捨てるべきもの、捨てられないもの 2
穂高の勧めで赴いた店は、本人曰く「オフの気楽さに合わせて」とのことで、大衆向けのレトロな洋食屋だった。望は迷うことなくオムライスを頼んだが、運ばれて来たそれをひと口運んだ途端、レシピを書き留めるために出してあったノートをバッグの中へしまい込んだ。
「はっ、相変わらず判定が手厳しいな」
穂高はあからさまな望の態度を見ると、ビーフシチューを口に運ぶ手をとめ、鼻で笑った。
「最近オープンしたばかりで盛況や、いう話を聞いたさかいに来てみてんけど。口に合わなかったのなら無駄足を踏ませたな。堪忍」
口先だけの謝罪に、思わず眉をひそめる。
(いけない……もう、“卒業”するって決めたじゃないの)
そう自分に言い含め、無理やり口角を上げてみる。愛想笑いだと解っても、これまでそれさえしなかったのだから、少しは信州で過ごした時間を穂高に無駄扱いされずに済むはずだ。望はそんな打算さえ穂高に見抜かれそうな気がして、視線を合わせることまでは出来なかった。
「口に合わないということではないわ。ただ、知らない味ではない、というか」
「つまり、よそでも味わえる程度のモノだった、ということか。例えば?」
穂高との外食が苦手な理由、この、とことんまで言及する時間が、望には苦痛だった。ただでさえ嫌いな人間と食事を摂るのが苦痛だというのに、これでは余計に食事がまずくなる。今までなら適当に答えたあとは、黙々と食事に専念していた。泰江のフォローに甘え、先に帰ったことさえあった。
だが、そんな幼稚な反抗も卒業すると決めた。無駄な意地や負けん気は、夢を阻む原因になる。その理屈が、脳ではなく心が受け容れたお陰で、望はこれまでにないほど饒舌に語ることが出来た。
「確かにいい卵を使っていると思うの。味も活きているし。でも、刻み入れた牛肉がクセモノ。これ、旨み調味料で素材の悪さをごまかしている気がする。それに、これは私の好みでしかないかも知れないけれど、タイ米と日本米の配合が今ひとつ。ライスがべたついていて、ファミレスレベル」
そしてデミグラスソースも既製品に少々手を加えた程度のものだと感想をしめくくり、望のオムライスに掛かっているものと同じデミグラスソースを使って作ったと思われる、穂高のビーフシチューの味についても推測を述べた。その結果。
「お前はオブラートに包む、いうことを知らんのか。人間、図星のときほど傷つくもんやで」
穂高は声のトーンを落としてそう漏らし、苦笑を浮かべて望の私見に同意した。
「でも、本当のことだもの。お客さまに対する誠意が感じられないわ」
「せやけどな、値段と商品の釣り合いを考えてみい。味だけにこだわっていたら商売にならん」
穂高にそう促され、初めて原価と商品価格への意識が向いた。慌ててメニューを開き、ひととおり単価をチェックする。
「本当だわ。ランチサービスにしているから余計に赤字ね。せめて先着限定メニューにすればもう少しお客さまに満足してもらえる商品になると思うんだけど」
これからは少しずつ気候がよくなる。足の早い食材でも、もう少しまとめて仕入れれば同じ金額でクオリティの高い商品を提供出来そうなものなのに。気づけば穂高を相手に、そんな私見を真剣に語っていた。穂高が少し呆れた笑いを零し、最後のひと口を食べ終えてスプーンを置いた。その小さな音が、そんな自分でいたことに気づかせ、はっと顔を上げさせた。
「やっぱりお前はパティシエールよりマネジメントの方が向いとるわ」
顔を上げた正面で、穂高がそう言ってくつくつとくぐもった笑いを漏らしていた。望は彼が自分を馬鹿にしているような気がして、食べ掛けていたオムライスを仇とばかりに口へ放り込んだ。
ほんの少しの間だけ漂った険悪な空気は、結局今回も泰江のフォローに助けられる恰好で元の温度を取り戻し、お互いの一ヶ月を報告し合う時間に戻った。
せっかく邪魔な娘がいなかったというのに、穂高は貴重な盆休みの三日間、大阪の実家へも帰らず、かと言って夫婦水入らずの旅行などの予定も立てず、泰江の部屋で彼女を訪れるカウンセリングのお客へお茶出しなんかをして過ごしていたらしい。
「呆れた。お母さんも、そんなときくらい休めばよかったのに」
望が大袈裟なくらい批難がましい声でそう言うと、泰江は苦笑しながら静かに反論した。
「そうだねえ。でも、心におやすみはないでしょう? 体がおやすみに出来たからこそ、訪ねてくださるお客さまもいるしね」
必要なときに、必要な場所で、必要とされる人が手を差し伸べる。
「必要な人として私を選んで予約のお電話をくださった方に応えたいって、つい気合が入っちゃうんだよねえ」
泰江は遠い目をして望を見つめ返した。細く垂れた目尻の小皺が優しい微笑をかたどった。
「のんちゃんを送り出すまでは、ずっと色々と不安だったの。のんちゃんの必要とする人が私ではないと解っていても落ち込んでしまったり、自己嫌悪したり、これでよかったのかな、と思ったり」
唐突に話を自分に振られて、望は言葉を失った。また、想像もしていなかった泰江の胸の内を耳にすれば、仮に順を追って話されたとしても、返す言葉が見つからない。
誰も視線を合わせない中、食後のドリンクを運んで来たウェイトレスが、緩和剤のように会話を一旦中断させた。
「でも、パパさんの言う通りだった、よかった」
店員がドリンクと引き換えに空いた食器を引いてテーブルから離れると、泰江はアイスティーにストローを差し入れながら、言い含めるように言葉を繋いだ。
「パパの?」
「おい」
望と穂高、ふたりの声が、同時に泰江に対して発せられた。視線を穂高に改めて移す。彼はものすごいしかめっ面を伏せたかと思うと、アイスコーヒーがなみなみと注がれたグラスに直接口をつけて顔を隠した。
「今ののんちゃんに必要なのは、翠ちゃんや藪先生、それに何より、同じ世代で事情も知っている芳音くんが、のんちゃんにとって一番の支えになるだろう、って。親の不甲斐なさを認めるしかない、って、パパさんから藪先生にああいうお願いをしたんだよ」
「全部……私が芳音と連絡を取ったことも、お見通しだった、ってこと?」
その問いは穂高に向けたものだった。泰江が穂高に告げ口をしたのであれば、芳音と再会したことを泰江に伝えた春にアクションを起こしていたはずだ。ふと思い出したのは、夏休み前に渡部薬品まで乗り込んで口座の凍結について穂高と喧嘩をしたときに聞かされた、望の身辺調査をされていたこと。多分、そのときに芳音との接触も知られたのだと思い至った。
「どうせ止めても利かへんやろう。それに、店に行くなとは言うたが、芳音と会うなとは言うてへん」
先に種明かしをしてしまえば、望が意地になって逆を行くだろうからと言われると、弁解の余地など皆無だった。
手の内で踊らされていたことに唇を噛む。テーブルの下、膝の上で両手をきゅっと強く組む。まだ指に馴染まない硬い感触が、右手の薬指でその存在を主張した。
――もう東京へ戻っても大丈夫、だよな?
望を信じる笑顔が、信州へ行ったことを悔やみ掛けた望に「そうじゃないでしょう」と優しく諭す。つまらない負けん気や意地が解けてゆく。左手の指が、テーブルの下で愛しげにリングを撫でた。
「パパ」
限定つきだと自分にも言い聞かせれば、それを口にするのも容易かった。
「ありがとう。ママのことを知ることが出来て、よかった」
それは、望の心からの言葉だった。現実味が湧かないほど完ぺきに見えていた翠を、初めて身近で自分と同じ“ひとりの女性”だと感じることが出来たのは確かな事実だ。
「それに、みんなから克美ママの状態も聞いたわ。パパが店には行くなと言った理由も解った気がした。せっかく回復に向かっているのに、私がそれをぶち壊す権利はないと思ったから。壊しかねないくらい、ずっと可愛がってもらったことを覚えているし、かと言って私が留まるわけにもいかないんだから、今は仕方ないな、って、諦めて来たわ」
すべて実際に思ったことだけれど、少しだけ別の理由もあったのを隠す。後ろめたさが穂高に据えた視線を外させようとしたが、どうにかそれも踏み堪えた。
「自分の甘さを痛感する一ヶ月だった。この十二年、芳音は独りでいろんなことを乗り越えてた。負けてなんかいられないから」
望の右手がアイスティーのグラスへ伸びる。それを脇にずらし、何も置かれていないテーブルにぶつかる勢いで深々と穂高に頭を下げた。
「お願いします。学費を支援してください。辻本調理専門学校への入学許可を、ください」
長い栗色の髪がさらりと垂れて、望の顔を穂高から隠した。悔しさと口惜しさで拳を握る。正した両の膝が屈辱で震えた。
「私に渡部薬品は背負えません。見えない誰かの笑顔で頑張れるほど、器の大きな人間じゃあ、ありません」
このひと月で考えに考え抜いた、最善の方法。誰かを当てにして穂高への反発を維持するのではなく、自分の足で立つためにも、捨てるべきものと捨てられないものを整理した末に出した結論。
「直接お客さまと触れ合える場所で、お客さまの声を聞きながら、ずっと変わっていける自分でありたいの。私が美味しいお店でもらって来たいろんなこと、今度は自分が返していきたいの」
独りぼっちだという思いを、極上の味が慰めてくれた。シェフやホールの従業員が、笑顔と談笑という形で束の間の幸せを与えてくれた。生き物への感謝、命を食べる、いただくという概念を教えてくれたのは、思い返せば“食”の場が始まりだった。望はそんな思いを、初めて穂高に打ち明けた。
「渡部からの逃げではないし、その場の思いつきでもありません。厳しい道だということも充分に解ってます。だけど、どうしてもこの夢だけは、叶えたいんです。諦めたくない……お願いします、支援、して、ください」
言葉の途切れる理由が、悔しさから別のものへと移り変わっていた。フラクトゥーアの白い文字。重厚な格子扉と涼やかなドアベルの音。焦げ茶で統一された落ち着いた空間。名も知らないお客までが振り返って笑い掛けてくれる、幼いころから憧れていた、『Canon』という名の、楽園――。
「お客さまが第二の我が家みたいにくつろげるお店を、自分の手で作りたいんです。……『Canon』みたいな、帰る場所でありたい……居場所のない人に、そんな空間を提供して、恩送りを、したい……です」
長いとも短いとも思える数分間。穂高はその間、沈黙を保っていた。