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捨てるべきもの、捨てられないもの 1

 八月も残すところあと数日となったその日が、とうとうやって来た。望が東京へ帰る日。またしばらく芳音と会えない毎日が続く、薄汚れた東京の空へ戻らなくてはならない日。

 自分のことに精一杯だった望は、芳音と再会して間もないころは深く気にも留めていなかった。芳音が克美のことを呼ぶとき、「母さん」から「克美」に変わった本当の理由。何度か会話を重ね、思いを重ねることが出来た今なら、そこに深い意味があったと解る。

「芳音……ごめんなさい」

 望を見送ろうとホームの特急乗り場まで一緒に来てくれた芳音に、口惜しい心残りをそんな形で告げた。

「は? 何が?」

 驚いたというよりも、怯えた声が望の頭上から不安げに降って来る。少し誤解を与えてしまった気がして、望はお揃いのリングを嵌めた芳音の右手をそっと握った。

「芳音がまた昔のように、克美ママを“母さん”って呼べる手助けをしたかったのに、結局会えなかった」

 芳音の手を握った白い手から力が抜ける。彼の手を取る資格がない、と一瞬後ろめたくなった。

 芳音は、辰巳ではない。そう思う気持ちに嘘はない。克美にそれを認めさせたい気持ちが本物だという自負もある。

 だが結局望は、我欲に負けて実行に移せなかった。夏休み中、世話になった愛美のところへお礼に訪れたとき、彼女に芳音との関わり方が変わったのを一瞬にして見抜かれた。愛美でさえ判ったのだ。芳音の実母である克美に気づかれないはずがない。穂高がもし気づけば反対するに決まっている。その上克美にまで同じような思いで自分を見られるかと思うと、芳音に『Canon』へ連れて行ってと言い出せなくなっていた。

「気がついてたんだ」

 少しほっとしたような、柔らかな声は怒っていない。呟きに近い小さな返事が、芳音の諦めを感じさせた。そう思うと途端に不安が望を襲う。

「ごめんなさい」

 もう一度告げた望の声を、発車のベルが遮った。は、とふたり揃って頭上のスピーカーを見上げる。

「だいじょぶ。俺、気にしてないし」

 どちらからともなく視線を互いへ落とし、目の合った瞬間、芳音がそう言って笑った。

「それよか、帰ったら連絡しろよ」

 途端に力強い声になった芳音はもう、前を見ようと気持ちを切り替えている。泣き虫だった小さな気の弱い男の子は、もう彼の中のどこにもいなかった。

「うん。っていうか、芳音、なんか口調がこのひと月でかなり横柄になったわよね」

 ふと湧いた敗北感が、悔しいというよりもくすぐったい。芳音の頼もしさが、負け惜しみの毒を吐く望に言葉とは裏腹なはにかんだ笑みを浮かばせた。

 互いに互いの拳を、ジャブを入れるようにコツンと重ね合った。間に挟まれた寂しい気持ちを打ち砕く。お互いの右手の薬指に嵌められたリングが、カチ、と小さな音を立てた。不安や寂しさを木っ端微塵にしてやろうと足掻く音が、ふたりの鼓膜をわずかに揺らした。

「んじゃ、また」

 さよならではなく、また、という芳音の言葉が、望に精一杯の笑みを作らせた。

「うん。絶対、お互いに合格しましょうね」

 欲張ることを、芳音に誓う。全部、手に入れてみせる。芳音はそんな望の不敵な笑みを見て、心からの嬉しそうな笑顔を望に見せてくれた。

 乗り込んだあずさの扉が、プシュ、と気の抜けた音を立ててふたりを隔てた。

「芳音」

 届くはずのない声で、彼を呼びながら窓に張りつく。電車の速度に合わせて、次第に駆け足になっていく芳音の姿が、次第にぼやけて見えなくなった。彼の視界に自分が映っている間、泣かないことで精一杯だった。多分、十二年ぶりだと思う。自分のためではない誰かのために泣くことを必死で堪え、誰かのために必死で笑顔を作った。


 望は信州から東京へ戻る電車の中で洗面室を占領し、声を殺してさんざん泣いた。百キロ単位の遠い距離をこんなに嘆いたのも、何年ぶりかのことだった。望の涙腺は、諦めていた時間に泣けなかった分まで押し流すつもりなのかと思うほど、喉がからからに渇くまで望を泣かせ続けた。小さな窓越しから見慣れた東京の風景が見え始めたころに、ようやく涙が涸れてくれた。腫れ上がった目をハンカチで覆いながら下車すると、意外な人物が望を出迎えた。

「うっす。おかえり、長旅お疲れさん」

 この炎暑にも関わらず、相変わらず長袖のシャツをまとい、ジーンズ姿で、髪も洗いざらしというラフな恰好。長袖に拘るのは、腕の目立ち過ぎる古傷を隠すためらしいが、そうやって軽く腕を上げると、めくった袖口からその傷がわずかに覗く。夏休み終盤の混雑する人ごみの中で、望にもそんな姿をひと目で判らせる長身の知り合いは、東京にひとりしかいなかった。

「……パパ」

 まさか彼が来るとは思わなかった。電車の中から泰江に到着時刻を告げたとき、彼女が迎えに来るとは聞いていた。一瞬、泰江に嵌められたのかと思ったが、人ごみがさっさと改札へ向かう階段へと流れて辺りが空き始めた時、ようやく小さな泰江の姿も望の視界に入って来た。

「のんちゃん、おかえりなさい。いいお休みだったみたいだね」

 至近距離になったことで望の泣き腫らした目がはっきり見えたからか、穂高はいぶかる表情で眉間に皺を寄せ、泰江はそれと正反対のまあるい笑みをかたどった。

「うん、久しぶりにゆっくり過ごせたわ。赤木さんちのチビちゃんたちや藪じいたちとも会えて楽しかった。帰って来るのが寂しかったくらい」

 穂高に余計な探りを入れられるのが面倒くさかったので、目の腫れている理由をそんな言い方と笑顔でごまかした。

「わ、ステキ。このリング。天使の羽が刻んである。手彫りみたいだねえ。オーダーしたの?」

 泰江が目敏く気づいたそれに、ポーカーフェイスを決め込んで、堂々と右手を翳してみせる。

「愛華姉ちゃんが仲町通りのジュエリーショップへ連れて行ってくれたの。サービスでデザインしてもらっちゃった」

 プラチナリングに刻まれた片翼のもう一方は、芳音の右薬指で望のところへ飛び立つ準備をしている。そう思うとついほころんでしまう顔を、望は慌てて引き締めた。

「天使、か」

 穂高が望の手許を見ながらも、遠いどこかを見る目でポツリと呟いた。

「藪先生から、翠のノーパソを見せたって聞いた。思っていたよりも、結構ええ顔して帰って来たやんか」

 穂高が苦笑を浮かべて、ただそれだけを口にした。複雑な思いが、望の心にマーブル模様を描き出した。

「パパは中身を知っていたの」

「いや。あいつは俺のいないときにばかりあれを打ち込んでいたし、パスを掛けてたさかいに、見られたないもんやろう。そう思ったさかいに、よう見んかった。それに、見たところで面白いもんではないやろうしな」

 と、自嘲気味に零した穂高を庇うように泰江が口を挟んだ。

「のんちゃん、パパさんったら朝から落ち着かなくて、朝ご飯も食べてないの。一緒にランチしながらお土産話を聞かせてくれる? 安曇野の観光をいっぱい楽しんで来たんでしょう? 聞きたいなあ」

 泰江は少し大袈裟なほど弾んだ声でそう言い、望と穂高の間に挟まったままふたりの背中を押して改札へと促した。

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