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懺悔 2

 芳音は望と向かい合わせに据えられたパイプ椅子へ腰掛ける勇気が持てなかった。個室のベッドに腰掛けてファイルをめくる望の背中を、窓辺にもたれて遠目に見つめる。顔を伏せたまま、垂れた前髪の隙間から盗み見るので精一杯だった。組んだ腕に余計な力が入って、巧くコントロールが出来ないでいた。腕に食い込む爪が、痛い。芳音をそれから解放したのは、望の問い掛けと一枚の写真だった。

「ママが、ふたり?」

 そう言って振り返った彼女が翳したのは、アルプスの山々を背景にした、三人の子どもの写った古い写真。真ん中に写る大きな吊り目の子は、ボーイッシュな服装ではあるものの、宿す満面の笑みが翠の面影を感じさせる。初めてその写真を見た当時の芳音は、その左側に写った少年が翠の幼馴染で兄貴分だった人だと別の資料から知った。

「右側の、つまんなそうな顔をしてる子は、翠ママのふたつ上の兄貴。来栖煌輝っていうんだって」

 差し出されたその写真を受け取り、彼女の前で裏返す。裏には撮影年月日とともに、来栖兄妹の年齢が記されていた。

「お兄さん……ママはひとりっ子じゃあなかったの」

 望はひどく困惑した表情でそう呟いたものの、それをさほど大きな隠し事と受け止めてはいないようだ。

「どうしてパパやお母さんは、そんな嘘をついていたのかしら。変なの」

 独り言に近いぼやきを口にしながら、別の資料を手に取る望。彼女の向かいに腰掛けないと不自然な雰囲気になり、芳音はやむを得ずそこへ腰を落ち着けた。気分はまるで、取り調べを受けている犯罪者の心境だった。

「ちょっと、何これ。アダルトビデオの販売リストって」

 望がひどく不快げな表情を宿し、露骨に非難めいた声でそう言った。その瞬間、芳音は呼吸の仕方を忘れた。

「ねえ、これ、違う資料が混じってる。随分古い日付ね。もう、藪じいってば、ちゃんと整理しておかないんだから」

 ある人物の名前だけがマーカーでチェックされているそのリスト。翠の兄と一緒に、翠を貶めたヤツのひとり。見たこともないそいつと、望を貶めた誰かとのイメージが重なった。

「……間違って、ないよ」

 答える声が、かすれていた。「は?」と問い返す望の声の高さに、次ぐ言葉が阻まれた。

「間違ってない、って……どういう、こと?」

 顔を上げなくても、彼女の表情が解った。必死で笑みを浮かべようとするのに、巧く笑えなくてひしゃげているだろう、苦しげでゆがんだ、奇妙な顔。

「この牧瀬潤って人、誰? ママと関係のある人ってこと?」

「……」

 どう答えていいのかわからない。解らないまま芳音は、中途半端な形で真実の一部を口にした。

「来栖煌輝の、先輩って人で……翠ママを撮って、それを……売った人」

 静まり返った静寂の中、外からそよいで来る涼風がセミの鳴き声を運んで来る。それに紛れてコクリと喉を鳴らす音が、芳音の鼓膜をかすかに揺らした。

「まさか、ママも私と似たようなこと」

「違う」

 芳音は望の手にしたファイルのポケットから数枚の紙を取り出し、彼女が読める形に広げて見せた。

「のん……翠ママは」

 心臓が壊れそうなほどに早く脈打ち、芳音の口をつぐませようと邪魔をする。

「実の兄貴から、身体的な虐待と……」

 絞り出した芳音の声に、望の小声が重なった。

「性的、虐待?」

 資料に記されていた“依頼”の概要。

 依頼人、仮名“mie”。その依頼人が翠だったことを辰巳の調べで判明した事実。彼女の依頼が兄、来栖煌輝の虐待から救って欲しいというものではなく、自分を殺して欲しいという内容だったこと。当時でまだ十四歳の翠が依頼するには、あまりにもゆがんだ発想と彼女を取り巻く環境だったこと。辰巳が最終的にそれをどう処理したかまでのすべてがそこに記されていた。


 ――依頼人情報。

 依頼人名、来栖翠。首筋に煙草によると思われる火傷痕有。兄、来栖煌輝と確執有。煌輝の一方的な憎悪、主従関係が認められる。情報提供者等後述。

 ――周辺情報より。

 煌輝による翠への性的及び傷害の虐待行為有。情報提供、小阪隆明(来栖兄妹の幼馴染)、他複数(いずれも同校生徒)。別途データ添付。

 ――対応。

 現状確認。依頼人、小阪の手により負傷、意識喪失。契約不成立。

 尚、負傷は小阪の不可抗力とし小阪の排除は不要と見做す。

 ――追記。

 依頼内容-来栖煌輝の抹消。契約即時成立及び実行。

 ――追記・2。

 堕胎事実の証拠添付。父親名・牧瀬潤は、来栖煌輝により依頼を受諾。既成事実は無(牧瀬潤談)。

 ――追記・3。

 依頼人、両親より独立、上京。高木経由で久我貴美子を後見人として保護。

 ――追記・4。

 追記2に誤あり。牧瀬より既成事実の自白あり。別途音声データ添付。牧瀬潤、別件事由により抹消。


「ちょ……っと、待ってよ、何これ。なんなの? ばっかじゃないの? 誰がなんのためにか知らないけれど、これじゃあいくらなんでもウソがあからさま過ぎて、騙されようがないじゃない」

 望はバカにしたような声で一気にそこまで吐き捨てると、目一杯眉根を寄せ、肩を揺らして嗤った。無駄な時間を費やしたとばかりに、手にしたファイルを乱暴に閉じる。

「芳音、お人よしもいい加減にしないと。お金さえあれば、こんなものいくらでも捏造出来るわ。藪じいも本気でこんなものを信じているのかしら。それともやっぱり」

「それ、藪じいが俺に見せたんじゃなくて、俺が藪じいに見せたもの、なんだ」

 望の都合のいい解釈を断ち切るように口を挟んだ。膝に載せた両手が、膝頭に爪を立てる。

「……芳音、が?」

 白んだ声が、益々芳音を俯かせた。前髪の隙間からわずかに見えていた、彼女の胸元を飾る翠玉さえも見えないほどに頭を垂れる。

「その調査書を書いたのは、辰巳……俺の、親父。依頼を請けたのも、のんの伯父貴に当たる人を“抹消”したのも、……翠ママをそういう病気に追い込んだのも、全部……ごめんなさい」

 途切れ途切れにやっとの思いで謝罪を口にして押し黙る。辰巳がしでかした罪の重さに、唇を噛まずにはいられなかった。口の中いっぱいに、鈍い錆び味が広がっていく。居た堪れない沈黙が、芳音に何時間もの苦痛な時間を思わせた。

「……うそ、じゃあ、ない……って、こと?」

 そう呟いた望の手から、ファイルがずるりとこぼれ落ちた。衝撃で綴じられたリングが外れ、袋とじで隠してあった写真まで床一面に散らばった。

「あ……?」

 望の落とす視線の動きが、ストップモーションのように細切れに映る。腹の底に大量の冷たい氷が押し込まれたような薄ら寒い感覚が背筋まで走った。

「ダメっ、見るなっ」

 咄嗟に動いた芳音の体が床に膝をつき、望の視界から散らばった書類の存在を隠した。芳音は慌てて散らかった写真を掻き集めたが、拾うのに気を取られ、左手に集めた写真を望に奪い返された。

「な……に、これ」

 望の目があっという間に大きく見開き、ぽっかりと口が開いていく。取り返そうと写真に手を伸ばした芳音に強い拒絶の視線が放たれ、手の動きさえも封じられた。

「触らないで」

 その命令を無視出来ない自分がいた。望をゆがめた見えない誰かが資料にあった牧瀬とかいう男であれば、自分が翠の実兄と同じ立場にあるような錯覚に陥った。


 上半身に着衣のない、長い栗色の髪で顔の半分を隠された少女が、血の海にうつ伏せで倒れている写真。右肩甲骨の下辺りから腰の中央に掛けて大きな切り傷を受け、負わされたばかりと判らせる鮮明な赤が上半身を隠す衣と化している後ろ姿。

「何があってこうなったのか、芳音は知ってるの」

 冷ややかで無機質な望の声が室内に反響した。

「虐待現場に居合わせた幼馴染の人が、翠ママを助けようとして煌輝に切りつけようとしたらしい。翠ママはそれを庇ってこうなった、って」

「資料には書いてないわ」

「証拠が残るから、書いてない。克美が関わってるから、この件そのものが警察からも消されたんだ。この日、克美は翠ママと映画を見に行く予定だったのをドタキャンされたんだって。そんな人じゃないのにおかしいと思って、辰巳と一緒に来栖家に行ったら、現場がこういう状態になってて」

 語る芳音の脳裏に、映像が蘇る。写真以上に生々しく残忍な、狂った辰巳の凶行の一部始終。

「なってて、それで?」

 望の促す声が、芳音に目を開かせた。無意識に固く閉じた瞼を開いたことで、吐き気を催す映像が消えてくれた。

「その現場を見て、辰巳が克美の姉貴と翠ママを混同させて……克美の姉貴も辰巳の親父に、モノみたいに殺されたから……それで、キレて」

 ――死を以て(あがな)ってもらうよ。

「殺、した、の……?」

「……ごめんなさい……のんの、伯父貴だったのに……ごめん……」

 ぺたり、という小さな音が、ほとんど同時にふたつ鳴る。辛うじて立てていた力まで抜け切ってしまった芳音の膝が、床をつく音だった。もうひとつは、芳音が邪魔するのを防ぐように立っていた望からも力が抜けて、床にへたり込んでしまった膝が床を叩く音。真正面で向き合うのに、互いに相手の顔を見ることが出来なかった。残酷な事実を突きつける写真たちが、嘲笑うようにふたりの間に舞い落ちた。

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