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交わした約束を、もう一度 3

 ふたりで並んでキッチンに立ち、食器を洗って片づける。望が洗った食器を芳音が器用に手早くダスターで拭いて棚へと並べる。望ひとりだと一度まとめて拭いてから数歩歩いて食器棚へ納めるところを、彼の長身と腕の長さならば、そこから動くことなく楽に片づけられる。幼いころにここで過ごしたときは、母親たちの手伝いで、ふたり一緒にちょこまかと動き回っていた。そのキッチンが今はとても狭く感じられた。正確には、キッチンが狭くなったのではなく芳音が大きくなったということなのだけれど。

「ねえ、芳音」

 カランをきゅっと閉めながら、望は迷った末、結局願いごとを口にした。

「なんでもいいの。今、芳音が身につけてるものの中から、ひとつだけ、何か、ちょうだい」

 もし万が一、この時間の記憶が薄れて嫌な自分に戻ってしまいそうなときがあれば、それを見て思い出せるように。そんな願いをこめて、望にしては珍しいほど甘えた声で芳音にねだった。

「んー……。あ、じゃあ」

 彼は少し考えたように食器を拭いていたが、特に理由を問うこともなく、食器棚に最後の皿を片づけると、自分のつけていたネックレスを外した。

「重なっちゃうとぶさいくだから、ヘッドだけ」

 そう言って彼のネックレスから外されたのは、シルバーでかたどられた片翼のヘッド。それがシンク脇にことりと置かれ、望の首筋にくすぐったい感触が走った。

「翠ママのヘッドと合わせれば、天使の卵に見えるかな」

 彼は望のネックレスを外し、固い爪で器用にエネラルドのヘッドを繋ぐ留め金具を少しだけ開いて、片翼のヘッドをエメラルドに取りつけた。

「どう?」

 少しだけ苦しい笑みになっているのは、翠への遠慮なのだろうか。

「芳音が一緒にいてくれてるみたい。きっとママもそう思ってくれるわよ」

 ありがとう。ころりと零れた言葉が、芳音の笑顔の種類を変えた。

「妄想力、ハンパないな」

 笑ってそう言いながら、再び首筋に彼の温度がかすかに伝う。彼の目にネックレスの留め金具が見えるようにと、俯いて自分で後ろ髪をすくい上げた。

「?」

 金具のとまったカチリという音がやんでも、彼の手がさっきのようにすぐには遠のかなかった。するりと望の首筋を撫で、その温もりが、そっと頬まで撫で伝っていく。

「……ちょっとだけ、欲掻いたら、怒る?」

 彼に聞こえたのではないかと思うほど、脈が大きくドクンと鳴った。自分がどんな顔をしているのか解らなくて、両手を下ろして髪で隠す。まるで中学生のようだと思った。この程度で心臓が爆発しそうになる、なんて。

「……そういうのって、普通、訊く?」

 やっとのことで返した答えは、どうしようもなく可愛げのない台詞になってしまった。悔しさと気恥ずかしさで固く目を閉じた顔を上げさせられる。唇をそっとついばむ柔らかな熱が、ここを開けてとノックした。

「……ん……」

 せがまれたからというよりも、自分が求めたとばかりに彼の頬へ手を伸ばして引き寄せた。ためらいが消え失せたかのような強い力に包まれる。頬を包む優しかった彼の右手が、望の後ろ髪を掴んで強く上向かせた。彼の左腕が、ふたりの距離をコンマゼロまで引き寄せる。互いの服越しでも解るほどのたぎる想いが彼のリミッターを切らせてしまったと望に伝えて来た。

「か……の……ん……ッ」

 下腹部に走る甘い疼きが、彼をとめる所作の邪魔をする。彼の唇が離れ、望の喉へ愛しげに口づけた。

「あ……」

(待っ……て、ダメ)

 きっと彼はあとで悔やむ。みんなの信頼を裏切ったと自分を責める。そう思うのに。望の後ろ髪を解放し、薄いカーディガンの内側へ忍び込む彼の手を拒めない自分に歯痒さを覚えた。憂いに満ちた彼の悔やむ瞳が、望の脳裏を一瞬過ぎった。

(イヤ)

 胸を締めつけるような強い痛みが、固く閉じた瞼を開かせた。二度とあんな瞳を見たくない。その想いが流され掛けていた激情を凌いだ。

「芳音」

 わざと醒めた声音で彼を呼んだ。

「口臭いから、やっぱイヤ」

 焦る思考から飛び出した萎えさせる言葉は、あまりにも残念過ぎるひと言だった。

「う」

 言ってから改めて思う。食後なのは、自分も同じだ。実際のところはそんなものを気にする余裕などなかったが、きっと多分、自分も口臭を漂わせているに違いない。

「ぅあああああああ!! ごめん――ッッッ!!」

(切ない……)

 望が絶望から静かに目を閉じるのと、絶叫とともにキッチンから飛び出していく芳音の荒い足音が、耳障りなトリオを奏でて消えた。

 ダスターを片手に、溜息混じりで居間に戻る。多分、自分以上に残念な心境に陥っているであろう片割れを、一体どう慰めればいいのかと悩みながら、居間へ続く扉を渋々開けた。

「もーヤダっ! なんでこういっつもいっつも」

 何か、ぼやいている。ぼやいているというより、叫んでいる。

「なんで俺がなんかすると、なんでもかんでもギャグになるんだ、チクショウっ!」

 うっかり噴き出しかねないほどの情けない彼の吐露が、閉めた扉の音を思い切り掻き消した。

「呆れた」

「うぉぁっ?!」

 ソファでクッションを抱いて騒いでいたでくの坊が、ものすごい速さと勢いで望から最も遠い窓辺へ逃げていった。本気で涙目になっていたらしい。クッションで顔を隠しているつもりらしいが、こちらを窺う目が丸出しになっている。

「お母さんや藪じいの信用を裏切りたくないんでしょう? だったらお預け。当然でしょ」

 彼のそんな姿を目の端で捉えながらそう説教をかまし、敢えて見てない振りをしてテーブルを拭いた。

「う……ご、ごめんなさい」

「謝る相手が違うでしょ。っていうか未遂だし、謝ることはないんじゃないの?」

「う……」

「芳音ってば、頭にバカがつくほど真面目だから、どうせパパにもヘンな義理立てとか考えてるでしょ」

「義理じゃないしっ。嫁くれ宣言したときにウザいツッコミで黙らされるのがヤなだけだ!」

 テーブルを拭く望の手が、とまった。胸の辺りからじわじわと熱いものがこみ上げて来て、体中が、特に顔が熱くなる。

「あ……や、えっと……あれ?」

 人形のように固まった望を怪訝に思ったのか、距離を取っていた芳音がそう呟きながら恐る恐る近づいて来た。

「あれ? 違うの?」

「ち、がう、って?」

 パソコンの音声補助機能に負けないほどの棒読みが望の口からこぼれた。

「だって俺、婿養子の気なんて全然ないし。のんだって、渡部の跡を取る気なんて、全ッ然ないだろ?」

(その前段階の話で硬直してるんだっつうのよっ)

 腹立たしいほど意識のズレを感じさせられる。きょとんとした顔で覗き込んで来るクッション付の芳音が、可愛過ぎて憎らしい。

「違わないけどっ!」

「げっ」

 思わず叫ぶと同時に、芳音の顔に向かってダスターを投げつけていた。

「ホンッとに、改めて腹が立って来たわっ。六歳よ? 六歳のころからずぅっと連絡一切なしで、いきなり何? そのやたら具体的な人生設計はっ。しょうがないとは思うけどっ。今更言ってもしょうがないけどっ、事情も今は解ったから、しょうが、ない、けど……ッ」

 泣かないことで精一杯だった。また「ごめん」なんて言葉を聞きたくなくて。ダスターを手にして呆然とした芳音が口を開く前にたたみ掛けた。

「謝ったら承知しないんだからっ。子どもの口約束って軽く見てた私まで謝らなくちゃいけなくなるのは、ヤなんだからっ。言ったら速攻ぶっ飛ばすっ」

 仁王立ちで芳音を見下ろし、ビシリと指差し宣言する。もうゴメン合戦はたくさんだ。強い瞳でそう訴えた。

「……いっこだけ、言わせてよ」

 きょとんとした顔で見上げていた芳音がクッションを脇に置き、ゆるりと立ち上がってそう言った。

「何よ」

「明日さ、やっすーいのしか買えないけどさ」

 ――お揃いのリング、買いに行こう。

 コトンと心臓がファンファーレを鳴らす。ぽすんと簡単に懐へ納められる。芳音の自信なさげな言葉が、望を優しく包み込んだ。

「ホタみたいに、なんでもすぐポンって買えるだけの甲斐性なしで情けないんだけど。今度こそ忘れないように、約束した証拠を持っててよ」

 本当は芳音も、同じ不安を抱えていたと初めて知った。約束の証が欲しくてもらった片翼のヘッドが、あっという間にお役御免になったと嘆くように、きらりと鈍くまたたいた。

「なんでそこでパパが出て来るのよ。それに、甲斐性のある高校生って方が、ブキミ」

「あ。そか」

 お互いにくすりと小さく笑う。見上げればはにかんだ笑みが望を温かく迎え、その瞳にはやっぱり面映い笑みを浮かべる自分が映っていた。

「のん。もう東京へ戻っても大丈夫、だよな?」

 尋ねるというよりも確認の色濃い問い掛けが、望の背中をそっと押した。

「うん。来て、よかったわ。昔に戻る必要なんかないって思えるくらい、色々知ることが出来たから、もう大丈夫」

 勝どきをあげるかのようにはっきりと宣言する。何に対する勝利かと言えば、挙げ切れないほどたくさんの、自分の過去との戦いに。過去を振り返って戻るのではなく、今は前を見て進みたい。目の前に起こることから目を背けることなく、立ち向かってこれからを生きていける――芳音と一緒なら、大丈夫。

 この休暇の間で、いつの間にかそんな自信が宿っていた。

「あと八ヶ月だけ、待たせるけど。その間、今度こそ約束を忘れないこと。何かあったら、なんにもなくっても、たまにはのんからも連絡をくれること。OK?」

 少しでも早く一人前になって、家族になろうな、と芳音は言った。「戻ろう」ではなく「なろう」と、幼いころに交わした言葉を、微妙に言い換えた。

「うん。おーる、おっけー」

 慣れない素直な答えに自分で戸惑いながら、小さく頷く。再びおずおずと彼を見上げてみれば。

「うしっ。ケーヤク、テーケツっ!」

 待ち焦がれた一等好きな笑顔が、望をまっすぐ見下ろしていた。

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