交わした約束を、もう一度 2
それまで意識することのなかった、蝉やひぐらしの大合唱。東京でも意識したことはなかったが、無関心から来るそれとは意味が違う。信州に来たばかりのころは、短い生を謳歌する大きな鳴き声が、藪や芳音、赤木一家との会話を中断させたことさえあった。今はそれが気にならないほど、望の身体だけでなく気持ちまでが、信州での暮らしに馴染み切っていた。久しぶりにひぐらしの声を意識したことで改めて思う。
(なんか、あっという間だわ)
望が信州に来てから、三週間が経とうとしていた。
芳音とふたり、藪診療所の病棟個室で子どものように大泣きしてから、まだ四日しか経っていない。でも望の中では随分遠い昔のような感覚だ。今日までの四日間で、そのときお互いが感じたことや思ったことを話題にしたことがない。まるで逃げるかのようにその話題を避けていた。
今日もふたりで、翠のファイルを読み解いてゆく。望には、『読み解く』という表現がふさわしい、まさに難解な暗号パズルのように理解が難しい日記だった。
「ママを“ローズ”と呼んでいた“アンダー”? もうひとりのママ、って人格? この人も結局ママなのに、どうしてこんなにママの嫌がることばかりしていたのかしら」
ソファとテーブルの間にぺたりと腰を下ろして、モニタを眺めながら呟いた。その後ろから芳音が、ソファに寝そべったまま唸り声を上げた。
「うー……ん。ローズサイドのママが、アンダーサイドのママを毛嫌いしていたから、とか?」
「だから。嫌われたくないのなら、男装でうろつき回って犯罪一歩前みたいなことをしたり、喧嘩を売って身体をボロボロにさせてしまったり、そんな自分でもつらくなるようなことをしなければよかったでしょう? 結局自分なんだから、自分が自分を大事にしてあげないから、ママも怯えてこんな強い口調でアンダーサイドに命令するんじゃないの」
「自分が自分を大事に、か」
芳音が独り言のように、ぽつりと呟いた。少し含み笑いまで混じっていた気がする。芳音が自分をバカにしている含みを感じ、その声が望にはとても耳障りな響きに聞こえた。
「何よ、今の含みわら」
望が発した言葉を終えるよりも、芳音に向かって振り返る方が早かった。
「!」
寝転んでいたはずの芳音の顔が、彼の吐息で髪が揺れるほどの至近距離にあった。驚きで息を呑む。
「うぉッ?!」
コンマ一秒にも満たない間に、ふたりの距離がいきなり大きく広がった。かと思うと、ソファからはみ出すほどの大きな体が、漫画のようにその後ろへと転がっていった。
「い……ってぇ……」
望は呆れた溜息をつくことで呼吸を落ち着け、どうにか酸素を摂り入れた。すかさず
「何してるの?」
と寒い視線を送ることで、居心地の悪い雰囲気を別のものへ変えようと足掻いてみた。
「ち、ちがッ、どこ読んで言ってるのかと思ってモニタを覗こうと」
「何言い繕ってるの?」
ソファの上で膝立ちになり、背もたれに寄り掛かって身を乗り出す。望は転がっている芳音をまっすぐ見下ろした。
「い、言い繕ってなんか」
仰向けに倒れていた芳音が頭を軽く振りながら、望が覗き込むのとほぼ同時に起き上がった。
「のぁ!」
当然ながら、ふたりの距離が元に戻った。
「何パニクってるの?」
「あ、や、別に、お、あっ! もう六時じゃんっ。俺、飯作って来るっ」
芳音は望の返事も待たず、居間と廊下を隔てる扉の向こうへ逃げるように消えた。
「……芳音なら平気、って……言ったのに」
ひとりきりになった部屋で、ぼそりとごちる。
「私はママほど真面目でもないし、弱くも、ないのに……」
潤んで来た視界がうっとうしくて、思い切り目許を袖で拭った。
信州へ来てから、解ったことがひとつだけある。
芳音が心から笑ってると解るだけで、自分まで温かな気持ちになれる。泰江が「本当に好きな人が出来たら、きっとのんちゃんにも解るよ」と言った意味。翠がそれまでの自分を覆してまで、もう一度手にした最期の恋を諦めなかった理由。
(芳音が、一番大切。芳音が笑っててくれると、ほっとする)
それは、ふたりともそういう感覚を知っていたからではないかと、このごろの望は思いを廻らせる。
ぐしゃぐしゃの不細工な泣き顔を晒したとき、芳音が「おかえり」と言って笑ってくれた。あの笑顔を、もう一度見たいと思っている。だけど何が芳音をあの笑顔にしてくれたのか、まだ望は掴めていなかった。
「私が無理して笑っているように見えるのかしら?」
胸元を飾るエメラルドに問い掛けてみる。母の形見は望に何も語らず、窓から射し込む西陽に照らされてまたたくだけだった。
満たされたはずの心が、欲張りになっていく。確かに立場は翠と同じなのかも知れないが、ものすごく嫌な意味で、自分が父親とよく似た気性だと思い知らされる欲が湧く。
「藪じいも芳音も、みんな……私を見くびり過ぎ」
無垢な花嫁、などという少女趣味な夢はとうの昔に諦めていた。だが自分の存在そのものまで否定してしまうほど、しおらしい気性ではないという自覚がある。それを解っている人が、ひとりもいないと感じられた。
「私は、ママやお母さんみたいに、いつまでも振り回されてあげるほど優しくなんか、ないもの」
常日頃思っていたことを敢えて口にしてみたが、それが意外なほど力ない声音になった。
ほんのひと月ほど前までは、誰に対してであろうと、少しも怖くなどなかった。始めから誰かに期待を抱くこともなかったし、三年前の“事故”をきっかけに、誰かに何かを求めることもやめた。人は、勝手な生き物だ。見返りがなければ、求めた者から何かを奪ってでも見返りを得ようとする。自分も、そんな種類と同じ生き物。「人ではなく、ヒトだ」と認識を改め、誰にも求めないことで誰にも自分を奪わせないと、そんなやり方で自分を守って来たつもりでいた。
その持論が崩壊している、今の自分が、怖い。そしてどうしようもないくらい、芳音のことが怖かった。怖いのは、彼に触れられることではなく、彼の、心。
「……あんなこと、しなきゃよかった……」
どうせ元の自分になど戻れないからと、自ら自分を貶めたこと。芳音が自分を避けるのは、やはりどうしても、それを許せない気持ちがあるからではないかと思えて仕方がなかった。芳音は嘘がヘタだから、それならもっとストレートな表し方をするはずだ、と無理やりポジティブな受けとめ方をしようと頑張ってみたここ数日。今ではその暗示が自分の中にはびこっている薄汚れた欲を望に気づかせてしまい、別の意味で余計に落ち込んだ。
「何考えてるのか、全然わかんない」
芳音も、そして自分自身の気持ちも。昔に戻りたくて来たはずなのに、昔には戻れないという現実を突きつけられているのが現状だった。
あと一週間で、また芳音と離れ離れになる。言葉だけではない、確かな約束が欲しかった。自分の知らない世界で、誰かがいつも芳音の傍にいる。その現実が、望の不安を駆り立てた。乱暴にソファへ座り直してクッションを抱きしめる。
「いくじなし。へたれ。ばっかのん」
望は幼稚園のときとまったく同じ、低次元の悪口を並べたてた。
「……私が、肉食系過ぎるのかしら」
言葉にした途端、自分の中でそれが確信に変わってしまった。
「絶対、芳音にドンビキされる……ッ」
クッションに顔を埋めてソファにダイブする。結局望は、翠の日記を読み進めることが出来なかった。
「のーん。ここのドア、開けてー」
芳音の弾んだ声が、望の陰鬱を掻き消した。
「うわっ。かわいいっ」
扉を開けた瞬間目に入ったものを見た瞬間、咄嗟にそんな声を上げていた。
芳音の両手をライスが占め、腕を占拠する皿には、山の幸。川ぜりなんて、今では稀少の食材だ。茹でてあく抜きされた鮮やかな緑を主張するそれは、きちんと葉を広げられて、メインディッシュのランプステーキを囲むように盛りつけられていた。プチトマトはてっぺんから放射状に軽い切り込みを入れてから、さっと湯通ししたと思われる。端を丸くカットされた皮の、花びらのように開く姿が可愛らしい。ハーブ入りのバターが肉の上でほどよく溶け、ドーム型の彩りは、脇を固めるベビーコーンとツインで綺麗なアクセントを入れていた。
「やたっ、合格認定。あ、キッチンにサラダとカトラリーが置きっぱなんだ。持って来て」
「うん」
「あと、冷製スープも作ってみた。それもよろしく」
「りょうかーい」
こうして目の前に彼がいれば、不安などあっという間に消し飛んでしまうのに。望は、東京へ戻るのが怖かった。今の自分は嫌いじゃない。少なくても、芳音とここで過ごす以前までの自分よりは、好きだ。
(芳音や東京じゃなくて、私自身のことが、怖い、のかな)
泣いたり笑ったり怒ったり。それはとても疲れるけれど、それらすべてを麻痺させていた東京での時間は、生きることそのものに疲れていた。あんな自分に戻ってしまいそうで、一週間後が怖かった。
芳音は、まずスープを口にしてみてと強く推した。
「うわ、濃厚。でも、あっさりしてる、飲みやすいわ。これ、なんのスープ?」
淡い緑色をした冷たいスープ。ほうれん草かと思ったが、その割には繊維質を感じない。牛乳と生クリームをたっぷり使っているのは解るのだが、あく特有の苦味をそれで消しているという感じでもなさそうだ。
「っしゃ! のんがイケてるなら、これ成功っ」
ひとり納得しながらガッツポーズを嬉しげに決められても、こちらはレシピを知りたいのに、という我欲が、望の口角を一気に下げさせた。
「だから、何ってば」
尖った声で再び尋ねると、意外な答えが返って来た。
「のんの大ッ嫌いな、グリーンピース」
「……うそ」
思わずカップの中をしげしげと覗いてしまう。
「信じられない……美味しい」
独り言のようにそう零し、もう一度カップに唇を寄せる。望の苦手な豆独特の臭いや、舌に残る後味の悪さがまったくない。ほどよく舌を刺激するのは、アジアン系の香辛料。綺麗にうらごしされた丁寧な手間を、小さな粒さえ感じさせないクリーミーさが教えていた。
「グリーンピースって、こういう使い方もあったのね。手間が掛かったんじゃないの?」
尋ねる口調が、自然と弾む。
「薄皮を剥く程度かな。でも、冷凍保存が利く食材だからさ。まとめて下ごしらえして冷凍保存しておけば、使う分だけミキサーでガシャー、って。結構手抜きだよ」
芳音はそう説明したあと、しつこいくらい「よかった」を繰り返した。少年時代の面影を宿す笑みが、本当に嬉しいのだと伝えて来る。
「どうして、そんな風に笑っていられるの?」
なんの迷いも不安もなさそうな芳音の態度が、羨ましい。同時に不安と心細さが襲って来る。ミキサーに掛けられたグリーンピースに負けないくらいのドロドロとした心境に陥り、望の問う声が険の立つ響きで床を這った。
「どうして、って……だって、のんに好きなものが増えたらいいなって思ってたから」
芳音は不思議そうな顔をして、当然のようにそう答えた。
「そうじゃなくて。ねえ、私、あと一週間で帰るのよ?」
不安が怒りに取って代わる。矛先が本来向けるべきではない芳音に向かい、溜め込んでいたものが咬みつくような口調に変わって一気に溢れ返った。
「芳音、私から逃げてばっかりじゃない。先がどうなるんだろうって、不安とか、心配とか、そういうものは、ないの? 約束って、どれを指して言ってるの? 姉弟みたいに戻ろうね、ってこと? 自分たちの夢をお互いに叶えようねってこと?」
口にし始めたら、とまらない。早くこの口を封じてしまわないと。それに気づいてどうにか口をつぐむ。だが、時既に遅し、だった。
「……のん」
芳音の瞳が大きく見開き、戸惑いに満ちた表情になっていた。途端、望は自分の失言を悔やんだ。残った冷製スープを一気にあおる。居た堪れなさをそんな形で無理やり抑え込んだ。
「まで、鈍感。つか、のんまでそう来たか、っていうか」
その呟きは、名を呼ばれた続きらしい。芳音のいる正面からそんな声が聞こえたかと思うと、ずず、とスープをすする音がした。
「約束は、今のんが言ったのから、いっこだけ抜けてたヤツのことだよ」
――僕がのんをおよめさんにする。
「けどさ……考えてみたら、あれって、その、なんつうか……自分の足で立ってもいないガキのくせに……みたいな? まず大人どもが認めないだろ、みたいな話、つうか」
望の中に、突然の暴風が吹き荒れた。もちろん憤りとは別の意味で。
(あ……言われて、みれば……プロポーズ? みたいな、そういうことになる? のかしら?)
スープカップで隠した顔を、芳音に見せられない。望がカップに口をつけて顔を隠したまま、縁からそっと芳音を盗み見ると、俯いたままぎこちない手つきで肉をカットしている芳音と、かなり可哀想な状態になっているランプステーキが目に焼きついた。
「泰江ママにも、藪じいにも、やたら“信用してるから心配してない”みたいなことを言われるしさ……なんていうか……信用を裏切りたくないし、とは思う、けど、その……いちお、これでも男子なんですけど、っつうか、みんなしてケーカイ心が、あんまりにもなさ過ぎね?」
ミディアムで焼かれたランプステーキの中心と同じ色になった肌色が、芳音の中にあるいろんなものを伝えていた。多分きっと、自分には知られたくないと思っていたかも知れないモノ。
「あのさ、あんま無防備にならないでくれる? 困るから……イロイロと」
(……お互いさまだった、ってこと?)
積もり積もっていた不安や心配が、肉の上で溶けていったバターのように溶けていった。溶けて肉に染み渡り、旨みへと変わったバターのように、不安が別のモノへと変わっていった。
(ホントに、羨ましいくらいキレイなのね)
芳音の、心が。それならば、聞き流してあげようと思った。ストイックの理由が、芳音の優しさや生真面目さから来るものならば、自分も少しだけいい子になろう。そんなふうに自然と思えた。
「あ。このお肉、冷めても柔らかくて美味しい。どこのお肉?」
「って、いきなりその話、強制終了っすか」
そうなじりながらも、目が本気でほっとしているのがおかしくて堪らない。
「ん、終了。めんどくさくなった」
「めんどくさ、って、おま」
「ねえ、それより、ソースに使った赤ワイン。封を開けてから時間が経ってるのを使ったわね。香りが飛んでる。ケチったでしょ」
「う。だって、新しいのをおろしたら克美にバレるし」
「スープのレシピ、私にも教えて? 家に帰ったら自分でも作ってみるわ」
「マジ? お世辞抜き?」
「抜き抜き。これを手始めにして、グリーンピースを征圧してやる」
「表現がいちいちアグレッシブなのはなんでだ」
ぎこちない違和感が消えてゆき、心地よい空気が部屋を満たしていく。信じることは、傷つくこと。そう思っていた自分が遠のいてゆく。大好きな人の笑顔が目の前にある。素直に思ったままを口に出来ている。言葉のままを素直に信じられる自分が、愛おしい。
――きっと、東京へ帰っても、大丈夫。
望はやっとそう思うことが出来た。