自覚 1
風を切る。流れる景色をこんな気持ちで見るのは、生まれて初めてのことだった。
「のんー、ヘーキ?」
しっかりとしがみついている対象が、前から大きな声でそう尋ねて来る。
「へーきー。きもちいーっ」
芳音がバイクの免許を持っているのを初めて知った。自然の風を受けるのがこんなに気持ちいいことも、初めて知った。
芳音も東京の暑さに、かなり堪えていたらしい。結局すぐ特急に乗って、電車の中でまずい弁当を掻き込む結果となった。その二時間半の中で話したのは、お互いの進路のことや、これからのこと。
『うそっ。芳音も辻本調理専門学校に決めたの?!』
『って、え、のんも?』
その学校に惹かれた理由までまったく同じだった。
“金を払って勉強してやっている。そういう態度の生徒は容赦なく切り捨てる”
高圧的な講師の警告に、不快げな表情を浮かべた見学者がやはり多かったそうだ。望は逆に、そういう実践的な指導方針に惹かれた。同時に、自分の受講コース、マネジメント専科の講師のひとりが、倒産寸前の老舗を何店舗も再生させたマネジメントアドバイザーだったから、ということも大きい。
『へえ、そっち方面に行くんだ』
『うん。一年目の基礎コースさえ押さえておけば、あとは結局実務経験次第で、流行に合わせていくらでも学んでいけると思うの。だけどマネジメントの基本は、現場ではきっと後手を取りそうな気がするのね。だから基本を押さえた上で、あとは貴美子さんのレクを受けつつ自分の職場で応用的実践、って考えているの』
『ってことは、最終的に就職先は東京ってこと、か』
ふと寂しげな笑みを浮かべる芳音の表情にどきりとした。
『就職先って言っても、とりあえず雇われるっていうだけよ。実務経験を積まなきゃ始まらないもの』
『へ?』
『人に使われるタイプじゃないでしょ、私』
大袈裟なくらいの不敵な笑みで、いたずらっぽく芳音を焦らしてみた。
『最終的には、自分のお店を持つんだから。それが実現出来るときに、どこが適所か、それ次第よね』
そのときには、シェフとして雇ってあげる、と高慢な大口を叩いてやった。
『あっは……っ、のんらしいや。そんときは、よろしくです』
そんな話をしながら、ふたりでまずい弁当をつついていた。まずいはずのそれが、やたら美味しく感じられた。
松本駅へ降りてからが、少し困った。
『どうしよう。のん、それじゃあタンデム出来ない、よね』
芳音は今回の東京入りを、克美には内緒にしているらしい。喫茶『Canon』がすぐ近くにある駅前駐輪場にバイクをいつまでも置いておくと、克美が万が一これを目にしたとき、面倒なことになるという。
『どっちにしても、こっちで服を調達するつもりでいたの。買い物につきあって』
『え、でもわざわざパンツを買うなんてもったいな』
『欲しくなったのっ。だから、いいのっ』
いつも車や電車でしか移動したことがない。“あの事故”に遭ってから、バイクをことのほか避けていた。
(あのバイクと、違うもの)
(芳音だもの。大丈夫)
乗り越えたかった、“あの事件”を。何も恐れない自分を取り戻したい、そう思った。
芳音の服装に合わせて、Tシャツと薄手のシャツを買った。芳音が見立ててくれた薄いオレンジがベースの細かなストライプシャツが、意外と自分に合わないこともない、というのも初めての気づきだった。
『暖色系って、私には似合わないと思ってたの。なんだか、意外』
鏡に映った自分を見てそんな感想を口にすると、その奥に映る芳音が望から視線を逸らしてぼそりと小声で呟いた。
『そんなことないよ。のんは笑うと速攻童顔に変わるから』
鏡の向こうで芳音が意地悪な口許をかたどった。
『ちょっと、どういう意味よ』
望は皮肉な微笑を浮かべる本体の方に向き直り、思い切りふくれっ面をして言い返した。
『言葉のまんまー』
芳音は笑いながら望に背を向け、少し離れた先でジーンズを物色し始めた。望はそんな彼に追いつき、広い背中を思い切り叩いてやった。
『もうっ、生意気ッ』
『いたっ。ウソです、ごめんなさいっ』
そう言いながら笑う彼を見て、なぜか望まで笑えた。誰かと買い物をするのが、こんなに楽しいものだというのも初めての経験だった。翠を意識せずに、自分探しのように似合う服を選んでみる。それがこんなにも解放感があるものだと初めて知った。知って、初めて気づいた。
(ママはママ、私は私、なのよね)
翠を追い掛けること以外にも、自分を綺麗にする方法がある。そんな淡い期待と希望を、芳音がプレゼントしてくれた。
駅前通りを左折して、続く道路をひた走る。温泉街を目指して、バイクが風を切って走り抜ける。次第に車の数が減り、そして道がくねり、段々と細くなっていく。懐かしい硫黄の臭いや、古めかしい温泉旅館の立ち並ぶ景色へ変わっていくに従い、心臓がせわしなく動き始めた。
ヘルメットがずれて来て、望の耳が芳音の背中に直接当たっている。ものすごい速さで脈打つ鼓動が、望のそれとシンクロした。
トクトクトク――生きている音。自分のそれと重なり合う。幼い頃によく抱きついては感じたシンクロを思い出させるその感覚。
(帰って、来れたんだ……)
こみ上げて来る感慨が、望の瞼を閉じさせた。そこから溢れ出したものが、芳音の背中を少しだけ濡らした。
それに気づいたのだろうか。あと少しで藪診療所へつく、というところで、バイクが急に速度を落とした。慌てて顔を上げてみれば、そこは懐かしいあの公園。
「桜の樹が」
「うん。俺たちが登ってたあの樹は、枯れちゃったんだ。危ないからって、伐採された」
新しく植えられてから十年ほど経っていると芳音が教えてくれた。
「のん。ふたり一緒に桜の樹から落ちたときのこと、覚えてる?」
芳音はバイクのエンジンを切ると、ヘルメットを脱ぎながら望を振り返った。
「……うん」
芳音も、そのことを覚えていた。自分の知らない彼の歴史の中に、自分の存在があったことを一瞬だけ喜んだ望だが、振り返った彼の顔を見たら、上がりかけた口の端があっという間に引き締まってしまった。
「あの時、俺、頭打って血ぃ流して、ぼろっぼろでみっともなかったんだけどさ。目が覚めたとき、のんが“ごめんね”じゃなくて、“守ってくれて、ありがとう”って言ってくれたんだ。親たちがそろって謝れってのんを叱る中で、”ありがとう”って。俺なりに、のんを守ろうとしたんだ。それがちゃんとのんに伝わってたってのが、すげー嬉しかったのな」
二代目の桜を眺めながらそう語る。彼の横顔は、なぜかひどく苦しげだった。
「……あのさ。巧く言えないんだけど」
彼の口許が不自然にゆがむ。笑っているつもりなのか、嘆いているのか、俯く直前の一瞬だけのそれでは、判断が難しかった。
「俺、変わんないから」
吐き出すように言い捨てる。
「のんは約束を絶対に守る子だから。だから、いっこだけ、約束して」
彼の顎を伝ってぽたりと落ちたそれが、汗なのか涙なのか、望には判らなかった。
「のんがここにいる間、ずっと俺、一緒にいるから。だから、鍵を閉めちゃわないで。ほかの誰とも会いたくないときがあっても、俺には必ず扉を開けて」
言っている意味が、解らなかった。別荘のことを言っているのだろうか。それに何よりも解らないのは。
「みんなに会いに来たのに、会いたくないとか、そんなのありっこないじゃない」
「うん。そうなんだけど、だけど、それでも、約束して」
顔を上げてこちらを見つめる彼の瞳が、疑問を言葉にさせないほどの強さと必死さを望の瞳に訴えていた。
「約束、して」
「……う、ん。解った。約束、する」
「絶対に、俺から逃げないで」
「……逃げる理由が、ないじゃない」
「もしそうしたくなっても、それでも、お願い。逃げないって約束して」
――守るから。
「……どうしたの?」
おかしい。ついこの間までメールでやり取りしていたときの芳音とは、明らかに様子が違っていた。今にも泣きそうな彼のまなじりに、そっと手をあてがってみる。昔なら、望がそうすれば、堰を切ったように泣きじゃくって、溜め込んだものをなんでも打ち明けてくれたから。
「……なんでも、ない。なんか、ちょっとガキんちょの頃に戻っちゃっただけ、かな」
彼はそれだけしか言わなかった。望が触れた手に彼が手を重ねて自分の目頭を拭い、その手を唇へ滑り落とす。その表情と掌に宿った熱が、どきりと一度、望の心臓を思い切り跳ね上げた。
「うっしゃ、藪じいが拗ねる前に、さっさと行こっか」
「きゃっ」
芳音は「約束したからな」と言うだけ言うと、望の言葉も待たずに思い切りエンジンを噴かせ、ヘルメットも被らないまま勢いよくバイクを走らせた。
一日をこんなにも短く感じたのは、子どものとき以来だった。
「べっぴんな嬢ちゃんになったじゃねえか。小磯にも見せてやりたかったぜ」
そう言って筆のように丸みのある太い眉を寄せて呟いた藪は、相変わらず何歳なのか解らないものの、やはり十二年の歳月を感じさせるそれなりの老いを感じさせた。
「小磯のおじいちゃま……ママのこちらでの親代わりだった、という人?」
望の記憶にはない人だが、翠の遺した映像の中に、何度か出て来ていた人だ。数年前に喪中葉書が赤木の名で届けられていたのを思い出した。
「のんは覚えてないかも知れないけれど、藪じいとしょっちゅう飲んでばっかの人でさ。のんがこっちにいる間は、よく“お酒臭い”ってのんに怒られてばっかいたじいちゃんだったらしいよ」
そんな昔話が、三人の中でたくさん語られた。自分がどんな子どもだったか。その頃藪がどう思っていたか。往診から帰って来た赤木がそのあと加わって、近況や世間話などがそこに交わった。
助手だった赤木が今ではほとんどの患者を受け持っているらしい。
「じじいはいい加減に隠遁生活に入りてえんだよ」
と藪が愚痴を零せば、赤木が
「最初から隠遁生活じゃないですか」
と笑いながら言い返す。芳音は公園で見せた憂いを少しも見せず、そんなふたりのやり取りを聞いて、
「これ、毎日聴かされてるんだぜ、俺」
と大袈裟に溜息をついて望を笑わせた。
少しだけ、克美の病気についても教えてもらった。藪が守秘義務を破ってまで話した理由は
「芳音から辰巳の話を聞いたらしいな。こいつはこいつで、てめえの親父の話だから、ろくな話し方をしてねえだろ」
と、望に語ることで、芳音にも言い含めるような意味合いがこめられていた気がする。ふたりそろって藪に言われたことは、
「俺らの時分にゃあ、十五で一人前だった。十八にもなろうとしてるお前らが、いつまでも親の付属品でいるな」
自己確立を意識しろ、といった類のことだった。心理学が専門分野である、藪らしい説教だと思った。
診療所にミニマムな赤木ふたりが物珍しげに訪ねて来てからは、昔話どころではなくなった。赤木のふたりの子ども、礼司と総子は、最初こそ物怖じした仕草で遠巻きに望を見ていたが、赤木家へ届けるつもりでいたレーズンサンドをその場で提供したのが功を成したのか、藪診療所を出て赤木家で四人してゲームに白熱する頃には、
「のんちゃんお姉ちゃんは、家にお泊まりなのっ!」
と帰り支度をする望を引き止めるほど打ち解けていた。小さな総子にそう言われたら、断れるはずなどなかった。赤木の妻、香澄の推しもあって、望は結局その夜を赤木家で過ごすことになった。
「芳音は、どうする?」
遠慮がちに尋ねていたのは、高学年だという礼司。
「ん、ごめんな。まだ克美を三日以上独りにしたことないから。今夜はいったん帰っとく」
「そっか。んじゃ、また今度。のんちゃんお姉ちゃんがいる間に、また四人対戦しような」
「おう」
そんなふたりのやり取りから察するに、彼は家庭に於ける芳音の立ち位置を知っているようだった。
「あ、私、公園まで送って来ます」
結局温泉街に着いてからは、ほとんどまともに芳音と話せなかった。それがなんだか心残りで、それにかこつけて望も腰を上げた。
「私も行くー」
「あ、俺も」
ちびっこたちが容赦なく、惨酷なほどストレートな親愛を訴えて来る。
(うそーん)
笑顔がどうしても引き攣れる。それを察したのかは解らないが、香澄がキッチンから子どもたちに怒声を浴びせた。
「何時だと思ってるのっ。子どもが出歩ていい時間じゃないでしょう! 夏休みだからってだれ過ぎよ。さっさとお風呂に入りなさいっ」
「うえ」
「ふぁ~い」
思わず噴き出してしまった。同時に噴き出す声がひとつ。声の方を振り返れば、芳音が自分と同じような表情をして笑いを噛み殺していた。
「ここの人たちのこういうやり取りを見てると、普通の家庭ってこういうものなんだろうな、って、しみじみ思うよな」
羨むような、まばゆいものを見て感心するような。目を細めて子どもたちの後ろ姿を見送る芳音の気持ちは、望の感じたものそのものだった。
「うん、そうね」
芳音の言葉に、望も頷きながらそう答えた。
数分の距離にある藪診療所の駐車場へバイクを取りに行き、芳音はバイクを手で押しながら、望はその隣に寄り添った形で、ひとくねり分の坂道を歩いた。
その距離、ほんの数十メートル。結局何も話せないまま、公園の前まで来てしまった。
「……んじゃ。また、明日」
「うん。今日は、ありがとね」
惜しむように別れの挨拶を交わし、彼を見上げてみれば、また昼に見たような表情が浮かんでいた。
「……芳音?」
「……」
彼が虚ろな目をしたまま、小さな声で呟いた。
「のんが言う“好き”って、何?」
「え?」
「レーズンサンドが好き。藪じい、大好き。パプリカは好き。シミュレーションゲームが一番好きなの。礼クンのこと、好き。総子ちゃん、大好きよ。……芳音のこと、好きよ。……それって、“ライク”って意味の、好き?」
ガシャ、という鈍い音が、静寂の中に響き渡った。
「のん、東京の、あの公園でも、そう言った」
望の右腕に鈍い痛みが走った。
「痛っ」
「のん、好き。そう言ったら、私も、って、言った。それ、ライク? それとも」
独り言のような問い掛けと一緒に、彼の吐息が顔に掛かる。乱暴に抱き寄せられて望の顔にまとわりついた髪を、その吐息が払いのけた。
「!」
驚きのあまり開いた唇に、熱いそれが覆い被さる。無遠慮な舌が、望の中に割り込んで来た。
(家族のキス、なんかじゃ、ない……?)
思考がショートする。息苦しさと胸の痛み、ゆがんでいく視界の中で、芳音の固く閉じられた瞼を飾るまつ毛が次第に濡れていくのが鮮烈に見えた。
強引で厚かましいくせに、どこか物怖じする柔らかなそれの輪郭を、望の舌が辿って誘う。彼が目を開く気配を感じた瞬間、咄嗟に望は目を閉じた。瞼の向こうにある瞳を直視する勇気が持てなかった。
彼は、知っている。自分がどれだけ穢いのかを。同情を恋と勘違いしているだけだ。そう思うのに、とめられない。
宙に浮いていた望の両手が、芳音のシャツの背を掴んだ。苦しいほどにきつく抱きしめる腕が解かれることを、自分でも驚くくらいにひどく恐れた。それでも容赦なく、哀しいくらいに拘束は解かれる。
「ご……、ごめんっ。い、今の、なしっ」
突き放すように二の腕を掴まれ、嫌がるとばかりに距離を取る。そんな彼の発した謝罪が、槍のような鋭さで望の心臓を貫いた。
「えっと、あの、ホント、ごめんっ。忘れてっ。えっと、そんで、また明日、昼過ぎには来るからっ。もう絶対二度と金輪際、こんなことしないからっ。男キライなのに、ホントごめん!」
「!」
慌ててバイクにまたがる彼の姿が、急速にぼやけていった。
「弟に、戻るから」
ヘルメットを被った後ろ姿が、そう言いながら泣いている。誤解したまま行ってしまいそうな彼を引きとめようと、望は咄嗟に手を伸ばした。
「待って」
黒煙を噴き出すマフラーが、望から飛び出したその声を難なく掻き消してしまう。やっと掴んだひと筋の長い髪が、望の手の中を滑り抜けていった。
「芳音っ、待って!」
望の叫び声は、バイクのエキゾースト音に掻き消されて誰も聞いてはくれなかった。
「待って……違う、の……」
脚から次第に全身へ広がる、言いようのない脱力感。望はぺたりと地べたに崩れ落ちた。
「ち、がう……の……芳音……聞い、てよ……」
まるで解っていなかった。解っていれば、軽々しくそんな言葉を口になんてしなかった。
好き、ライクという意味の。ずっとそのつもりでいた。その種類の好きしか、自分には許されていないから。
「恋なんか、しない……出来ない――そんな、資格、なん、か、ないんだ、も……ん」
芳音とずっと、家族に戻りたいと思っていた――好き、だから。
「どう、しよう……」
気づいてしまった。自分が芳音をどう好きでいたのか、ということ。
同時に、知られていたことを知ってしまった。
――男キライなのに、ホントごめん。
なんでも屋をしていると言っていた。彼の父親の裏稼業を話したのは彼自身だ。譲り受けたその知識とノウハウで、“あの事故”を探り当てたに違いない。
――俺、変わんないから。絶対に、俺から逃げないで。守るから。
彼が困っている人を放っておけない人だと、今の自分は知っている。バンドの助っ人も、なんでも屋の依頼を請けるのも、全部彼のその性格に帰結すると解っていたはずなのに。
彼の問いに、即答出来なかった。彼をわずらわせたくないのなら、“ライクでしかない”と切り捨てればよかったのに。
「どうしよう……どうしよう……っ」
好き、が、とまらない。
「え……っく……っ、ママ……っ」
――助けて……。
恋に生きて恋に散った翠を、こんなにも強く求めたのは初めてだった。