canon』と関係していると言うのかどうか。穂高が自分から何を引き出そうとしているのか解らなかった。


 蛇に睨まれた蛙のように、穂高と視線を合わせたまま、逸らすことさえ出来ない。体が完全に強張っていた。そして、思い知る。穂高は今もまだ、望にとってトラウマの象徴とも言える存在のままそこにいた。こんな風に凍えるほどの冷たい目で向き合わされると、憎悪を上回る恐怖が襲って来る。古い記憶が、“あのとき”の感覚とともに蘇った。

『誰と、どこに、いた』

 見定める切れ長の瞳が、望の隠し事を暴くため、言葉とともに問い質す。

『望。何があった』

 抗ってもがいても、逃げようと足掻いても、決してゆるむことのない、押さえつける強い腕。恐怖心が敏感に感知する、男性特有のかすかな臭い。口封じのように浴びせられるシャワーの熱い熱。四年前の“事故”直後、暴れる望を押さえつけたのは穂高だった。彼はあの瞬間に味わわされた恐怖を思い出させる、ただ独りの存在でもあった。


 震えを握り潰す勢いで、望の両手ががっちりと指を絡め合わせた。

(あ……)

 きつくしめつけた右手の薬指が、左手の指に硬質な痛みを走らせた。その存在をとても近しく思い出す。思い出された優しいぬくもりが、望の心だけでなく体温もほんのりと温める。

『ちょっとだけ、欲掻いたら、怒る?』

 望の中にあった男性へのイメージを上書きしたはにかむ顔が、鮮やかに脳裏に浮かんだ。噛みしめていた唇が柔らかく解かれ、知らずに指が自分の唇にそっと触れた。

「関係している、って、どういう意味で?」

 挑むような微笑とともに、気づいてさえしまえばあまりにも簡単な“正しいリアクション”を口にした。

 一瞬眉をひそめた穂高が先に視線を逸らした。煙草を片手にしたまま、アイスコーヒーをひと口だけ含んで喉を湿す。

「芳音はこの十二年、独りで頑張っていた、と言うたな。あいつから、父親の話も聞いているんか」

 ひどく不快げな顔でそう尋ねて来た穂高の顔は、望に問い掛けているにも関わらず、意識が一瞬どこか遠くへ飛んでいるように見えた。

「全部、聞いた。映像も少しだけ見せてもらった。今のパパが髪を伸ばして染めたら、当時の辰巳さんとそっくりね」

 小さな舌打ちが向かいの席から聞こえた。彼が芳音の父親をひどく嫌っているのがよく解った。

「あの店は克美にとって、辰巳の象徴や。芳音はそれを継ぐと言う。あいつは辰巳のクローンにでもなるつもりか? お前は、それらを解った上で便乗するつもりか? そういう意味で訊いている」

 嫌悪に満ちた声が、望の鼓膜とともに心臓も震わせた。こちらの奥底を覗くような観察の眼が、冷ややかに望を射抜く。計られていることが、ようやく解った。話は脇道へ逸れたのではない。これは、望だけに課せられた、最終の面接試験だと受けとめた。

「私は」

 凛とした声で、主語に自分を据える。まっすぐに顔を上げ、穂高の強い瞳を真正面から怯むことなく捉えた。

「身内から見た『Canon』を理想としているわけじゃないわ。あくまでも、お客さまから見た『Canon』を目指しているだけ。カノン……店じゃない方の芳音も、それは同じ。親が過去にどうであったかなんて、パパたちには申し訳ないけれど、私たちにとってはまるで関係のないこと。すべて最初に話したとおり、“お客として受けたモノを、今度は私がお客に返したい”、それだけが、私の志望動機よ。芳音と私を混同しないで欲しいし、彼だっていつまでも子どもじゃないわ」

 次第に上がっていく口角が、穂高の目には挑発に見えたらしい。彼はひくりと一度だけ片方の眉を上げ、それから湧いた感情を揉み消すようにまた煙草をねじ消した。

「なるほど。お前らはガキのころから、口を揃えて“ふたりで『Canon』の店長になる”言うとったんやけど、ままごとなそれの延長ではない、というわけやな」

「はい。私は私の道を往くつもりよ。芳音は克美ママのためではなく、お客のためにあの店を維持したいって思っているはず」

「はず?」

「彼の作った料理を食べれば、きっと解るわ。言葉では説明出来ない。信じるか信じないかは、パパの自由だと思うけど」

 穂高に告げる間にも思い出す。あのグロデスクなナマコという食材を、ありきたりな三杯酢で食べただけにも関わらず、初めて心から美味しいと感じて食べられた。芳音の作るオムライスは、これまで食べ歩いたどの店のものよりも、一番翠の作ったそれに近かった。あっさりとしたシンプルな塩ベース。なのに、ほかでは味わえないほど奥深い。エッセンスは、きっと、芳音の“真心”。

「芳音は必ずお客さまと話してから調理をするの。初めてのお客さまなら、どんなものが好きなのか、どういう味や食感が好みなのか。どんな感じが嫌いなのか。常連さんには、今日はどんなことがあって、食べに来てくれたんだろう。じゃあ、今回はこんなレシピで作ってみようかな、とか。――そうやって、一人一人とお喋りしながら、その人のための料理をするの。私には思いつかない発想だったわ。手広くやっている店では、決して出来ないやり方だと思う。だけど、今最も必要とされているものだとも思うの」

 自分でも気づかないうちに微笑を浮かべていた。さっきまでのようなゆがんだ笑みではなく、心からの笑みを。

「マニュアルや既存の二番煎じばかりだった自分が悔しいわ。芳音にだけは、負けたくない。作り手としても楽しんでいる芳音にだけは、負けたくない」

 与えることに喜びを感じられる芳音にふさわしい自分でありたい。そんな思いを、闘争心のオブラートに包んで穂高に宣言した。ウソではない自分らしい表現で、穂高に気づかせない形で本気の思いを言の葉に置き換えた。

「自分の店を持ちたい。今はそれが『Canon』だとかそうじゃないとか、正直言って、自分でもそれは解らない。私のこだわりは、そこじゃないから。貴美子さんの伝手を当てにするとか、そういうのもイヤ。一から自分で、自分のお店を築きたいの。だから、お願いします。自分の将来を自分で決めさせてください」

 穂高はまるで他人を見るような冷たい瞳で黙って聞いていた。顔色の優れなくなった泰江は、そんな穂高と望を窺うようにそっと見つめていた。それを目の端に捉えて、もう一度深々と頭を垂れる。粋がってみても、今の自分は親のすねをかじるほかに手立てがない。望は、非力な子どもでしかないという現実を受け容れるため、伏せた向こうで奥歯をきつく噛みしめた。だが、最初のときほどの強い屈辱は感じない。そんな自分にある種の安心を覚えた。

 絶対に捨てたくないもの、捨てられないもののためなら、そこに至らないものを切り捨てられる。今度こそ、絶対にそれを手離すものかと自分に誓った。

(芳音、今の私はここまでが限度。ごめんなさい)

 道を切り開くまでは、『Canon』を切り捨てた振りをすること。自分の足で立てるようになれば、『Canon』の件はいくらでも覆せると判断した末の答えだった。

 やがて、穂高がテーブルにもたれていた身を起こし、背もたれに身を預けてもう一本を口に咥えた。

「貴美子嬢に逃げんと、こっちに頭を下げたことは、評価すべき点、やろうな」


 ――やってみいさ。ただし卒業以外は認めん。


 屈辱の見返りは、望の意向を汲むものだった。試合に負けて勝負に勝つ。勢いよく上げた望の顔に、満足げな笑みが宿った。

「ありがとうございます」

 望は快諾を述べた穂高に負けないほどの不敵な笑みを浮かべて謝辞を述べた。

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