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懺悔 1

 芳音には、藪の思惑が解らなかった。彼は気負っていた芳音に見事なまでの肩透かしを食らわせた。望が来たからには、当分好きなだけ酒を飲むことが出来ないという愚痴や、ふたりの作った食事にケチをつける部分を必死で見つけるなど、芳音から見たら無駄に時間を費やしているようなことばかり言っていた。

(資料を持って来いなんて言うから、てっきり……違うのか)

 望が食器を洗っている間に、慌てて藪へ手渡したそれら。今は藪が預かっていて、どこにあるのかも解らない。それから十日ほど経つが、藪は相変わらず何もふたりに促すようなアクションを掛けては来なかった。


 午前中は店の仕込みなどで『Canon』のウェイターをして過ごし、時々気を回した克美がフリータイムをくれた時には、一応夏休みの課題をこなす。午後からバイトという名目で出掛けつつ、実際は望と少し遠出をしたり、温泉街で過ごしたり、赤木家で自分たちの勉強をしがてら子どもたちの宿題を見てあげたり。何をしてるんだろうと思わされる毎日が続いていた。

 望がこちらへ来て早々にふたりで愛美を訪ねた。ふたりの数いる養母のひとりでもあった彼女は、折を見て望が信州に来ていることを克美に伝えると言ってくれた。ただし、望が穂高に引き取られていった当時のような不安定な状態になる可能性がゼロだと確信出来れば、という条件付だったが。

 愛美から話を聞いたのだろう。愛華や綾華が別荘を訪ねて来たのは、それから数日を過ぎた週末だった。

「この辺で過ごすには、芳音が何かと面倒でしょ」

 どこで客と会うかわからない。口伝えに克美の耳に入れば何かと話がこじれるだろうからと、松本から少し離れたところへ観光にでも行ってみたら、と提案してくれたのがふたりだった。社会人の愛華はさておき、大学生の綾華も夏休みなので、時折車を出してふたりの足になってくれた。許された半日の中で、近過ぎるがゆえに却って足を踏み入れたことのない場所を訪ねてみる。それは望だけでなく、芳音自身にとっても新しい発見が多くて楽しめた。そこに圭吾が加わって、大学受験と無縁の面子ばかりで遊び、高校生活最後の夏休みとは思えないのん気な休暇が過ぎていった。

 心の中に重石が載っているのは自分だけなのか、と思わせるほど、望はよく笑い、よく怒り、よく喋った。彼女が素直に喜怒哀楽を出せていく様を間近で感じ、逆に彼女がそれまでは感情にふたをして来ていたのだと周囲に覚らせた。




 時々ぎこちない間を生みながらも、穏やかに優しい時間が過ぎていた。失って来た十二年を埋めるかのように、語らなくても解るものが増えていった。

 そして忘れた頃に、その日はやって来た。八月十四日。信州にいるともなれば、当然望が望むこと。

「藪じい、ママのお墓参りに行って来るわ。昨日が盆入りだから、克美ママや、仮にパパがママに会いに行くことを考えていたとしても、今日ならバッティングしないでしょう?」

 芳音の同伴は受けつけられなかった。翠の眠る寺院を覚えていないから、と住所を尋ねる彼女に藪が言った。

「どのツラ下げて、翠を拝みに行くつもりだ?」

「え」

「ちょ、藪じい」

 やっとありのままの望が戻って来たのに。そんな気持ちが芳音に口を挟ませた。だが、藪にひと睨みされたら、見えない糸に開き掛けた口を縫い合わされた。

「俺ァこの間、てめえらに“いつまでも親の付属品でいるな”っつったよな。墓参りってのは、故人に甘えに行くためのもんじゃねえ。お陰さんで元気に過ごせている、そういう姿を見せに行くもんだ。そう報告が出来るよう、日々を誠実に過ごす。少なくても、俺ァそう思ってる」

 藪がそう語りながら、机の中から分厚い茶封筒を取り出して、ばさりと机の上へ乱暴に広げた。

「穂高がお前と北城のことを調べた調査報告書だ。そのほか、この十二年に関する諸々。ひととおり読んで事情は把握した」

 その言葉を聞いた瞬間、望の顔色が変わった。藪から目を逸らさないのが精一杯とでも言いたげに、唇を固く結んでいる。喉許まで真っ赤に染まる白い肌は、ガラス窓に淡く映る芳音のそれとは対照的だった。

「経営に主眼を置いているなら、政経学部で経営理論を学ぶ選択の方が、後々潰しの利く進路を取れるっていう穂高の話を聞いてからだな、こういうことをし始めたのは。金を集めていた理由は、てめえの学費くらいてめえで工面するから口を挟むなっていう穂高への当てつけか、もしくは渡部薬品を継ぐ気はないっていう意思表示。だいたい、そんなところか」

 気色ばんだ望の顔が、青白くゆがんでいく。彼女は黙秘という形で藪に抵抗を試みた。踵を返して出口へ向かう彼女に、藪が大きな溜息をついて引き止めた。

「まあ、俺に答える必要はねえがな。穂高がどうしてこいつを俺に預けたのか、気になるなら取り敢えず座れや」

 彼女が芳音の方へ振り返る。疑いと迷いと好奇心の入り混じる瞳が、藪と彼女の間に挟まる芳音の瞳をまっすぐ見つめた。芳音には、その時点でもまだ解らなかった。藪がどういう形で、どこまで彼女に事実を伝えようと考えているのか。そして穂高が送って来たというその資料。その意図も皆目見当がつかない。ただひとつだけ解るのは、藪が望の抱えたゆがみを心配している、ということ。

「のん、藪じいは、心のお医者だよ。誰の敵でも味方でもないから……藪じいが何を言いたいのか解らないなら、逃げないで話を聞こう」

 言葉を慎重に選びながら、藪の手前にある椅子を引いた。

「別に逃げるわけじゃないわ。聞けばいいんでしょう」

 望はそう吐き捨てると、芳音が促した椅子へ乱暴に腰掛けた。藪はそれを見とめると、部屋の隅にたたまれたパイプ椅子を顎でしゃくって芳音にも座るよう促した。

「てめえの間違いに、ようやく気がついたんだとよ」

 そんな藪の語りが背中越しに聞こえて来る。

「間違い?」

 望の問いは、そのまま芳音の疑問でもあった。彼女の隣に腰を落ち着け、ふたりで藪の言葉を待った。

「翠はお前が考えているような、幻想世界の住人じゃねえ、ってことだ。あいつはお前と違って、金で買えないもんばっかり欲しがる欲張りな娘だった。そういう、ありのままの翠を最初からお前に伝えておけば、お前がこんなことにはならなかったんじゃないか、だとよ」

 藪がそう語りながら、別の資料を机の一番大きな引き出しから取り出した。翠の名前が記されたカルテと看護記録。それと、芳音が渡した『mie ×』と書かれたファイル。彼が最初に望へ差し出したのは、カルテと看護記録だった。それを受け取ってパラパラとページを繰る望に、藪は掻い摘んで翠の病気についての説明をした。

「ドラマや映画なんかで、多重人格って言葉は聞いたことがあるだろう。あれは病状を面白おかしく捏造されてるが、翠の持っていた病気ってのは、あれに近い」

 最も近い既存の病名で、ひとりの人間の中に複数の人格が存在する“解離性同一性障害”。だが翠にはその特徴から外れる要素が多々あり、彼女の了承のもと、未知の病として藪が病理研究していたことが話された。

「ママは心臓を患っていただけじゃなかった、ってこと?」

 そう尋ねる彼女の声から、少しだけ棘が落ちている。だが続く言葉が、藪に対する警戒だけを解いたに過ぎないことを物語った。

「パパが向精神薬の研究開発に力を注いでいることは知ってるわ。で、なぁに? 藪じいがママを助けられなかったことを弱味にこんな役回りをさせたってこと? それとも、薬を提供している見返りに、跡を継げと私を説得しろとでも脅されたとか? この資料を藪じいに見せたのは、私が藪じいの嘆く姿を見れば考えを変えると思った、ってところかしら?」

「えれえ飛躍した発想だな」

 藪は真顔で挑発の言葉を並べる望へ苦笑を浮かべた。

「俺から見りゃあ穂高もお前も、似たもの同士に見える。あちこちにぶつかっちゃあ痛い目見てるガキみたいなもんだ。あいにくこっちは、お前らの犬になるほど落ちぶれちゃあいねえよ」

 彼は視線を落とし、そう言いながらもうひとつのファイルを懐かしげにめくって、唐突に芳音の身の上に話題を転じた。

「芳音も中坊の頃は、今のお前と似たようなもんだった。何も事実を知らされなくて、それが芳音に余計な憶測を作らせちまった。父親に対するお前の否定や嫌悪は、半端なかったな。なあ、芳音」

 二種類の視線が、芳音に集中する。ひとつは疑問に満ちた、いぶかる視線。もうひとつは、促すような見守る視線。

「……うん」

「今は、そうでもねえわな。自分でそれはどうしてそう変わったんだと思う」

「……多分、知ろうとしたから。知ったから」

 辰巳という人間と、克美を始めとする、彼に関わって来た人たちを。

「知って、ひねくれた解釈をしちまってるのはいただけねえがな」

 藪が顔を伏せてしまった芳音の頭を、ファイルで軽く小突いて苦笑した。

「医者ってえのは、情けないもんでな。出来ることっちゃあ、誘い水がせいぜいなところだ。家族の支えには敵わねえ。お前らは、それぞれの家庭の中で、それぞれの同じ立場に立ってるもん同士だ。しかもリンクしていることが山ほどある。――望。芳音が知っているもんを、共有してみねえか」

 互いに鏡を見るように。似ているけれど、決して同じではないお互いを、相手の目線から辿るように。

「まあ……若干の番狂わせがあるような気がしねえでもねえが。その辺の節度はわきまえてるって信じておいてやらあ」

 藪は居心地悪そうにぼそりと呟くと、大儀そうに腰を上げた。

「翠のノートパソコンも、一応渡しておいてやる。日記をつけているこたあ知っていたが、初めて読ませてもらった」

 彼はそう言いながら、医学書の詰まった本棚の上部、ほんのわずかな隙間に隠すような恰好で置かれたそれを取り出した。

「芳音、お前もこれを読んだのか」

 重く沈んだ声が背中越しに問い掛ける。

「……全部では、ないけれど」

「克美のバカが。パスワードの解読なんて、余計なことをお前に教えやがったもんだ」

 くすりと小さく笑う彼の声が、ひどくくたびれた音を奏でた。笑うとも哀れむともつかない複雑な色を帯びた瞳が、芳音をゆっくりと見つめ返す。

「こいつぁ飽くまでも翠の私見だ。人の数だけ解釈がある。正解なんざあると言えばどれも正解だろうし、ないって言やあ、どれも正解じゃねえ。と、俺は思うんだがな」

 そう言って手渡された古いノートパソコンは、その旧式さだけが理由ではない重さを芳音に感じさせた。

「奥の個室が空いている。何かあればナースコールで呼べや」

 藪はそれだけ言うと、いくつかのカルテを取り出してそれに視線を落とし、再びふたりへ視線を返さないことで終了を告げた。

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