交わした約束を、もう一度 1
「ごめん、のんが一番助けを必要としていた時に、俺、自分のことで精一杯だった……ごめん、なさい」
知らなかったことを知らされて、お門違いな謝罪を繰り返す芳音のことが、無性に腹立たしかった。
「守れなくって、ごめん……自分のことばっかりで余裕なくって……家族だとか言う資格もない自分で……」
望が何も知らずに過ごして来た、気の遠くなるような長い時間。彼は同じ時間を、たった独りで膝を抱えて、誰にも吐き出せずに過ごして来た。望はそれを聞いて、初めて自覚した。誰かが何かしてくれるのを、さも当然のようにただ待つだけだった自分を。自分だけが不幸で不遇だと勘違いしていた、自分勝手な小さな子どものままだったことを。
「守るどころか……俺までのんを傷つけた……ごめんでは済まされないとは思うけど、でも、のんには笑ってて欲しいから」
いつも肩を並べていた。再会してからは、見上げながら隣を歩いた。同じ立場で、同じ位置で、ずっと一緒にいたはずなのに。今の芳音は、床に溶けてしまいたいとばかりに、大きな身体を小さく丸め、望が簡単に見下ろせてしまうほどの遠く低い位置で土下座をしている。それが、無性に腹立たしく、哀しかった。自分を卑下するという形で、芳音まで自分の前から去ろうとしているようにさえ見えていた。
「俺に出来ることがあれば、と思ったんだ。色々考えて、それでやっぱり、ちゃんと知ってもらった方がいいと思って。翠ママは、そういうことが色々あっても、笑えてた。日記に何か、のんの助けになることが書かれていれば、と思って、藪じいにノートパソコンを渡したんだ。今の俺が出来ることって、それしか」
「バカみたい」
聴くに耐えられなかった。自分で自分の傷口に塩をすり込んでいるような言葉の数々。上っ面ではなく本気でそう思って言っているのが解るから、余計に腹が立って仕方がない。芳音にではなく、自分自身に。
「私はあなたのご主人でも被害者でも雇用主でも依頼人でもないのよ。ずっと一緒に肩を並べて歩いて来てたと思ったのに、今頃になって、何歩も、後ろへ、下がって……私を、ひとりぼっちに、するつもり、なの?」
まるで伝わっていないことが、あまりにも悲しくて。そのくせ、あのキスが同情から来るものではなかったと解ったことが泣けてしまうほど嬉しくて。
「ひとりぼっちに、しないでよ……」
つるりと滑り落ちた言の葉は、自分でも驚くくらい、素直で簡単な、本当の気持ちだけで紡がれた。
「のん……俺のこと、憎いとか怖いとか、ないの?」
くどいくらい繰り返す芳音の言葉が全部、彼に向かう刃に聞こえた。どうしたら彼にこれ以上、自分で傷つく言葉を言わせないように出来るのか、ただそれしか考えられなかった。
「昔のことなんか、どうでもいい。罪悪感なんか欲しくない」
息の根をとめるような勢いで、きつく芳音を抱きしめる。心の中で、何度も繰り返す。言葉にしてしまえば陳腐になってしまう想いを、伝わってと何度も繰り返す。
「……触っても、へーき?」
とくん、と、心臓がひとつ、強い脈を打った。もう彼は、自分を痛めつけることなど言わないと信じられた。望はきつくしがみついた腕の力を、少しずつゆっくりと解いていった。
「芳音なら、へーき」
芳音の両腕が、その言葉を待ちかねていたように望を包んだ。それは、繊細なガラス細工を守るような、優しくて心地よい、懐かしいのにどこか幼い頃のそれとは違う、初めて感じる温かさ。
「……ごめん。ひとりぼっちにするつもりだったわけじゃあ、ないんだ」
涙腺を緩ませる優しいテノールが、子守唄のように音をゆっくりと紡いだ。
「これから先もずっと、ありのままののんでいられる場所に、俺、なれるかな……ずっと一緒にいても、いい?」
ずっとずっと、長い時間、欲しかった言葉と思いが、望の鼓膜をそっと揺らした。イエスの答えは声にならず、ただ何度も強く首を縦に振る。
「もっといろんなこと、欲張っちゃおうよ。諦めないで……一緒に。な?」
奏でられる言葉の雨が、望の涙腺を壊していった。壊されたのは涙腺だけではなく、硬く閉ざした心のふたも。
「これからは、自分を傷つける前に、俺を呼んでよ。のんのお陰で、俺が俺のまんまでいいって、今、思えたから」
いつでも、飛んで行く。離れていても、傍に行く。初めて聴く彼本来の落ち着いた声が、望の願いを言葉に置き換えた。思い返せば再会してからの芳音は、いつもどこか怯えたような、低く細い声で語っていた。
それが何を指し示しているのか、嫌というほどよく解る。自分のしでかして来た罪の重さを、初めて実感した。それは法的な意味だけでなく、大切な人をこんな形で無意識に傷つけ続けて来た、という意味でも。芳音の涙の内訳を知る。「弟に戻るから」と言った理由に気づかされた。硬くふたをしたモノが一気に溢れ、望の中で暴れ出した。
「もう、約束を守れない、と思ったの……だって私……、芳音みたいに、綺麗じゃない」
溢れ出した思いは嗚咽に変わり、やがて幼い号泣に変わり、しまいには叫びと怒号と恨みつらみへと変わっていった。
「もう芳音とは、二度と逢えないと思っていたの。芳音の代わりなんてつもりじゃなかった」
望を貶めた少年は、初めて渡部薬品の社長令嬢としてではなく、自分を個人として見れくれた人だった。
『親が世間的に立派過ぎると、こっちとしては息が詰まるよな。家も親が教師だから、何かとうるさいから、なんとなく解るよ』
そんな共感を示してくれた人の中に、心のどこかで芳音を見ていたのかも知れない。確かに彼には、なんでも話していた。芳音のことも。だけど。
「やめて、って、言ったのよ? 誘ってなんか、いなかった……“芳音の代わりなんかじゃない”って……“俺を見ろ”って……」
勝手に思い込んで、勝手に綺麗だった自分を奪っておいて、罪の意識も抱かないまま死んでしまった。もう名前さえ覚えていない。心が記憶することを拒絶した。
「あんなの、好きなんかじゃないっ。ただの暴力だわっ」
最後まで直接怒りをぶつけることの出来なかった相手への思いを、芳音に全部吐き出した。
「そんなことで思い通りになる人形にしようだなんて。バカにしてるわ。女をなんだと思ってるの? 都合よく利用されるなんてまっぴらゴメンだと思ったわ。利用される前に、こっちが利用してやればいいと思った。こんなこと、なんてことないわ。ちょっと我慢すれば終わることじゃない。芳音を諦めるしかないなら、せめて自分の店を持つ夢だけでも諦めるものかと思ったわ」
それしか、芳音と繋がれるものがないと思ったから。忘れられないほどの悪夢なんか、全部心にふたをして、小さなことにしてしまえばいいと思っていた。けれど。
「……俺が母さんやホタの顔色ばっかり見てて、ぐずぐずしてたせいで、のんを追い込んじゃったんだ。本当に、ごめん」
苦しげな声が絞り出された。冷水を被ったような寒さで全身が強張った。芳音にそんな解釈をされるとは思わなかった。
「違うの……ごめんなさい。芳音……本当に、ごめんなさい……ッ」
激しい憎悪が凪いでゆき、望の中を占めた想いが彼への懺悔を紡がせた。
「自分から、諦めちゃったの。芳音を、信じて、なかったって……ことに、なる。ごめ、ん、なさ」
自分で自分を汚してしまった。悔しさと恥ずかしさで顔を上げることさえままならなくなり、引き千切る勢いで髪を鷲掴みにして顔を隠した。頭皮に走る痛みよりも、吐きそうなほど心が痛かった。
「芳音は独りで頑張ってたのに、私、芳音に謝られる資格なんか、ない……ごめん、なさ」
不意に言葉が遮られ、両の手首に強い力が宿る。
「目、開けてよ。のん」
彼はそう言って、顔の前で握り拳を作った望の両手を引き剥がした。どきりとして、初めて気づいた。強い力で動きを封じられたのは、信州に戻って来た初日の夜、あの公園で二の腕を掴まれた時以来だった。
「やっとのんが帰って来た。おかえり」
掴まれた望自身の手が芳音に操られ、あごをくいと上げさせる。
「俺は、のんが約束を守る子だって、知ってる。俺だって、のんが思ってるほど綺麗な人間じゃないし。それは、きっとのんも解ってるだろうな、って思うけど……だから、ごめんねって言われると、どうしていいのか、わかんなくなるから」
困った笑みを浮かべてそう言った彼の瞳に、化粧の剥がれたみっともない自分が映っていた。望の顔を覆っていた乱れ髪に、彼の吐息がかすかに掛かる。
「俺もそうするから、ごめんって言いたくなったら、代わりに名前を呼んでよ」
そんな言葉が、柔らかで温かな熱と一緒に額を伝った。それが望の中心まで温めていった。
「のんが“芳音”って呼んでくれないと、俺、また自分がわかんなくなっちゃうから」
――心だけは、いつも傍にいて。名前を呼んで。
「俺が約束を果たせる日まで、ちゃんと、傍にいて呼んでよ」
約束。遠い日に交わしたモノ。
――僕がのんをおよめさんにする。そしたら、またずっと一緒にいられるよ。
――うん、わかった。約束ね。早くおとなになって、家族にもどろうね。
「俺も、少しでも早く、ホタに文句を言わせないくらいの“大人”ってヤツに、なるから」
十二年前に交わした約束が、あの頃とは異なる響きで芳音の口から再び紡がれた。