Clone 2
松本駅までの長い道のりを、芳音は独りとぼとぼと背を丸めて歩いていた。
「夕飯を奢ってやるとか言って、要は飲みたいから運転手が欲しかっただけじゃんか」
新年度が始まった春爛漫なのは昼だけだ。ここ、信州の春の夜はまだ結構冷え込みがきつい。偽造免許証を作って無免許運転で運転代行の依頼なども請け負っていると知っている愛華に、芳音が逆らえるはずもなく。
『克美ママに全部ばらすよ』
愛華のそのひと言で、完全ノックアウトされた。自宅兼自営の店でもある『Canon』は、飲んでいた居酒屋と同じ駅前なのに、愛華の車で城下町方面にある家までふたりを送り、帰りは自分で適当に、とか酷い仕打ちだと思う。正直、徒歩で帰るのは面倒臭かった。道中行き交う人すべてが、芳音には店の客に見えるから。
「あ、芳音君」
芳音の敬遠している意味合いで、予測どおり聞き覚えのある声が名を呼んだ。
「こんばんは、ハルナさん。今パートの帰り?」
そう返して俯いていた顔を上げる時には、既に営業スマイルが宿っていた。対面から名を呼んで近づいて来る中年女性の声ひとつで、『Canon』の常連客のひとりだと記憶の引き出しが瞬時に弾き出したからだ。
「ええ、今日は遅番だったの。珍しいわね、歩きなんて。普段はバイクばっかりなのに」
「うん。代行の帰り。近場だったから」
「ああ、そっか。週末だものね」
「あ、やべ。今日って金曜日か」
「何?」
「うん、今日掃除当番サボっちゃった。明日の当番と交代してって投げちゃったけど、今日で当番が終わりじゃん」
古参の常連客とも言える彼女が、くすりと小さな声を漏らす。
「そういうどっか抜けてるところ、マスターを思い出すわね」
彼女の瞳が、芳音ではない誰かを見ながら芳音の瞳を懐かしげに見上げて来る。彼女は高校時代の頃から『Canon』を愛用していたらしい。当然ながら、克美や辰巳との時間を芳音以上に共有していた。そんな種類の懐古の視線が、芳音に苦笑を浮かばせた。
「克美からは、辰巳は完璧主義だってのろけられてばっかなんだけど」
「そう? お店でのマスターって、寝坊で遅刻したり、砂糖をよく切らしちゃったりとか、結構軽いボケかましてる人で、しょっちゅう克美ちゃんに怒られてばっかりいたわよ」
「えー、それ、俺とまるっと一緒じゃん。ハルナさん、今度俺が克美にどやされてたら、店でそれ言ってフォローしてよ」
「はいはい。また寄らせてもらうわね。克美ちゃんによろしく」
「うぃっす。んじゃ、気をつけて」
「そっちも風邪ひかないようにね。さよなら」
「さよなら」
彼女とすれ違う。ヒールの靴音が小さくなっていく。それに従い芳音からも笑みが徐々に引いていった。最後に零れた芳音の溜息が、彼女の耳に届くことはなかった。
駅前大通を南へ曲がり、少し進んだ裏小路を重い足取りで進んでいく。芳音は古びたテナントビルがそびえ立つその一角で、一度足を止めてビルを見上げた。
仄かに灯りが漏れる窓。今週末も賑わっているようだ。視線を戻して看板を見下ろす。
『喫茶 Canon』
その看板に“Bar Time”のプレートが添えられていた。自分の名と同じこの店を嫌っていた時期もあった。飲み屋と同じ名前なのが、自分の存在を軽んじられているような気がした思春期の頃。喫茶店だけでは生活出来なくてやむを得なかったから、と割り切れた今はさほど気にならなくなったけれど。
「手伝ってやるか」
いつからか、自分が守らなくてはならないものだと思うようになっていた。克美と『Canon』は、ふたつでひとつ。克美は自分にとって、たった一人の家族だから。そんな克美に遺された『Canon』は、辰巳と家族であることを示す唯一の象徴だから。
――もし俺の子が宿ったら、かのん、と名づけてくれると嬉しい。俺達の楽園の象徴を。
ディスクに収められた、辰巳からの最期の言葉。見ているこちらが気恥ずかしくなるほど、子供みたいな面映い顔でそう告げた素の表情。自分とそっくりな顔をそのまま伸ばした辰巳の姿を、中学三年の時に初めて見た。初めて、自分の父親という存在を具体的に知った。初めて辰巳が自分を遺していった理由を、理屈ではなく心で受け取った。
辰巳が守りたかったもの。それは自分で慈しみ育てて来た、克美という辰巳にとって唯一無二の宝物。自分はそれを受け継ぐために存在している。そのために自分が在る。そのために辰巳が命を賭したのであれば、自分が彼の意志を受け継ぐべきなのだろう。だけど。
「俺は、俺でしかいられないよ」
吐き出した繰り言は、淡く白い吐息とともに冷たい夜に解けて消えた。
昼間はバロック音楽の流れる静かで落ち着いた雰囲気の『Canon』だが、夜になるとクラシックジャズの流れる、少しざわついた大人の夜といった雰囲気を醸し出す。芳音が重厚な杉材でしつらえられた格子扉を開けると、ざわめきとサックスの音が芳音の鼓膜を忙しく揺さぶった。
「おかえり」
「お。芳音、こんな時間に帰るなんて珍しいな」
常連客からのそんな声に、ひとつひとつ愛想のよい挨拶を返す。
「いらっしゃい。なんか気乗りしなくて、今日はスタジオ行くの、止めたんだ」
芳音のタイムスケジュールにまで突っ込みを入れて来た客は、何度か芳音の親友、圭吾がリーダーを務めるバンドのライブにもよく来てくれる客だった。
「その内圭吾にどやされるぞ」
「んー、でも元々助っ人で入っただけだったんだし。フリーでならって条件でメンバーになってるし」
そう言い訳をしながらジャケットを脱いで納戸の手前にあるポールハンガーに引っ掛けた。
「おかえり。マナんところに行ってたんだって? 愛華から飯につき合わせたって電話をもらったよ」
キッチンからそう声を掛けて来るアルトの声に、今日は妙に素気ない態度で返してしまった。
「中坊じゃないんだから、いちいち連絡なんかしなくても、ちゃんとまっすぐ帰るのにな」
袖をめくりながらキッチンへ入り、克美の隣に並んで伝票をチェックしながら上っ面だけの愚痴を零した。
「芳音をガキ扱いしているわけじゃないよ。ボクがいつまでもマナたちに心配を掛けてる所為だから、気にすんな」
客に聞こえない小声でそう呟く克美の横顔を見て、「しまった」と心の中でだけ舌打ちをした。
「手伝う。オーダー、まだなのは、どれ?」
お茶を濁すようにそう聞いて、克美の頭をくしゃりと掻き混ぜた。きっと辰巳ならそうやって克美を元気づけていただろうから。
「おっまえな、親を撫でるなっ、親をっ」
予想どおりの反応を示す克美が、芳音に不遜な笑みを浮かばせる。
「だってちっせぇんだもん」
「ボクがちっさいんじゃなくて、お前がでかいのっ」
「いいから、オーダーどれが通ってないんだよ」
「くぉ、おま、なんかむかつくっ」
カウンター席の客たちが「また親子漫才が始まった」と笑う。克美がむきになって反論しながら、それでもやっぱり自然な笑みを浮かべ出す。
「あ、芳音クンが入るんなら、私オムライス追加ー」
テーブル席から、そんなオーダーが届いた。
「カエデさんは、グリーンピース抜きだっけ」
「うん。芳音くんも一発で覚えてくれてるんだ」
さすがマスターの愛息子、という言葉には、聞こえない振りをして愛想笑いだけを返した。
九時半を回った頃にピークの第一陣が去った。克美が束ねた髪をといて、大きくひとつ伸びをした。
「ふあー、疲れたっ。シェイカー振り過ぎて手首痛え」
相変わらず性別不詳な男言葉で、両手を組んで首をコリコリと回しながらそう零す。
「だから俺もやるって言ったのに」
「だーめ。未成年に酒なんか作らせまっせん」
「倉庫へ取りには行かせる癖に」
「芳音、今日、なんか、あった?」
食器を洗っていた芳音の手が一瞬止まる。頬へ被った髪の隙間から克美を盗み見れば、不安げな頼りない大きいな吊り目が乞うような潤みを見せて芳音の横顔を見つめていた。
「別に。なんで?」
芳音の両手が再び動く。食器についた洗剤を流す水道の音が、少しだけ芳音の耳と克美の声の間に距離を取らせてくれる。
「ボクとまともに目を合わせて喋らないから。なんかあったのかな、って」
客と話をしながらオーダーを取る繁忙の中、そこまで見ているとは思わなかった。
「……ごめん」
きゅ、と蛇口を閉めて手を拭う。メリットとデメリットを天秤に掛け、瞬時に答えを弾き出す。
「愛華の車、ステア握った。偽造カード、克美が取り上げた奴のほかにもまだ何枚か作ってあったんだ」
長い長い黒髪が、克美の溜息で揺れる。大きな目が半分閉じた瞼で隠される。俯いた瞬間、芳音から克美の表情全部を彼女の髪が覆い隠した。
「あと八ヶ月の辛抱だろう? お前は何をそんなに焦ってるんだ?」
「克美こそ、自分が今までして来てたことじゃん。なんで今更この程度のアンモラルに拘るのか俺にはわかんない」
「芳音……なんでも屋って、何」
俯いた横顔が、見えないはずの表情が、棘のような鋭さで芳音をねめつける。
「なに、って」
「ボクも辰巳も、お前にそんなもの望んじゃいない」
俯いた克美の顔が勢いよく上がった。彼女の顔を覆っていた髪がさらさらと彼女の肩を流れ、こちらへ振り向く母の顔を晒そうとする。芳音は反射的にその顔から視線を背けた。両手はウェストエプロンの紐を解き始めていた。
「愛華がゲロったの?」
口にした言葉は自分でもひやりとするほど冷たく平坦な声色になっていた。
「お前、この間別れさせ屋の依頼を請けた時に、依頼人の中年ばばあがホテルに連れ込もうとしたところに愛華と鉢合わせたんだってな。一般人だったからよかったものの、ヤバイ奴だったら愛華まで巻き込むところだったんだぞ」
「やっぱ、愛華か」
「誰だっていいだろ。そんなの問題じゃないっ」
どうしてそんなに金が欲しいんだと問い詰められても、芳音に答えられる訳がなかった。
「愛華にもブン殴られたし。もうその手の依頼は請けてないし。だからもういいじゃん」
言う間にも、出入り口の扉へ足が向かう。今日は女難の相が出ているみたいだから、独りでいる方がよさそうだ、と自分で自分を茶化してみても、まるで気分が晴れなかった。
「学費の心配ならするなって言っただろう。ちゃんと話せよ。お前、何考えてるんだってば」
そんな声を無視して、扉にそっと手を掛ける。だが結局最後まで突き放せない自分がいた。
「克美。その金ってさ。辰巳があんたの結婚資金にって貯めて来ていた金だろう?」
振り返った芳音の面に、苦笑が勝手に浮かんでいた。
「見た目だけなら、三十路序盤っつっても全然まだまだ通用するじゃん。早くケリつけなよ。とっとと俺のおふくろなんて仕事を卒業してさ」
何度こんなやり取りを繰り返したんだろう、と心の中で呆れ返る。今日みたいな日には、無性に吐き出してしまいたくなる。誰とケリをつけるのかとか、母親業の卒業が何を意味しているのかとか、もう言い飽きるほど克美に伝えて来た。そして返って来る克美の答えは、やはりいつもと変わらない。
「お前が幾つになったって、ボクはずっとお前の母親だっ」
「なら、そんな瞳で俺を見ないでよ」
自分ではない遠い誰かを懐かしむ目で見ないで欲しい。
「だから、ちゃんと話してってば。お前のソレ、全然意味がわかんない」
「……解るまで考えろよ」
ドアベルがからんと終了のゴングを鳴らした。
「おぁ、ビックリした。芳音、こんなとこで何突っ立ってんだ?」
来客が芳音に思い掛けない助け舟を出した。
「いらっしゃい。倉庫へ酒を取りに行こうと思って。ごめんね。塞いじゃった」
不機嫌を必死で抑えた「いらっしゃい」というキッチンの方からの声を背中に受けて、芳音は店をあとにした。