巣立つとき
克美が最後の客を見送ったあとに店内を振り返って時計を見れば、もう十二時半を回っていた。とりあえず灯りの照度を落とすだけにとどめ、片づけもせずに一段抜かしで三階へ向かう階段を上った。芳音がいそうな扉は容易に想像がついた。
「どうせまた辰巳に愚痴ってるんだろう。あのバカ」
資料の詰まったその部屋には、過去に関する資料の原本が揃っている。そこを芳音に解放して以来、彼は何かあればすぐその部屋へ逃げ込むようになっていた。彼が特に好んで見るのは、真っ白な表紙の落書き帳。辰巳が店の中央テーブルに置いていた、交換日記のようなもの。当時、今の芳音と同世代の子たちが、よく辰巳に相談を書いていた。それに答える辰巳の文字を追った形跡があると判ったのは、芳音が高校へ入って間もない頃だ。
「ボクだって、これでも……」
親、なんだぞ――浮かんだそれを、なぜか口にするのがためらわれた。その腹立たしさが運ぶ足の荒っぽさに表れた。
克美は迷うことなく、並ぶ扉から植木鉢の置いた倉庫を選んでその前に佇んだ。バカ息子が鍵を中に持ち込んで閉じこもっているのも想定済みだ。
「くぉらっ、開けやがれ、クソ芳音っ」
一応まずは声を掛けてから。それで開けないのなら、鉄の扉を蹴飛ばして。それでもダメなら奥の手だ。克美はそのつもりで前髪を止めた数本のピンを外してピッキングの準備をした。
「え?」
鉄の扉に耳をそばだてた瞬間、ヘアピンの先を曲げる克美の手が止まった。
「うわああああああああ!!」
防音製の扉にも関わらず、漏れて来たのは叫び声。そして、あとに続く、鈍い音。それらが克美の咆えた文句を彼の耳にまったく伝えていないと知らせていた。
「なっ、あいつまた」
心配の原因が、あっという間にまるで違うものにすり代わった。がなりつけるはずだった言葉が全部頭から消し飛ばされた。
反抗の激しかった中学生の頃、芳音が突然大声で泣き叫びながら床に頭を打ちつけて、血を流すほど自分を傷つけたことがあった。一瞬にして腹の底が冷えたあの時の感覚が、数年ぶりに克美を襲った。咄嗟に加工したピンで鍵を開けようとしたが、その後のことを思い出してまた手が止まった。
『この程度で死にゃしねえよ。お前が取り乱してうろたえてるのを晒したら、却って面倒な方へ発散の仕方が捻じ曲がる』
ほっとけ、と、藪が言ったのを思い出した。あの時の芳音がそうなった理由は、心ないクラスメートが、芳音のみならず「変わり者の水商売女がヘタこいて出来ちゃった厄介者のくせに」と、克美のことまで侮辱したからだと聞かされた。
「……」
踏み込んで、無理やりでも顔を上げさせて、何を抱えているのか、その瞳をまっすぐ覗きたい。けれど。
震える拳に力をこめる。俯いた先に見える植木鉢を見据える。
「……ほどほどに、しとけよ」
克美は捻じ曲げたヘアピンを植木鉢に差し込んだ。芳音へのメッセージとして。
――話してくれるのを、待ってる。力になれることなら、力になる。
「これでも、一応、親なんだからな」
克美は自分へ言い含めるように、鉄の扉に向かって呟いた。
なかなか寝つけなくて、非常識を承知で藪に電話を掛けた。
『克美か。どうした』
「うん……夜中に、ごめん」
昼間に掛けると露骨に面倒くさそうな声を出す藪も、こんな時には文句ひとつ言わずにすぐ本題へ入らせてくれる空気を克美に提供してくれる。
「ねえ、この二日の間に、そっちで芳音に何かあった?」
『あ? いや、特にこれといったこたあねえが。赤木んちでなんかあったかどうかは聞いてねえ』
どうかしたかと尋ねられ、現状を知る限りですべて話した。
「――だから、ホントは藪じいや赤木さんところに行ったんじゃなくて、また何かヤバいことしてるんじゃないかな、って。でも、ホントにそっちにずっといたんだね」
『こっちを出てから帰るまでの時間にもラグはねえからな。まあ、一応赤木に探りを入れてみるとするわ。……なあ、克美よ』
藪にしては珍しく戸惑いを帯びた声で、噛み砕くように呼び掛けられた。
「ん?」
『おめえはよ。芳音は自分と辰巳の子だ、今は自分だけの子だから、自分ひとりで育てる、って言い切ったよな。なりふり構わず、こっちにまで頭を下げて加勢しろっつって来た穂高の支援、そういう理由でバッサリ切り捨てたよな?』
「う、うん。何、いきなり」
まるで克美に己の言葉を反すうさせるかのように柔らかな声。そんな時ほど、緊張が走る。声の穏やかさと裏腹に、その内容の厳しさが常だからだ。
『なら、母親ばっかりしてねえで、時には父親って役どころも背負わなきゃなんねえ、って時もある。今は、どっちでいるのがあいつのためだと思う』
「……」
受話器を握る掌に湧き上がるじとりとした感触が、克美の喉を鳴らさせた。
彼は決して答えを強いない。自分で考えろと常に疑問形で投げ掛ける。
『立派な親にはなり損ねた俺が偉そうに言えるもんじゃあねえが、つくづく、親ってえのは根気のいる仕事だな』
お前は充分過ぎるほどいい母親だから、気負い過ぎるな。彼はそれだけ言うと、電話を切った。
「……母、親……ならば、って限定か」
それも本当は充分なんかじゃないのに。親子逆転で心配ばかり掛けてるのに。
克美のそんな繰り言を、トーン信号しか聞かせない電話だけが聞いていた。
ベッドから身を起こし、机の前に腰掛ける。パソコンの電源を入れて起動をしばし待つ。克美は『eden』というファイル名の動画ファイルをクリックして再生させた。
『克美、泣いてるんじゃないか? もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ』
今夜も辰巳は三十七歳のままで、はにかんだ笑みを浮かべて克美に語り掛ける。
「ねえ、辰巳。辰巳なら、どうする?」
『もし俺の子が宿ったら、かのん、と名づけてくれると嬉しい。俺達の楽園の象徴を名づけてやって欲しい』
そしてやっぱり今夜も、克美の問いには答えない。
「芳音は、男の子だよ。やっぱり親父じゃないと、ボクじゃダメな年頃になっちゃった」
『よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ』
「よろしく、じゃないよ。バカ辰。お前なら、どうやって芳音を少しでも楽にしてあげる?」
生ぬるい雫が、頬をついと伝っていく。
『克美、泣いてるんじゃないか?』
繰り返される辰巳の声に、克美の嗚咽が混じり合う。
「……会いたいよ……大丈夫、って、言ってよ……っ」
心細くて不安で寂しくて怖くて泣きたくなるたびにそうしてくれたように。
――克美、大丈夫。ゆっくりでいいんだよ。お前さんのペースで、少しずつで大丈夫。
自分の女性性を巧く受け容れられなかった時も、翠を一度失って壊れそうになった時も、北木の気持ちに巧く応えられなくて自分のことが大嫌いになった時も、いつも、そう言って抱きしめてくれた。その手が、今は、ない。
――ママ、こえ、飲んで? 笑って?
不意に、豆のままで湯に沈むコーヒーの入った幼児用のマグカップが脳裏を過ぎった。小さな小さな芳音が、おむつをぼとぼとにしたまま、初めて三階の階段を上って、死に囚われた克美を救い出してくれた。遠い遠い日に芳音が見せた、必死な笑顔を思い出す。
「……泣き言、言ってる場合じゃないじゃん」
苦しんでいるのは、芳音自身だ。その内訳がわからないから、“自分が”不安でしかたがない――それだけのことなんだ。
敢えてそれ“だけのこと”という言葉を当てはめる。固く口を結んで嗚咽を噛み殺す。
(強く、ならなくちゃ)
芳音をいつでも抱えられるように。図体ばかり大きくなっても、まだ大人になる途中の子ども、でもあるのだから。
芳音の年頃の時、克美は自分を男だと言い張っていた。長年男として育てられて来て、なかなかそれを巧く受け容れられなかった。その間、辰巳がずっと気長に待っていてくれた。「焦らず、ゆっくり、自分のペースでいいんだから」と。
泣き言を吐き出せる空気。それを自分なりに思い出した。辰巳はいつも「しょうがない子だね」と苦笑しながら、いつでも両手を広げてくれていた。そこに飛び込むのも払い除けるのも全部克美に委ねると、笑みを湛えることで伝えてくれていた。それは羽化したばかりのデリケートな成体を、硬く強い状態になるまで外敵から包み守るようなシェルターを連想させる。
『よろしくっ』
辰巳が何度目かのそれを口にした。
「おう」
張りのある声が、克美の自室に短く響いた。
翌朝、店の開店準備をする前に用意したもの。
硬く絞ったフェイスタオルを二枚。内一枚はいつでも差し出せるようにレンジで温めておく。湿布とそれをとめるテープと、一応絆創膏も用意して。
こんな朝は、コーヒーよりもカフェオレで。たっぷりのミルクといつもなら入れない砂糖をひとさじだけ入れて甘めに作っておく。隠し味にココアもひとさじ。濃厚な味になるからだ。
子どもの頃から芳音の大好物だった、鶏肉のミンチとタマネギのみじん切りだけを入れたオムライスを作る。卵はぜいたくにみっつ使って、とろとろの半熟オムレツを作り、炒めたチャーハンの上に載せたそれの真ん中に、そっと包丁を入れる。半熟オムレツがチャーハンを包むように、ふわりと広がったところへ、芳音がばつの悪そうな顔をして三階から店へ戻って来た。
「……おはよ……あ、オムライス」
「はよーっす。腹減っただろ」
芳音は俯いたまま、こちらの顔色を窺うような上目遣いで、カウンターに置かれたオムライスと克美を見比べた。
「ほれ」
芳音がカウンター席に腰を落ち着けたところで、レンジがタオルの温まったことを知らせる。克美は温めたフェイスタオルを、笑って彼に差し出した。
「……ども」
おずおずとそれを受け取る芳音を見て、克美は思わず噴き出した。
「ひでぇ顔。ぬるくなったら、それ貸しな。もっかいあっためてやるから。冷たいのと交代で目に当ててれば、腫れがかなり早く引くからさ」
昼から温泉宿のバイトに行くんだろうと、いつものように当たり障りのない世間話を投げ掛ける。そうすることで彼の警戒と不安を取り除こうと試みた。
「……なんにも、訊かないんだ?」
「訊かれたくないんだろ?」
「でも、昨夜、その……聞いてたんだろ?」
「ボクに吐き出してスッキリ出来るってんなら、訊いてやってもいいよー」
そう言ってわざと軽々しく笑ってやった。
「……怒ってないの?」
芳音は少し驚いたように目を見開いて、意外そうに尋ねて来た。
「んー、まあ、昨夜言ったので、全部っ。っつうかさ、悪ぃ。芳音の性格を考えれば、お客の言うとおり、なんだよな。信用してないみたいな言い方して、ごめんな」
芳音の額のこぶに、適度なサイズに切った湿布を貼りながら素直に謝った。
「……なんか、キモチワルイ」
やっと芳音が笑った。タオルで目を覆ったままだけれど、口角が小さく上向いた。それだけで、ほっとする。問い詰めるだけが、共有するだけが家族ではないと、よい意味で実感させられる。
「いただきます」
「ほい、どうぞ」
真っ赤な目が気にならないではないけれど。沈んだ表情が心をざわつかせることに変わりはないのだけれど。
「うまーっ。ちっきしょう。やっぱまだ克美には、オムライスじゃあ敵わないや」
そう言って美味そうに飯が食えるなら、大丈夫だと信じよう。
「オムライスじゃあ、って、ほかはボクに勝ってるってことか?」
「とりま飯関係はな」
「生意気なヤツ」
克美は芳音とそんなとりとめのない話をしながら、少しだけ藪の言った言葉の意味を理解出来た気がした。
朝食の食器を片付け、ふたりで開店準備を整える。掃除を終えてチーズケーキの仕込をしながら、芳音が克美と目を合わせないままぽつりと小さな声で呟いた。
「克美。俺やっぱさ、高校卒業したら、東京へ行って勉強したい」
彼の発したその切り出しが腹を括らせたのか、続けて紡がれた言葉は、随分と張りのある声で発せられた。
「辰巳はチーズケーキだったんだろ? 克美は林檎パイが売りだし。なら俺は、シフォンケーキの名人にでもなって、『Canon』の主導権を握ってやるんだ」
そう宣言する芳音は、克美の隣でチーズケーキの種を作っている。今日もまたゼラチンと砂糖の分量をコンマ一グラム単位で変えているのがメモ書きから見てとれる。
「味、見て。辰巳のに、少しは近くなった感じ?」
スプーンですくわれたひとさじを、舌の先で味わうように舐めてみた。
「……惜しいなぁ。美味いことは美味いんだけど、なんか、違うんだよな」
「ちっ。そのなんかっての、まだわかんねえのかよ」
「う~……。材料は間違ってないのにな」
そんな手厳しい判定をしても、未だに彼が辰巳特製チーズケーキの再現を諦めないのは。
「やっぱ、どうしても、その夢は諦めたくないかな、とか、思って。でも」
逆接の声が不意にくぐもった。芳音が今何を心配しているのか解った気がしたので、視線を芳音の手から、彼の顔に上げた。
「克美がその間、独りで大丈夫なら、だけど」
まだ本当は迷っているかのように、怯えた目をして克美を直視する。辰巳と同じような瞳を向けられて、自分の幼さに自己嫌悪を覚えた。
(芳音をかごの鳥にしちゃってたのは、『Canon』じゃなくて、やっぱりボク、なんだろうな)
刹那の時間に、この十七年半が思い廻らされる。辰巳を亡くして、翠を亡くして、心が壊れそうになったこと。穂高とのこと、望との不本意な別離。何も言わず、そして何も訊かずに独りで抱え込んでじっと我慢し続けている、芳音の十二年間。
(……巣立たせる時期、なんだよね)
何もかもが、過ぎたことだ。貴美子も懐かしむ目で芳音を見るようになっている。芳音の中から辰巳を見い出して苦しむ様子もなくなった。穂高たちも、もう大丈夫かも知れない。芳音には、自由に自分の道を選んで欲しい。もう時間が解決してくれた、と思ってもいいのかも知れない。
本当はまだ少しだけ迷う部分があるけれど。
(一度、泰江と連絡を取ってみようかな)
愛美に橋渡しを頼んでみよう。そんな具体的な対処がすぐに思い浮かぶだけの余裕がある自分に驚いた。そんな自分に、顔がほころぶ。自分のペースで、少しずつ。ちゃんとそれが、出来ている。素直にそう思えると、芳音への答えが難なくつるりと零れ出た。
「だ~いじょーびっ。だって、お客が毎日来てくれるもん。うっかりしたらお前のことを忘れっちゃうかも」
芳音と離れることも本当は寂しいけれど。克美はわざとらしいくらいの笑顔で憎まれ口を返してやった。
「忘れるのかよ、脳内ばばあ」
呆れた顔が、いつもの憎まれ口とワンセットで即返って来る。
「何っ?! お前、それが親に言う台詞かよっ」
むきになって言い返してみれば、いつもの芳音が戻って来た。
「忘れるんですか、脳内おばば」
「意味一緒じゃんかっ!」
「あ、いらっしゃいませー」
「あ、いらっしゃ」
「騙されてやんの」
「むかーっ!」
生意気に鼻で笑う芳音に、食って掛かりながらも笑ってしまう。
それは、とても難しくも、簡単なことだった。小さかった頼りない芳音の手を、大きくしっかりとした手になったと認めて、夢を掴もうとしているその手を自分から離してあげること。ただ闇雲に抱き包む時期はもう終わったと認め、彼自身が悩み考え、そして乗り越えるという彼の経験を奪わないこと。どうしようもなく傷ついて求められた時こそ、両手を広げて受けとめること――彼を、見守ること。
――時には父親って役どころも背負わなきゃなんねえ、って時もある。
それが今なのだ。克美の感じたそれは、確信に近いものがあった。