自覚 2
「はぁ……」
駐輪場にバイクを停めてエンジンを切ると同時に、深い溜息が芳音の口から自然と吐き出された。ヘルメットを外し、軽く頭を二、三振って意識の切り替えを試みる。だがなかなかバイクのシートから下りる気力が出なかった。
「……」
人差し指で、自分の唇にそっと触れてみた瞬間、宿っていた感触がごつくてどうでもいいものに変わってしまった。
背中に、まだ感触が残っている。強張った望の腕が、抗って引き剥がそうと強くシャツを握った力。再会してから、初めてこめられた力――拒絶の意思表示。
「うわあぁぁぁあああ、俺のバカっ!」
頭を抱えて駄々っ子のように何度も頭を振ったら、ハンドルに思い切り頭を打ちつけ、声にならない悲鳴が上がった。
痛む額をさすりながら、気だるい足取りでずるずると階段を上る。十一時を少し回ったところ。相変わらず『Canon』は、今日もこの時間だと満席のようだった。
「ただいま~。いらっしゃい」
いつものような挨拶が巧く出来ず、視線がつい明後日の方へ泳いでしまう。入口に面した窓ガラスからは、向かいのビルがまたたかせている派手なライトでこちらの店内までが明るく照らされていた。こげ茶で統一された店内が無駄に明るく、芳音はまぶしさに顔をしかめた。
いつもなら、芳音を迎える声が口々に返って来るのだが、今夜はドアベルが「からん」と迎えてくれるだけだった。
「?」
芳音はそこで初めて客やキッチンに立つ克美を見た。なぜかみんなが芳音を見て固まっていた。
「なに? え、俺、今日帰って来るって言ってあったよね?」
客のすべてが家族みたいな雰囲気で、常連客のほとんどが克美を通じて芳音のおおまかなスケジュールを知っていることが多い。顔ぶれを見ればほとんどがその常連客ばかりだったので、そんな問いが口から出た。
「芳音……えっと、ね」
カウンター席の客が漏らしたそんな言葉を遮り、一番手前にいた女性客が、携帯電話を差し出して来た。
「貸してあげるから、叫ばないようにね」
「は? あ、えっと、どうも」
芳音は差し出された携帯電話を受け取りながら、小首を傾げてそれの画面を見た。受け取った携帯電話の画面はミラーに切り替えられていて、そこに映っているのは当然自分自身だったわけだが。
「う」
小脇に抱えていたヘルメットがゴトリと落ちた。芳音は右手に借りた携帯電話を握ったまま、咄嗟に左手で自分の口を覆い隠した。
「うおぁぁぁぁぁあああああ!!」
同時に轟く大爆笑。克美ひとりだけが、般若のような顔をしている。皆が絶句した理由を知った瞬間、芳音は借りた携帯電話を放り出し、後ずさりして今入って来たばかりの扉を後ろ手で開けていた。
「芳音にもとうとう春が来たかー」
「夏だけどな、思いっ切り」
「そゆことしてんだったら、入る前にチェックくらいしなさいよ、ガキ」
そういう問題じゃないと思う。と突っ込める立場ではなくなっていた。
「う、あ、お、う、お、あ」
意味不明な母音しか出て来ない。空調の利いたビルにいるはずなのに、体中が熱くて嫌な汗が背を伝う。
「ちょっとみんな、そこは説教するトコじゃないのかよっ」
克美が芳音の代弁をするかのように、冷やかす客の声を制した。
「だって克美ちゃん、今までがおかしかったのよ」
「時代が違うんだから、たかがキスぐらいでそんなに目くじら立てないの」
(に、逃げたい……すっげえ、今すぐここから逃げたい……けど)
きっと逃げたら赤木の家に迷惑が掛かる。彼の家に泊まっていたことにして学校見学に行っていたのだから。ちゃんと誤解を解いてから逃げないと、とは思うが、パニック状態に陥っている芳音は、まるで見当違いなことばかりが浮かんでは消えていた。
(ってか、誤解か? いやそうじゃなくて、えっと、うわ……)
このタイミングで克美に進路の話をするのもまずい、という気がした。
「あ、えと、だからそのこれは、ふ……ふ、不可抗力っていうか」
チクリと胸に痛みが刺す。不可抗力という言葉の使い方を間違っている、ような気がする、多分。
(や、あ、ある意味では別に間違ってないし)
芳音はわざわざ自分にそんな言い訳をした。
「……芳音」
ドスの聞いた低いアルトが、いきなり店内の静寂を呼んだ。
「……はい」
克美の震える握り拳から、一瞬たりとも目が離せない。怒りを必死で堪えている時にしか見せない克美のその仕草が、芳音の喉をゴクリと大きく鳴らさせた。
「あとで、話があるから」
「……はい」
「忘れないうちに、これだけは言っとくけど」
ロングのカクテルを作っている最中だったらしい。克美は手許にあったマドラーを握りしめ、それを投げつける勢いで芳音に向かって突き出した。
「ガキ作るような真似だけはすんなよ」
「はいぃ?!」
あまりにも突飛な指令内容が、芳音の間抜けな絶叫を店内に轟かせる。克美が発した飛躍し過ぎの解釈は、酔った客たちの何かに火をつけた。
「って、克美ちゃん、いきなりソコー?!」
「芳音に限って、それはナイだろ」
「だよなー。その度胸があったら、キス程度であんなツラ晒してないって」
「意外と巧妙な芝居を打っていたりして」
「あ~、半分はあのマスターのDNA持ってるしねー」
「よし、じゃあ賭けるか?」
口々に言いたい放題を言って笑う客たちに対し、一瞬本気の殺意が芽生えた。
(ふ、ざけろ……ッ)
落としたヘルメットを取り上げ、下唇を根こそぎ噛む。ぼやけていく視界が、口惜しい。投げつけてやりたいヘルメットに、ぐっと爪を立てている自分がいた。
「コラーっ、もう、みんないい加減にしろっ、人ンちの子をネタにしてギャンブルなんかすんなっ」
克美がそうがなりながら、芳音に向かって合図を送る。彼女が指差した先は、芳音があとで向かおうとしていた三階への階段だった。
「ご、ごゆっくりっ! おやすみなさいっ!!」
芳音は辛うじて客たちにそれだけ返すと、文字通り逃げるように扉を閉めて階段を駆け上った。
こんな自分が、昔から嫌いだった。何をやっても、どう真剣に考えていても、悩んでも迷っても苦しくても、コミカルな自分にしかならない。
「みんなに、悪気は、ないんだ……解ってるさ……」
そしてみんなが自分とは違う、“普通の家庭”しか実感としては解らない、ということも。
克美が店の経費で借りている三階の倉庫エリアの、どの扉を選ぶかはすでに決まっていた。迷うことなく辰巳の遺した資料が詰まった部屋の前に立つ。扉の脇に置かれた植木鉢の下から倉庫の鍵を取り出して扉を開けた。
かちゃん。
鍵を植木鉢に戻さないまま、芳音は倉庫の鍵を閉めた。
「……っ」
先へ進む気力もなくなり、その場にそのまま崩れ落ちる。
「……く……っ」
両手で抱えた頭を床へ叩きつけると、くぐもった鈍い音が倉庫の中に吸い込まれていった。そのあとに続く芳音の吐き出すような泣き声も、誰に聞かせることもなく、倉庫の静寂が吸い取っていった。
――自分が出来ること、自分にしか出来ないこと、今しか出来ないこと、今出来ること。
雑誌で見た穂高の言葉。それを見てから、ずっと考えていた。
今の自分が出来ること。自分にしか出来ない、今しか出来ない、それでいて穂高には決して出来はしないこと。
物理的なことでは敵わないと思った。けれど、望の心の支えにならなれる、という自信は、確信に近いほどあった。だから、今更どのツラを下げてという思いを押し殺して電話帳を繰った。探したのは、泰江の商うサロンの電話番号。彼女に事情を話し、ちゃんと筋を通した上でいろんな思いを抱えている望の支えになりたい、と申し出た。
『のんちゃんとそっくりだった、小さな男の子だったのに。しっかりした大人の男の人に成長したんだねえ。なんだか、すごく嬉しい』
そこまでは、芳音のよく知る穏やかで優しくて、どこかとっぽいところのある“泰江ママ”そのものだった。だが。
『その“いろいろ”の内訳を、君はどこまで知っているのかなあ』
『……え』
『君は確か、克美さんから翠ちゃんの資料を見ているんだったよね』
そう問い質す泰江の声は、電話越しでも判るほど、芳音の器量を計る意図を孕んだ厳しい色合いを帯びていた。
『どうして、知ってるんですか』
『君が昔私に教えてくれた、克美さんと穂高さんとのこと。あれがきっかけで、家とは距離を置くようになっちゃったよね。だけど、翠ちゃんの大切な人たちだから、愛美さんや赤木さんから時々様子を教えてもらっていたの。何かあった時には、力になりたいと思っていたから』
それを聞いても文句を言える立場ではなかった。芳音や克美もまた、芳音が克美に反抗し始めた中学生になる前までは、愛美や赤木を通じてコッソリと望の様子を聞いていたから。
『怒らないでね。そうした理由も、そうした事実も、全部お互いさま、でしょう?』
淡々と悪びれる様子もなく告げる彼女の言外に知らせる意味を覚った。幼い頃のように、彼女自身のことを“泰江ママ”と表現しない。穂高のことを“パパさん”と言わない。芳音を未熟な子どもとしてではなく、対等な立場と認めた上で話していると感じられた。
『克美と翠ママの間にあったことや、辰巳がやらかしたことも、全部、中三の時に知りました』
努めて冷静な声で本当のことを答えた。同時に、春先まで揺らいでいた自分を、望の言葉が救ってくれたということも。
『だから、今度は俺がのんを助ける番なんです。きっと俺にしか出来ないことだと思うから』
穂高から自由になりたいのなら、穂高に嫌がらせをするのではなく、そんな下らない理由で自分を粗末にするのではなく、一緒に彼を認めさせるくらいの何かを確立させよう、と。望と同じ立場にある自分にしか出来ないことだと泰江に訴えた。
『おんなじ夢を持ってるんです。自分の店を持つこと。だから』
『違うんだよ』
芳音の言葉を遮って、泰江が絞り出すように芳音の何かを否定した。
『穂高さんへの反発だけが理由じゃあ、ないんだよ。君は、北城さんとのことも知っているんだね』
その名を口にされた瞬間、受話器を握る手が震え出した。
『……知って、ます……。目の当たりに、したから』
告げる声が、震えた。必死の思いで押し込んでふたをした真っ黒な感情が、堪えかねたように噴き上がって語気を荒くさせた。
『大人の都合で勝手にバラバラにしたくせに、なんでちゃんとのんを守ってくれなかったんですかっ。のんと自由に会うこと、ホタに認めさせてよっ。あなたの言うことなら聞くんでしょう、あいつはっ』
穂高は泰江に負い目があるから。きっと彼女がひと言言えば、隠れて連絡を取り合う後ろめたさだけでも自分や望から消せると思った。
『少なくても私は、意地悪で君たちを会いにくい状況に置いたわけじゃあないんだよ』
――のんちゃんは、翠ちゃんと同じ道を辿っているの。
『……は?』
唐突に話が変わって、憤りの嵐が一瞬途絶えた。
『穂高さんへの反発だけではなくて、彼女自身が“こんなことは、なんでもないこと”と思いたくて、敢えて自分から自分を貶めている、って……私も君と同じ頃に知ったばかりなの。情けない母親で、それは芳音くんにどう責められても何も言えないんだけれど』
話を繋ぎ合わせようと必死で泰江の言葉を拾う。謎解きのような言葉の欠片から理解しようと試みる時間が、長い沈黙となってふたりの間に横たわった。
望が自分を貶めること、それは彼女にとって“こんなことはなんでもない”と思わせること。“こんなこと”というのが、何を指し示しているのか。
翠と同じ道を辿っている。芳音に突然、翠の過去を知っているかと訊いて来た。同じ道、翠の過去――辰巳を狂わせるほどの、暗くて黒い、凄惨な過去。
『……もしかして、まさか……』
口にするのもおぞましかった。口にしたら、何かが終わる。そんな気がした。
『穂高さんが、翠ちゃんの過去の資料を読んだ時に思ったそうなの。腹が立つほど、その時の辰巳さんが抱いた気持ちとシンクロしてしまう、って。死んでも犯した罪をあがなうことなんか出来ない、って』
しっかりと受話器を耳につけているのに、語る泰江の声が遠くに聞こえる。
『それでも、翠ちゃんの心を壊すほどのことをしながら、のうのうと同じ世界で息をしていると思うと赦せない。殺してやりたい、殺しても飽き足らない、そう思うのに、その対象は、すでに辰巳さんが処理してしまっていたの。その悔しさを、君も味わうことになるよ? それを一生抱えてでも、のんちゃんを支えていくっていう覚悟がある?』
泰江は決して具体的な事実を口にはしなかった。望を踏みにじらずに、それでいて、嫌というほど事実を突きつける。芳音を試す容赦のない言葉が投げ続けられた。
『理不尽な別れさせ方をしてしまったから、こだわりが生まれるのも無理はない、と思うの。でもそれは、どういう気持ちから来るこだわりなのかな。のんちゃんは、君と再会してから、すごく変わったの。それにはとても感謝しているけれど、でも、それとこれとは、話が、別』
――中途半端な家族ごっこでしかないのなら、これ以上のんちゃんに近づかないで。
泰江の言葉が、鋭い刃のような切れ味で芳音を切り裂いた。そこから溢れて来るモノは、北城に抱いたものとは比べ物にならない感情に加えて、初めて抱いた、もっとどす黒くて禍々しいモノ。
『ごめんなさいね。私にとって、のんちゃんはたったひとつの宝物なの。これ以上あの子を傷つける人に、近づいて欲しくないの』
君を傷つけてごめんなさい、とつけ足された言葉が、通話の終了を宣言しているように聞こえた。
『待って!』
無言になった先へ向かって、ありったけの声で叫んでいた。
『なぁに?』
まあるい声が、返って来た。利く耳を持つと伝える声音に背中をそっと押された。
『俺』
問われてようやく気がついた。どうして望が泣いていると、自分まで泣きたくなってしまうのか。
『家族ごっことかじゃなくて』
十二年ぶりにあった望のゆがんだ笑みに、どうしてあんなにも胸が痛んだのか。
『双子の姉貴って意味じゃなくて』
なぜ会えなかった時間の中でも、ずっと彼女が自分の中で生き続けて忘れられなかったのか。
『でも、約束します』
どうしても、昔見せてくれた心からの笑顔を見たくてしょうがないのはなぜなのか。
『絶対に、のんを傷つけたりなんか、しないから』
――どんな繋がりでもいいから、死ぬまでずっと一緒にいたいくらい、好き、だから。
ころりと零れ落ちた言葉が、芳音の中に渦巻いていた混沌をクリアで透明な一色に帰結させた。
『ちゃんと無事に送り返すから、のんと会わせてください。明日、彼女と約束してるんです。一緒に藪じいのところへ行こう、って。夏休みの間だけ、俺にのんを預からせてください。ホタをなんとか説得してください。お願いします』
泰江が目の前にいるわけでもないのに、ネットカフェの小さな電話スペースで床に頭をこすりつけている自分がいた。
『事後報告ですみませんでしたっ。勝手に約束してて、すいませんでしたっ。だけど、取り消せません。取り消したくありません。のんと会わせてくださいっ。お願いしますっ』
喉がカラカラになるほど叫んでいた。しょっぱいものが口角を伝って、舌が焼け石に水程度の湿りを宿す。上がる息が収まるまで、しばらく無言が続いていた。
『信州に行くのは、穂高さんの了承済みだよ』
『は?』
泰江が発した想定外の答えに、芳音は頭を勢いよく上げた。
『芳音くんに、お願いがあるの』
そう告げる声が震えていた。
『私たちは、間違っていたかも知れない。綺麗な思い出ばかりを大事にしていて、のんちゃんに事実を隠して来てばかりで。穂高さんと、そんな話をしたの。藪先生にご相談して、のんちゃんに今の自分を振り返るお手伝いをしていただこうって決めた上での信州行き、なのよ』
もしも望が芳音を必要としたら、力になってやって欲しい、と泰江は言った。
『君が一番のんちゃんと心が近いから。最後の砦は、君だから……お願いね?』
『は……い。ありがとう、ございます』
彼女はくすりと寂しげに笑い、よろしくね、という言葉を最後に通話を切った。
その後すぐに藪へ電話を掛けたら、藪は芳音が用件を切り出しただけで事情を察し、簡潔な指示を出して来た。
『てめえにも逃げる権利があるからな。穂高からの打診の件は伏せてたが、そっちを選ぶって決めたんなら、倉庫の資料をこっちへ持って来いや』
克美には「温泉宿のバイト依頼が入ったから芳音を貸せ」と伝えておく、と言われ、それを了承した。その答えを聞いた藪は、次の段取りへ移るとばかりに荒っぽい音を立てて早々に電話を切った。
するべき段取りが済んだら、一気に緊張が解けた。ネットカフェで借りた個室のブースへ、どう戻ったかさえよく覚えていない。それからずっと、おかしかった。何が、と仮に問われても説明がつかないくらい、何かがどこかおかしいと自分で感じていた。
望と会って、おかしいのが自分自身だと知らしめられた。
ボディラインの判りやすい白いワンピース姿を、まともに見ることが出来なかった。かすかに漂うフレグランスは、鼻がそれを翠の愛用していたものだと伝えているのに、懐かしさとは違う感覚をいちいち芳音に突きつけた。慣れないタンデムで強張る望の腕が、芳音の背中に柔らかな感触を押しつけて来るたび、いやというほど下衆な自分を見せつけられた。
まっすぐ覗き込んで来る望の瞳を真正面から捉えるのに苦心した。あんなに逢いたかったはずなのに、一緒にいることが苦しくて仕方がなくなっていた。
繋いだ手が、それまでの望とは違う気がした。力なく握り返すのは、自分が“男”だから、嫌悪と幼馴染としての情の狭間で葛藤した結果の頼りない力だと感じてしまった。
自分がおかしい理由に気づいて以降、自分から望に触れられなかった。触れたら何かが壊れてしまうと、自分の中の何かが警告した。松本駅に着いたとき、どれだけほっとしたか解らない。人目があることの面倒くささをあれだけ感じていたはずなのに、それに守られている気さえした。――なのに。
――のんが言う“スキ”って、何?
泰江に“傷つけない”と約束したのに。彼女を傷つけると解っていたのに、我欲を抑え切れなかった。
なんでもないと思おうとすること。それは大きな傷の裏返し。ゲームのように他愛なくそれに応えるのは、より深い傷をつけてそれ以前の痛みを紛らせようと足掻く自傷行為に等しい無意識のゆがんだ自衛でしかない。
望にとって、男は“敵”だ。ふたりで幼いときに見てしまった、穂高と克美の間違いが火種だった。翠と同じ被害に遭って、それが望のまっさらな心を焼き尽くした。自分が望にとって、最後の砦と言われていたのに。
「俺も……のんの、敵、だ……っ」
全部、自分のものにしたかった。自分のものじゃないと知って、初めて望が自分のものだと勘違いしていた自分に気づかされた。無理やり望を自分のものにした、顔も知らない誰かに対して、北城に向けた以上の殺意を抱いた。だけど泰江は言っていた。「穂高と同じ思いを背負い続ける覚悟があるか」と。きっとそいつは、もうこの世にはいない。芳音から見れば、死に逃げされたも同然だった。
見たこともないヤツが、望に触れた。不実な北城も、望に触れた。自分の知らない望を知っているヤツがいる。それがどうしようもないほど、許せなかった。
望が簡単に口にする、“好き”という言葉。ライクにまみれた軽い“好き”というものの中に、自分の名前が混じっていた。それが、どうしようもないほどやるせなかった。そんなこちらの気も知らないで、まっすぐ覗き込んで来る瞳が、悔しいくらいに――。
「……っくしょ……う……っ」
自分の思いだけで突っ走る。それではまるで、辰巳と同じだ。結局一番大事な人を、一番手痛い形で傷つけることしか出来ない。
「……気づかなきゃ、よか、った……」
自分が男だということ。望が女だということ。芳音は明日に引きずらないためだと自分に言い訳をしながら、喉が涸れるほど声を上げて思いの丈すべてを倉庫に吐き散らした。